枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

度重なる切断・・・

2017年01月31日 | Weblog

 継続的にするのか?午後の8時台での切断である。止めてくれないか!さて、これからという段階で、予告なしの切断である。文明の機器を使おうとするから、腹も立つのだと思うが、肝心の作業が滞ってしまう。勤務外ではあるが、しなければならないことも。

 今朝は、冷え込んでいる。それでも立春に向けて、和らいではいる。季節の廻りには、新暦も旧暦もないようだが、七草粥や、節分の日には、自然にあるものへの感謝と畏怖の念も、大いにあったことに気づく。店頭に行って買えば済む今とは、差があるもの。

 小さな子どもが、だっことせがむのを、邪険にか厳しくか、歩きなさいと叱咤する親に、今しか抱けないのに、と哀しい。母親であるあなたは、スマホ片手に、その画面から眼も離さないで、なんと淋しいこと。自慢ではないが、子どもは負い紐で育て家事をした。

 今でも、負い紐の痕が残る。何をするにも、背中に居て、乳を含ます時だけが、座れる時間だった。自分のしたいと思うことは、後回し。姑に文句を言われつつも、するしかなかった。それをそのまま現代に、然も、皆がしなければというのではないが物憂いなぁ。

 人間の自由と、我儘と甘えを、勘違いしているように思えてならない。子ども・稚児は、愛しはぐくむ。親にさせてもらうのに、育っていくのだ。資格も、免許もないからこそ、いつの時代にも手探りかもしれない。子育ての見本は、万人に当て嵌まるとは限らない。

 書籍に書かれていないことなら、自分の遣り方は間違っている。と考える向きもあろう。でも、子育てに正解は無く、皆個々に違っていて当たり前なのだ。でも根本は忘れず、弛まずで諦めずすることに、大きくなっていくのではないか。釈迦に説法みたいかな。

 飛び抜けて素晴しい人でなくても、当たり前の普通の人間に育てばいい。況してや親は、子ども等に依って、人と成りにさせてもらうのだから、謙虚さも素直さも持ち続けていきたいもの。日々学ぶことの姿勢を貫き、努力を怠らないことも大切だと反省もするが。

 節分の日は、休みにしており、注文の巻き寿しを作る。家族の分と、知人の所と、勤務先の配達だ。自分の作る寿しを、美味しいと楽しみにしてくれる、知人家族は、飛び上がって喜んだ。むろんのこと、料金はもらわないので、材料はありきたりの物になるが・・・

 秋の夜。南の空にそろそろ上がって来る、オリオン座を待つ。これからは、冬の大三角が、凍てつく宇宙に。

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愛は様々・・・

2017年01月30日 | Weblog

 愛には形も、姿もないが、確かに存在している。では何処に?自分の心中にあって、どんな人にもある。唯それが形を成さないから、分かり合えるには、苦しむし挫折も味わう。渡辺和子さんが、本当の愛情は、相手が何時如何なる時も、どんな姿でも愛せること。とあった。

 昨年、蝿人間のDVDを買って観たが、愛する恋人は、日々人間を捨てていく。その人との愛の結晶が宿るが、悪夢と恐怖に産む決心が揺らぐ。神さまはそれでも尚、愛せよとおっしゃるのか?物質電送機の失敗によって、更なる物体に化していく恋人。愛は非情なばかり。

 生き物は、小さいが故に愛らしいが、必ず成長する。人間の都合勝手で、品種改良を重ねても、突然変異は起きる。種の起源である。学生であった頃に、さぼってばかりだったから、今難渋する羽目に。図書館に通って、蔵書を紐解く。年齢のせいではなく、直ぐに忘れる。

 人にはやさしく、自分に厳しくありたいものだが、中々そうはいかない。然し、自分を愛することができなくては、他人は愛せない。愛は我儘であり、自分勝手で、裏切りもする。それなのに、人々の心の中にあって、消えないのは何故だろうか?理解し知ることも難しいのに。

 荒神さまに行った時。友人には見えなかったらしいが、龍神がいたのだ。空に悠々と泳いでいた。あんなにはっきりとした姿だったのに、どうして視えなかったのか、不思議でならない。そういう天からの褒美をもらえる慶びに感謝するばかり。以前には、娘と一緒に視たの。

