泥かぶら
奈良時代(710-794)は今、歴史的には非常にすばらしい時代のように言われていますが、本当はもっと暗いみじめな時代でした。今の日本も大変な時代で、いつどうなるかまったく分からない状態です。しかし、今よりもっと悲惨な時代であったことは確実です。
その頃、ある村に貧しい一人の女の子がいました。お父さんはどこに行ったかわからない。お母さんは死んでしまって孤児みなしごです。
天涯孤独ですから、いつも汚い恰好をしているので、子どもだけでなく大人さえも皆がいじめます。唾をかけます。石を投げます。もちろん一緒に遊んでくれません。だけどこの子は非常に気性が激しく、石を投げられたら石を投げ返した。唾をかけられたら、かけ返しました。そして遊んでくれなければ一人丘に上がって夕陽を見て知らん顔でした。そんな子だからますますいじめられました。
でも時おりその子自身も考えました。このままでは自分はどうなるんだろうかと。
その村を一人の高齢の旅人通りかかり、その子のなりゆきをじっと見ているのです。「気性の激しい子だなあ。そして絶対に負けん子だなあ。よしわしが助けてやろう。」ということで、その子がいつものように丘の上で夕陽を見ながらたたずんで座っているのを後ろから肩を叩きました。
「どろかぶらよ、お前は本当はすばらしい子なんだ。だけども今のままではダメだよ。」といって、 三つのことを教えました。
一、自分の顔を恥じないこと
一、どんな時にもニッコリ笑うこと
一、人の身になって思うこと
女の子はそんなことは無理だと思ったのですが、このままではどうにもならない。よしやってみようと思いました。そして最後までやるぞと決心したのです。
ところが、ある時とんでもないことがおこり、極めつけみたいなことで濡れ衣を着せられます。
実は、このどろかぶらという女の子を嫌っていじめていた、村一番の美人で庄屋の娘こずえ」でした。ところがある時、「助けて」!とどろかぶらのところに走って来ました。
その後ろからお父さんの庄屋が鞭を持って追いかけて来るのです。こずえは庄屋が命よりも大切にしていた茶器を割ってしまったのです。しかもこのこずえが、どろかぶらが割ったんだと言いながら、走って来たのです。 どろかぶらはその時に、それは私がやったのではないと言いませんでした。自分を一番いじめた子、この子の気持ち、人の身になって思うことと言われたことを実践し、黙ってこずえをかばいました。庄屋は当然、どろかぶらに先入観を持っていますから、こんな汚い奴とそのまま、どろかぶらを打ちたたきました。
もう何度も何度も鞭で叩かれ体はぼろぼろになって、また丘の上の夕陽を見ながら泣いていうろ、後ろからそっとやってきた人がいます。それは自分をおとしめたこずえなのです。そして、自分が一番大事にしていた宝物である櫛を差し出しました。「助けてくれてありがとう。ほんとうに悪い事をしてごめんなさい。これは私の宝物だからあんたに貰ってほしい」と言いました。
その時、生まれて初めてどろかぶらは報いられたことを知りました。そして「その櫛はいらないから、どうかその心だけでいいからこれから仲良くしてね。」と言いました。
こずえはさらに感動して、どろかぶらの泥を払って櫛ですいてあげてかたわらの花を挿してあげました。
それから毎日毎日、今までの評価がどんどんと逆転し変わってきした。なおさらこのどろかぶらは、旅人の三つの言葉をさらに実践し続けました。
喘息持ちの老人の家には山奥に入って薬草を取って持ってきたり、子供が泣いていたら慰めてやったり、あるいは子守りをしてやったり、人の嫌がることを次から次にやっていきます。だから村人にとってついにどろかぶらは村にいなくてはならない人になっていくのでした。
ところが、人買いの次郎兵衛が村にやってくると、どろかぶらの仲良しの一人の娘を買っていこうとしました。売られて行こうとする親友は泣き叫び、それを見ていたどろかぶらは、ついに自分が身代わりになろうと決心しました。そして人買い次郎兵衛に「その子の代わりに私を連れて行ってくれ。」と言い、次郎兵衛はびっくりし、目をむいて言いました。「お前、何を言っている。遊びに行くのではないということが判っているのか。もういいかげんにしろ。さっさと向こうに行け。」と。
