気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その5 「鳥孝の缶バッジコレクションです!!」

2014年12月16日 | 大洗巡礼記

 永町商店街では「タグチ」に立ち寄って店頭の展示品を見ました。最近は艦隊これくしょんの人気がアニメファンの中でも上位にあがってきているためか、ここでも艦これの商品が多くなっていました。
 陸奥ですか・・・。加賀ですか・・・。伊号潜水艦セットですか・・・。箱のデザインは艦娘になっていますが、箱の中身はウォーターラインシリーズのキットのままです。


 ガルパン戦車を含めた戦車キットの展示も健在でした。でも最近の模型市場ではガルパン戦車の新作が出ておらず、通常の戦車キットでガルパンブームを意識した商品が出される傾向がありますね。タミヤのラングとか・・・。でも厳密にはガルパン仕様と異なっていますから、追加工作や改造などは必要です。


 通り町商店街の「鳥孝」に立ち寄りました。店頭にテーブル&イスが置かれてあるのはこのお店だけなので、今日のように大貫地区まで遠出をしなくても、自然に寄って座って休んでしまいます。いつものように稲石さん夫婦と雑談を交わしました。


 店内にある、土曜やイベント時の臨時看板です。磯部典子の名台詞「大洗は庭です!!」もしっかり添えられてありました。新しい店舗オリジナル缶バッジが、アヒルさんチーム4人全員のデザインにてスタートしており、今回初めていただきました。


 店内の左側の天井に貼られた一番くじ景品のフラッグです。以前に寄贈させていただいたものです。一時期、土曜の焼き鳥販売時の油煙などの影響が懸念されたようですが、稲石さんがコンロの位置を反対側へ変更したようで、それからは店内に油煙が充満することも少なくなったそうです。


 店内左側の壁にかけられている、大洗公式ガルパン缶バッジと同人系缶バッジの展示ボードてす。同人系缶バッジにおいては、大洗でもトップクラスのコレクションになってきているそうです。


 店内左側の側壁の窓に立てかけてある、私の寄贈自作ガルパン缶バッジの展示ボードです。今回は対戦校チームのキャラクター、聖グロリアーナ女学院、サンダース大付属校、アンツィオ高校、プラウダ高校、黒森峰女学院のメンバー全員を贈りました。
 加えて、劇場版に登場することが決まった知波単学園の西絹代のバッジも、おまけとしてつけておきました。合わせて83個に達しています。


 同人系缶バッジのほうでも、今回は38個を寄贈させていただきました。東京や名古屋でのイベントなどで配布されていたもので、以前に知人のK氏に缶バッジ基礎調査の御礼として頂いたものです。なには中国や台湾などの海外ファンサークルの手になるものも含まれており、日本国内ではまず入手不可能なレア物もある、と聞きました。


 稲石さんと、大洗における初期のガルパン公式缶バッジのことで色々話しました。稲石さんが大洗公式ガルパン缶バッジの展示ボードの最上段左側の缶バッジを指しながら、「このポイントカード会の校章のやつが一番古いはずなんだよ、それから始まって、ウチでは古い順番に並べてる積りなんだけど」と話しておられました。
 確かに、示された缶バッジが、一番最初のものだと聞いています。ですが、背面の留め具の形式がピンやクリップなど幾つかあったようで、私の手持ち分でも二種類があります。稲石さんが後で調べてきたところによれば、この一番最初のガルパン公式缶バッジは、2013年3月に登場したとの事です。テレビシリーズの第11話および最終話が放送されていた頃ですね。


 宿の「さかなや隠居」に戻り、午前中に「丸五水産」で買った干し芋や煎餅、昼間にココストアで購入した「あんずなお酒」でミニ夕食を楽しみました。「あんずなお酒」は梅酒に近い感じなので、酒は飲めないが梅酒ならなんとか飲めるという私にも、飲めそうな気がしていました。
 この日は寒くなるということでしたので、試みに少し味わってみて、それで温まるのならば良し、と考えたのです。結果として、大した抵抗感もなくスーッと飲めました。梅も杏も同じバラ科サクラ属の植物の実であるので、味も似通っているのかもしれません。少し飲んだだけで、ポカポカしてきました。
 昼に「しゅんさい」でいただいた鉄板ナポリタンがとてもボリュームがあったのと、午後の大貫台地での散策にて得た歴史的情報への好奇心が色々膨らんでいたのとで、あまり空腹になっていなかったのでした。それでどこかのお店で夕食をいただくのは止めにして、宿にて軽く食べたのでした。


 食べながら、昼に大洗町教育委員会の担当官にいただいた分厚い発掘調査報告書二冊を読みました。私も学生時代のアルバイトで奈良県内の各地の発掘調査に関わった経験があり、発掘調査報告書の編集も手伝ったことがあります。奈良県の歴史を学ぶ際にもよく活用しましたから、この手の刊行物はおなじみでもあります。

 地域の歴史などを調べる場合、一般的には市町村史などが利用されますが、編纂時期が古い場合ですと、近年の研究成果が反映されていないことが多いです。その場合には発掘調査報告書を参考にするという手があります。よほどのことが無い限り、発掘調査は毎年行われますから、その基礎報告書としての発掘調査報告書も、少なくとも二、三年おきには刊行されるのが普通です。
 そのなかに、地域の歴史の概要などがまとめられることがありますので、そちらを参照することで、その地域の最近の郷土史観が分かる場合も少なくありません。

 今回いただいた二冊は、明日に訪れる遺跡群の発掘調査報告書なので、現在は見られない発掘調査当時の状況や遺構状態の写真もあり、大変参考になりました。今年の秋にトレンチが入れられたという調査区とは別の範囲ですが、同じ遺跡の同時期の遺構が検出されているので、その知見は明日の見学においても大いに活用出来るはずです。
 なので、三回ほど読み返しました。各種の図面や遺跡推定復元図も多く、明日に訪れる遺跡群の全体像をイメージするのにとても役立ちました。

 水戸のU氏とは、明日の午後から行動を共にするので、電話して今日の経緯を簡潔に報告し、明日の見学コースなどを打ち合わせておきました。


 発掘調査報告書二冊を読み終えたのち、この日にいただいた缶バッジを全て並べてみました。全部で17個ありました。新しいデザインのものは7種類ありました。 (続く)

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カメさんチーム 38(t)戦車 作ります!! その8

2014年12月15日 | ガルパン模型制作記

 ステップ16では主砲と砲塔前面部を組み立てます。が、プラッツ公式キットガイドではインテリア部分が省かれています。さらにガルパン仕様への追加工作が五つあります。
 一つ目は、主砲のC2の先端の太い部分をカットし、あらためて砲口をピンバイスで開けておくことです。二つ目は、機銃マウントの前面にも装甲リングを追加することです。これはプラッツキットのパーツB1を使用し、劇中の形状にあわせて左右をカットして接着します。
 三つ目は、パーツC8を省略し、その接着部分にあたるところにリベット2個を復元することです。四つ目は、砲塔前面部のリベットパターンを劇中の状態に合わせることです。スケールの関係でリベットがつけられない所もありますが、最低でも12個はつけることになります。五つ目は、内部のF17の先に額当てを追加することです。


 ステップ17ではキューポラ部分を、ステップ18では砲塔全体を組み立てます。これらはガイドの通りで良いですが、私の制作においてはクリアパーツのJ5、J6は取り付けませんでした。出っ張るので、キューポラにカラコレやスイングなどを乗せる際につっかえてしまうからです。


 以上の工程を、私の制作においてはドラゴンキットガイドの方を見ながら組み立てました。砲塔内部のインテリアも作るからです。


 ここで改めて劇中のワンシーンを参考にして、砲塔部分の主な追加工作ポイントを確認してみます。まずキューポラ前のペリスコープは防水カバー無しのタイプを使います。パーツはC24です。機銃マウントの装甲リングについては前述しました。次に主砲右側にある覗き窓に庇がつきます。この庇はドラゴンキットではエッチングパーツMA45となりますが、形状が異なるので、プラ板で自作します。
 フェンダー外側の細長い側板については、前述しました。


 以上の諸点をふまえて、主砲の組み立てから取り掛かりました。ドラゴンキットガイドのステップ20にあたります。既に主砲のC2の先端の太い部分をカットしてあります。


 主砲の組み立てが終わりました。砲塔内部部分も劇中とほぼ同じです。


 続いて砲塔前面部を組み立てます。パーツC8を省略し、キットには無い装甲リングをプラッツキットのパーツB1にて再現しました。左右が縦にカットされていますので、その形に合わせてあります。