 介護の勤務にも、少しばかり疲れていた時なので、とても勇気が出た。タイガースのコンサートには行けなかったが、DVDは手に入れたし、自分だけの舞台で観えるのもうれしい。皆がみな、自分に納得いく人生を送れるとは限らない。それでも、正直に謙虚に逝きたい。

 何だか、当たり前のことを、幸せと感じて、感謝し祈れることが、とても大切な気がします。晴れの日も、雨の、曇りのある、それらの全てが、自分にとって必要なエネルギーになっていくのだろう。自然からの力にそぐえる者でありたい。未来は混沌としているが生きよう。

 秋の空に、清々しく生い茂る枇杷葉。花芽の数も、今年は最高に付いた。明けて、雪に見舞われるが・・・

 

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曇空になる・・・

2017年01月29日 | Weblog

 久々の、日曜日の休みと旧正月で、安眠していたら携帯に起される。その後、天気なのを由として布団を広げるが、昼前には仕舞う。風を通しておきたかったので出したものの、天気が下り坂なのは覚悟の上である。昨日の小春日和との温度差に戸惑う。

 ヤング・スーパーマンの全集が、何時になったら分割販売か、とひたすら待っていた。ようやくチャンスが来たようで、購入の手配をする。今年の運勢の当りように少し、蹈鞴を踏みつつ、念願のエイトマンも手に入り、ほくほくしてくる。で、遺言に書いておく。

 蔵書の類は、娘も息子も要らないだろう。DVDも怪しい。行先は、図書館と言うことになるが、貴重な物ばかりである。然し、個人の趣味の範囲では、遠慮される向きもあろう。衣類も多々あって不自由しないが、サイズとクリーニング代に文句が出る可能性。

 やはりここら辺で、整理整頓をしておかねば、この先何があるかは不明。先行きは不安ではないが、死後のことも考えて、生きていかねばならない。ケ・セラ・セラと言う歌があるが、人生先のことは分らない。なるようにしかならない。感謝と祈りと満足を心に。

 田畑を持っている方が、阿保らしくて、と言う。折角あるのだから、野菜中心の生活が出来るのに。と思っていたら、人様に上げるのも嫌だし、況してや盗まれるのも腹立たしいそうだ。この方には、自然への感謝の気持ちが無いのだろう。病に憑かれる原因に。

 天に地に人に、それぞれ三分の一で充分ではないか。皆で分け与えてこそ、恩恵を授かれるものだろう。惜しいとか、立腹には、自分さえ好ければという思い上がりがある。確かに、お金には不自由しない生活を送っているが、他人に喜んでもらえることも倖。

 してみると、自分のしていることは、莫迦丸出しの行いか?誰かに必要とされ、一人でも美味しいと言ってくれる喜び。繕い物に精を出し、施設の評判を落としたくない。精一杯のボランティアをして、休日返上で働くことばかり。でも、笑顔の数は究極の歓び。

 きっと今回、念願の物が手に入ったのは、待っていて陽が射したものでもある。急がば回れとも、待てば海路の日和ありで、海が凪いで風の勢いを得るまで、耐えていた褒美かもしれないね。然し、ここからが肝心であり、更なる心掛けをして逝きたいもの。

 旧暦の長月の月。月の光には、花も草も、静かに眠っている。昨今は、人間の都合勝手で遣る、夜間照明があり、迷惑千万。

 

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睦月、朔・大潮

2017年01月28日 | Weblog

 旧暦の元旦からの三日間。蝮の、蛇の神さまの大祭があり、独特の匂いを付けたお砂を求めに行く。今年は、土曜日とあって駐車場に難儀する。然し、何とか潜り込み、一路参拝に。ところが、ここから拝殿の所までが、遅々として進まなくなって小1時間程も要した。

 一緒に行った友人は、不平たらたらで、予定があったのにと言う。そりゃ駄目だわ。旧暦とは言え、元旦の然も土曜日である。人出が多いのは想定内で、のんびりと過ごす覚悟が要る。こっちはそういうのが分るから、有給にしている。年寄り暇人の多さに驚くばかり。

 昨夜から用意していた、花芽茶と、枇杷葉の種、通草酒を、たこ焼きをしている方に渡す。お参りした帰りに寄ると伝えておく。折悪しく、本人は留守だったが、言い使っていたらしく、おまけをしてくれる。隣の屋台には娘さんが居、声をかけると笑顔になり話が弾んだ。

 人の出遭いにも、別れにも様々な経緯があるが、実際にその場に居なかったら、きっと娘さんも信じられなかったろう。宮部みゆきさんの、時代小説に惹かれるのも、自分の背負っている使命故かもしれない。栴檀の由来を知っているからこそ、あの場面に書かれた?

