狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

断腸亭日乗考

2005-08-10 20:26:18 | Weblog
むかし男がいた。永井壮吉という小説家である。膨大なその著作品は荷風全集としてすべて収められている…。荷風全集は、そのむかし春陽堂と中央公論社からもそれぞれ発行されていたそうである。前者は大正7年、後者は昭和24年の発行と解説書にはあるのだが僕はまだお目にかかってはいない。
ある日僕は行きつけの古本屋で、岩波の荷風全集がヅでんと店頭に高く積んであるのに出会った。(1962.12~11965.8)28巻である。購入の気は全くなかったのだが参考のためにと、値段を聞いてみたら、最初5千円といい、ちょっと首をひねってから3千円と訂正したのであった。

ただし14巻と28巻が欠本ですが、ここに積んである26冊は全部月報も付いておりますとのご主人の説明である。即座に買うことにした。「14巻」も「28巻」も割合見つかる本だと思いますと主人はつけ加えたのだが、全集には必ずこういうものがあって、これを古本屋仲間では「ききめ」といい、容易に見つかるものではないということくらいは僕も知っていた。しかし何といっても魅力は嘗て買いたいものだと思っていた「断腸亭日乗」が全部揃っていたことである。

この日録は近年にも「断腸亭日乗」7巻本として岩波から出版された。1冊あたり5千円もする豪華なもので到底僕には手が出るようなものではなかった。

僕は今から放送大学挑戦という意欲だけまだ残ってはいる。だがこの7巻を全部読んでいたらオレの人生100年としても、これを読むだけでオレの人生は終わってしまうであろう。
僕はこの全集を辞書を牽くような使い方でせいぜい利用させてもらっている次第である…。

今年の朝日新聞の3月10日付「天声人語」を見ると荷風の偏奇館漫録が引用されている。これは断腸亭日乗とは若干違っている。 余談だがこの日の1面トップ記事は、警視庁が10日未明、路上で女性に抱きついて胸を触ったとして、自民党衆院議員中西一善容疑者(40)=東京4区=を強制わいせつの疑いで現行犯逮捕した。云々。とある。
断腸亭日乗では、
三月九日 天気快晴、夜半空襲あり、翌暁4時我が偏奇館焼亡す、から始まりその時の様子が綿密に書き記されていた。
八月六日の広島の原爆、八月九日の長崎の原爆も荷風の記録にはない。
八月十日 晴広嶋市焼かれたりとて岡山の人々戦々兢々たり。と原爆の惨状には触れていないといってよい。

八月十五日 …S君夫婦、今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりしといふ、恰も好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ、[欄外墨書]正午戦争停止
簡単な記録である。

さて永井壮吉こと荷風先生は昭和二十七年十一月三日、おそらく辞退されそうだという巷間の話とは裏腹に、あっさりと文化勲章の授与を拝受したのであった。

十月三十日。陰。正午島中氏高梨氏來話。島中氏洋服モーニングを持ち来たりて貸さる。来月三日余が宮中にて勲章拝受の際着用すべき洋服を持たざるを以ってなり。
十一月初三(ここには文化勲章授賞式ならびに晩餐会の様子が細かく書かれ
ているが省略する)

日本国天皇は永井壮吉に文化勲章を授与する
昭和二十七年十一月三日皇居において璽を捺させる
大日本
国 璽
昭和二十七年十一月三日
内閣総理大臣 吉田 茂 印
内閣総理大臣官房賞勲部長村田八千穂 印
第65号