2014年10月16日、水戸の友人U氏の奈良行きに同行し、奈良県の戦国期の城跡が見たいという彼の希望で三ヶ所の遺跡を案内した。高取町の貝吹山城跡、天理市の豊田城跡、宇陀市の秋山城跡、であった。いずれもU氏にとっては初の訪問地であったが、畿内屈指の規模を誇る城砦の、保存も良好な遺構の数々に接して終始興奮気味であった。帰りの列車の席に落ち着くや否や、彼が発した感慨はこうであった。
「中世とか戦国とかの歴史ってさ、思ってたより凄いんだなあ・・・」
U氏は、昔から京都や奈良に憧れ、20代の頃から毎年二、三度ぐらいの割合で定期的に古都巡りを楽しむのが趣味であった。当初は京都に傾倒していたらしいが、2000年4月に京都の芸大で同級生として出会った時には奈良の大ファンになっていた。当時の私は奈良の大学を卒業して以来ずっと、奈良県に住んでいたため、U氏がゼミや集中講義で水戸から京都にのぼってきた時は、宿泊費を節約したいという彼の頼みを受けて、ほとんど自宅に泊めていた。その時期の休みには、もちろん奈良の色々な史跡や社寺や名所などを案内していた。
その頃のU氏の歴史的関心は主に古代で、飛鳥、白鳳、天平時代あたりがメインであった。私もかつてはそうだったのだが、20代後半ぐらいから中世戦国史に関心が移り、城跡や中世の街道や集落、石造文化財などを訪ねるのが生活の一部になっていた。
近畿地方は、京都や奈良といった古文化財の宝庫であり、古文書や文献資料の残存度が他地域よりも突出している。一次史料と呼ばれる、同時代の人々の記録類や日記類も多く伝世するが、大部分は中世戦国期のものであるため、たとえば城跡や武士などのことを学ぶにあたっても、確かな資料や根拠に恵まれることが多い。だいたい、古文書というものは古社寺に保存されるものが大部分なので、古社寺の多い京都や奈良には、それだけ歴史を学ぶための題材が豊富にあるということになる。
だから、奈良県に長く住んで奈良の歴史に大変な興味を持っていた私としては、古代史や近世史も一通りは勉強したけれども、鎌倉期から安土桃山期までの約500年間にも及ぶ長い歴史区分である中世戦国期を避けて通るわけにはゆかず、また奈良県の遺跡や文化財の大半が中世期以降の遺品で占められていたため、自然とそれらに熱中し没頭していったのは自然な成り行きであった。
そうして、異動によって奈良県を去る2011年までの25年間に、奈良の城跡約450ヶ所、集落120ヶ所、中世文化財2000件余りを見て学び、畿内でもドラマチックであったとされる大和国の中世戦国史の大体の流れと骨格を、ほぼ理解するまでに至った。京都の芸大にて提出したレポートも、多くは大和の中世戦国期の文化財に関する内容であった。
そういうのをU氏はずっと見てきている筈なのであるが、最近まで奈良県の中世期以降の歴史にはほとんど無関心であったため、U氏と同行する時は私も古代関連に絞って案内してきた経緯があった。それが、今回になって、いきなり中世戦国期の遺跡や文化財を見たい、と言い出したのであった。どういう風の吹き回しか、と怪訝に思ったのは言うまでもない。
「いや、実はな、星野が毎月のように大洗へ行ってさ、いろんな時代の歴史を分け隔てなく綿密に調べて楽しんでるだろ、そういうのをみててさ、歴史ってのは、いろんな時代をちゃんと見て知っておいたほうがももっと面白そうだな、って思ったんだよ」
「ああ、そうか。そうだな。まあ、一つの時期だけをやるよりは幅も広がりもあって楽しいのは間違いない」
「それで星野がいつも言ってるだろ、奈良の歴史で一番面白いのは中世戦国期だ、って」
「うん」
「それは奈良や京都以外の県でも同じなんだろうな、ってだんだん思うようになったんだ。僕らの関東なんかは鎌倉期から実質的な歴史がスタートするし、水戸の辺りだって、古代史は空白に近いが中世以降ならばいくつか文化遺産も残ってる」
「そうや、茨城だけじゃない、日本全国に広がった歴史の、最も古い時期の文化財が伝わってるというのは、だいたい鎌倉期からやで。それ以前の平安期とか天平期とかになると、遺跡しか残ってないからね」
「それはよく分かる。だから星野は夏に常澄の古寺とかを真面目に探訪してたんだよな」
「ああ、六地蔵寺とかね。ああいうふうに中世期の建物が現存してるなんてのは珍しいからね」
「例えばさ、僕は古代の仏像とかの仏教美術に興味があったから、星野とも行って色々奈良の古寺回ってたくさん見てきたわけなんだが、そういう文化財は関東に行くと数がいっぺんに少なくなってしまう。天平時代の遺品なんて小型の金銅仏しか残ってない」
「うん」
「でもさ、鎌倉期から後の史跡とか寺とか、城跡とかだったら、関東にもいっぱい残ってる。茨城だって城跡でいったら遺跡の宝庫であるらしい」
「あるらしい、じゃなくって実際に宝庫なんやで。茨城県は、城跡に関しちゃ関東地方でも割合に研究も資料化も進んでるほうで、「茨城の城郭」という刊行物もまとめられている。県別にみたら、そういう地域はまだまだ少ないんやで」
「ふーん、そうなのか」
「大洗でも、調べてみたら埋蔵文化財の比率は中世期以降のそれが相当高いんで、この前ちょこっと情報とかを教えてもらったけど、まだ行ってない南部エリアに中世の寺院跡や城跡とかがかなりあるらしい。来月(11月)にはそういうのを見に行こうかな、とは思ってるんやけど」
「それはブログでも書いてたな。道路開発とかで破壊されるのが残念だ、とか何とか」
「ああ、年内には確実に破壊消滅するらしい。まったく残念というか、惜しいというか・・・」
「そういう記事を読んでさ、ちょっと調べてみたらさ、日本全国で破壊されて失われてゆく遺跡で多いのが中世戦国期の遺跡だっていうからびっくりしちゃったよ」
「そう、そうや。近畿地方でも次々に遺跡が消えている。文化財行政が古代ばっかり重視して大事にして予算をつぎ込んでる傾向があるから、中世戦国期の遺跡なんて見捨てられてるも同然や」
「その、見捨てられてる時期の歴史が、日本全国どこにでも残って学べる歴史だってのは、なんか皮肉だよな。それにだんだん気がついたからさ、今さらという感はあったけど、奈良の中世戦国史に目を向けてみようかと思ったんだ」
「それで、今日は、朝から城跡を案内してくれ、って言うてきたわけか」
「そうなんだよ」
そう言いつつ、長話の間にすっかり冷めてしまった缶コーヒーを、旨そうに飲み干すU氏であった。
そして、こう聞いてくるのであった。
「大洗でこの前は水浜線の廃線ルートも踏破したんだろ?来月に大洗行ったら、中世戦国期の遺跡とかを見て回るのか?」
「その積りやけど・・・、道路建設工事が進むらしいんで、下手すると見に行く前に遺跡が壊されて無くなってしまってる可能性もある」
「急がないといけないようだな」
「そうだけど、ああいう遺跡は山の中とか草薮の中にあることが多いんで、夏場は入るどころか近づくことも難しいんや。城跡なんかは山や丘にあることが多いから。草葉が枯れてなくなる冬場にならないと行くことすら難しいんや。急ぎたくても、冬にならないとどうにもならん」
「それは、今日の貝吹山城や豊田城で本当によく理解出来た。まだあんなに夏草が繁ってたら、見れる所も見えないもんな」
「奈良の城は、まだマシな方なんや。兵庫とか滋賀あたりだとクマとかも居るし、ハチも出るし、危険がいっぱいや。冬場になったらクマもハチも減るから、その時期に城跡へ行くってのが普通やな」
「茨城にはクマはあんまり居ないよ」
「うん、大洗にもクマは居ないし、イノシシもあんまり出ない、って江口又進堂で教えてもらった」
「じゃあ、まだ安全なんだな」
「まあ、そういうことかな・・・」
応えつつも、本当に安全なのかどうかについては、私にも分からなかったのでした。何しろ、大洗の中世戦国期の遺跡というのは、まだ行ったことの無い場所ばかりで、地元住民すらも寄りつかないような所が殆どだったからです。果たしてそこへたどり着けるのかどうかも確信が持てず、不安だらけでした。奈良県の城跡へ初めて行きだした頃も、そんな感じでしたが。
それでも、次の大洗行きでは、そういう所を目指す予定を組む必要がありました。開発工事によって破壊消滅の危機に瀕している所もあるからです。