 自然の四季には、草木や花は、季節を明確に語る重要な物だ。それだからこそ、季節感にも気をつけた描写になる。歴史物を書く時には、旧暦での様々な要素が大切になってくる。月の状態と自然にある物とが、大きく違っていれば、全てが嘘になって味気ない。

 帰宅して友人と遅い昼食を、たこ焼きで済ませ一息つく。友人の帰った後、糠と塩を混ぜた物を枇杷葉の根元に入れる。柚の皮も一緒に漉き込む。クリスマスローズの蕾が膨らんで、もう少ししたら咲く様子。梅の蕾も見えてきた。節分を過ぎれば立春、孫の誕生日。

 出不精の者にとって、ネットでの買い物は、便利で経済的だ。無ければ諦めるだけで、必要なれば自分の所に来ると想っている。唯、ズボンの股下サイズが、お気に入りの物にないのが残念だが。こういうのには、ほとほと弱る。足首が涼しいのは苦手だ。特に夏場。

 タイガースのCD・赤ラベルを買う。ここ1ヶ月程は、東京ドームのコンサートと、交互に聴いている。ストレス発散できることも、何だかしんみりとすることも。当時の彼等の人気が、本物であったことを窺い知る。瞳みのるさんの、ドラムの音が微妙に違うことが心に響く。

 昨年の苞の状態。今年の師走には、馥郁たる香りを、辺りに撒き散らす。今も変わらず、やさしい匂いを。

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旧暦・大晦日

2017年01月27日 | Weblog

 明日は、荒神さまに行く予定で帰宅する。外は雨で、雪にならなかったことに安堵。北の方角なので、雪だと出掛けられない。県北の雪事情は、厳しいもので、こちらに雪がなくても、北上するに従って、雪の積もった場所が増える。路面凍結に注意も。

 図書館に返却に寄る。宮部みゆきさんの江戸時代の物は、摩訶不思議なタイトルと、内容に惹かれるが、実は、現在にこそある話である。時代は変わると云われるが、意外と裏に隠れた事実のような気がする。近代化の時代にはそぐわない想いか。

 いつの時代にも、闇と光の部分は存在する。便利で簡単で、快適な生活ばかりでなく、豊かな者との格差が大きい。然も、国民の声は聴かず、自由と平等を穿き違えて、突っ走る者には、国の代表は任せられない。原発再稼動等、何を以ってだろう。

 化学の知識がないのは、学べばいいことだ。そうして分ったことに唖然とするばかり。こんな理不尽さはない。明るくも素晴しくもない、悲嘆の未来を生きていかなければならない、子孫の未来等、何を安全安心と言うのか。加えて、ツケを国民に払わす。

 わたくし達の子どもは、その犠牲にするためでも、戦争に行かせるためでもなく、普通の暮らしができればいい。何もかもを持っているのではなくても、我慢したり、分け合ったりすればいい。援けあえることを感謝し、命のあることを祈れる、ささやかな幸。

 リンカーン大統領は、人民の・人民による・人民の為の政治。と演説した。福沢諭吉は、天は人の上に在らず、人の下にも非ず、と明治政府の旗揚げをした。自由平等の名の元に政策を行うのは、人間として当たり前のこと。自分の利益だけではない。

 時の主導者の、何と傲慢な、思い上がりだろう。世界中の誰もが、裕福でいられる訳ではないから、大きな貧困の差が広がる。そこに災害起き、人類は負債ばかりを抱える。そうして地球の破滅を速めていく。わたくし達にできる、しなければならないこと。

 タミフルの副作用が怖くて、薬は呑まずである。自然療法で遣ってきたものが、効を発して風邪かな?くらいの症状である。昨年、服用して難儀をした。風邪は、万病の元というから、体調に気を配り、冬には寒い覚悟を、夏の暑さに慣れる。宮沢賢治だ。