 装甲リングをB1にて再現する際に、その接着面にあたるリベットを全て切り取っておきました。切り取ったリベットは砲塔前面部のリベットパターン修正時に必要なので、保管しておきました。


 砲塔前面部をの組み立てが完了しました。リベットパターンも可能な限り劇中に合わせましたが、スケール的に全部を完全に再現出来ませんでした。リベットもジャンクパーツから調達しているため、大きさが微妙に異なっています。見ようによっては、手作り感が醸し出されてくるので、それはそれで良いと思います。


 砲塔内部の照準器も組み立てました。キットのパーツはC32とF17の二個だけですが、ガルパン仕様では照準器の先に額当てがセットされています。


 額当ての形を劇中のワンシーンにて御覧下さい。黄色円内に示すような形状です。


 ジャンクパーツから適当なパーツを選んでカットし、F17の先端に載せました。上画像で緑色に見えるパーツがそれです。


 機銃もセットして、ステップ20を終えました。劇中では、砲塔内機銃の描写は見かけなかったように思います。


 ステップ21に移り、キューポラ部分を組み立てました。


 キューポラ部分が出来上がりました。ハッチF6は、ピットマルチ使用によって可動状態にするので、接着していません。クリアパーツのJ5、J6も省きました。


 ステップ22に進み、インテリア部分の工作より先に砲塔の組み立ての一部を進めました。ステップ21で組み立てたキューポラを取り付け、ペリスコープのC24、乗降用手摺のC30も接着しました。


 砲塔内部では、天井にセットされる砲弾ケースF9、砲塔回転用ハンドルC6およびC29を付けました。この戦車の砲塔は手動で回す形式です。


 劇中でも、河嶋桃がハンドルを操作しているシーンがあります。また、このシーンで河嶋桃が砲塔内の左側座席に着いていることがうかがえます。ドラゴンキットには左右二つの座席パーツがついていて、右側座席も劇中で確認出来るので、後でこれらの座席パーツも付ける予定です。


 さらに砲塔内部では、ガルパン仕様への追加工作が一つあります。上のワンシーンで角谷杏が使っているぺリスコープです。キットにはこれに該当するパーツがありません。


 そこで、ジャンクパーツから適当なパーツを選んでそれらしくカットして取り付けました。その接着位置は、あらかじめ主砲や機銃部分を仮組みして、それらと干渉しないところに定めました。


 砲塔部分の組み立てが終わりました。砲塔前面部の接着は、インテリアを塗装してから行う予定です。


 最後に、主砲右側にある覗き窓の庇を、プラ板で自作して取り付けました。上写真の撮影後に微調整して少し小さくしました。
 ここまでくれば、組み立て工程はあと僅かとなります。そのあとは、インテリアを塗装しながらの組み立てに移行します。インテリアを見られるように車体を分割式にする案をここで再度検討してみましたが、どう考えても難しいように思われたので、インテリアを塗装した後に車体も接着して組み立てたほうが良さそうだと考えました。
 38(t)戦車は、前部に折り畳み式の大きなハッチがありますし、砲塔も取り外し可能なので、それらを開ければ車内もだいたい見られます。エンジンフードのハッチも可動状態にすれば、車体を分割式にしなくてもインテリアを見て楽しめるわけです。 (続く)

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カバさんチームの通信手は誰?

2014年12月14日 | ガールズ&パンツァー

 昨日の記事で、ガルパン戦車の無線機のことを書きましたが、カバさんチームのⅢ号突撃砲F型においては、車内右側に無線機が設置されているのが上のワンシーンからも分かります。カエサルの席の横にあたります。
 それで、カエサルが装填手と通信手を兼ねていそうに思われますが、公式設定では、車長のエルヴィンが通信手を兼任していることになっています。他チーム内との通信をエルヴィンが行っているシーンもありました。劇中でも、カエサルは装填手だけを務め、無線機を扱う場面は全く見たことがありません。