かくして、11月の大洗行きは、なんとか13、14両日に機会を得て、那珂湊散策も加えたコースを楽しむことにしました。U氏が14日の午後のみ同行可能だというので、中世戦国期の遺跡巡りは14日に計画し、13日はガルパン関連も楽しみつつ、事前の情報収集に務めることとしました。
そうして早朝に上野を出発し、8時には勝田に着いてひたちなか海浜鉄道に乗り換えました。前回と違って快晴のもとでの乗車でしたから、陽光に包まれて心も浮き立つような、新鮮な感じが味わえました。車輛は、前回と同じキハ3710型でした。
この列車に乗るのは三度目でしたが、今回は新たに出来た駅を見るという楽しみがありました。10月に運用が開始されたという「高田の鉄橋」駅がそれで、それを記念するヘッドマークが、列車前面に取り付けられていました。よく見ると手作り品のようで、鹿島臨海鉄道のガルパンキャラのヘッドマークとよく似た感じが漂っていました。
貼られていたのはヘッドマークだけではありませんでした。子供向けアニメ「デュエル・マスターズ」のラッピングデザインも施されていました。
この10月5日より運行が始まったそうで、トレーディングカードゲームの中でも人気があって、TVアニメも放映されている「デュエル・マスターズ」とのタイアップ企画だということです。ラッピング列車自体も、「熱血デュエマ列車」と称していました。そのせいか、子供連れの客が二組ほど乗ってきていました。
出発時刻になり、するすると列車が動きだしました。その瞬間を、一番前にてカメラで撮影しました。
地方ローカル鉄道特有の、のどかな車内空間が朝の日光に包まれて、温かみに満ちていました。平日の朝でしたが乗客は15人ほど乗っていて、けっこう利用されているという感がありました。2011年に既に黒字化を達成していると聞きましたから、この種の鉄道としては運営がうまくいっているようです。
新駅の「高田の鉄橋」の駅名表示板です。鉄橋の下に位置するので、デザインもそのまんまでした。
那珂湊駅に着きました。今回の乗車はここまでなので、下車してから記念に一枚撮りました。
反対側の線路では、既に発車した勝田行きの列車が遠ざかりつつありました。動物のデザインを施してあったので、あれが「アニマルトレイン」と呼ばれてるキハ37100型か、と気づきました。ひたちなか海浜鉄道が保有するなかでは最新型の車輛です。
那珂湊駅の駅舎です。三度もここに立つとは、思いもしませんでしたね・・・。
で、今回の乗車記念の片道切符と缶バッジです。缶バッジの方は、夏にもらったのと色が異なっていました。秋バージョンなのでしょう。切符の方は同じデザインで、これで茨城交通のバスも利用出来ますが、今回は徒歩で那珂湊の街を歩いて海門橋も渡る予定でした。
時間が貴重なので、駅舎を後にして出発しました。
途中で見かけた稲荷神社の一社です。ここも江戸期には水戸藩の領地でしたから、稲荷神の勧請が奨励されたといい、大洗とあまり変わらないほどの分布を示していると聞きました。ただ、社殿の建物が新しかったり、コンクリリート建築になっているところがかなりありました。
と言うのも、那珂湊は、戦後の昭和22年に市街地の3分の2を焼失するほどの大火を経験しているからです。その際に古い街並みも多くが失われてしまい、前回の散策で見てきたように、古民家も各所に僅かに残っているだけなのです。
大火後に街並みが一新された様子は、歩いていてもよく分かりました。江戸期どころか、昭和前期の建物さえもあまり見当たらないのでした。それでも街道筋の雰囲気がしのばれるのは、地割がさほどに変えられていないために、多くの建物が旧規模を踏襲して並んでいるからでしょう。
天満宮付近は、奇跡的に焼失を逃れた地区であるそうなので、割合に古い民家も並んでいました。鳥居の左手を登れば水戸藩の湊御殿の跡に行けます。
漁港の方角へしばらく進み、古い建物が並ぶ路地道を経て、海門橋への車道へと移りました。大洗側へ渡ってすぐの祝町で大洗町の巡回バス「海遊号」に乗る予定でしたので、その時刻までに向こうへ行かないといけませんでした。