 友人が持って来てくれた、晩生の通草。早生は、少し小振りであり、9月頃から熟れだす。傷みも早いので、焼酎に漬ける。

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孫の受験・・・

2017年01月26日 | Weblog

 息子のところの上が、高校受験になり、気分的なプレッシャーもあって、ここは勉学の神さま、菅原道真公に祈願して、お札と縁起物の鉛筆を買って送ってもらった。上京の予定にしていたのが、勤務先のインフルエンザもあって、受験合格してからに変更。

 自分の受験の時には、親は無論、誰も祈願などしてくれなかった。塾になど市内まで行くことからが不便で、運を天に任せているばかり。娘や息子の時には、折りにつけ、上京することがあり、お参りしたり、送ってもらっていた。滑り止め無しに合格して安堵。

 介護福祉士の受験の時にも、時間がないというのを、どうしてもお参りして、無事合格した。京都や大宰府に行くのよりも、ご利益があるような気がしている。以前にも、リエさんと一緒に神田明神辺りを散策し、学問発祥の知識に触れられ、とても愉しかった。

 但し、お札頼りはいけない。自分の力を充分に知った上で、真面目な努力が大切だ。何もしないでいて、受験して受かるとは思えない。でも、運気も多少はあるし、その日の体調も左右するから、健康には充分過ぎる注意が大切だし、日々の努力しかないが。

 孫の誕生日は、その受験後であるので、どうするのか問うておいたが、緊張感は否めない。然し、今時の子どもは、孫だけでなく、物事を余り悪くは捉えないのか。本命に向けての手始めくらいに考えるのがいいのかもしれない。努力が報われることを祈る。

 旧暦では、未だ師走であるが、明日は大晦日に迫った。旧暦での新年には、休んでも差し障りがなく、誰も気づかないのでほっとしている。中国でも近年は、余り祝わないようで、少しばかり淋しいね。枇杷葉は、中国から渡って来た物で、自然に生えている。

 静岡の土肥地方の白枇杷も、縁があって持ち帰った種が発芽したとある。そこから、幾百の年月を越えて来たのだ。凄いと云わざるを得ない。枇杷の実は、どれも同じで、味も酸っぱいと想っていたのが、何十種もあり、交配を繰り返し甘くて美味しくなった。

 普通一般に店頭や、自然の山にあるのは、赤枇杷である。静岡の土肥地方のだけが、白枇杷と呼ばれる。並べてみれば、色の違いがよく分る。味は濃厚で、甘酸っぱい。最近は白茂木もあって、ネットで購入できる。但し、発芽が難しく中々育たないが。

 長崎赤枇杷。苞の状態から、少しづつ薄茶色の表皮を押し上げて、白い花弁をのぞかせてくる。微香を漂わせる。

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天に星、地に花・・・

2017年01月25日 | Weblog

 宇宙に輝く数多の星は、何時から輝いているのだろう。地の花々は、何時から其処に咲いているのか。人に愛と言うが、真実のものばかりなく、裏切り、騙しが潜む。同時に、如何なる時にも美しさを併せ持つ。歳を経たからか、ついソクラテスになってしまう。

 勤務先の上司から、言われたからではないが、施設に生活している方々は、その殆んどが地元の人である。どんなに資格があろうと、個人の環境的なことは、それ自体に意味がある。歴史なくしては、生きて来られた年数は有り得ないのに誰も知ろうとしない。

 自然の恩恵には、風も、雨も含まれ、太陽や月と共に、歳月を重ねて来た。この時代に生きる人等が要れば、過去の時代を生きてきた者等が居たのだ。その時に、山は川は、どのように人間と関わって来たのだろう。郷土の歴史人物は、ご先祖さまでもあるのだ。

 中学生の時には、勉強させられている感での興味だけであったが、歳を重ねると、深く広く思いは尽きない。自分の存在を問えば、その偉大な宇宙に、心が羽ばたく。地球を離れて、あの漆黒の宇宙から眺めたら、何という小さな存在だろう。光と闇を翔ける。

 自分の意思でなく、摩訶不思議な体験をすることもある。それが真実なのか、幻なのかも定かでなく、視えることさえ漠然として。声も出せず、身動きもならず、然し尚観えてくる。この世とあの世との境なのか、漂う自分を知るばかり。意識はあるのに還れない。

