何故、零観(旧海軍零式水上観測機F1M)とキリスト者か?
その前に、隣T市の市史にあるこの墓石に刻まれた故I.G氏に関する項を引用する。
第6章 大正昭和初期の教育と文化
第2節 学問
この墓地はI家の個人墓地で、田舎では珍しいキリスト教形式である。
I家は、家内の実家の同じ組(自治体名)内にあり、苗字も同じである。墓地も家内の実家の墓地近くにあった。
勿論、ボクの年式が古いといってもI.G氏とは時代がかけ離れているので、ご存知ないが、氏のご子息であるI.K氏とは、家内の実家で、ある集まり事があった時、麟席に座したのか縁で懇意に願うようになった。
初対面なので、麟席の方とは、何か話題をこちらから探さねばならぬ。相手は若造りだったが先輩に見えた。
ボクの目に映ったのは、氏が自席の前に、無造作に置いてあったこの「ゼロ観」称号で知られる旧日本海軍機の写真を付けたカード(テレフォン・カード?)であった。
氏の容貌から推すと、旧海軍々籍にあった年齢だろうとは思ったけれど、この複葉機の写真について、珍しさも手伝ってすかさず訊いてみた。
「“ゼロ観“ですね」二人の会話は同席した余所の人には全く分からなかった。
氏は三菱重工の重役だったのである。
「このゼロ観には随分乗りましたが、良い飛行機でした。戦艦「武蔵」搭載時の専門的知識まで披露された。(ネットで「零観」で検索できる。「武蔵」艦上から発進作業中の動画もあったが、1度観ただけで見失ってしまった。)
その後、招かれて氏のお宅には数回お邪魔した。本に囲まれた応接間を兼ねた居間である。先代から受け継いだ書籍であろう。ハードな質の大量の書籍を揃えた書架に目を見張った。
氏が亡くなったのは新聞の訃報欄で知ってはいたが墓参は初めてである。
あの当時の二人の会話などを想い浮かべ碑に向かって黙祷を捧げた。
碑には氏の名前の後に、1918~1999と刻まれいた。
その前に、隣T市の市史にあるこの墓石に刻まれた故I.G氏に関する項を引用する。
第6章 大正昭和初期の教育と文化
第2節 学問
[I.G氏の実践倫理]I.G氏は、明治15年1月20日、この地に生まれた。M農学校第1回の卒業生で、のち井上円了の哲学館に学んだ。自記によれば、初め仏、儒学を研究し、のち基督教に入り、更に北海道の荒野の修道院で数年を過ごしたという。哲学研究のためドイツに留学したが、第2次世界大戦勃発のため急遽帰国した。東洋大学、立教大学教授。東洋大学では実践倫理を、立教大學では比較宗教学を講じた。
著書に「思索・体験・実践」(文書堂、昭和6年2月)、「日本精神と基督教」(聖公会出版社、昭和8年11月)等がある。昭和34年9月5日没。云々。
この墓地はI家の個人墓地で、田舎では珍しいキリスト教形式である。
I家は、家内の実家の同じ組(自治体名)内にあり、苗字も同じである。墓地も家内の実家の墓地近くにあった。
勿論、ボクの年式が古いといってもI.G氏とは時代がかけ離れているので、ご存知ないが、氏のご子息であるI.K氏とは、家内の実家で、ある集まり事があった時、麟席に座したのか縁で懇意に願うようになった。
初対面なので、麟席の方とは、何か話題をこちらから探さねばならぬ。相手は若造りだったが先輩に見えた。
ボクの目に映ったのは、氏が自席の前に、無造作に置いてあったこの「ゼロ観」称号で知られる旧日本海軍機の写真を付けたカード(テレフォン・カード?)であった。
氏の容貌から推すと、旧海軍々籍にあった年齢だろうとは思ったけれど、この複葉機の写真について、珍しさも手伝ってすかさず訊いてみた。
「“ゼロ観“ですね」二人の会話は同席した余所の人には全く分からなかった。
氏は三菱重工の重役だったのである。
「このゼロ観には随分乗りましたが、良い飛行機でした。戦艦「武蔵」搭載時の専門的知識まで披露された。(ネットで「零観」で検索できる。「武蔵」艦上から発進作業中の動画もあったが、1度観ただけで見失ってしまった。)
その後、招かれて氏のお宅には数回お邪魔した。本に囲まれた応接間を兼ねた居間である。先代から受け継いだ書籍であろう。ハードな質の大量の書籍を揃えた書架に目を見張った。
氏が亡くなったのは新聞の訃報欄で知ってはいたが墓参は初めてである。
あの当時の二人の会話などを想い浮かべ碑に向かって黙祷を捧げた。
碑には氏の名前の後に、1918~1999と刻まれいた。
珍しい機種の写真、拝見いたし感無量です。
平和を愛し続ける凡凡。
為凡凡閣下
敗戦忌近づく 東条由布子さん 谷人