枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

立つ鳥、後を濁さず

2010年08月31日 | Weblog
 勤務先の若いのが、来月一杯で辞める。やっと2年ではないか!?この年数で辞めてどうするのだ。仕事は、資格があれば何処でも雇ってくれるだろう。でも、果たしてそうだろうか?辛抱が足らない。直向きさも、正直さも感じない。最近の彼女には、呆れる態度が多いのだ。今日など、平気で暴言を吐いていた。虐待ではないか。何れ、自分に還ることと思える。今後、一緒に勤務しないことを幸運に思うよ。

 辞めていくなら、残る日々を精進するのが、真実でしょう。是までの言ってきたことが、ここで評価の価値を示すのです。自分は、もう関係ないからと、水をかき混ぜて飛べば、知らん顔でいられることが恐ろしい。心得違いをしています。弱り目に祟り目となるのが落の気がします。彼女が、いつか物事の本質に気づいてくれれば。と願うだけです。即ち、それは自分を知る。ということになるのですが・・・。

 金星が光度を上げて、燦然と輝いています。車を走らせていましたが、停車して思わず観上げてしまいました。何という美しさでしょう!!地球に居てこそ観られる惑星の姿に、暫し見惚れ、佇んでいました。川面を渡る風が心地好い夕方でした。宇宙には満天の星。幾千の瞬きが花に変わっていくようでした。きれいだなぁ。と感じれる心があってよかった。

 さあ、二学期です。夏休みは終わりました。孫の運動会が始まります。夏休み中、校舎は耐震工事をしていましたが、大丈夫でしょうか?リメイクした校舎も、子ども達が帰って来て、うれしそうです。今年の運動会は、お天気でありますように。例年、雨になって、散々ですからね。こういった催しも、旧暦の活用をしてほしい。新暦では、お天気が狂ってしまうのです。

 明日は、プランターの土の入れ替えをしよう。球根を植えなければなりません。庭のレイアウトもしよう。模様替えです。秋から冬に向かう準備です。今年は、剪定や配置替えもしよう。カーネーションの種も買って来よう。秋にはさっぱりさせて、冬にはじっと待って、春が来たらば、一斉に花が綻ぶのがいい。何だか、心がわくわくするよ。揚羽蝶が通ってくれますように祈ろう。

 枇杷の種を植えたのが、やっと3mmほど出ている。水遣りはしていたのに、この猛暑に発芽しなかったのだ。此処に来てやっと涼しくなったから、芽を出してきたものか。いじらしいなぁ。もっと植えているのに、夜盗虫か芋虫に食べられたか。梔子も、毛虫が葉を食べ尽くしている。根気よく取っている。既に20匹は取ったか?

 銀河の乳房の周りが、赤剥けになっていたのが、枇杷葉エキスを塗布すること3回、きれいに治ってきている。しこりも触ってやると、電気が入っていくのか、痛気持ちいいのか黙っている。少し安心した。銀河の居ない生活は考えられない。猫可愛がりはしないが、存在しているのは心強い。15年と言えば、人間では高齢です。

 半身浴をするのに、枇杷葉を採って刻んだ物を袋に詰めた。この1袋につき、10回は使えます。浴槽に入れたままでなく、上がる時には取ってください。或いは、薬缶で沸かせて、その湯を入れてください。何れも、10回以上使います。角質が剥がれて艶やかな体になります。枇杷湯の場合は、傷んだ葉でも大丈夫です。
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一転、俄かに掻き曇り

2010年08月30日 | Weblog
 勤務を終えて、Aさんの家で水を分けて戴き、手あても済ませて、帰宅途上。黒雲が空一面に広がっていく。雷神と雨竜が視える。玄関を入った途端に、ドンガラガッシャン!!。風神も一緒に翔けている。ちょっとしたお湿りだったが、息抜きができたよ。やっぱり送別会に出なくてよかった。何となく、具合が悪そうで止めたんだが、当たったな。と、一人で妙に感心する。こういうのを第六感。と言うのだそう。

 Aさんの手あてをしながら、いろいろ思案する。胃腸が弱っているのは、夏場の冷たい物の摂り過ぎだが、はっきり言うと、聴いてくれません。婉曲にやんわり話したら、渋々納得してくれた。まあ、それだって半分くらいかな。枇杷葉茶を飲むと、普通なら効果が出て、痩せるのだが、その目安が低いのだ。最初の頃に比べれば、比重は変化している。ならばもうちょっと痩せてもらおう。お粥さんを食べてください。と言う。