 其処が何処かは分らない。それを言い表す言葉がないのだ。怖いとも、恐ろしいとも思えずだが、ぼんやりと往ってはいけない、ということだけは伝わる。心が急かされて、目覚める。祖母に呼ばれた気がした。お墓掃除に行っていてよかった。ご先祖さまに感謝。

 一日の勤務を終えると、実にぐったりくる。今週は、インフルエンザの対応で、目眩がする気配りだ。でも、肝心の方は、ひとりぼっちが寂しく、何度も出てくる。早くよくなろうね、というばかりでは、本人も辛そう。熱も下がり、食欲もあるんだが、潜伏期間が7日間。

 リエさんの枇杷葉にしている。昨年、初めて花芽が付いた。やはり9年はかかった。中には早くなるのもある。

 

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対策にも・・・

2017年01月24日 | Weblog

 インフルエンザへの対策にも、種々あるだろうが、先ずは手洗い・嗽である。個人的には、枇杷葉茶に塩を入れたのを、勤務先に持参して遣っている。春夏秋冬を問わずで、勤務・退社時には必ずしている。尤も、自分で決めたことであり、実行するのみ。

 色々試してみて、枇杷葉が自分に合っていると思うので、信念は曲げない。手洗いも本当は枇杷酒で遣りたいのだが、再々では負担も大きい。然し、手荒れの酷さを思えば、どっちとも言えない。これには近江兄弟社のメンタム。柚は昨年から使っている。

 手荒れも然したる酷さもなく、塩で揉んでいたのもよかったようだ。尤も、基本には、枇杷葉があってこそで、そうでないと効果はどうかな?とも思える。化学的な物でなく、自然からのエネルギーを、借りての遣り方が合っていたのだろう。宇宙の偉大さでも。

 リエさんに、白枇杷の花芽を送っておいたが、効果が違うことに気づいてくれた。更には、花芽も種も、一度で捨てることをしない。半月に一度で充分。大切に、大事に飲むことにも、自然はエールを贈ってくれるようだ。何しろ、其処には小さな宇宙がある。

 お金がある人等は、医者に行き、最高の治療を受ければいい。自分の身体を切ったり、縫ったりすること事態に背筋が寒くなるので厭だ。人間、死ぬ為に生きているんだから、潔くしたい。事故であろうと、寿命であろうと、消えていく命を取り戻せないのだ。

 祈り、感謝してこそ、ちいさな命の価値があろう。地球の流れの中に組み込まれた、人類の命であろうと、時には一瞬である。森羅万象に、神であれ、宇宙を司るブラフマンでさえも、抗うことはできないのではないか。果てのない無限の世界に想えてくるが。

 週末が、丁度旧暦の元旦である。中国で言う、春節である。この日には、蛇封じの神社に詣出、お砂とお札を求める。出不精だが、これだけは例年出掛ける。以前には、物凄い人出で、身動きも取れなかったが、疎らな参拝になってしまい露店も少ない。

 秋の陽射しに揺れる、スプレーバラ。あまり大きくならないが、毎年必ず咲く。何だか、健気で愛しい。

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薬害不信・・・

2017年01月23日 | Weblog

 薬の実験にされているようで、医者に行くのも躊躇し、況してや薬は、出されても飲まない。従って、効果は不明だが、飲まなくても枇杷葉茶で乗り切る。自分の持っている、自然治癒能力を信じており、薬害こそあれ、効かないとの確信あり。

 例外には、目医者と歯医者には行くが、止血には枇杷葉と塩で対応している。民間療法の是非を論じる心算はない。自分の生きていく術でもあり、創意工夫の末に、自分の身体を維持していくのみ。加えて、年金暮らしになれば、金もない。

 詐欺の手口にも、様々な手法が現われて、引く手数多の遣り方。然し、サプリメントの類も、化粧品にも、枇杷葉さえあれば充分なので、騙されることもない。1に不信、2.3.4が飛んで5は疑惑。自分で続かないことには、遠慮しておくことに。

 今年のインフルエンザは、心配ないと思っていたら、施設内の受診者に出て罹る。タミフルを飲むお達しである。貰っても飲まないで捨てよう。昨年は、上司と喧嘩越しで遣りあった。薬の弊害を、あれだけ新聞で読んでいて飲めますか?

