極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

鋸草と石田三成

2009年07月06日 | 近江歴史回廊



戦いの旗幟鮮明いざ行かん 鋸草が萌える燎原へ




ノコギリソウ属(Achillea)は顕花植物の分類群のひとつ
で、キク科のうち、約100種が属する。ヨーロッパを中
心に、アジアにも分布する。フリルがついたような形の、
毛が生えた、良い匂いのする葉が特徴である。茎の先端
に、小さな花が沢山集まった大きな花序を持つ。花の色
は白、黄色、オレンジ、ピンク、赤などがある。多くの
種がガーデニング用に人気がある




総選挙がはじまる。もう態度は決めている。ここはちっ
と真剣に考えている。のこぎり草が萌える(燃える)燎
原とは幻想的だが、戦いの炎のメタファとして歌う。英
語の属名(Achillea)はギリシア神話に登場する
アキレス
から名づけられた。イリアスによると、アキレスの軍の
兵士たちは傷をノコギリソウで癒していたという。ノコ
ギリソウ属の植物はしばしばチョウ目の幼虫の餌となる。
キク科の多年草「ノコギリソウ」。花言葉は「戦い」。




中国の動きの影響が大きくなっている。
イランで6月12
日の大統領選挙を機に始まった反政府運動は、本質的に
権力中枢の暗闘で、イランでは1979年のイスラム革
命で最高指導者
となったホメイニ師が1989年に死ん
だ後、ホメイニの遺志で保守派のハメ
ネイ師が最高指導
者となり、ハメネイは2005年以降、諜報組織を背景
して欧米敵視の宣伝戦にも長けたアハマディネジャド
を大統領に据えたが
、イランの政界でもう一つの勢力の
改革派
は、ハメネイを追い落とそうと動く。ラフサンジ
ャニ、ハタミ、
ムサビといった改革派は、今回の大統領
選挙を機に決起し「選挙不正が
あった」と主張する市民
の反政府運動に乗り保守派から権力を奪おうとし
たが、
投票日に混乱が始まり、どうやら事態はハメネ
イ、アハ
マディネジャドの保守派が優勢のようだ(
『 田中宇:
イラン選挙騒動の本質(2)』)。



6月23日に中国政府が、国際社会に向かってア
ハマデ
ィネジャドの当選を認めるよう呼びかけ、米欧に対し、
イランの内政に
介入しないよう求めた。
イランは、中国
にとって最大の原油輸出国であり、インドの3社の石油
会社も、イランで50億ドルのガス田開発を行うことを
決めた。イランはBRICとの関係を強化してい中、

国と中東石油とイスラム勢力とその対抗勢力の動きいか
んでは、今後大変なことも起きかねない様相だが、世界
の『平安楽土』の実現に向け我が国の外交手腕が問われ
ている。


【おとなりは福満神社】



後期宮世話も半年が過ぎた。近くには、日本名水選の十
王の水もあり、近くには福満神社があり白山神社(MB
ラッパズイセンとデジタル革命』)は霞んでしまう。
大きいことが良い時代は過去のこと。しかし、彦根市の
一宮でなくとも力を感じられるよなものが欲しいなぁと
も思う。



なんでもんいんだが、キラッと光るような伝統的なもの
があればと思案中。例えば、「一村一品運動」のような
ものがあればと。


 スサノオ

福満神社は彦根市西今町に鎮座し、山の神・酒造りの神
須佐之男尊の孫にあたる大山昨神(おおやまのくひのみ
こと) を祭神とする神社。鎌倉時代、野瀬付近一帯に青
蓮院門跡を本所とする比叡山延暦寺の荘園「福満荘」が
あったということから、その守護神にあたる
坂本日吉
ひえ)大社
のご分霊を勧請して、西今・野瀬両村民の「
産土神」とした。それが当神社の始まりと云われている。



創建年代は定かでないが、江戸時代初期と推定され、現
在の本殿は、寛政3年(1791)に再建される。鎮座以来
明治の初めまで、山王権現あるいは山王社と呼んでいた
が、明治9年(1876)、荘園時代の福満荘に因んで、現
在の福満神社と改められ、地名として、福満と称するよ
うになったのは、中世の荘園時代の福満荘からで、荘園
崩壊後の福満の名称は、明治22年の市町村制が施行され
た時まで使われず、明治22年から昭和12年の彦根市が誕
生するまでの約50年間は福満村として犬上郡に属す。
尚、福満の名称の起こりは、昔、小泉町
八王子神社付近
に、天王塚という由緒ある塚があって、この塚の天王よ
り由来すると伝えられている。