 ちょっと渋い顔であったが、間食をしてはいけない理由を説明すると、諦めてくれた。食べていないと言うが、摘んでいますね。いやいや、それがいけないのです。体を冷やしていると、血液が固まってきたり、体がだるくなったりするよ。私の手を置いたところが、共鳴し合って、汗が出ている。その後、体全体がポカポカしてきて、眠くなるようです。春の陽射しの中に居るような感じらしいのだ。

 毎日、時間を決めて、手あてをすれば効果も出るようです。また、つきっきりですれば、変化がはっきり出るようです。二足の草鞋です。想いはあっても、体がありません。それでも確実に変化がわかります。私のしていることが、通じているのがわかります。はっきりと指先から、電気が出ていくのがわかる。自然に神の存在を感じます。(この場合、イエスさまでも、お釈迦さまでもなく、天地創造の神です)

 銀河の様子がおかしい。と思っていたら、乳房のところが赤剥けである。枇杷エキスを塗布する。触ると硬くなっている。癌か?やはり枇杷茶だけがいいのかもしれない。今夏の暑さは半端ではなかったから、家内に居る身には堪えたのだろう。人間には、冷房は要らないが、高齢の銀河にはきつかったようです。なにせ、本皮ですものね。

 人間の運気というものは、ある程度決まっているようです。全く違った人生を送ろうとしても、変えられないことがあり、結果として、恐ろしいことを引き出す。そういったものが集まる場所は、闇の傍で、気づいたとしても我を見失うことになる。其処の所の兼ね合いが難しいのですが、普段はうまく折り合いをつけているので、その落とし穴には気づかない。

 最近、昼寝が多かった銀河。でも、昨日までは、乳房の所、赤剥けではなかった。ばい菌がはいったら、枇杷葉エキスです。
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神の意思があってこそ

2010年08月29日 | Weblog
 マリアは、人間ならどんな人でも、心は通じ合える。と、信じて疑いませんでした。ジュリー・アンドリュースの演じるマリアは、直向きで、素直で、人の心を捉えてしまうのだ。最も、役の中には違いないのだけれど、歌には、人々の心を動かす魔力があるんだろう。演じているからだけではなく、役になっているのも素晴らしい。マリアの、トラップ大佐に惹かれていく心の動きの変化が、愛らしい。

 ナチスヒットラー政権の当時。今も、オーストリアの景色は、どこまでも美しく、清らかで青い空が広がっているのだろうか。太陽の光溢れる下、人々の立ち行く暮らしが続いて、今日の地球の上に居る幸せを、感謝するにはなんと多くの犠牲があったことか。私たちは二度と、戦争をしてはいけないのだ。誰のためでもなく、この蒼い地球のためにも。私たちは守り続けていかなければ。

 うまれたての 赤ん坊は、泣くこと以外はできない。それが時間と共に、意志の疎通を図り、自分以外の人間の存在に気づく。やがて年齢を重ねて、其々に育っていき、やがて老いては、命を宇宙に還す。こうして宇宙を見上げると、百億の昼と、千億の夜が織り成してきたことだろう。人間、一人の生きた時間は、アッという間だ。たくさんの物語が交差して、歴史という書物を記録する。

 枇杷葉は夢を見たのだろうか?或いは、人間の見る夢を、取り替えてやったのだろうか?苦しみや、哀しみの塊を吸出し、憂いや悩みを清めて、幾千の時を超えてきたのだろう。愚かなが故に、心の襞に流れ往く水を注いで。何人も責めず、問わず、希望と願いを聞き届けて。枇杷葉を信じて、頼ってくれることが歓びのように。人間にはここまではできない。命の尊さを畏れるばかり。

 白茂木の苗です。昨年、植えたもので、何とか育っています。これが育って、実が生るのは、9年以上もかかります。気の長いことですね。
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恕霊されしものに・・・

2010年08月28日 | Weblog
 勤務先の若い子は、どうやら霊に憑かれ易い体質のようだ。顔が浮腫んだりするのまではよいが、背中に、頭に、足に憑いている。怖い・・・と言うが、どうも本質がわかっていない。獲ったことはないが、やってみた。頭がガンガンする。気分が悪い。でも、どうやら離れてはくれたらしい。自分でできることをするよう言っておいたのに。三日坊主である。私を信用していなかったようです。

 霊魂にもいろいろあるようだが、テレビなどで言っている怖さはありません。媒体にくっついていれば、残った想いを伝えられると、憑いているだけだろう。悪い事をしようとか、怖がらせようと居るのではない。自分が命を終えた理由に、納得すれば消えられる。それができないから、迷って現世に留まっているのだ。

 予知能力があるというのではなく、じっと視ていたらわかるのだ。それで云ったことが、遠からず当たるのです。それだけです。私が一番厭なのは、その場逃れの人が居るが、信用する欠片もない。腹の立つのを通り越して、呆れてしまうのです。物事の基本を平気で、手抜きする。例えば、洗濯物を、乾いているかいないか、取り込むときにわかるではないか。

 洗濯物も、自分が干した物くらいはわかるだろうし、違うと思えば聴けばいい。物事の万事が抜けている。生活の基礎がいい加減であれば、介護に限らず仕事はできていない。呆然と立ち尽くす。唖然と言葉がない。新人の子が、私の離す落が、理解できなくて苦笑いをしていた。でもネットで調べればわかるよ。関心度、興味の範囲の違いだろう。

 勤務先の二人が、職場結婚をされた。私と数人が祝い損ねた。三人で相談すれば知恵が浮かんだ。Aさんに電話を入れて訪れた。文殊菩薩さまが微笑んでくれた。しかし云った後で後悔頻り。価格と品物が釣り合わない。猫が柿右衛門で、ご飯を食べるのと一緒。一縷の望みをかけていよう。それにしても、Aさんの懐の大きさには感服するばかり。ありがとうございます。願わくば二人が、物の値打ちのわかる人でありますことを。

 リエさんのお祝いに差し上げたのも、Aさんのお見立てだが、今更ながら価値がわかる。私がお払いした以上の物であることでしょう。何よりも気に入ってくださったのが、とてもうれしい。Aさんは、私への何時ものお礼だと言ってくださったが、本当は、私が困って相談したのを、哀れんでくれたのだ。金額では分けてはくださらないように感じた。ありがたいこと。感謝あるのみ。

 枇杷葉の力の凄さを感じてしまった。Aさんの治療を見た人は、先ず、言われるそうだ。一体、何をしとるんなら?頭の上にたくさんの?????がつくらしいのだ。問われたAさんのご主人など、答えようがない。と首を振るばかりで、益々謎が増えていく。その方は、男性なので残念乍、触れません。女性でも、いきなりは無理です。ご近所の人は、ドクダミ茶や、スギナ茶。足湯をされているようです。

 Aさん曰く。ご近所の方は、何かすっきりされた様子。恕霊できたのである。枇杷葉にはそういった力が潜んでいて、効果の程は未知数。信じて行なう人のみ、効果があります。兎にも角にも、体の中から毒を出さなければなりません。そこから始まって、やっと効き始めていくのです。根気のいることですね。でも辛抱が効果を上げます。1ヶ月で5Kgの減量は夢ではありませんよ。

 え~。何という花だったかな?クルクマっていうのだったかな。白を買ったように思うのだが、緑になってしまった。
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自然の恵み

2010年08月27日 | Weblog
 杉田久女は、枇杷の実の色づきを、見事な絵心で描いている。本のタイトルでもある『花衣ぬぐやまつわる紐のいろ々』は、樹希樹林さんが演じられていて、その生きざまの凄さに圧倒された。情熱的な気持ちに駆られたのは、ただただ俳句のことばかり。その久女が、何故枇杷の実を描いているのかは、わからないが、とても心を惹かれる。枇杷に対する想いが感じられるのだ。何かしら心が温かくなる。不思議だ。

 枇杷葉には、見る者を其処に佇ませる魔力があるのか。また、やさしく留め置いて、温かく語りかける気を発しているのか。いずれにしても、目立たず出過ぎず、そのくせ和かに主張する。まるで、未来を案じるかのように。しかし気を急かす訳でも、苛立ちを見せるのでもなくて、存在しているという想いを、通じる相手を待っている。必要とする人に、躊躇うことなく気を贈られる。