時計を見るとあと30分足らずでしたので、あまりのんびりとしているわけにもいきませんでした。 (続く)
「中世とか戦国とかの歴史ってさ、思ってたより凄いんだなあ・・・」
U氏は、昔から京都や奈良に憧れ、20代の頃から毎年二、三度ぐらいの割合で定期的に古都巡りを楽しむのが趣味であった。当初は京都に傾倒していたらしいが、2000年4月に京都の芸大で同級生として出会った時には奈良の大ファンになっていた。当時の私は奈良の大学を卒業して以来ずっと、奈良県に住んでいたため、U氏がゼミや集中講義で水戸から京都にのぼってきた時は、宿泊費を節約したいという彼の頼みを受けて、ほとんど自宅に泊めていた。その時期の休みには、もちろん奈良の色々な史跡や社寺や名所などを案内していた。
その頃のU氏の歴史的関心は主に古代で、飛鳥、白鳳、天平時代あたりがメインであった。私もかつてはそうだったのだが、20代後半ぐらいから中世戦国史に関心が移り、城跡や中世の街道や集落、石造文化財などを訪ねるのが生活の一部になっていた。
近畿地方は、京都や奈良といった古文化財の宝庫であり、古文書や文献資料の残存度が他地域よりも突出している。一次史料と呼ばれる、同時代の人々の記録類や日記類も多く伝世するが、大部分は中世戦国期のものであるため、たとえば城跡や武士などのことを学ぶにあたっても、確かな資料や根拠に恵まれることが多い。だいたい、古文書というものは古社寺に保存されるものが大部分なので、古社寺の多い京都や奈良には、それだけ歴史を学ぶための題材が豊富にあるということになる。
だから、奈良県に長く住んで奈良の歴史に大変な興味を持っていた私としては、古代史や近世史も一通りは勉強したけれども、鎌倉期から安土桃山期までの約500年間にも及ぶ長い歴史区分である中世戦国期を避けて通るわけにはゆかず、また奈良県の遺跡や文化財の大半が中世期以降の遺品で占められていたため、自然とそれらに熱中し没頭していったのは自然な成り行きであった。
そうして、異動によって奈良県を去る2011年までの25年間に、奈良の城跡約450ヶ所、集落120ヶ所、中世文化財2000件余りを見て学び、畿内でもドラマチックであったとされる大和国の中世戦国史の大体の流れと骨格を、ほぼ理解するまでに至った。京都の芸大にて提出したレポートも、多くは大和の中世戦国期の文化財に関する内容であった。
そういうのをU氏はずっと見てきている筈なのであるが、最近まで奈良県の中世期以降の歴史にはほとんど無関心であったため、U氏と同行する時は私も古代関連に絞って案内してきた経緯があった。それが、今回になって、いきなり中世戦国期の遺跡や文化財を見たい、と言い出したのであった。どういう風の吹き回しか、と怪訝に思ったのは言うまでもない。
「いや、実はな、星野が毎月のように大洗へ行ってさ、いろんな時代の歴史を分け隔てなく綿密に調べて楽しんでるだろ、そういうのをみててさ、歴史ってのは、いろんな時代をちゃんと見て知っておいたほうがももっと面白そうだな、って思ったんだよ」
「ああ、そうか。そうだな。まあ、一つの時期だけをやるよりは幅も広がりもあって楽しいのは間違いない」
「それで星野がいつも言ってるだろ、奈良の歴史で一番面白いのは中世戦国期だ、って」
「うん」
「それは奈良や京都以外の県でも同じなんだろうな、ってだんだん思うようになったんだ。僕らの関東なんかは鎌倉期から実質的な歴史がスタートするし、水戸の辺りだって、古代史は空白に近いが中世以降ならばいくつか文化遺産も残ってる」
「そうや、茨城だけじゃない、日本全国に広がった歴史の、最も古い時期の文化財が伝わってるというのは、だいたい鎌倉期からやで。それ以前の平安期とか天平期とかになると、遺跡しか残ってないからね」
「それはよく分かる。だから星野は夏に常澄の古寺とかを真面目に探訪してたんだよな」
「ああ、六地蔵寺とかね。ああいうふうに中世期の建物が現存してるなんてのは珍しいからね」