 ところが、サンダース校との試合中に、あんこうチームの通信手武部沙織が相手の無線傍受を避けて携帯で極秘に連絡をとった際の場面を見ると、カバさんチームの受信相手はエルヴィンではなくて、おりょうになっています。
 ウサギさんチームの宇津木優季、アヒルさんチームの近藤妙子は、ともに通信手を務めています。カメさんチームでは、本来の通信手であるべき角谷杏が何もしていないから河嶋桃が務めているシーンが親善試合時でも確認出来ます。だから、この三人への連絡は、自然な流れですね。カバさんチームだけが変わってるんですね。


 おりょうは、周知のようにカバさんチームのⅢ号突撃砲F型において操縦手を務めています。上のワンシーンからもそれが分かりますが、武部沙織はそのおりょうに極秘連絡をとりました。
 ということは、極秘連絡の場合のみ、おりょうに繋ぐということになっていたのでしょうか。それとも、偶然にそうなっただけなのでしょうか。その時点でエルヴィンが通信に出られない状況に陥っていたとも思えないのですが・・・。

 しかし、おりょうも操縦で多忙なときによく携帯連絡を受けていますね・・・。
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ガルパン戦車の無線機

2014年12月13日 | ガールズ&パンツァー
 アニメ「ガールズ&パンツァー」に登場する戦車は、全てが第二次大戦中に実在した車輛ばかりです。したがって車内の装備品も、第二次大戦中当時の製品をそのまま使用しているものと思われます。私はガルパン戦車のインテリア付きキットを作る場合は、車内の様子や装備品などがどうなっているかを調べるべく、DVDを何度も見てチェックしています。

 そのなかで、見ていて楽しいのは、無線機です。各チームのキャラクターたちが搭乗車の無線機を扱って連絡などをやっているシーンが幾つかあります。携帯という便利なものがあるのに、わざわざ昔の無線機を使っているのが面白いわけですが、そうしたシーンを見ることで、逆に第二次大戦中の戦車の車内の雰囲気がうかがえるという点もあります。楽しいものですね。
 以下、無線機が登場する代表的なシーンを振り返ってみましょう。


 まずは主役級あんこうチームのⅣ号戦車D型の無線機です。箱型のフレームに三分割されているタイプのようですが、ボタンやつまみの数が少なくまとめられてデザイン的にもシンプルなあたりが、いかにもドイツ製品らしさを感じさせます。ドイツ軍において戦車や装甲車などに幅広く使用された、「Fu2G 」または「Fu5G 」とみられます。通信士の武部沙織が扱っていて、後には免許を取るまでに上達しています。


 無線機をいじるキャラクターといえば、なんといってもサンダース校チームのアリサが印象的でしたね。大洗女子学園チームとの公式試合にて、無線傍受による作戦察知をはかるべく、一心に無線受信機「BC-603」のつまみを回して周波数をキャッチし、探り当てた途端に会心の笑みをうかべました。
 隊長のケイはこういった行為を禁じていましたが、聖グロリアーナ女学院のダージリンが「下品な真似」と形容していたあたり、サンダース校においては日常茶飯事のことだったのかもしれません。


 アンツィオ校チームのカルパッチョも、搭乗車M41セモヴェンテの無線機を扱っているシーンがありました。無線機は「RF1CA」とみられますが、はっきりとは分かりません。カルパッチョはチームでは副隊長を務めてアンチョビに次ぐナンバー2のポジションにあるようですが、試合では装填や砲撃もこなし、通信も手掛けたりと忙しく動き回っていました。
 M41の乗員数は本来は、車長兼装填手、砲手兼無線手、操縦手の3名ですが、カルパッチョの活躍シーンを見ていると、2名だけでやっているように見えます。操縦手が居て、あとの車長兼装填手、砲手兼無線手をカルパッチョが兼任していたのかもしれません。


 聖グロリアーナ女学院チームの指揮車チャーチルの車内シーンにも無線機が見られます。ダージリンの席の背後にあり、これを使用するのがダージリンであるようです。が、マイクを持つシーンはあるものの、無線機を扱っているシーンはありませんでした。無線機は「WS11」または「WS19」のようです。
 ちなみに、戦車に無線機を搭載したのはイギリス軍が最初であったそうです。その頃から無線機は戦車長が扱うものと定められていたそうなので、聖グロリアーナ女学院チームでもダージリンが通信手を兼ねているのでしょうか。

