極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

松葉菊と楽市概論

2009年07月04日 | 近江歴史回廊


ミスタ・ノウと呼ばれるのは きみのせいだとバラフを手折る


 

マツバギク(松葉菊、学名:Lampranthus spectabilis)は、
ハマミズナ科の多年草の種のひとつ。また、マツバギク
属(Lampranthus)の総称。本記事では、特に断らない限
り種としてのマツバギク(L. spectabilis)を説明する。南
アフリカ原産。葉は多肉質で茎を這わせる多年草。花は
春から夏にかけ長期間開花を繰り返す。花は花弁が紫色
で、やや光沢があり日中だけ開いて夜は閉じている。高
温や乾燥に非常に強い。茎は木質化し、地上を横に這い
先端が立ち上がる。茎は根本でよく分枝して、まばらな
クッション状の群落になる。節があって、葉を対生する。
葉は断面がやや三角になった棒状。乾燥に強く、大きい
群落になり、路地の花壇や石垣などに栽培され、野生化
するところもある。

ファイル:Unk desert flower 2.jpg Mesembryanthemum crystallinum

朝から、献湯式。思わぬハプニング(ゆで釜の水量不足)
と祭壇のがたつきがあり反省しきり。今日は読書とジム
とTVドラマ『ドクタ.ハウス』のDVD観賞で一日が
終わる。松葉菊を手折り、逆説的な愛をきみに手渡す歌
を書いた。紅紫色の花が咲く「マツバギク」。花言葉は
「愛の拒絶」。

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楽市論 初期信長の流通政策 「楽市論 初期信長の流通政策」 

楽市・楽座は、日本の近世の織豊政権や各地の戦国大名
などにより城下町などの支配地の市場で行われた経済政
策である。楽市令。破座。「楽」とは規制が緩和されて
自由な状態となった意味。「楽」は英語の free を意味す
る。つまり、既存の独占販売権、非課税権、不入権など
特権を持つ商工業者(市座、問屋など)を排除して自
由取引市場をつくり座を解散
させるものと理解している。



1549年に近江国の六角定頼が、居城の観音寺城の城下町
石寺に楽市令を布いたのが初見。各地の大名によって城
下町等に布告されたが、なかでも織田信長は、自分自身
が美濃国・加納、近江国・安土、近江国・金森に楽市・
楽座令を布いただけでなく支配下の諸大名に伝達され、
各城下町で実施された。地方都市において継続している
朝市や昼市、地名に市の名を残す十日市などはその名残
りだという。



この時期に問屋業者が増え店自体の売上が均一化し、多
くのぬけ荷品が闇市場に並ぶといった欠点が豊臣秀吉時
代の末期に露呈したとされ、「楽市楽座は信長が安土城
で始めた」とするのは間違いとされ、実際は中世の門前
町や六角氏によりはじまったこと等を踏まえ、安野眞幸
著『楽市論』の「安土楽市令-大坂並体制の克服」を
元にそこから汲み取れるものなら現代的な意味を考えて
みる(『バテレン追放令――16世紀の日欧対決』(日
本エディタースクール出版部))



 これらの条文一つ一つの解釈について、さまざまな
 議論があり、ここでそのすべての紹介はできないが、
 代表的なものとして次に奥野高廣の解析を掲げる。
 
  ①安土の城下町は楽市(市場税・商業税の免除と
   旧来の座商人の特権廃止)とし、なお座は撤廃
   し、課役・公事はすべて免除する。
  ②往還の商人は中山道(上海道)によらず、西上
   するもの、東へ下るものともに安土の町に寄宿
   する。但し荷物以下の逓送の場合は、荷主の都
   合による。
  ③普請役(建築のほか、土木工事の一切と、それ
   への徴発をふくむ)は免除。(但し出陣・在京
   などやむをえず留守の時は合力すべき事)。
  ④伝馬役(逓送用の馬を提供し、それに伴う労役
   に従う義務)は免許
  ⑤火災について放火のときは、その亭主の責任を
   免除する。自火の場合は調査の上、亭主を追放
     する。但し事情によって罪状に軽重がある。
  ⑥咎人の場合、借屋や同居であっても亭主に罪は
   ない。犯罪人は審問して罪過に処すべき事。
  ⑦いろいろの品物を買物する場合、たとい盗物で
   あっても買主がこれを知らなければ罪としては
   ならない。次に彼の盗賊人を逮捕したなら古法
   に従い臓物(盗品)は返付させるべき事。
  ⑧分国中に徳政を実施しても、安土町では免除。
  ⑨他国や他所の者が安土町に移住して来て定住す
   れば、先往者と同じ待遇をうけられる。誰々の
   家来であっても異儀はない。若し給人(知行人・
   武士)といい、臨時の課役をかける者があって
   も停止する事。
  ⑩喧嘩・口論井に国質・所質・押買い・押売り以
   下は停止。
  ⑪町内に譴責使を入れるとか、打入りをする場合
   は、福富平左衛門尉と木村次郎左衛門尉の両人
   に届け、その調査を待って許可する。
  ⑫町中に居住の者は、奉公人や職人であっても家
   並(棟別銭・門口銭などか)を免除する事(付
   り、仰せによって扶持をうけて居住している者
   とか、御用の職人等は特別である)。
  ⑬博労について、国中の馬匹の売買は悉く安土で
   行うべき事。



