牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

祈りは聞かれて

2017-06-08 20:07:55 | Weblog
詩篇6:9 主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。

詩篇は祈りであり、魂の叫びです。羊飼いの少年ダビデが、大自然の中で羊と戯れ、羊飼いと羊の関係のように、愛の神と信じる者との関係を見たように、呼べば応えてくださる全能の神。

切なる願い=嘆き=泣き声を聞く神。母親は、赤ちゃんの声を聞くだけで、お腹が空いているのか、おむつが濡れているのか、体の具合が悪いのか、抱いてほしいのか、全部わかるそうです。まして激しくなく声に気づかないはずがありません。

イエス・キリストを信じる時、神の子です。子どもの声を聞かない親がいないように、全能なる愛の神は、祈りを受け入れ聞いてくださいます。

アーメン。ありがとうございます。祈りは聞かれ与えられました。感謝します。み言葉の約束通りです。

ありがとうございます。今日もまた天国の一日でした。ハレルヤ。

生駒聖書学院へ

2017-06-08 20:01:33 | Weblog
マタイの福音書4:18-20 イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」 彼らはすぐに網を捨てて従った。

40日の断食を終え、ガリラヤ湖のほとりの町カペナウムで、悔い改めなさい。天の御国が近づいたからと、宣教を開始されました。

ガリラヤ湖のほとりで漁師ペテロに出会い、最初の弟子にしました。ルカ福音書にそのことが詳しく記録されています。

5:1-11 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。

話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。

これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

魚を取る漁師が、人々を救い平安と幸せをもたらすようになりました。現代も同じように、イエス・キリストの召しを聞いて、救いを伝え平安と幸せをもたらしています。広い意味では、イエス・キリストの十字架と復活を信じて救われたクリスチャンすべてが、福音を伝える働きをしています。

生駒聖書学院は、召されて牧師として働く器を養成する所です。すばらしい十字架と復活の救いを、アーメンと信じるだけで恵みにより救われます。

aなたも人間を取る漁師になるため、入学をお待ちします。9月入学歓迎します。

罪人のかしら

2017-06-08 19:53:25 | Weblog
テモテへの第一の手紙1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
使徒パウロから若いテモテへ、牧師の心得についての、最後の獄中からの手紙です。
書棚に親分はイエス様という本があり、元やくざだったがイエス・キリストの十字架の救を信じて、牧師になった体験談の本です。
生駒聖書学院にも刑務所や少年院から入学して、3年間真剣に聖書を学び、聖霊に満たされ卒業、立派に働いている牧師が多数あります。
聖書は、キリスト・イエスは罪人を救うために来られ、十字架の上にいのちを捨て、救いの道を開いてくださいました。
私はその罪人のかしらです。罪人のかしらが救われたのですから、アーメンと信じるなら、だれでも救われます。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。コリント人への第二の手紙5:17-21
ありがとうございます。今日もまた天国の一日です。感謝します。

チャンスは等しく

2017-06-08 05:30:43 | Weblog
チャンスは平等に与えられる

私は天の下にある多くの者を見たが、競争は足の速い人が勝つとはかぎらず、強い人が戦いに勝つとも限らず、生活に困窮しないのは必ずしも頭の良い人でもなく、
また人から好意を受けるのは、博識の結果なのでもないことが分かった。
なぜなら、すべての人に同じように時が与えられており、誰もがみな好機と出会うものだからだ。
時とチャンスをどう生かしたかがすべてである。
人間には行動することしかできない。
時間を止めることもできなければ、時計の針を戻すこともできない。
要は、なすべきことをしたかどうかなのだ。

伝道者の書9:11 私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。