 いやー、ガルパンって、見てゆくほどに面白いアニメですね・・・。
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その4 「富士山と首切山です!!」

2014年12月12日 | 大洗巡礼記

 浅間神社に着いたのは15時過ぎでした。城跡かどうかを見極めるために図面をとることにしたのですが、最低でも30分はかかると見込んでいたため、急いで探査に取り掛かりました。前月よりも草葉は少なくなっていましたが、それでも下草は少なくなく、地表面の状態は近づかないと分かりませんでした。


 まずは、前回の訪問時に土塁のように見えた盛り上がりに登りました。外側は完全な地山と分かりましが、内側が窪んで横堀状に見えたので、なんで窪んでいるのだろう、と不審に思って窪地の底へ降りてみました。
 その時点で、境内地のマウンドは上写真のように高く盛り上がって見え、城砦の櫓台のような外観を呈していました。左側に、拝殿横から登る石段が見えます。


 窪地は北にやや下がって北側の地山傾斜面に繋がっていました。そこへ回るとマウンド周りの傾斜面が最も急な状態で見え、まさに城砦の切岸のような感じでした。古墳であればこれほどの急傾斜はまず見ませんので、古墳ではない可能性が高くなりました。
 それでは城砦の櫓台かというと、その可能性も低くなってきました。外回りの盛り上がりが単なる地山だと判明した時点で、これは違うかもしれない、と考えました。マウンドの上に見える石祠を見上げつつ、これはやっぱり浅間神社特有の「富士塚」かもしれないな、と思い始めました。なぜならば、現地の字名も「富士山」であるからです。


 前回の訪問時には、戦国期の城砦かもしれないと思って相当期待もしたのですが、いざ細かく探査してみると、城砦遺跡特有のパーツが全然見えてこないのでした。先ほどの窪地も、「富士塚」を構築した際の土取り跡なのかもしれないな、と思いました。淡い失望感が次第にわきあがってきました。
 ところが、反対側の西側に回ると、土塁状の細長い盛り上がりが平坦地の端にくっきりと見えました。あれ?と思って近寄ると、その内側も窪んでいて、今度は長く北西方向へ緩やかに降りていくのでした。


 窪地を進んでいくと、眼前に急な竪堀状の切り込みが表れました。傾斜角度は45度を超えており、城砦遺跡であれば竪堀とみても差し支えないような状態でした。なんで神社の境内にこんなものがあるんだ、と驚きつつも切り込みの底を注意深く下へ降りました。二度ほど足を滑らせて落ちかけたので、簡単に上り下り出来るような所でないことだけは理解出来ました。しかし、中世期の山道にはこの程度の急坂も珍しくなかったそうなので、この時点でも竪堀かどうかは確信が持てずにいました。
 上写真は、竪堀のように見える切り込みの中を三分の二ほど降りて上の境内地を見上げたところです。


 切り込みの下まで降りると、その先にははっきりとした山道の痕跡が見えました。やっぱり山道だったか、切り込みは神社への登り道だったのか、と納得しつつ、山道を下まで辿りました。ウツギ崎の尾根との間の谷間に出ますが、沢が流れているので、向こうへは渡れませんでした。沢の向こうは工場のような施設の敷地になっていて、フェンスが張り巡らされていましたから、沢を渡ったとしてもそこから先へは進めません。

 図面も一応描いてみましたが、結論として城砦遺跡の可能性は低いと判断しました。こうなると西隣のウツギ崎砦も本物かどうか分からなくなってくるぞ、と思いました。なぜならば、大洗町教育委員会の埋蔵文化財データや遺跡分布図にはウツギ崎砦の表示は無いからです。
 ではなぜ、ウツギ崎砦の存在が城郭ファンの中でも周知されているのかというと、茨城県の遺跡地図に印が記されているからです。それなのに、地元の大洗町教育委員会のほうでは遺跡として認識していないようなので、その点が不審に思われました。昼に文化財担当官の方に会った際に、そのことも確認しておくべきだったな、と気づきました。


 かくして、浅間神社でのミニ探査は、城砦遺跡ではないだろうという結論を得て終了しました。正直言ってガッカリしましたが、城郭遺跡研究においては、城跡が存在しないことを確かめるのも重要な作業なので、落胆するには至りませんでした。
 続いて、浅間神社の前を通る旧街道筋の探査に移りました。日が傾いてきているので、周囲の景色を撮影しながら道なりに進みました。写真にも、撮影する私の影が長く伸びていました。

