狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

軍神その2

2005-08-29 14:49:43 | 怒ブログ
 8月27日の土曜日の午後「戦後60年 平和のつどい」という催しに参加した。
 会場に充てられた公民館のロビーには、平和への思いや願いを込めて作った、絵画・書・絵手紙、俳句、里謡などのほかに、非核平和宣言推進協議会提供のパネル展として、村内に実在した戦時中の海軍航空隊の写真や、戦時中の新聞、前線から届いた軍事郵便なども展示されてあった。
 また別のコーナーでは、
戦時中の食べ物の再現―スイトン・麦ご飯―などを地域の婦人団体が作り、参観者の希望者に振舞われていた。
 戦争中の服装・生活小物―「大日本国防婦人会」の襷をかけたモンペ姿のマネキン人形、やかん、防空頭巾・国債・手紙・写真―出征兵士を送る風景、記念写真等の掲示板前にも人垣ができた。

 大ホールでのイベントは、
第1部 《戦争体験を語る》
 主催者の型通りの挨拶も、開始を告げる言葉も一切無かった。
いきなり幕が開く。舞台は「非核宣言の村」と道標のある農村風景である。少年が小走りにこの道標近づき、その前に立ち止まる。そこへ2人の老婦人が近寄る。
 そこで少年と夫人の会話で始まる。
少年「おばさん、この看板は何と書いてあって、どんなことを意味するのですか?」
 2人の婦人は少年に「非核宣言」について原子爆弾の話や、世界で今でも起きている戦争の話を交えながら、平和の大切さを順序良く話して聞かせた。
そして「おばさんが戦争のお話をしてあげましょう」というセリフの後、ライトアップされた舞台の中央に戻り、代わる代わる自分自身の空襲の体験を聴衆に訴えるという展開である。

 そのお一人は昭和20年6月5日、神戸市灘区で空襲体験。当時13歳(女学校2年生)。母の実家京都府綾部市に疎開した空襲の恐ろしさの体験話。
 も一人の方は、昭和20年7月9日、国民学校6年生。岐阜市で大空襲に遭う。火の海を逃げ惑い、家は丸焼け。ばらばらに逃げた家族は無事だったが、母方の祖父が防空轟で爆死、混乱の中で葬儀も出せず、最後の対面もなかったという、お二人とも実際の体験談であった。
 これが開会の序詞となった。

 その後舞台は一変、村民の劇団による人形劇「村に伝わる狐と大きい黒犬の争いと、仲直りの物語」に代わり、ハッピーエンドのうちに喝采し第1部の幕をとじる。

第2部《立体講談「はだしのゲン」》中沢啓次原作
 これはプロ美人女性講談師による立体講談である。最近は「講談」という言葉ですら、耳にする機会が少ないのに、聞き慣れない「立体講談」とはなんと説明すべきだろう。それは単なる講談のように、釈台を前に張り扇で叩きながら、朗々と講釈をするだけの芸ではなかった。刻々と変わる、背景のパノラマを思わせる壮大な絵巻の中央で、講談師自演がポーズを作りながら、激的なシーンがつぎつぎと繰り広げられるのである。400人を超す観衆は「はだしのゲン」の1時間半に及ぶ大熱演の講釈に陶酔、黙し、涙した。

 私は主催者の一人Mさんの好意で、アフター会にも参加できた。打ち上げは近くのこじんまりしたすし屋の2座敷である。参加者30人弱。予告なしに美人女性講談師が実行委員の1人に導かれて座に加わった時は、惜しみない拍手がまき起こった。
 彼女を囲む座は一段と華やぎ、持ち込みの吟醸日本酒ばかりか、35度中国酒「老桂林」もみるみるうちに空けてしまった。
 靖国神社の話題が出たとき、私は臨席の人にそっと「《軍神》という言葉を知っていますか」と問いかけてみた。50歳になるかならないかの年配の男の方である。
 「広瀬中佐」の答えはすぐ返ってきたが、太平洋戦争(大東亜戦争)冒頭、特殊潜航艇による真珠湾奇襲攻撃で戦死、9軍神と祀り上げられ、国内中が熱狂した「9軍神」のことは全く知らなかった。今始めて聞く言葉だともいった。                
                             (つづく)

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2 コメント

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戦争は続く (遊彩)
2005-08-29 20:17:35
毎年8月になると、戦争についての問題提起が続く、それでも世界の各地で戦争が勃発する。地球が、いや宇宙がある限りそれはつづく・・・・・

なによりひどい太平洋戦争を仕掛けて敗戦した日本国はそんな問題提起をしながら今、平和をむさぼっている(私も憶えている終戦前後の空襲と焼け野原と餓えを)。それでも本気で永世無戦を保つ積もりなのか日本国は。・・・・・・・・・・
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Unknown (tani)
2005-08-29 20:51:46
お便り感謝です。

わが県にある「村」は、現在二つだけだそうです。

原子力のT村、それと今回「平和のつどい」を実践したM村。しかし「非核平和宣言の村」を看板だけでなく、実践しているのは県内では勿論、日本国内でも、このM村だけではないでしょうか。詩人・劇作家・演出家の前村長に喝采を送る。

しかし、このたびの「平和のつどい」感激した。美人講談師と堅い握手を交わした…。

写真を公表できないのが返す返すも残念至極。
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