枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

長月、朔・大潮

2021年10月06日 | Weblog
 常日頃、わたくしの言っていることが多少は報われたような気持ち。これに月の満ち欠けや潮の満干潮との関連性が証明できれば、平和賞授与だろうか?原発の再稼働は有得ないのを、何故儲ける・懐を肥やすことばかりに走るのだろう。成果が実証されなければ、物云う価値さえ劣るのだろうか?疑問が湧く。

 ミナマタのチッソ公害も、何万分の一じゃないかと丁寧な説明を会社はしたが人間の命は無関係。差別をしてはいけないと言い、人間であることへの否定はしてはならないと謳うが。命への重みも自然への畏怖も無く、地球を自分達の物として儲けてナンボ勘定。今尚苦しみに生きていることには思い至らず。

 産まれた時点で身体の自由を奪われ、他人からは物のように扱われて命を終えた。わたくしは自分の意思で考え歩き、言葉も発せられるのを感謝しないでは。ハンセン病も公害であるのも、人種での差別も同じだろう。人間が能力や姿で何故に分けられるのだろうか?神さまは等しくであると説いているのにね。

 今朝は、長月になり恒例の塩換えをする。昨夜、アフリカに出かけたのが拙く起きたのは8時過ぎ。弁当も用意があり、洗濯に布団干しと遣っていたら時間ギリギリで間に合う。帰宅途中を銀行に入金し、図書館に返却と貸し出しをして貰う。ブログ訪問や書き込みをして、更新中である。すばるのトイレもある。

 我が家の枇杷葉は以前にも書いたと思うが、効力が異なるのは受け取った方の資質もある。からかい半分で欲しいと言われると、結果的には良くならない。親切も空になる。わたくしの視えるというのが、今飲んでくれていれば防げると思い送るのだが心が届かない。そういう方もおいでだし、即効な方も居て。

 その差は何だろう?近くなら未だしも遠方であったりでも通じるのだ。自宅に植えてあったり、近所で分けて貰ったりの方でも効き目に歴然と違いが出る。とても不可思議・摩訶不思議であるが、自然との関連には重要な結びつきがある。その方の生き様とも云うのか、敬い畏怖の気持ちが視て取れることが多。

 わたくしも古希を超えれば、何が何時起きても憂いを残したくない。枇杷葉の保存も持っては死ねない。遺書に託すほどのことでもなく、必要な方には上げれば好いと思えるのだ。でもこちらからの押し付けになるしで、着払いにさせて貰う。行った先で命を尊んでくれればこの上ない歓びでもある。うれしい。

 
 
コメント (13)
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