はじめは取り合わないのですが、メソメソ泣いている女の子と健康ではちきれんばかりのどろかぶらを見て、どっちが高く売れるか考えました。「よし、じゃあ、こっちのほうがいいな」とどろかぶらを連れて行くことしました。
ところが、どろかぶらは三つの言いつけを守っています。自分の顔に恥じない。自分の未来が必ず開かれるという信念を持っています。どんな時にもニッコリ笑っています。常に相手の身になって考えています。ですから、都へ上がる間、毎日毎日、何を見ても素晴らしい。何を食べても美味しい。どんな人に会っても常にその人を虜にしてしまう魅力がある笑顔を忘れない。ついに次郎兵衛はある時、置き手紙をしていなくなってしまいました。
その手紙には、 「私はなんとひどい仕事をしておったか気が付いた。お前のお陰で、私の体の中にあった優しい心が目覚めた。ありがとう。天使のように美し子よ。どろかぶらよ、幸せになってくれよ。」と書いてありました。
この話を読んで、いつもにっこり笑うこと。人の身になって思うこと。自分の顔を恥じないこと。これこそ美しくなる最高の化粧品だと思います。
ほんとうの美しさは、きれいとは違うものだということに気づいたら、毎日は天国の日々に変わります。美しいという漢字は、羊の下の字もともとは女という字だったそうです。羊の下に立つ女、それが美しいと言う字です。
聖書では羊は、イエス・キリストのシンボルです。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊!」
ですからイエス・キリストの十字架の救いを信じて、心がきれいになるときほんとうの美しさが輝くのです。クリスチャンの女性たちの美しさは、イエス・キリストの十字架の下に立つ、へりくだった美しさでもあるのだと思います。
三つの化粧品は、お金がいらない!使っても減らないし、使えば使うほど、質が良くなる!どこへでも持って行ける!すばらしいものです。
ありがとうございます。今日もまた美しく輝く天国のい一日です!感謝します。
奈良時代(710-794)は今、歴史的には非常にすばらしい時代のように言われていますが、本当はもっと暗いみじめな時代でした。今の日本も大変な時代で、いつどうなるかまったく分からない状態です。しかし、今よりもっと悲惨な時代であったことは確実です。
その頃、ある村に貧しい一人の女の子がいました。お父さんはどこに行ったかわからない。お母さんは死んでしまって孤児みなしごです。
天涯孤独ですから、いつも汚い恰好をしているので、子どもだけでなく大人さえも皆がいじめます。唾をかけます。石を投げます。もちろん一緒に遊んでくれません。だけどこの子は非常に気性が激しく、石を投げられたら石を投げ返した。唾をかけられたら、かけ返しました。そして遊んでくれなければ一人丘に上がって夕陽を見て知らん顔でした。そんな子だからますますいじめられました。
でも時おりその子自身も考えました。このままでは自分はどうなるんだろうかと。
その村を一人の高齢の旅人通りかかり、その子のなりゆきをじっと見ているのです。「気性の激しい子だなあ。そして絶対に負けん子だなあ。よしわしが助けてやろう。」ということで、その子がいつものように丘の上で夕陽を見ながらたたずんで座っているのを後ろから肩を叩きました。
「どろかぶらよ、お前は本当はすばらしい子なんだ。だけども今のままではダメだよ。」といって、 三つのことを教えました。
一、自分の顔を恥じないこと
一、どんな時にもニッコリ笑うこと
一、人の身になって思うこと
女の子はそんなことは無理だと思ったのですが、このままではどうにもならない。よしやってみようと思いました。そして最後までやるぞと決心したのです。
ところが、ある時とんでもないことがおこり、極めつけみたいなことで濡れ衣を着せられます。
実は、このどろかぶらという女の子を嫌っていじめていた、村一番の美人で庄屋の娘こずえ」でした。ところがある時、「助けて」!とどろかぶらのところに走って来ました。