近江佐和山城・彦根城 

【石田三成という智と義の武将】


MB『
辛夷と漣』、『牡丹と諸葛孔明』にも掲載した石
田三成、NHKの大河ドラマ『天地人』の視聴率も順調
だが、日本の諸葛孔明でないかと指摘した。『別冊宝島
悲劇の智将 石田三成』で童門冬二(1927年、東京都に
生まれる。東京都立大学理学部事務長、知事秘書、広報
室長などを歴任、1979年に定年退職の後、本格的に作家
活動を始めるr小説上杉奥山(上・下)』『吉田松陰(上・
下)』『渋沢栄一人生意気に感ず』など歴史関係の著書
多数。 1999年、勲三等瑞宝章を受章)は三成を次のよう
に評価する。

 
 石田三成を語る時、その生まれである近江の地と三
 成とは、決して切り離して考えてはならない。三成
 という人間は、近江の地で生まれ育ったからこその
 人材で、良くも悪くもその人生は近江人としてのも
 のであり続けた。石田三成の智は天性のものだ。と
 いうよりも、地域から与えられた特性といっていい
 だろう。石田三成は近江人(滋賀県人)である。か
 れを発見したのは羽柴時代の豊臣秀吉だ。木下藤吉
 郎といっていた秀吉が主人の織田信長からはじめて
 城をもらったのが近江国の長浜城だった。この地域
 は今浜といった。それを秀吉はうれしさのあまり長
 浜と改称した。長浜の長は織田信長の一宇からもら
 った。長浜城主になったかれは信長から学んだよう
 に、「これからの大名は単に武勇だけではダメだ。
 領国経営の才覚とソロバン勘定も大事にしなければ
 ならない」と考えていた(中略)石田三成いたから
 武勇がものをいう。その中で、智力や経営感覚で生
 き抜く石田三成の存在は、武勇一辺倒の武将だちか
 らはバカにされた。しかし三成は平気だった。それ
 は自分を発見してくれた秀吉に対し、大きな“義”
 感じていたからである。三成にとて義というのは
 “恩”とおなじ意昧だった。




 それは秀吉が仕える信長の政治目的が、この日本を
 平和にすることにあるとみていたからである。「平
 和になったのち、この国でいちばん大切にされるの
 はなにか? そのとき、各大名はどのような運営を
 しなければならないか?と考えれば当然領国の経営
 には経済感覚が必要であり、同時にソロバンを忘れ
 ることはできない。三成にすれば、「自分はすでに
 そういう感覚を持っている。秀吉公はそれをみこん
 で、自分を登用してくれたのだ」と思う。そうであ
 れば、その才能をいまから十分に発揮し、秀吉の期
 待に応えなければならない。だからまわりから、
 「石田のやつはソロバン勘定が得意だ」とか、なん
 でも計算ずくで考える」といわれても決して落ちこ
 まなかった。そういわれることがむしろ秀吉の期待
 に応えることだと思っていたからである。


 三成は、常に清貧であ潔癖であった。また雨期に淀
 川が決壊して大洪水になったときも、大坂城の米蔵
 から米俵を運び出してこれを応急措置に使ったこと
 もある。こういう才覚は、しだいに秀吉に仕える武
 将たちの認識を改めさせていった。経済感覚にすぐ
 れソロバン勘定が達者だというタイプの人間は、得
 てしてケチだといわれる。ところが三成は、たとえ
 ば島左近という当時有名な武士を召し抱えるのに、
 惜しげもなく秀吉からもらっている自分の給与の半
 分を提供した。みんなアッとおどろいた。これは後

安土城:入り口からの整備された大手道 
クリックで 安土城 へ戻ります。 

 年のことだが、関ケ原合戦後徳川軍の一軍が三成の
 拠点であった近江佐和山城になだれこんだ。「経済
 感覚のすぐれた石田の城なのだから、さぞかし財宝
 がたくさん残されているだろう」と当てこんだので
 ある。ところが城にはなにもなかった。攻め手はが
 っかりした。三成は普段から、「主人からいただい
 た給与は、有能な武士を多く召し抱えることだ」と
 いって給与を惜しげもなく使っていたからほとんど
 手元には財産など残っていなかった。その点三成の
 生き方は生涯を通じて清貧を貫いていたといってい
 い。潔癖なのである。


 

童門冬二は「純粋すぎた。だから情に棹さして流された。
しかし、秩序の乱れきった戦国末期において、三成の貫
いた智と義は、やはり荒野に咲いた一輪の美しい花であ
る。頭のいい三成はおそらく、「こういうことをすれば
こういう結果が出る」ということを知っていたにちがい
ない。知ったうえであえてその行動に出たところが三成
のほろびの美学だったのである」と結ぶ。誰より計算高
い三成ほどが「滅びの美学」にやすやすと殉教するとは
思えない。関ヶ原で西軍が仮に勝利したとしてもこの先
巧くいかないだろうとの武
将達の判断により大勢が決し
と考えているから彼と異なる(そこのイメージが描け
ていれば“義”をもって「平安楽土」を築けたし歴史は
変わった)。そうすると、彦根城もないのだしそう考え
りゃ不思議なものだ。また、石田三成については、今後
もブログで考えていこうと思うが、今夜はこの辺で。

コメント
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