気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その6 「大貫台地へ向かいます!!」

2014年12月17日 | 大洗巡礼記

 翌朝は7時前に起床しました。外は快晴、気温は11度。窓を少し開けると冷気がすうっと忍び寄ってきました。これぐらいの寒さが中世戦国期遺跡巡りには適したコンディションです。


 寒気に体を慣らすべく、外に出て少し歩き回りました。


 向かいの茨城信用組合のウインドーには、新たなガルパンのぼりがセットされていました。以前に開催された「おおあらい川柳」での優秀作品がいくつか書かれてありました。


 7時を回りましたが、街中はまだ静まり返っていました。通学中の中学生を二人ほど見かけただけでした。


 宿の女将さんに朝食の案内をいただき、食事処「平成魚松」に移ると、はかったように水戸のU氏から連絡がありました。この日の同道は午前11時ぐらいから夕方まで可能だ、と伝えてきました。
 彼の自宅から大洗までは車で一時間もかからないので、車で行くと言ってきましたが、この日はレンタサイクルで回ると伝えると、「それならこっちもレンタサイクルにしよう、大洗駅のを利用してどこか適当な場所で落ち合おう」と言ってきました。

「この前の奈良の城跡巡りでも分かったんだが、中世戦国時代の遺跡を回るってのは車では難しいんだな、徒歩が基本だってことになれば、レンタサイクルがあると便利になるな」
「場合によっては、山道やけもの道にも分け入るかもしれんけどな」
「えっ・・・、そんな辺鄙な所なのか・・・?」
「僕もきょう初めて行くんやから、現地への道がどうなってるかも知らないんや。地図でも航空写真でも明確な道が確認出来ないんで、もう現地で手探りであたってみるより方法がない」
「なんだか凄いことになりそうだな、ワクワクしてきたぞ」
「冒険に近いから安全には留意せんとあかん、ワクワクは良いが、靴と鉈を忘れんといてや」
「鉈って何に使うんだ?クマと戦うための武器か?」
「茨城にクマは居ない、とか言ってなかったか?」
「言ったけど、そういう常識が実は間違いだったりするかもしれん。なんだか心配になってきた」
「心配のし過ぎとちゃうか」

 とは言ったものの、現地の様子が分からないだけに、こっちにも一抹の不安がつきまとっていたのでした。


 その不安を振り払いつつ、朝食を美味しくいただきました。この日の昼食は弁当持参を取り決めてありましたが、場合によっては食べる暇もなく山中や林間を移動し続けることも少なくないのが中世戦国期遺跡巡りです。だから、今回は多めに食べておきました。腹が減っては戦は出来ない、からです。


 8時過ぎに出発しました。これまでの大洗行きにおいては無かった、独特の高揚感を感じました。なにしろ大洗の中世戦国期の遺跡群にアタックするわけです。未知のエリアに突入するわけです。その歴史に向き合うとなると、こっちもその時代の気分にならざるを得ず、戦国武者のように身震いしてしまいました。ですが、商店街は静まりかえったままでした。


 レンタサイクルを利用するべく、お馴染みの榎澤輪業商会さんへ向かいました。その途中の多満留屋さんの店先で、手作りのウッドクラフト戦車シリーズの案内を見ました。


 自転車に乗って、一気に大貫商店街を駆け抜けました。みむら時計店の付近まで来ると、大貫台地の北端にあたる浅間神社の丘が前方に見えてきました。その横の旧街道に進むべく、馬に鞭をくれ・・・、いや、自転車のペダルをこぎました。


 旅館舞凛館の付近から見た浅間神社の丘です。地形的には要害性に富み、台地の端を護って街道を監視する砦の位置には最適ですが、しかし昨日の探索では城砦とするに足る成果が得られませんでした。隣のウツギ崎砦も本物かどうか分かりませんでしたから、この地域においては中世戦国期において緊張状態があったというようなイメージが湧きませんでした。

 この辺りは、戦国期までは常陸大掾氏の勢力圏だったとされていますが、鹿島・行方の「南方三十三館」には大洗の城館は含まれていないようです。江戸氏が進撃し、佐竹氏が殲滅した在地領主たちの中にも、大洗の在地勢力は含まれていません。いったい、大貫台地上に城館を構えた勢力とは、どのような史的位置を有していたのでしょうか。


 昨日探査した浅間神社です。前を通って鳥居に向かって拝礼するにとどめておきました。


 昨日の夕方も歩いた道です。これが旧街道の名残で、大部分は中世期からのルートを踏襲しているとされますが、国道51号線との合流点あたりから南西への道は消えてしまったそうです。


 昨日、犬を連れた老人たちに「首切り山だ」と教えられた林の一つです。位置的には鹿島臨海鉄道のトンネルの東側にあたります。その近くで戦前に農地を開拓した際に、人骨や土器などがゴロゴロ出てきたということです。おそらく、中世期の葬送場などがあったのかもしれません。


 しばらく行くと、ウツギ崎の方へ連絡する道との交差点に着きます。向こうに見える山も「首切り山」と教えられました。大貫台地上に中世の館や集落があったことが分かっている以上、その周辺の丘や山には、墓地や葬送場も営まれていた可能性が高いです。そういった場所を開発などで掘り返せば、人骨ぐらい出てきても不思議はありません。
 江戸期までは、人骨が出てしまうと、中世戦国期までの悲惨な歴史と結び付けて「祟りがあるかもしれない」と忌避する風習がありましたから、そうした場所の識別法として「首切り山」の呼称を付けておく、といったパターンではなかったか、と思います。そういう場所へは近寄るな、という意味にて語り継がれてきたのだろうと推測しています。


 左手の鬱蒼とした竹林が、西光院の裏山にあたります。戦前までは一帯が荒れ野原と雑木林であったそうですが、いまでは農地や宅地として切り開かれていて、昔ながらの藪や林はあまり見かけませんでした。


 西光院の裏山から西に見える丘も「首切り山」の一つです。発掘すれば、中世期の墓地などが検出される可能性があります。字名は「寺ノ上」「行人」「万歳楽」「宮女平」「稲荷場下」などに細かく分かれていて、寺院または神社がかつて存在した可能性を示唆しています。付近には「稚児墓」もあり、まさに墓地が存在したことをうかがわせてくれます。

 興味深いのは、付近の字名に「鬼窪」や「中丸窪」など、窪の字がつく名前がある点です。畿内では窪は文字通りの窪地を指す他、葬送儀礼や墓地などにあたる低地を指すことがあります。関東でも同じように捉えてよいかは分かりませんが、いま「首切り山」と呼び伝えられている場所が「鬼窪」や「中丸窪」の字名になっているのは、示唆的です。 (続く)

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