「例えばさ、僕は古代の仏像とかの仏教美術に興味があったから、星野とも行って色々奈良の古寺回ってたくさん見てきたわけなんだが、そういう文化財は関東に行くと数がいっぺんに少なくなってしまう。天平時代の遺品なんて小型の金銅仏しか残ってない」
「うん」
「でもさ、鎌倉期から後の史跡とか寺とか、城跡とかだったら、関東にもいっぱい残ってる。茨城だって城跡でいったら遺跡の宝庫であるらしい」
「あるらしい、じゃなくって実際に宝庫なんやで。茨城県は、城跡に関しちゃ関東地方でも割合に研究も資料化も進んでるほうで、「茨城の城郭」という刊行物もまとめられている。県別にみたら、そういう地域はまだまだ少ないんやで」
「ふーん、そうなのか」
「大洗でも、調べてみたら埋蔵文化財の比率は中世期以降のそれが相当高いんで、この前ちょこっと情報とかを教えてもらったけど、まだ行ってない南部エリアに中世の寺院跡や城跡とかがかなりあるらしい。来月(11月)にはそういうのを見に行こうかな、とは思ってるんやけど」
「それはブログでも書いてたな。道路開発とかで破壊されるのが残念だ、とか何とか」
「ああ、年内には確実に破壊消滅するらしい。まったく残念というか、惜しいというか・・・」
「そういう記事を読んでさ、ちょっと調べてみたらさ、日本全国で破壊されて失われてゆく遺跡で多いのが中世戦国期の遺跡だっていうからびっくりしちゃったよ」
「そう、そうや。近畿地方でも次々に遺跡が消えている。文化財行政が古代ばっかり重視して大事にして予算をつぎ込んでる傾向があるから、中世戦国期の遺跡なんて見捨てられてるも同然や」
「その、見捨てられてる時期の歴史が、日本全国どこにでも残って学べる歴史だってのは、なんか皮肉だよな。それにだんだん気がついたからさ、今さらという感はあったけど、奈良の中世戦国史に目を向けてみようかと思ったんだ」
「それで、今日は、朝から城跡を案内してくれ、って言うてきたわけか」
「そうなんだよ」
そう言いつつ、長話の間にすっかり冷めてしまった缶コーヒーを、旨そうに飲み干すU氏であった。
そして、こう聞いてくるのであった。
「大洗でこの前は水浜線の廃線ルートも踏破したんだろ?来月に大洗行ったら、中世戦国期の遺跡とかを見て回るのか?」
「その積りやけど・・・、道路建設工事が進むらしいんで、下手すると見に行く前に遺跡が壊されて無くなってしまってる可能性もある」
「急がないといけないようだな」
「そうだけど、ああいう遺跡は山の中とか草薮の中にあることが多いんで、夏場は入るどころか近づくことも難しいんや。城跡なんかは山や丘にあることが多いから。草葉が枯れてなくなる冬場にならないと行くことすら難しいんや。急ぎたくても、冬にならないとどうにもならん」
「それは、今日の貝吹山城や豊田城で本当によく理解出来た。まだあんなに夏草が繁ってたら、見れる所も見えないもんな」
「奈良の城は、まだマシな方なんや。兵庫とか滋賀あたりだとクマとかも居るし、ハチも出るし、危険がいっぱいや。冬場になったらクマもハチも減るから、その時期に城跡へ行くってのが普通やな」
「茨城にはクマはあんまり居ないよ」
「うん、大洗にもクマは居ないし、イノシシもあんまり出ない、って江口又進堂で教えてもらった」
「じゃあ、まだ安全なんだな」
「まあ、そういうことかな・・・」
応えつつも、本当に安全なのかどうかについては、私にも分からなかったのでした。何しろ、大洗の中世戦国期の遺跡というのは、まだ行ったことの無い場所ばかりで、地元住民すらも寄りつかないような所が殆どだったからです。果たしてそこへたどり着けるのかどうかも確信が持てず、不安だらけでした。奈良県の城跡へ初めて行きだした頃も、そんな感じでしたが。
それでも、次の大洗行きでは、そういう所を目指す予定を組む必要がありました。開発工事によって破壊消滅の危機に瀕している所もあるからです。
