牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

右手のしていることを、左手に知らせるな

2017-06-23 18:34:11 | Weblog
マタイの福音書6:1-4 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
報いられるか報いられないかは、人生において大切なことです。クリスチャンの報いは何かあるのか。この箇所で,善行や施し、祈りでさえその動機が問われています。これ見よがしの姿に、周りにいる人々佐江、ほんとうは辟易しているのに、与えられる物質に目がくらみ、ほめたたえニュースにさえなり、もうそれで十分、つまり自分の前でラッパを吹き鳴らす行為、偽善者にならないようにと警告されました。右の手のしていることを左の手に知られないような善行、施し、献金、祈りさえも。動機も行いもすべての隠れたことを見ておられる愛の神が見ておられます。天知る、地知る=人も知る。自ら言わずとも。
イエス・キリストは物質的な報酬を約束しなかった。その第一の報酬は満足です。信じる道を歩むなら、心の奥に何物にも代えることのできない満足がある。お金では買えない満足です。人を相手にしないで、愛から出る、無償の行いでありたいものです。
第二の報酬は、さらに多くの使命感が与えられることです。この世の報酬は、もっと楽をすることです。クリスチャンは、神と人のためにより多く、善行、施し、祈りができ、働く恵みです。毎日が充足で、安眠で熟睡、恵まれた天国=御国の心地す。ハレルヤ。
第三の報酬は、神をますます近くに感じ、やがて恐れず平安に、神の身元に引き寄せられ、天の御坐近くに進む。永遠のいのちを受けて、天国が最大の報酬です。
コリント人への第二の手紙5:7-10 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

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2017-06-23 18:25:04 | Weblog
御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか。ヘブル1:14

恵みと愛との 朝は輝き
小鳥はさえずり 天使も賛美
主イエスの十字架 仰ぎ救われ
ありがとう感謝で 天国の日々

目覚めと共に、ハレルヤアーメン
主イエスはともに 天使も側に
いのちは輝き 喜び笑顔
ありがとう感謝で 天国の日々

聖霊注がれ いのち満たされ
平安よろこび 溢れみなぎる
福音伝える 使命果たして
ありがとう感謝で 天国の日々
アーメン。

詩篇34:7 主の使いは主を恐れる者の回りに陣を張り、彼らを助け出される。

聖書の実例
列王記第二6:15-23 神の人の召使が、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲していた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう。」と言った。
すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから。」と言った。
そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
アラムがエリシャに向かって下って来たとき、彼は主に祈って言った。「どうぞ、この民を打って、盲目にしてください。」そこで主はエリシャのことばのとおり、彼らを打って、盲目にされた。
エリシャは彼らに言った。「こちらの道でもない。あちらの町でもない。私について来なさい。あなたがたの捜している人のところへ連れて行ってやろう。」こうして、彼らをサマリヤへ連れて行った。
彼らがサマリヤに着くと、エリシャは言った。「主よ。この者たちの目を開いて、見えるようにしてください。」主が彼らの目を開かれたので、彼らが見ると、なんと、彼らはサマリヤの真中に来ていた。
イスラエルの王は彼らを見て、エリシャに言った。「私が打ちましょうか。私が打ちましょうか。わが父よ。」
エリシャは言った。「打ってはなりません。あなたは自分の剣と弓でとりこにした者を打ち殺しますか。彼らにパンと水をあてがい、飲み食いさせて、彼らの主君のもとに行かせなさい。」
そこで、王は彼らのために盛大なもてなしをして、彼らに飲み食いをさせて後、彼らを帰した。こうして彼らは自分たちの主君のもとに戻って行った。それからはアラムの略奪隊は、二度とイスラエルの地に侵入して来なかった。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

極端過ぎるな

2017-06-23 04:31:15 | Weblog
極端に生きるな

人生というのは不条理に満ちている。
なぜこんなに正しくて良い人が早く死んでしますのか、と思うことがある。
逆に、なぜこんな悪人が長生きしているのかと思うこともある。
このようなことがなぜ起こるのかは、人には分からない。
いくら考えても答えは出ない。それは人の思いを超えているものだ。
分からないことは。分からないことにしておけばよい。
ところが、人には理解できない秘め事のすべてを、知り尽くさなければ気が済まないという探究心にとりつかれてしまう人がいる。これは決して健全なものではない。
その欲求は満たされることはなく、これにはまると、精神の崩壊を招き自滅する。
死に急いではならない。
不条理のすべてに解決を見出すべきだと考えることほど、正しい人になってはいけない。
また、人の思いを超えている営みのすべてについて、なぜそれが起こるのかとこだわるほどの知恵がありすぎてもならない。
一方、答えが出ないジレンマの中で、投げやりになり、健全な探究心や、正しく生きようとする意欲を失い、どうでも良いとと善にも悪にも無頓着になるほど、愚かすぎるのもよくない。
賢すぎても、愚かすぎてもいけない。
正しすぎても、悪すぎてもいけない。
この両極端な生き方を避けなさい。
しかし、すべてを知り極める神を知る者は、このどちらにもはまらない。
解決できない問題の中で、板挟みになることもなく、悩みすぎることもなく、自暴自棄になることはない。
ただ、神を信頼することに休らうからだ。

伝道者の書7:15-18 私はこのむなしい人生において、すべての事を見てきた。正しい人が正しいのに滅び、悪者が悪いのに長生きすることがある。
あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。
悪すぎてもいけない。愚かすぎてもいけない。自分の時が来ないのに、なぜ死のうとするのか。
一つをつかみ、もう一つを手放さないがよい。神を恐れる者は、この両方を会得している。

この空しい人生の日々に/わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり/悪人がその悪のゆえに長らえることもある。

善人すぎるな、賢すぎるな/どうして滅びてよかろう。
悪事をすごすな、愚かすぎるな/どうして時も来ないのに死んでよかろう。
一つのことをつかむのはよいが/ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えば/どちらをも成し遂げることができる。