牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

義か我か

2014-12-19 08:04:46 | Weblog
聖書の一言;イザヤ書3:10 義人は幸いだと言え。彼らは、その行ないの実を食べる。
昨日は久しぶりに歩いて学院の外へ。道で会い挨拶し、近くの喫茶店でまた会い、小冊子を渡すとコーヒーを飲みながら読み、声をかけると義治と言う名前。冊子を指さし義之です。一時間近く、14歳で父親を失い、母親と兄弟のために苦労の山を越え、まだ現役の社長で300坪の敷地に豪華な邸宅を持ち、しんご整骨鍼灸院のビルのオーナー。
義治という名前に恥じないで働いてきたと話してくれた。十字架の救いを話すが、罪を赦すための十字架が分からず、自分は義人だと言う論点から一歩も出てくれない。義を持って治めてきた人生、誰にも迷惑をかけていない。恐らく日本人共通の自己認識だと思う。別れの握手し幸せを祈るとアーメンと応じてくれた。アーメンと言う素直さに祝福を。
16歳の時クリスチャンになるまで同じでした。之=己の義によって栄える人生を生きると自負していた。キリスト教会に行き、あなたは罪人ですと言われた時はショックだった。教会に来るなと言われたと思い行かなくなった。己の義で生きると決めた。ところが1957年11月24日に初めて日本人牧師の説教を聞いた。
神が愛であるのに、人間が悩み苦しみ果ては死んで地獄へ行くのは、罪があり神の義から遠く離れているからだ。罪とは外面的に法律を破れば法で裁かれる。うそや偽りなどの内面の道徳罪。そんな罪は何故あるのか、それは電源から離れていたら電気が点かないように、創造者であり唯一の真の愛の神から離れている原罪があるからだ。その罪を解決するために、イエス・キリストは処女マリヤから生まれた罪のないお方。十字架に罪のない神が身代わりに死なれ、3日目に復活して、アーメンと信じるだけで罪を赦し義としてくださる。すべてが分かったわけでもないが、十字架の血にてきよめたまえ。主よ我は行くと讃美歌を歌いながら、アーメン信じますと決心し、その日にバプテスマを受けてクリスチャンになり、もう57回目のクリスマスを迎えます。
義=羊+我です。羊とは世の罪を取り除く神の小羊イエス・キリスト。我がその下に立てば義となります。羊の下に立たないと我=ガです。自分が正しいといつも主張している人は、己の義をのみ頼りにするから、我=ガ、我=ガと言います。
十字架の下にいつも立つ義人として、幸いな人生を、その十字架と復活を信じる幸い、その行いの実を食べる祝福です。
ありがとうございます。今日もまた天国の聖なる一日です。感謝します。