 「楽市」とは何か

 奥野は「楽市」を〈市場税・商業税の免除と旧来の 
 
座商人の特権の廃止された市場〉と定義した。これ
 は「楽市」を〈無税の場〉として〈無税の場〉とし
 た小野晃嗣説と密接に関わり、東国の今川・後北条・
 徳川諸氏の楽市令の「諸役一切不可」文言との整合
 性を考慮した結果生み出されたもので(中略)「諸
 役免許」を〈初穂の徴収許可〉とし、通説とは異な
 る解釈を主張してきた。東国大名の楽市令と信長の
 楽市令の両者に「諸役」文言があり、通説のように
 「免許」=「免除」とすると、両者は統一的に理解
 できるのに、あえて異を唱えたのである。その結果
 私は、両者を統一的に捉えられず、〈「楽市」とは
 何か〉、「楽市」と「諸役免許」の内的関連は何か、
 明確に答えられない状態に陥った。しかし「楽市」
 について新しい定義が見いだせるなら、この難問は
 解決できよう。網野善彦は、「楽市」の「楽」を〈
 平和〉の意とし、「楽市」を〈平和領域》とした
 稲葉継陽も、「楽」は自力救済・フェーデに対立
 るフリーデ・〈平和〉とし、このような意味の中世
 日本語には「無事」「無為」「安堵」のほか「楽
 があるとした(中略)ここでは「楽」をフリーデと
 しての〈平和〉の意味に限定し、「楽市」を自力救
 済・フェーデの禁止された〈平和の市〉〈市の平和〉
 の意味だと仮定した上で、定全体の新解釈を試みた
 い。もしもこの解釈で、安土楽市令十三ヵ条がこれ
 まで以上に豊かに解釈できるならば、旧説〈楽市は
 無税の場〉ではない、新定義・新解釈の成立をわれ
 われは確認することができよう。

  先にわれわれは「楽市」を〈平和な市〉〈市の平和
 〉の意とした。信長が「安土山下町中」「木村次郎
 左衛門尉」に対し、安土を「平和な市」にするよう
 要求したとき、なぜ自治都市側は「諸座諸役・諸公
 事等」を要求したのか。その理由として、当時「座」
 が〈平和の敵〉だったことが挙げられる。保内商人
 を中心に近江の村落座商人たちが、一方では質取・
 フェーデを繰り返し、他方では裁判に働きかけて特
 権を拡大していたことは、すでに先学が明らかにし
 てきた。当時「座」は、内部の平和を守るため、外
 に向かってフェーデや裁判で争いを激化させていた。
 それゆえ〈平和の敵》「座」の無害化のため「諸座
 諸役・諸公事等」の「免許」を求めることは、これ
 まで「諸座」が諸商人だちから徴収していた「諸役」
 を、これからは「安土山下町中」側が徴収すること
 を意味したのである。

 「諸座・諸役・諸公事」か「諸座諸役・諸公事」か
 「楽市楽座」は〈「座」の廃止〉だとの戦前からの
 学説を承け、また「免許」=「免除」との通説的解
 釈に基づき、奥野説では、「諸座諸役諸公事・免許」
 とは「諸座・諸役・諸公事」三者の「免除」であり、
 「諸座免除」は「諸座の廃止」だとした(中略)「
 諸座免除」を「諸座の廃止」とするのは大きな飛躍
 である。「免除」とは本来《負担に対する言葉〉で
 あり、「廃止」の意味とするのは無理である。



 「免許」とは何か

 この間私は、「免許」を一義的に〈=「免除」〉と
 は解釈できず、文書の差出人と受取人の間で交渉が
 あり、その〈交渉の内容いかんによっては「免除」
 にもなり、「許可」にもなる》とした(中略)代わ
 りに「安土山下町中」が彼らの保護者となった。ま
 た「諸公事」つまり〈裁判〉も、地下横断権を持つ
 自治組織「惣町」「安土山下町中」側が執り行なっ
 た。信長は受取人側の要求するこれらの事柄を〈悉
 く許可した〉のである。
 東国楽市令では〈市の平和〉のため「諸役」徴収が
 禁止されていた。「諸役」の徴収権者を「座」とす
 ると、「座」の無力化が志向されており、安土楽市
 令と一部通底していることになる。一方、蒲生氏郷
 が天正十年(1582)に定めた日野捉第一葡では、
 「楽売楽買」だから「諸密語役一切不可有之事」と
 あり、天正十六年(1588)の松坂町掟第一条に
 は「十楽」だから「諸座諸役可為免除」とある。こ
 こからは「諸座語役」は通説どおり「市場税・商業
 税」を意味し、「楽市令」はその廃止を命じたもの
 と解釈でき、これらをもって、これまで述べてきた
 私の考えに対する反証となろう。しかし、蒲生楽市
 令はそれ自身として、信長楽市令とは離れて、別個
 に捉えるべきだろう。蒲生楽市令は歴史的に見れば、
 信長楽市令を一層発展させたものである可能性があ
 り、信長の楽市令以来「座」の実質的な意味が薄れ
 こと、天正十三年(1585)に秀吉が座の廃止
 令を出したことなどが参考となろう。

