枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

灌仏会、上弦・小潮

2019年05月12日 | Weblog

 本来の母の日は、自分を産んでもらったことへの、年月の感謝であり、せめてもの償いにも因ろう。どんな親にも、全ての子どもにも、想いは様々に違うのが当たり前だと考える。既に親が亡くなっていようとも、偲ぶことはできるもの。それがいつの間にか商業化されてしまい、マンネリ化している。

 加えて、日本の伝統的な行事でもないのを、いつの間にか当然のようにしている。この時期、農作業の準備で、てんてこ舞いの慌ただしさで、母の日どころの騒ぎでなかった。親への感謝をするなら、もう少し違ったやり方もあって好い。七五三こそ間違っているのだ。前撮りだのが、何の厄払いか?

 そういった伝統行事を踏み躙ることは平気で、外国の商業化されたことには、大騒ぎであるのは、如何なものであろう。遠くに居れば、顔を見せに来ることが、親孝行でもある。家族で訪なうことには、親の歓びも隠せない筈。それを、自分達の生活が忙しいからと言う。育ててもらったことは忘れた。

 薔薇が咲き出す。ドイツスズランは、香りも一段と強く可憐な姿を広めている。都忘れも見え、菖蒲がすっくりと立っている。初夏の風の爽やかさに、心が清々しくなる。すばるは出窓に陣取り、外の景色を眺めている。飼い主に風邪を移されて、ちょっと元気がなかったが、走り回り出して安堵する。

 宮部みゆきさんの、新聞連載小説は毎日愉しみにしているが、本日の書き方に疑問を持った。小説なのでそうかな?とも思うが、冬には井戸水は温む。つまり、くみ上げた時点では、温かいのである。反対に夏には冷たい。だからこそ、西瓜やまくわ瓜を、笊に容れて吊るした。異世界だからこの表記なの。

 日本語が廃れていく中で、どうしても気になってしまう。今時のことだからと片付けられない。世間一般的には通じる事かも知れぬが、何とも違和感があって困る。4コマ漫画も同じで、自分の母親を、相手の男性に話すのに、おかあさまが、と言うのか?黒井先生なめられています。言葉の表記は大事よ。

 久々にクラシックを聴いている。モーツァルトのホルン協奏曲。奏者が素敵で買った。デイヴィッド・バイアットである。音色が何とも言えず、情緒があるし、深く静かに心に響いて来る。生演奏には行ったことはないが、波の上を緩やかに漂うような感じが好ましい。随分前に本屋で買った。本屋は潰れた。

 葉月ともなれば、早秋である。この頃に、枇杷葉も葉の中央が、白い膨らみを見せ始める。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする