2019年10月31日のHPより
首里城公園開園直後の首里城正殿。写真は1993年撮影 2020年東京オリンピックの聖火リレールートに組み込まれている
左の説明
首里城は那覇市を見下ろす丘の上にあり、石塀に囲まれている。
城跡は1970年代から琉球大学のキャンパスとなっていた。同大学が移転した後は、観光地として人気を集めている。
那覇市の城間幹子市長は記者会見で、近隣の住民への影響を心配していると語った。
その上で、火災への対応について「那覇市としてできることを最大限取り組む」と述べた。
右の説明
首里城は、沖縄県にある木造建築物としては最大のもの。太平洋戦争の戦火のほか、琉球王国時代にも3度、火災に見舞われたという。
【世界遺産の首里城で火災、正殿などが全焼】
炎上する首里城 消火活動は未明から朝にかけて行われた
左の説明
沖縄県那覇市の首里城公園で31日未明、火災が発生し、世界遺産に指定されている首里城の正殿など複数の建物が全焼した。
日本のメディアによると正殿に加え、北殿、南殿・番所、書院・鎖之間(さすのま)、黄金御殿(くがにうどぅん)、二階御殿(にーけーうどぅん)の計6棟が焼失した。
火災は午前11時に鎮圧状態となった。けが人は報告されていない。
右の説明
沖縄県警の報道官はAFP通信の取材で、「出火原因は分かっていないが、午前2時半ごろに警備会社の警報が作動した」と説明している。
(以上はHPより転載させて頂きました。)
この度の首里城の焼失はとても残念に存じます。首里城の見学に思いをいたし、過去のブログを紐解いてみました。
首里城見学は 【千葉県南方諸地域戦没者追悼式・戦跡巡拝に参加して】の2日目【千葉県南方諸地域戦没者追悼式・戦跡巡拝に参加して】の折に見学をいたしておりました。
13年も前の事に写真もままならず入場券のみの記録ですが、当時を振り返りあの美しかった首里城がなぜ?と残念の言葉の他ありません。
当時の日程を一部、記してみました。
1.日 程 平成18年11月23日(木)~ 25日(土)
2.主 催 千葉県 ・ (財)千葉県遺族会
3.追 悼 式
(1)日 時 平成18年11月24日(金) 午前10時20分~11時00分
(2)場 所 沖縄県糸満市摩文仁の丘 「房総の塔」
(3)参列者 主催者代表 千葉県副知事 ・ 千葉県遺族会会長
来 賓 沖縄県、糸満市、沖縄県遺族連合会長ほか
遺 族 35名
千葉県職員 健康福祉部長ほか
連日27度の真夏日 の中、千葉県南方諸地域追悼式参列及び戦跡巡拝の慰霊の旅に参加を致しました。
大戦に果てし郷土のみ霊らを偲びて一団那覇に降り立つ
【追悼式】
「房総の塔」に献花をいたしました 追悼式に参列されました皆様
【首里城の見学】 の思い出(残念! が無くパンフレットのみでした)
2006年(平成18年)首里城見学入場券に思いをいたしております。残念です!
大戦の過去は過去とし復興に琉球文化のかをりも高く (13年前の見学の折の歌です)
【首里城について】 (2006年当時のパンフレットによります)
首里城は琉球の王城であった。
東西225間、南北約150間、面積1万9千坪の広大な城郭で正殿は琉球第一の大建築で昔から百浦添(支配の意)と称し、また俗に唐破風
とも言いました。
正殿の外重要な建物は北殿と南殿で、北殿は純支那風で冊封使歓待のため建てられたもので平常は摂政、三司官が政務を執っていました。
南殿は純日本式建物で慶長役後薩摩の使臣を歓待する場所、首里城は今次大戦で残らず破壊されました。
しかし本土復帰20年を記念して1992年に首里城公園として当時の姿のままに復元されました。
(2006年当時のパンフレットによります)
沖縄は古くから日本、中国及び南方諸国などの文化を吸収同化して独自のすぐれた文化を築いてきました。
戦前国宝に指定された幾多の建築物や芸術品がありましたが、戦争のためにその貴重な文化もことごとく壊滅してしまいました。
戦後灰塵の中から掘り出したもの、あるいは遠く海外に散在していた旧文化財を買収蒐集して保存陳列してあります。
この度の首里城の火災に心を痛めておりますが、13年前に見学いたしました素晴らしい首里城に思いをいたしました。
本日の式典は午後からですが、準備の都合上、朝から出かけておりまして先ほど届けて頂きました。
早速賞味させて頂き、美味しさに疲れが癒されました。
有り難うございました。
沖縄の追悼式は3回参列しておりますが、ブログ解説前でしたので記事がありません。
首里城焼失は本当に残念に存じました。
2度いきましたのに、まだブログ開設前でしたので
写真が何もありません。