 枇杷葉の気力を感じるのは、私だけではなく、各地に多く居られることだろう。また、そういった人々は、自分なりのやり方で、病を治したり、予防するべく説いておいでだろう。その人たちは、自分の力と、枇杷葉のパワーとが、緩みのない糸のように絡み合って、上に上にと伸びていくのがわかるだろうか?同時に、丸く幾重にも周りを囲むのが。

 今日は、随分と風のある気持ちのいい一日でした。勤務先では、大きな窓を全開にしてもいいくらいだし、ゆったりと過ごせる筈なのに。冷房を利かせており、誰もが動こうとはしません。でも、これっておかしい。じっとしていたら病気になるよ。おしゃべりや、自分のしたいことをしてこそ、此処に住んで居る。というものではないか?

 認知症は、医学的なことから云えば、病気でしょう。でも、庶民の人たちは、そうは思わなかった。そういった複雑な想いを越えて、家族だ。と考えていました。スフインクスの謎かけではないが、生まれては4本、大きくなると2本で、歳をとると3本になる生き物は?というもの。日本には、『子ども叱るな来た路じゃ。年寄り笑うな往く路じゃ』と言います。

 介護の仕事に就きながら、そういったことを平気で云う人には、自分の往く路が見えていません。知っているようですが、何等わかってはいない。認知症になれば、何もわからなくなるから。と嘯きますが、果たしてそうでしょうか?私には、そうは思えません。誰しも、生まれた家が、育った家が、嫁いで来た家が、堆の住処になっています。

 如何なる理由があろうと、そこから離されてしまうのです。心の葛藤があって当たり前です。言ってもどうにもならないから、黙っている。それが出来る人と、そうでない人とが居て当たり前。何か違和感があって、そこから生じてくる不安に、居た堪れなくなる。困惑状態が続いてしまい、待てなくなるのです。一緒に居てあげられるのが最善策です。

 今日も、落ち着かなくなった方と一緒に、台所に一緒に居て、勤務していました。緩やかな時が流れて、居眠りをされていました。特別なことは何もいらないと思います。我が親と考えたり、接したり、自然の儘に過ごしてもらえれば、それが一番いいのでしょう。大声で叱りつけたり、どなったりしないでも、落ち着いて居てくれます。厄介者扱いはしないで。

 枇杷葉の実が生り始めて、2年目の実。色つきも、味も、形も、粒も、申し分なくできていました。野生の物って、ほったらかしがいいんだよ。木ネズミが話していました。
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心が萎えている・・・

2010年08月26日 | Weblog
 新しい出来事に遭遇すると、先ずは躊躇う。その次には、外見を改めてみる。自分に必要かそうでないかを決める。今まで、その殆どが、途中止めになった。まともに取り組もうとしない。理屈をつけて手を出さない。優柔不断である。小心者である。時々、自分でもびっくりするくらいの、突飛もないことをやらかす。その度に親にはこっぴどく怒られた。

 中学生の時、裏山に登ったクラスメイトの中、数人が下校時間になっても、教室は愚か、何処にも見当たらず、大騒ぎになっていたことがある。安全である路を通らず、獣道を下りた数人は、校舎の屋上を目印に、ひたすら下山した。本来なら、数十分で下りて来れる道順を、1時間以上かかって。首謀者は誰であったか?見た目には一直線であるから、確かに早いのだが、空でも飛ばない限りは無理なことであった。

 私は、しかし。あの時の不安と、未知なる世界へと続く興奮とが、諦めずに下山させた。と思っている。誰も、言い出した者を責めなかった。唯、男子生徒だけでなく、女生徒が居たことが、非難された。不思議なことである。今なら、何と言われているだろう。でも当時は、お転婆だの、女だてらだの、大いに賑やかな巷であった。大きなお世話だ。

 困難に出会っても、自分たちで考え、どうすればいいのか話し合う。人間が生きていく上で大切なことは、冷静に判断して、方向を見誤らないこと。諍いをしないこと。知恵と勇気と決めたことを守る事。そうして決して諦めないことだ。と、今までも、これからも思っている。まあ、最も冬場であったから、獣道を下りたのだが・・・。

