牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

悲しみは幸い

2017-06-11 18:30:46 | Weblog
マタイの福音書5:4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。

ギリシャ語で、悲しさを表現する一番強い言葉です。死んだ人を慕い狂うばかりの悲しみです。いつまでも心に痛みを感じ、抑えても、抑えても涙する、果ては涙も出てこないほどの悲しみです。その人は幸いです。

家内を3年前に天に送りました。悔しさもあり悲しみもあります。けれども幸いですと、イエス様とともに。ありがとうございます、慰められました。幸いになりました。感謝します。強がりでなく、意地っ張りでもなく、聖書の約束通り幸せです。

日照りばかりでは砂漠になると言われます。日照りばかりの砂漠に果実は実らず、雨がないと作物は育たない。悲しみがあるから、神の慰めと、恵みの御霊の愛、ともにおられるイエス・キリストの現実も強く体験できる。

同時に、何にもまして尊い祈りと助けと人の情けもしみじみと感じる。

また、悲しみ、苦しみや痛みにある人々とともに悲しみ、悩みを共有できるようにもなる。多くの教会員が愛する母や夫、奥様を召された。それ以上に多くの方が、愛する者を召された悲しみにある。それはこれからも地上に命ある限り続く現実。しかし、そのような悲しみが幸いであり、慰めが豊かなので、悲しみの涙を振り払って、生きることができます。

同時に、自分の罪と自分の価値=貧しさを、絶望するほどに悲しむ者は幸いです。

キリスト教信仰は、罪の意識が特徴です。自分の罪を深く悲しむ者、神に対してなした罪の業を思って嘆き悲しむのです。その中から十字架を仰ぎ見る時、これこそ罪の仕業だ。罪が世界中で一番尊い命を奪ってしまった。そして、イエス・キリストが自分の罪を背負って死なれたのだ。アーメン信じます。その十字架と復活を受け入れるとき、豊かな天の慰めに守られる。

どんな悲しみも、雨に濡れて紫陽花が輝くように、輝き生きることができる。そして悲しみ嘆く世界に慰めを与える人生を生きようとの決意も与えられる。

ありがとうございます。今日もまた悲しむ者は幸いな天国の一日です。慰めを感謝します。

感謝して受けよう

2017-06-11 18:24:44 | Weblog
テモテへの第一の手紙4:1―5 しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

それは、うそつきどもの偽善によるものです。彼らは良心が麻痺しており、結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりします。しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

後の時代になると、今がまさに、その後の時代に突入。惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われる時代になり、正しい信仰から離れるようになります。

それは聖書の教えから離れ、ウソつきどもの偽善によるものです。嘘は悪魔の本質=あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

その特徴は、罪の呵責が無くなり、嘘を嘘とも思わないほど良心が麻痺している。結婚することを禁じる。食物を絶つことを命じたりします。

特に、食物に関しては、健康といのちに関することなので、十分に気を付けなければなりません。

2014年の家内が天国へ召され、一人暮らしも3年過ぎになり。食事の教えは身に沁みます。

しかし食物は、信仰があり、真理を知っている人が感謝して受けるようにと、神が造られた物です。

神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。

左右脳内出血、小脳内梗塞の病歴があるので、塩分過多にならないように。また野菜をしっかり摂取する必要があります。けれど、神が造られた者はみな良いも物で、感謝していただく恵みです。

食べるにも飲むにも神の栄光のために生きる平安と感謝の食生活です。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

富と財産

2017-06-11 06:23:00 | Weblog
財産を突然失うこともある

この世の中には痛ましいことがある。その一つは、築き上げてきた富を、突然失うことがあると言う現実だ。
富を得るために力を尽くしてきた人のその財産が、その本人を守ることはできないという不条理だ。
せっかく築き上げたものが災害で失われてしまし、家族のために何もしてやることがでいないような不幸な状況に陥ってしまうことは、実際に起こる。
いざという時に、自分の主有している者が、自分や家族を守らないのだとしたら、そのための労苦にいったいどんな意味があるのだろう。
しかも本人は、死ぬときには、何一つその手に携えていくことはできない。
全く痛ましいことだ。この世ぬ生まれ出てきたときと同じようにして去っていく・・・。
富に過剰な信頼を置き、それを増やそうとひっしになることは、風を追うようなもので、虚しいことだ。

伝道者の書5:13-16 私は日の下に、痛ましいことがあるのを見た。所有者に守られている富が、その人に害を加えることだ。
その富は不幸な出来事で失われ、子どもが生まれても、自分の手もとには何もない。
母の胎から出て来たときのように、また裸でもとの所に帰る。彼は、自分の労苦によって得たものを、何一つ手に携えて行くことができない。
これも痛ましいことだ。出て来たときと全く同じようにして去って行く。風のために労苦して何の益があるだろう。