 知人が休みとあって、カレーを大量に作ったメールに、取りに来る。今年、子どもさんは枇杷葉茶のお蔭で、風邪を引いていないとか。特に、小学生の男の子は、熱もイタドリで治し、元気であるとか。枇杷葉への、大きくは森羅万象へ感謝。

 年賀状の当選番号に、孫からのが当たり、切手を受け取りに行く。夕方には、施設内での話し合いがあり出掛ける予定だが、インフルエンザはどうするのか?罹った方が気の毒である。明日は勤務になるし、ユニット内での行き来は禁止。

  Aさん家に水を分けてもらうのを、どうしようかと迷う。寒中の水は、決して腐らないので、この時期が好いのだ。明日にしようかと悩む。枇杷葉をお茶にするのは後日でも可能。剪定をした木をそのままにしている。花芽は花瓶に挿して愉む。

 宮部みゆきさんの、迷いの旅籠を読んでいて、あれっと感じる。この状況に、遭ったことがあるよ。これ知っている・・・。奇しくも丑三つ刻である。その後、末吉暁子さんが、夢枕に立った。やさしい何時もの笑顔で、其処に居られたのである。

 リエさんと一緒に、暖かくなったらお参りさせてください。今は、勤務上ですが、動きが取れません。孫の受験と、卒業式2件があり、合格のお礼参りもありますので。人間が不器用なので、一つをきちんと片付けてから、次に移したいのです。

 昨年の11月頃の、枇杷葉の苞の状態です。今は、咲いてしまったり、未だ蕾であったり。ある程度は花芽茶にして。

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読書の愉しみも・・・

2017年01月22日 | Weblog

 図書館で、宮部みゆきさんの新刊を借り、郷土の歴史や、未だ読めない書籍の延長をしておく。期間が、図書館整理と重なって、ちょっと得した。今年は無理せず読むことにして、郷土の歴史をきちんと記憶しよう。中学生の時にさぼっていたつけは大きい。

 本屋、と言っても注文だけの、在庫無しの営業になっているのだが、タイガースのCDを買って帰る。瞳みのるさんの監修とあり、中でも落葉の物語が聴きたかったのだ。あの頃、チョコレートは明治で、鉄腕アトムはシールが目的であったが、虫歯にならず。

 歳を経てから、肩凝りからか、歯医者に行く事が増えた。若い時の無謀さが、治療になっているかも。歯磨き粉ではなく、祖母など塩で擦っていた。これが好かったのかもしれない。今は、鉈豆のに替えた。自然に即した暮らしが、意外と効いているらしいね。

 鬼ヶ島通信に、末吉暁子さんを偲んだ短い文を載せてもらった。今日の夕方、参加するように計画をしていたが、勤務状況と重なってしまった。加えて、寒中にご先祖の墓掃除をしておかなければ、木が倒れていることもあって、皆で行くことに変更余儀なく。

 愚息は、午後から用事があるとかで、先に出掛けてしまった。準備も出来たので、娘夫婦を待つことにして連絡していたら、携帯に着信が。倒れていた木は片付け済んだ。と言う。墓掃除もしたのであろうか。落葉と笹を刈っておかないと、梅雨時が大変なの。

 今年は、閏皐月があるから、雨量の予測が立たない。寒中の時期にしていても、生育の度合いも決まっていない。何しろ蝮の棲む場所である。草刈には十分な気を配っていても、侵入者には遠慮はない。従って、この時期の冬眠中を必ず、掃除に行くのだ。

 娘夫婦の到着で、古里に向う。住む者の居なくなった家屋は、陰気な佇まいになってしまっている。子どもの頃の姿が、ふいと現われ過ぎて往く。祖母も両親も、あそこにここに居た。走馬灯が、眼前を駆け抜けていく。掃除は、1時間強で何とか済ませ合掌。

 自宅に戻って、精米に行ってもらう。知人から米を買っていたのだが、中々行けずで、やっと出来た。娘等はそれは要らない、と言われる。無洗米の方がいいらしく持ち帰る。枇杷葉の苗も、鉢ごと持ち帰らせる。軽トラで来ていたので、丁度都合がよかった。

 画像がぼやけているが、紛れもなく、揚羽蝶の幼虫です。でも、寒くなって来ているので、孵化したかどうか・・・

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