 夏場と、冬場の山は違う。知っているようで謎が多い。山は、恐ろしいし怖い。そうして穢れを、殊の外嫌う。山に住まう神を怒らせてはいけない。祖母が決して近寄らなかった日が、三隣亡だ。山に上がる時には、塩を口に含んだり、体にかけていたこともある。最近は山が荒れている。ゴミが棄ててある。車で何処までも上がって行く。惧れを知らない。

 枇杷葉を、軒端に植えないというのも、神は山におわしますもので、家の傍には住まわれない。という想いがあったためか。人間の勝手な想いが、枇杷葉を、迷信扱いしているのかも知れない。枇杷葉にとってこそありがた迷惑。私としては、こんなに効果がある枇杷葉を誰彼に知ってもらわなくてもいい。教えてあげません。髭剃りにも効くんです。

 勤務先に、新人さんが来られた。どうかなぁ。ちょっと分かり難い。直向きさと、努力する取り組みは、大いにある。このところ、大いに心が凪いでいるからだが、不遜な風向きを感じます。誰かに取り入るのではなく、相手の立場に立った、介護ができるのがいいね。疲れているのか、今は、心が萎えているよ。私は、私でありたいのです。

 銀河の昼寝。横向きになって、まるで人間のようです。
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御仏のおわします処

2010年08月25日 | Weblog
 宮部みゆきの『孤宿の人』の中に、御仏のおられるところは、西方浄土でもなく、仏間でもない。と言う件があり、ここよ。この中よと心を指す場面がある。神を信じて行く教会でなく、やはり心の中に存在する。と想えるのは、視えないものがみえたり、聴こえない声がきこえたりするからだ。今日もAさんの体に触っていて、突然にわかったことがあったり、納得できる想いがあった。訝しく問いかけるAさんだったが、そう云ったことの説明ができるくらいなら、私には視えないのだ。と思う。

 特等席に寝転んでいる愛猫に近寄り、じっと手を当てた。逃げるどころか、気持ち良さそうに喉をならしている。電気に反応はするものの、治したい一心が掴み取れる。終わると、眼で礼を云う。私が危害を加えないことや、何をするかが分かっているのだ。人間は、自分の損得勘定で相手を見下すが、猫にはそれはない。信じる心のみなのだ。だから治りも早いのだろう。人間ほど傲慢で、自分勝手で、都合ばかりを言うものだ。

 勤務先で困ることは、いつも先を読んでしまうこと。理屈でなく、体が勝手に動く。先日も、掃除をしていなくては、何方かが来る。感が働いた。時間的にはずれて、始めると同時においでになった。普段からしておけば慌てなくて済むものを。個々の優先順位が違うからだが、一番は危険度による。私は、埃やゴミの中での生活が厭なだけです。横着をすればそれまでだが、体は動かさなければならない。と、自分で思っている故。

 主任が居ようと、リーダーが居ようと、居なくてもだが、自分の与えられた仕事をしたいだけ。どんな仕事であろうと、皆で協力しあっていかないと、何事も立ち行かない。見守りというのは、トイレに行きたい兆候を見逃さず、気分の佳いように過ごしてもらうこと。衣類の清潔を保ち、居心地のいい空間を設えること。結論から言えば、相手の存在を認めて、今を過ごしてもらうこと。そこには信頼と愛しかない。

 休みの日には、花木の水遣りに一日が過ぎる。枇杷葉を心行くまで見やって、傷んだ葉を取り、生き物に声をかける。蛙が暑さを凌いでいた。何と、葉と葉の間に体を入れて、熱を遮断している。毛虫があちこちに卵を産んで、いつしか孵化して、蛾になっている。蝉も枇杷葉に止まっている。蝶もひらひらと飛んでいる。暑いなどとは思わないのだろうか?花の蜜を吸っている。

 連休であったため、昨日は、Sさんの本命日でもあり、お墓参りに出かけた。暑い時間でないと、長い物が出没するので、じりじりと照りつける中を参った。草を抜いておいた。家人がお盆にお参りされたようです。花が活け替えてあった。この暑さでは萎れている。元気で立ち働いていることを報告。此処に来るようになってから、夢の中に出てこなくなった。よかった。

 我が家の今夏の様子。庭の西側です。3年目になる枇杷葉が育っています。狭い庭の中には、何本もこんな風に植えています。これらが大きくなったら、たくさんの枇杷葉が採れるでしょう。何事も辛抱が肝心です。
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君子危うきに・・・