            『第10章 安土楽市令』

ここまで、ピックアップ法で読み進み後悔する。余りに
も空手徒労と鬱ぐ。鍵語の『フェーデ:Fehde』すら他国
のことのように感じ「歴史吾不識」を痛感もした。裏表
紙の解説の「尾張統一から美濃併合を経て、上洛・石山
合戦に至る過程で、織田信長が発した、岐阜・金森・安
土宛て『楽市令』はじめ、熱田八カ村、知多郡・篠島商
人、尾張鋳物師、瀬戸商人団等々宛て、流通政策文書を
精細に解読・分析する(中略)『完全な課税免除の市場』
という定説、それらに依拠した諸研究、とくに近年勝俣
鎮夫・網野善彦らが強
調した『無縁』『縁切り』原理の
根拠を批判的に検証、近世城下町における『道路強制』
も石山合戦時の信長の経済政策に淵源することを実証し
て、楽市楽座研究に斬新な問題提起を行なう」とうこと
が朧気ながらわかりかけてきた程だ。

 

 歴史の舞台-安土山下町中

 「山下町中」の表現から、「町」となろう。この「
 惣町」-「町」の「安上山下町」が「惣町」の自治
 組織を持ち、その基礎単位は各地縁団体の「町」と
 なろう。この組織は、朝尾直結が言うように、中世
 村落の歴史的到達点である「惣村」-「村」組織を
 母胎とし、当時そこから分離された。それゆえ「惣
 離し、新たに生み出されたもので、近世社会は「町」
 と「村」との対立として編成され、整備された町」
 としての「安土山下町中」には、「惣村」と同様次
 の特徴があった。(1)惣有地・惣有財産を持ち、
 (2)年貢の地下請け(村請け)を行ない、(3)
 惣掟( 村法)を持つか、または地下横断権を掌握
 (自検断)していた(中略)しかしこれもまた、神
 社発生時の古墳時代に遡れば、海と陸、山と平野な
 どの境界地帯に成立していた。つまり、境界は時代
 と共に新たな中心へと変化したのである。この安土
 の地は富士大宮や熱田、侍中府営等々と同様、古く
 から共同体の中心地に位置し、「沙沙貴神社」の門
 前町ならぬ、〈門裏町》だった。


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 安土への道

 信長の安土築城の理由の一つに、琵琶湖水運に関わ
 る常楽寺港がある(中略)この道は律令国家による
 「東山道」建設以後は、裏街道・「間道」となった。
 壇ノ浦の戦いの後、平家の怨念を一身に受け、頼朝
 の命を狙った伝説上の人物、平景清か忍んで通った
 道との命名は面白い(中略)慈恵寺以東は「下街道・
 景情道・上街道」の三本が彦根・佐和山城のある鳥
 居本まで通った。他方、慈恵寺以西は「佐々木街道
 =下街道」である。これは、西庄黒橋・江頭・永原
 を経て野洲川手前で東山道に合流し、守山に至る。
 大切なのは、「景清遊」が鳥打峠から観音寺山を巻
 き六角氏の観音寺城の城下石寺に至るが、石寺の先、
 柏尾・清水鼻の区間で東山道と重なっている事実で
 ある(中略)「ハ風街道」が東山道の武佐で終点で
 なく、その先は「浄厳院道」となり「景情道」の常
 楽寺まで延びていたとした点である。この道は当然、
 琵琶湖に面した常楽寺港にまで連なった。つまり、
 ハ風街道・浄厳院道・常楽寺港により、伊勢から琵
 琶湖まで道は一本に通じていたことになる。古代の
 東海道・東山道に対して、中世では千種越え・八風
 峠越えで近江と伊勢を結ぶ八風街道が成立し、物流
 革命が起こり、「保内商人」など「惣村」を基礎と
 する商業座が成立したことは有名だが、これまでの
 研究では、「八風街道」と琵琶湖水運の結合は問題
 となっていなかった。結合していたとすれば、安土
 築城以前から常楽寺港の持つ意味は大きかったこと
 になる。湖東平野を二分し、南北に走る浄厳院道・
 ハ風街道と、湘南を東西に走る東山道とは、武佐長
 光寺で交差した。


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