牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

堅い肉

2017-06-25 20:36:05 | Weblog
へブル人への手紙5:1215 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。
人はパンだけで生きるものではなしと、あるように聖書は色んな食物にたとえられます。
まず乳=ペテロの第一の手紙2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。
蜜=詩篇119:103 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
パン=マタイの福音書4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」
堅い食物=へブル5:15堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

毎日食物が必要なように、いのちの糧である聖書のことばで、活き活きと生きて行く、新しい一日です。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

自分だけの人生

2017-06-24 07:29:53 | Weblog
人生はその人のものでしかない

人は誰もがみな欠点や悩み事を背負って生きている。
それについて向き合い、改善に努め、責任を取るべきはその人であって、ほかの誰も代わりに背負うことはできない。
別の言い方をすれば、あなたは、自分の追うべき自分のことに一生懸命になればいいのであって、他人の欠点を批判したり、無理に何かをさせたりして、その人の肩に重たい荷物を乗せるようなことはするなということだ。
人はそれぞれに、追うべき重荷がある。
人の人生は、その人のものなのだから。

ガラテヤ人への手紙6:5 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。
めいめいが、自分の重荷を担うべきです。


右手のしていることを、左手に知らせるな

2017-06-23 18:34:11 | Weblog
マタイの福音書6:1-4 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
報いられるか報いられないかは、人生において大切なことです。クリスチャンの報いは何かあるのか。この箇所で,善行や施し、祈りでさえその動機が問われています。これ見よがしの姿に、周りにいる人々佐江、ほんとうは辟易しているのに、与えられる物質に目がくらみ、ほめたたえニュースにさえなり、もうそれで十分、つまり自分の前でラッパを吹き鳴らす行為、偽善者にならないようにと警告されました。右の手のしていることを左の手に知られないような善行、施し、献金、祈りさえも。動機も行いもすべての隠れたことを見ておられる愛の神が見ておられます。天知る、地知る=人も知る。自ら言わずとも。
イエス・キリストは物質的な報酬を約束しなかった。その第一の報酬は満足です。信じる道を歩むなら、心の奥に何物にも代えることのできない満足がある。お金では買えない満足です。人を相手にしないで、愛から出る、無償の行いでありたいものです。
第二の報酬は、さらに多くの使命感が与えられることです。この世の報酬は、もっと楽をすることです。クリスチャンは、神と人のためにより多く、善行、施し、祈りができ、働く恵みです。毎日が充足で、安眠で熟睡、恵まれた天国=御国の心地す。ハレルヤ。
第三の報酬は、神をますます近くに感じ、やがて恐れず平安に、神の身元に引き寄せられ、天の御坐近くに進む。永遠のいのちを受けて、天国が最大の報酬です。
コリント人への第二の手紙5:7-10 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

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2017-06-23 18:25:04 | Weblog
御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。ヘブル1:14

恵みと愛との 朝は輝き
小鳥はさえずり 天使も賛美
主イエスの十字架 仰ぎ救われ
ありがとう感謝で 天国の日々

目覚めと共に、ハレルヤアーメン
主イエスはともに 天使も側に
いのちは輝き 喜び笑顔
ありがとう感謝で 天国の日々

聖霊注がれ いのち満たされ
平安よろこび 溢れみなぎる
福音伝える 使命果たして
ありがとう感謝で 天国の日々
アーメン。

詩篇34:7 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

聖書の実例
列王記第二6:15-23 神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。
すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。
そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。
エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。
彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。
イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」
エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

極端過ぎるな

2017-06-23 04:31:15 | Weblog
極端に生きるな

人生というのは不条理に満ちている。
なぜこんなに正しくて良い人が早く死んでしますのか、と思うことがある。
逆に、なぜこんな悪人が長生きしているのかと思うこともある。
このようなことがなぜ起こるのかは、人には分からない。
いくら考えても答えは出ない。それは人の思いを超えているものだ。
分からないことは。分からないことにしておけばよい。
ところが、人には理解できない秘め事のすべてを、知り尽くさなければ気が済まないという探究心にとりつかれてしまう人がいる。これは決して健全なものではない。
その欲求は満たされることはなく、これにはまると、精神の崩壊を招き自滅する。
死に急いではならない。
不条理のすべてに解決を見出すべきだと考えることほど、正しい人になってはいけない。
また、人の思いを超えている営みのすべてについて、なぜそれが起こるのかとこだわるほどの知恵がありすぎてもならない。
一方、答えが出ないジレンマの中で、投げやりになり、健全な探究心や、正しく生きようとする意欲を失い、どうでも良いとと善にも悪にも無頓着になるほど、愚かすぎるのもよくない。
賢すぎても、愚かすぎてもいけない。
正しすぎても、悪すぎてもいけない。
この両極端な生き方を避けなさい。
しかし、すべてを知り極める神を知る者は、このどちらにもはまらない。
解決できない問題の中で、板挟みになることもなく、悩みすぎることもなく、自暴自棄になることはない。
ただ、神を信頼することに休らうからだ。

伝道者の書7:15-18 私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。
あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。
悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。
一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。

この空しい人生の日々に/わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり/悪人がその悪のゆえに長らえることもある。

善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。
悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして時も来ないのに死んでよかろう。
一つのことをつかむのはよいが/ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば/どちらをも成し遂げることができる。



