何気に聴こえる時、はっとする。辺りを見回しても誰も居ず、声は宙からと想えて心を清ませる。頭に直接して指示を伝えられるものの、他人に話しても信じず。科学的に解明不可の事象ありと、静かに聴く。人間の生誕にも係る為、察することと感知能力を遇わせねば為らずに。
ブログへの記載にも、読んでくれれば判る方や素通りとでは明らかに異なる。理性の制御に長け過ぎると感情には至らず、物事への固執のみとなる。枇杷葉の援けの多くは、全ての他人へではなく限られる者にしか与えられない。必然的なことと、理解せねば失せてしまうわね。
昨日は午後からの雨に、安堵したものだが今朝には晴れて来た。然も暖かさにスカーフ不要と、小豆の懐炉だけを身に付けている。大根を使おうと煮物はストーブにかけ、千切り・糠床へと分けた。今回の大根は、葉付きなので炒め物とし箸休めなのも重宝して多用途が好い。
枇杷葉の花芽に従来なら蜜蜂が飛来、今年は未だ見てない。日本蜜蜂は移動するので飼育が難しいとかだが、結実するのも多い。枇杷葉茶を作るのに、ネット参照だと束子で擦るとあるのに驚いた。まあ・そういう遣り方も、農薬散布なら致し方ないのだろうと思えるがどうなのかな。
我が家のは無農薬で、昆虫や爬虫類の宝庫でもあるのよ。見廻りの際には、枯れた葉や傷みのあるのは外し声をかけるのを忘れない。自然からの身体へ能う恩恵や、畏怖の念を祈りと感謝にて示す。何を於いても枇杷葉なのも、寄り添い守ってくれると確信している不動さ徹して。