今年も既に8月までは終わり、新しいカレンダーの広告にびっくりする。旧暦では文月なので慌てる気持ちは少ないが、気づいたら店頭からは消える。日捲りだけは注文しておこう。気忙しさに袈躓かぬようにしなくてはと、用心には他人のこと処ではない。箒にも重量オーバーで乗車拒否されるのに困る。
わたくしのブログに訪問して下さる方の中には、枇杷葉に対して半信半疑の方も居よう。或いは知識では多くのことをご存じなので、今更と鼻で笑う人もだろう。また、専門的なことを書くべきでないとの見解をされる方も、奨められることへの憎しみさえ持つこともあろう。ブログの世界も虐めを感じる。
日本・世界中の何処にでもある枇杷葉。聖書の中にも、お釈迦さまの仏典にも記述ッがある。行基や西行は、諸国を歩いて誰でもが信心すれば西方浄土に逝けると説いた。親鸞や日蓮は奇跡を起こしてまで説法をした。奇跡というのは、神や仏の為せる所業なのだろうか?否、人間の心が写しだす真実です。
わたくしは新興宗教家でも、霊力でのお告げをする者でもありません。説明が難しいのですが、判る・解る・視えるだけなので。その中でも稀に同じような波動を出していたり、接近して来ることがあって交わると気苞を贈れます。その後、その意味を理解されてだと接触してになり、言葉に代わるのかな。
癌告知されても摘出する必要はなく、枇杷葉を信じれば生きられますし治ります。多くを望み求めるから、手術を行い治療を余儀なくされ薬を投与して命を落とす。盲導犬や介助犬は、人間の為に生まれて使命を終えた後どうなるのだろう。余生を引き取って貰えればいいけども、何処にやられるのだろう?
四季の移り変わりを感じないで不平不満を言い続け、体調不良になれば文句の塊になる。それは自分でしたことへの結果です。自然への祈りと感謝があれば、そんなことにはなりませんわ。反省をするのは誰でもですが、気づいたら其処からが出発なのです。今までの遣り方を改めて心機一転を心がける。
わたくしは枇杷葉での援けを求める方を突き放しはしません。からかい半分であったり、企みがあれば必ず己に還るの。それは事実で命さえも奪ってしまいます。生かされる命もあれば消してしまうことも亦可能なのです。つまりはそれらは自然であり、森羅万象の為せる仕組みに他なりません。不思議。
年金暮らしであるから質素堅実、清貧の日々ですが病に倒れることもなく過せることは有難い。枇杷葉での援けには、身体の健康は無論のこと認知機能も衰えずで感謝です。医者要らずとも謂れ、援けて貰えることの何と多さでしょう。何も望まねば与えて貰える、それが判ったことはうれしい気づき。
わたくしのブログに訪問して下さる方の中には、枇杷葉に対して半信半疑の方も居よう。或いは知識では多くのことをご存じなので、今更と鼻で笑う人もだろう。また、専門的なことを書くべきでないとの見解をされる方も、奨められることへの憎しみさえ持つこともあろう。ブログの世界も虐めを感じる。
日本・世界中の何処にでもある枇杷葉。聖書の中にも、お釈迦さまの仏典にも記述ッがある。行基や西行は、諸国を歩いて誰でもが信心すれば西方浄土に逝けると説いた。親鸞や日蓮は奇跡を起こしてまで説法をした。奇跡というのは、神や仏の為せる所業なのだろうか?否、人間の心が写しだす真実です。
わたくしは新興宗教家でも、霊力でのお告げをする者でもありません。説明が難しいのですが、判る・解る・視えるだけなので。その中でも稀に同じような波動を出していたり、接近して来ることがあって交わると気苞を贈れます。その後、その意味を理解されてだと接触してになり、言葉に代わるのかな。
癌告知されても摘出する必要はなく、枇杷葉を信じれば生きられますし治ります。多くを望み求めるから、手術を行い治療を余儀なくされ薬を投与して命を落とす。盲導犬や介助犬は、人間の為に生まれて使命を終えた後どうなるのだろう。余生を引き取って貰えればいいけども、何処にやられるのだろう?
四季の移り変わりを感じないで不平不満を言い続け、体調不良になれば文句の塊になる。それは自分でしたことへの結果です。自然への祈りと感謝があれば、そんなことにはなりませんわ。反省をするのは誰でもですが、気づいたら其処からが出発なのです。今までの遣り方を改めて心機一転を心がける。
わたくしは枇杷葉での援けを求める方を突き放しはしません。からかい半分であったり、企みがあれば必ず己に還るの。それは事実で命さえも奪ってしまいます。生かされる命もあれば消してしまうことも亦可能なのです。つまりはそれらは自然であり、森羅万象の為せる仕組みに他なりません。不思議。
年金暮らしであるから質素堅実、清貧の日々ですが病に倒れることもなく過せることは有難い。枇杷葉での援けには、身体の健康は無論のこと認知機能も衰えずで感謝です。医者要らずとも謂れ、援けて貰えることの何と多さでしょう。何も望まねば与えて貰える、それが判ったことはうれしい気づき。