その後ろからお父さんの庄屋が鞭を持って追いかけて来るのです。こずえは庄屋が命よりも大切にしていた茶器を割ってしまったのです。しかもこのこずえが、どろかぶらが割ったんだと言いながら、走って来たのです。 どろかぶらはその時に、それは私がやったのではないと言いませんでした。自分を一番いじめた子、この子の気持ち、人の身になって思うことと言われたことを実践し、黙ってこずえをかばいました。庄屋は当然、どろかぶらに先入観を持っていますから、こんな汚い奴とそのまま、どろかぶらを打ちたたきました。
もう何度も何度も鞭で叩かれ体はぼろぼろになって、また丘の上の夕陽を見ながら泣いていうろ、後ろからそっとやってきた人がいます。それは自分をおとしめたこずえなのです。そして、自分が一番大事にしていた宝物である櫛を差し出しました。「助けてくれてありがとう。ほんとうに悪い事をしてごめんなさい。これは私の宝物だからあんたに貰ってほしい」と言いました。
その時、生まれて初めてどろかぶらは報いられたことを知りました。そして「その櫛はいらないから、どうかその心だけでいいからこれから仲良くしてね。」と言いました。
こずえはさらに感動して、どろかぶらの泥を払って櫛ですいてあげてかたわらの花を挿してあげました。
それから毎日毎日、今までの評価がどんどんと逆転し変わってきした。なおさらこのどろかぶらは、旅人の三つの言葉をさらに実践し続けました。
喘息持ちの老人の家には山奥に入って薬草を取って持ってきたり、子供が泣いていたら慰めてやったり、あるいは子守りをしてやったり、人の嫌がることを次から次にやっていきます。だから村人にとってついにどろかぶらは村にいなくてはならない人になっていくのでした。
ところが、人買いの次郎兵衛が村にやってくると、どろかぶらの仲良しの一人の娘を買っていこうとしました。売られて行こうとする親友は泣き叫び、それを見ていたどろかぶらは、ついに自分が身代わりになろうと決心しました。そして人買い次郎兵衛に「その子の代わりに私を連れて行ってくれ。」と言い、次郎兵衛はびっくりし、目をむいて言いました。「お前、何を言っている。遊びに行くのではないということが判っているのか。もういいかげんにしろ。さっさと向こうに行け。」と。
はじめは取り合わないのですが、メソメソ泣いている女の子と健康ではちきれんばかりのどろかぶらを見て、どっちが高く売れるか考えました。「よし、じゃあ、こっちのほうがいいな」とどろかぶらを連れて行くことしました。
ところが、どろかぶらは三つの言いつけを守っています。自分の顔に恥じない。自分の未来が必ず開かれるという信念を持っています。どんな時にもニッコリ笑っています。常に相手の身になって考えています。ですから、都へ上がる間、毎日毎日、何を見ても素晴らしい。何を食べても美味しい。どんな人に会っても常にその人を虜にしてしまう魅力がある笑顔を忘れない。ついに次郎兵衛はある時、置き手紙をしていなくなってしまいました。
その手紙には、 「私はなんとひどい仕事をしておったか気が付いた。お前のお陰で、私の体の中にあった優しい心が目覚めた。ありがとう。天使のように美し子よ。どろかぶらよ、幸せになってくれよ。」と書いてありました。
この話を読んで、いつもにっこり笑うこと。人の身になって思うこと。自分の顔を恥じないこと。これこそ美しくなる最高の化粧品だと思います。
ほんとうの美しさは、きれいとは違うものだということに気づいたら、毎日は天国の日々に変わります。美しいという漢字は、羊の下の字もともとは女という字だったそうです。羊の下に立つ女、それが美しいと言う字です。
聖書では羊は、イエス・キリストのシンボルです。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊!」
ですからイエス・キリストの十字架の救いを信じて、心がきれいになるときほんとうの美しさが輝くのです。クリスチャンの女性たちの美しさは、イエス・キリストの十字架の下に立つ、へりくだった美しさでもあるのだと思います。
三つの化粧品は、お金がいらない!使っても減らないし、使えば使うほど、質が良くなる!どこへでも持って行ける!すばらしいものです。
ありがとうございます。今日もまた美しく輝く天国のい一日です!感謝します。