狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

侵攻8年

2008-10-10 05:42:25 | 怒ブログ
          
アフガニスタン侵攻は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件の首謀者への報復として、アメリカ合衆国が行ったアフガニスタンのタリバン政権への武力攻撃のことである。日本以外の国では通常アフガン戦争 (Afghan War / War in Afghanistan) と呼ばれている。

この戦争はアメリカ政府によって「対テロ戦争」の一環と位置づけられ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦として行われた。イギリスを始め多くの国がこのアメリカ政府の戦争に賛同した。また、日本は2001年11月から07年11月まで正式に後方支援として参加し、インド洋に海上自衛隊の艦艇を派遣した(→自衛隊インド洋派遣)。

主な参戦国については対テロ戦争参照。

作戦名は当初「無限の正義作戦 (OIJ: Operation Infinite Justice)」とされたが、有志連合諸国の間で評判が悪かったため、「不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom)」と改められた。 対テロ戦争の動きは更に、イラン、イラク、北朝鮮の3ヵ国をテロ支援国家であるとするブッシュ米大統領の「悪の枢軸発言」に発展し、2003年3月にはイラク戦争が始まった。


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[編集] 戦争の概要

[編集] 空爆開始と北部同盟の進撃
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を計画・実行したとアメリカに名指しされた、国際テロ組織アルカーイダの指導者ウサーマ・ビン=ラーディンを保護するイスラム原理主義政権タリバンをアフガニスタンから駆逐するため、アメリカとイギリスを始めとした連合軍が10月7日から空爆を開始した。11月13日には北部同盟軍が首都カブールを制圧した。

アフガニスタンの多数民族パシュトゥーン人を中心とするタリバンは、ソビエト連邦のアフガニスタン侵攻後の内戦において、最終的にアフガニスタンの支配力を勝ち得ていた勢力であり、アフガニスタンの90%の土地を実効支配していたが、北部にはタジク人・ウズベク人など非パシュトゥーン系勢力の組織がいくつかあった。彼らは反タリバン同盟として北部同盟を結成しており、アメリカがこれを支援する形で戦争は進められた。

アメリカを中心とする圧倒的な軍事力の下に、紛争としては比較的短期間(約2ヵ月)で終結し、タリバン政権は武力により粉砕された。対テロ作戦の継続の為、なおもアメリカ陸空軍2万人が駐留を続けた。

アメリカ本土からの爆撃機のほか、空母から発着する戦闘機、ミサイル巡洋艦からの巡航ミサイルが使用され、また無人偵察機が実戦で初めて活躍した。バーレーン司令部も活用され、クウェートやインド洋ディエゴガルシア島の米英軍基地からも航空機を飛ばして攻撃した。しかし、英軍が訓練していたオマーンからの攻撃をアメリカは望んでいたが、これは実現しなかった。

アメリカは当初、攻撃目標は軍事目標に限定していると発表しているが、誤爆などにより住宅や民間施設も被害にあっており、多くの人命が失われている。戦争を原因とする犠牲者は、公的には明らかになっていない(出典:CBS 60 Minutes“Bombing Afghanistan” )。

戦争から逃れるために多くの難民が発生し、周辺国とりわけパキスタンへ流入して問題になった。そのパキスタン政府は戦争でアメリカ支持の方針を出し、米英軍機の領空通過を認めたため、自国民やイスラム・アラブ諸国の反感を買った。北方のタジキスタン・ウズベキスタンも戦争を支持し、国内へのアメリカ軍駐留と施設使用を認めたため、影響力を持つロシアや周辺の中央アジア諸国に動揺を与えた。


(以上出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)による。写真は2001年10月9日付け朝日新聞)