2010年08月24日 | Weblog
 蜂が軒端に片間っており、次第に数を増やしている。玄関を出た右上の鴨居の所に、蠢いている。咄嗟に関連機関に電話をすると、自分で取ってくれ。と応対の事務員が述もない。自分でしろってか?刺されたら枇杷エキスがあるが、この集団では、顔が腫れあがるよ。加えて命の危険があるかもしれない。ってなことを考えていたら、直ぐに伺います。と男性職員が急行してくれた。やれやれ・・・。蜂は一殺であった。

 スズメ蜂なら行きます。と言う返事にも眼が点になった。何であろうと、人間が自然の棲みかを奪うから、報復されているのは違いない。他の場所なら、そのままにして置くが、玄関は困る。仕事にも行けないし、孫たちが刺されても困る。不審者には丁度よいが。今年の台風は、980hPa以上のものか。雨量も半端でないような気もするが。自然の生き物の感は、当たらずとも遠からずだ。蟻が引越しをしている。

 来月の大幅な予想として、土砂崩れや、河川の氾濫、地震による津波の避難を頭に入れておき、いざという時の正しい判断を、見誤らないようにしておこう。異変を感じるアンテナを立てておきましょう。生死を分けることにもなります。電車も、地下鉄だと水が排水口に溢れて、一気に押し寄せたら、逃げ場はありません。水圧と感電死でお陀仏です。まあ、何処に居たって、死ぬ時には同じです。今から悔いの無いよう、覚悟をしておきますか。

 昨夕は、研修があって参加していたので、水遣りができなかった。その前の夕方には、暴風雨と雷雨にほっとしていたが、とんと雨がない。トンカラリである。毛虫は新芽の上を横行しているし、白枇杷はヘロヘロである。水を幾ら遣っても追いつかない。プランターにはたっぷり遣るが、土が吸ったら溢れてしまうから、元の木阿弥。かといって、庭を畑にはできない。何しろ借家である。あ・既になっておるが。

 帰宅途上の遊歩道から携帯で撮った。月と金星。金星は東方最大離角ですが、光度はマイナスです。来月には-4.6になります。冷房の利いた部屋で、快適に過ごすよりは、外気をたっぷり吸い込みましょう。エネルギーの放出と、パワーアップの時間を持ちましょう。星座観測にお金はいりませんよ。根気と言うか持続力と、忍耐は必要です。自然に対する畏怖の念は、命の大切さに触れられます。
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雨降らず・・・

2010年08月23日 | Weblog
 夕立は、三日続くと云うが、最近は時節に習ってか、持続性がない。根性なしである。人間の方もご他聞に漏れずであるが、一日とて持たないのが現状。30分もしていればいいらしい。こうなってくれば、子どもである。然し乍子どもとて、親を見て育っている筈。大人が手本をしなければ、どうあったとて無理というもの。何か事が起きた時、慌てふためいて、そんな風には育てていない。と大抵の親は答える。でも、だからこそ、起きたんです。

 子育てに、マニュアルはないが、親の心を子どもは映し、子どもは親の姿を写している。中には、鳶が鷹を生むことだってあるが、まあ、十中八九はそのままが多い。当然ながらも受け継ぐDNAは一部とは云え同じだ。わが子に殺されたり、未遂に終わったとしても、事件の発端には、心の在り様が問題なことがある。雨降って、地固まるのが、雨が降らないから困るのだ。素地ができない。しかるに固まらない。人間形成ができないのだ。

 ところが介護は反対だ。今まで自分でしてきたことが、その全て還らない。還暦は、子どもに返る。とか言われるが、ここからやっと自分になれるのだと思う。子どもの世話もしなくていいし、世間の荒波も越えてきた。この先、誰に遠慮も要らないのだ。思いっきりしたいことをやろう。という場合、この時を境に、自分でなくなる。離脱してしまう。けれどもそれがわからない。自分は尋常である意識が狂わせて往く。

 私は、ここを人生の基本として、もう一度原点に還ろうと思う。心を無する。まっさらにして、学んでいけたらいい。とも考える。見得も、恥も、外聞も捨て去って、ゼロからの出発にしたい。其処に、枇杷葉の知識を置いて、援けを借りながら学びたい。今日も、高齢者の膝の痛みや、体の機能障害が問題視されたが、その殆どが、枇杷葉で治るのだ。医者は、必要ですが、無闇に頼ってはいけない。病気は自分で治すもので、他人がしてくれることではない。

 自分で治せないことだってあるではないか。と、おっしゃるむきもあろうが、健康管理を怠ったせいであって、ちゃんとすれば元に返る。意志がない。医者は要らないのである。車に撥ねられる等の、不慮の事故には、外科的な手術が必要だが、ここでも意志が弱いと助からない。また、そういった事故に遭遇しないよう、神の助言を聴いてほしい。枇杷葉には、僅かながらもパワーがある。初めは小さくとも、努力次第で大きく成し得るもの。

 自分を過信しない。奢らず、過たず、日々是、感謝する。自分を知ることでもあろう。加えて、素直な想いがあれば、欲を棄てられ、我を幇。命のありがたさを感謝できる。即ち、宇宙の摂理哉。白いランタナ。ここにも、命の尊さがある。
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雷雨轟く

2010年08月22日 | Weblog
 仕事に出かけている車中で、雨粒がポツポツとフロントガラスに当たった。それっきりであった。宇宙に居るのはわかるのだが、思惑があってか!?午後3時を過ぎた辺りから、一転俄かに掻き曇り、雷鳴轟き渡る。稲妻も走る。風が荒れ狂う。勤務先の洗濯物は咄嗟に仕舞ったが、家のは濡れていよう。気を利かせて取り込む嫁ではない。息子ものんびりしたものだ。案の定、帰宅すると、飛ばされていて、濡れていた。まあ、水遣りをしないだけいいか。たっぷりと土に滲みていた。

 味噌汁の味噌は、一煮立ちで止める。というのは、市販の安価な味噌。自家製の味噌は、沸騰させても美味しい。材料の旨みを引き出してくれ、大豆と塩と糀のバランスが絶妙である。味噌だけは、寒中に作る。添加物や防腐剤の臭いが厭なのだ。味噌の味がしないのも何だか淋しい。一番困るのは、体中が痒くなること。これが何と言っても辛い。精神的な負担を強いられるから、仕事に支障が出るのだ。大変に遺憾である。

 枇杷葉茶の特徴は、そういった感情のコントロールや、苛立ちを押さえ、鎮めてくれるのだが、田舎の知って居そうな人ほど、信じようとはしない。先日も図書館の司書さんが、腰痛でお困りだったが、知識の宝庫に居てさえこうなのだ。おったまげた!では私が医者で、枇杷葉の効果を説けば聴くのか?落語みたいな洒落さえも通じない、莫迦馬鹿しさに思わず仰け反ってしまったよ。

 近所の人で、枇杷葉茶が要ると言い、持って行ったのだが、そろそろ切らしたかな?と電話したら、とっくにない。との返事である。え?まさか、1回煎じて捨てているのではあるまいな。最初に花芽を20ばかりあげたんだが、1パックが10回は煎じれるよ。煮出すのではなく、煎じるのです。その後は、枇杷湯にして、最後に堆肥で土に返すのです。ちゃんと守ってくれたのかな。今更、花芽茶の代金をもらう心算もないが、一体幾らすると思われていたのか?

 何だかなぁ・・・。考え違いをされているようで、とてもがっかりした。お金を払いたければ、最初からくれればよかったよ。って言うか、ネットでの検索で、求めてくれればいいのだから。花芽は、特に時期があるから、いつもはないの。普段は、枇杷葉茶で済ませていて、ここぞっていう時に、花芽茶を飲んでほしい。そういうのがわからない人には、金輪際分けてなぞやるものか。絶対にやだ!!腹の立つのを通り越して、無性に情けなかった。

 枇杷葉には、私の心が通じるし、宇宙からの声も聴こえる。自然の間々でありながら、命の尊さを想わないでは、採らせてもらえないのだ。だからこそ、薬は毒に、毒は薬と成り得るのだ。私のパワーのバランスが崩れると、凄まじい勢いで、放電する。原因不明の事故につながる。引力と重力、遠心力の関係ですね。科学の力を以ってしても解明不明です。あり得ないことですから。でも、キーポイントは何処か?解る筈ですが・・・。

 今年植えた種から、発芽した。慈しみ、愛情を注いで育てている。命を育む想いは、何も人間にだけではないのです。神は、宇宙全ての生命反応者に、使命を与えて見守っている。
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