アンクル・トムの小屋

2017-06-22 18:01:47 | Weblog
;ピレモンへの手紙1:9-11 むしろ愛によって、あなたにお願いしたいと思います。年老いて、今はまたキリスト・イエスの囚人となっている私パウロが、獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。
新約聖書の中で、コロサイの家の教会、パウロの後援者ピレモンへの手紙です。
ピレモン家の奴隷オネシモは、逃亡奴隷でいきさつは不明ですが、ローマでパウロに導かれてクリスチャンになりました。
当時は、逃亡奴隷は死刑と決まっていました。パウロは、ピレモンのもとへ彼を送り帰すにあたって,愛の名においてピレモンを信仰における兄弟として受け入れるようお願いしている手紙です。
このピレモンへの手紙を読んだH・B・ストウは、アンクル・トムの小屋を書き、その著を読んだアブラハム・リンカーンによって、奴隷解放宣言がなされたそうです。
書棚にあるアンクル・トムの小屋=明石書店刊全45章は、525ページの大著です。
その結論=だが、われわれにはまだ恩寵の日は残されている。北部も南部も、神の前ではともに有罪である。キリスト教会は罪の償いをする重大な責任を負っている。
この合衆国が救われるのは、不正や残虐を擁護するために皆がまとまり、罪を共通の資産とすることによってではない。
懺悔と正義と慈悲とによってだ。なぜなら、不正や残虐さは国々に全能の神の怒りをもたらすようになるという強力な掟は、石臼は大海に沈むと言う永遠の掟より、もっと確かなものであるのだから。
新約聖書お持ちの方は、ピレモンへの手紙をお読みください。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します

生きる道

2017-06-22 04:53:11 | Weblog
いい道も悪い道もあることを知っておこう

自分にとっては最高の道だと思えるものが、実は最悪に至る道であるかも知れない。
自分には進むべき道のように思えても、それは誘惑の道であるかも知れない。
これだと思って突き進んだ結果、暗闇に墜ちて言ってしまうかも知れない。
人生には、自の思いとは裏腹に、全く逆の結末へとあなたを導く可能性のある道がある。
それを知ることが、思慮深い選択の鍵である。

箴言16:25 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。
人間の前途がまっすぐなようでも/果ては死への道となることがある。


豊に注がれて

2017-06-21 18:35:56 | Weblog

テトスへの手紙3:1-11 あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。
また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。
私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。
しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、
神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。
神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。
これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。
しかし、愚かな議論、系図、口論、律法についての論争などを避けなさい。それらは無益で、むだなものです。分派を起こす者は、一、二度戒めてから、除名しなさい。
このような人は、あなたも知っているとおり、堕落しており、自分で悪いと知りながら罪を犯しているのです。
聖書のことばをそのまま読む。神のみ心が分かり、聖霊の声が聞こえる。読んだことばに、アーメン、ありがとうございます。と損まま受け止める時、聖霊のことばが実現します。
例えば、今朝のことばで=だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。=あの人が、この人がと人に当てはめず、自分へと受け止めます。
そして、ありとうございます。だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に対して優しい態度を示しました。感謝します。もうそうなったと聖霊に信頼し、宣言します。不思議にどんなことがあっても、すべてに感謝して生きることができます。
とっても活発で爽やかな新鮮な風のように、周りが幸せになります。
ありがとうございます。今日もまた天国の香気ただよう一日です。感謝します。






まるで草のように

2017-06-21 05:15:12 | Weblog
人の一生は儚い

人の一生などは、まるで草のように、その栄えは野に咲く花のようだ。
風が吹着付けると、吹き飛ばされてなくなり、その場所に聞いても、どこに行ってしまったかを知らない。
人は何とはかない存在だろうか。
今は活躍している人も、忘れ去られてしまうときが来る。
しかし、神の恵みはいつまでも変わることなく、神を恐れる者の上にある。
すべてが移ろっていく中で、これだけは決して変わることがない。

詩篇103:15-18 人の日は、草のよう。野の花のように咲く。
風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。
しかし、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある。主の義はその子らの子に及び、
主の契約を守る者、その戒めを心に留めて、行なう者に及ぶ。


愛に生きる

2017-06-20 18:07:39 | Weblog
マタイの福音書5:17-9 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。
まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。
律法と福音。律法とは何か。第一に十戒。第二に聖書の最初の5巻=創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記。第三に律法と預言者=旧約聖書39巻。第四に口伝=律法学者律法規定。
イエス様は、律法全体の原則、真髄を示されました。十戒の原則は、尊敬であり畏敬です。その神髄は愛です。尊敬することは、無数の細かな法則や規定で縛り、禁止することではなく尊敬し愛すれば良いだけです。
イエス・キリストは、「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」と質問され、「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。律法の神髄を教えました。
律法の要求を成就しようとすると、人間の能力には限界があり、、愛にはさらに高い動機と行動が必要です。
イエス・キリストは、罪は犯さず、その口に何の偽りなく、律法を守り完成し、十字架にいのちを捧げる愛で、律法の要求を成就しました。3日目の朝に復活し、信じるだけで救われる恵みの救いを実現しました。その救いを体験すると、神を愛し自由に生きる贅沢な恵みの人生になります。
十字架にいのちを捨ててまで愛され、聖霊により注がれている愛を日々経験する時、その愛に答えたいとのひたむきな願いを持ちます。この神への愛が、高尚で崇高な使命になり、責任ある人生を神と隣人に対して果たすことができるのです。イエス・キリストは、いついかなる時も共にいて、助け守り力を与えてくださいます。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。