かくして、11月の大洗行きは、なんとか13、14両日に機会を得て、那珂湊散策も加えたコースを楽しむことにしました。U氏が14日の午後のみ同行可能だというので、中世戦国期の遺跡巡りは14日に計画し、13日はガルパン関連も楽しみつつ、事前の情報収集に務めることとしました。
そうして早朝に上野を出発し、8時には勝田に着いてひたちなか海浜鉄道に乗り換えました。前回と違って快晴のもとでの乗車でしたから、陽光に包まれて心も浮き立つような、新鮮な感じが味わえました。車輛は、前回と同じキハ3710型でした。
この列車に乗るのは三度目でしたが、今回は新たに出来た駅を見るという楽しみがありました。10月に運用が開始されたという「高田の鉄橋」駅がそれで、それを記念するヘッドマークが、列車前面に取り付けられていました。よく見ると手作り品のようで、鹿島臨海鉄道のガルパンキャラのヘッドマークとよく似た感じが漂っていました。
貼られていたのはヘッドマークだけではありませんでした。子供向けアニメ「デュエル・マスターズ」のラッピングデザインも施されていました。
この10月5日より運行が始まったそうで、トレーディングカードゲームの中でも人気があって、TVアニメも放映されている「デュエル・マスターズ」とのタイアップ企画だということです。ラッピング列車自体も、「熱血デュエマ列車」と称していました。そのせいか、子供連れの客が二組ほど乗ってきていました。
出発時刻になり、するすると列車が動きだしました。その瞬間を、一番前にてカメラで撮影しました。
地方ローカル鉄道特有の、のどかな車内空間が朝の日光に包まれて、温かみに満ちていました。平日の朝でしたが乗客は15人ほど乗っていて、けっこう利用されているという感がありました。2011年に既に黒字化を達成していると聞きましたから、この種の鉄道としては運営がうまくいっているようです。
新駅の「高田の鉄橋」の駅名表示板です。鉄橋の下に位置するので、デザインもそのまんまでした。
那珂湊駅に着きました。今回の乗車はここまでなので、下車してから記念に一枚撮りました。
反対側の線路では、既に発車した勝田行きの列車が遠ざかりつつありました。動物のデザインを施してあったので、あれが「アニマルトレイン」と呼ばれてるキハ37100型か、と気づきました。ひたちなか海浜鉄道が保有するなかでは最新型の車輛です。
那珂湊駅の駅舎です。三度もここに立つとは、思いもしませんでしたね・・・。
で、今回の乗車記念の片道切符と缶バッジです。缶バッジの方は、夏にもらったのと色が異なっていました。秋バージョンなのでしょう。切符の方は同じデザインで、これで茨城交通のバスも利用出来ますが、今回は徒歩で那珂湊の街を歩いて海門橋も渡る予定でした。
時間が貴重なので、駅舎を後にして出発しました。
途中で見かけた稲荷神社の一社です。ここも江戸期には水戸藩の領地でしたから、稲荷神の勧請が奨励されたといい、大洗とあまり変わらないほどの分布を示していると聞きました。ただ、社殿の建物が新しかったり、コンクリリート建築になっているところがかなりありました。
と言うのも、那珂湊は、戦後の昭和22年に市街地の3分の2を焼失するほどの大火を経験しているからです。その際に古い街並みも多くが失われてしまい、前回の散策で見てきたように、古民家も各所に僅かに残っているだけなのです。
大火後に街並みが一新された様子は、歩いていてもよく分かりました。江戸期どころか、昭和前期の建物さえもあまり見当たらないのでした。それでも街道筋の雰囲気がしのばれるのは、地割がさほどに変えられていないために、多くの建物が旧規模を踏襲して並んでいるからでしょう。
天満宮付近は、奇跡的に焼失を逃れた地区であるそうなので、割合に古い民家も並んでいました。鳥居の左手を登れば水戸藩の湊御殿の跡に行けます。
漁港の方角へしばらく進み、古い建物が並ぶ路地道を経て、海門橋への車道へと移りました。大洗側へ渡ってすぐの祝町で大洗町の巡回バス「海遊号」に乗る予定でしたので、その時刻までに向こうへ行かないといけませんでした。
時計を見るとあと30分足らずでしたので、あまりのんびりとしているわけにもいきませんでした。 (続く)