 そのうちに、犬を連れた地元住民の老人と、その家族らしい主婦に出会いました。老人に「どなたかの家を探しとるのかね」と聞かれたので、事情を説明しました。すると「ああ、浅間神社のあれは富士塚であのへんは富士山って地名だな、城跡なんかじゃないよ」と言われました。

「なんで城跡だと思ったんかね」
「西側の尾根にある神社の上に、ウツギ崎砦という城跡があるとされていますので、その向かいにある浅間神社もかつてはそうだったのかな、と推定したわけでして・・・」
「それは有り得ないな、ウツギ崎は知っとるが、あそこも城跡じゃないよ、昔はあそこに家が建ってて人が住んでたんだ」
「城跡の場所に人が住んでいた、ということではないのでしょうか?」
「そこまでは分からんけれども、ワシは生まれてからずっとここに住んでるんだが、あそこが城跡だなんて話は聞いたことが無いな」
「そうですか・・・」

 老人は70代ぐらいのようでした。その方が「城跡だなんて話は聞いたことが無いな」と仰られたのですから、ウツギ崎砦というのも余計怪しくなってきた、茨城県の遺跡地図の記載も間違いなのかもしれない、と思いました。しかし、老人の次の言葉には驚かされました。
「城跡は聞いたことはないけどな、でもこのへんは古戦場か処刑場がたくさんあったかもしれん。向こうに森が見えるじゃろ、その左にも丘が見えるじゃろ、あれみんな、昔から「首切り山」って呼ばれとるんだな」
「えっ、首切り山、ですか。字名がそういうのなのですか」
「いや、字名は別にあるんだが。でもこのへんに昔から住んでる者は代々「首切り山」って呼んでる。開墾とか工事とかの度に人骨がゴロゴロ出よった事もあったからな」
 すると隣の主婦の方が続けて話し出しました。
「あの向こうに、白い屋根の家が見えますけど、あの家を建てる時に地面を掘ったら人の骨が出てきたんで大騒ぎになったそうなんですよ」
「それは、いつの話でしょうか」
「私が小学校の時やから、昭和30年か31年だったかねえ・・・」
 横から老人が「違う、33年の秋じゃ」と強く訂正しました。記憶には自信を持っておられるようでした。古戦場か処刑場がたくさんあったかもしれん、との証言とあわせると、どうやら大貫台地上にはやはり中世期の歴史が相当な密度で展開していたもののようです。そのことを少し話すと、老人は大きく頷いて、そうだろうな、と言いました。

「あんたは知ってるかもしれんが、この道をずっと行けば飛城っていう戦国時代の城跡があるんだ。住宅地になるということで、十年ぐらい前に発掘をやってたんだが、大きな城の遺跡が出たよ。ここいらはその北側にあたるんで、城を巡っての合戦とかはあったかもしれん。あそこの「首切り山」のもうちょっと向こうに行ったら大貫池があるんだが、その真ん中にも城跡があったんだよ」
「一杯館のことでしょうか」
「そう、そうです。ここの道も、一杯館から磯浜へと通じる街道やったということで、道そのものは奈良時代からあったと聞いたことがある」
「その飛城や一杯館の城主や武士についての言い伝えは、このへんにはありませんか」
「言い伝えどころか、このへん一帯は戦前までは雑木林とか荒れ野原だったんで、人家なんて無かったんだよ。戦後に開発して圃場整備して、林を切り開いて家も建ち始めたんだ。ワシが子供の頃は、西光院さんの裏山なんて夜中はおっかなくて行けねえ、行っちゃいけないんだよ、なにしろ「首切り山」だからね、とか言ってみんな近寄らなかったんだ」
「西光院さんの裏山、といいますと、この辺がそうなのですか」
「ああ、そこが西光院さんの墓地の裏手にあたっとります」
 そう言って、左手約100メートルに見える深い竹林を指差してくれました。


 老人たちの家は、西光院の近くだということで、西光院までの道を案内していただきました。歴史好きな方らしく、山門参道入り口で別れるまでに、大貫地域の昔話や伝承などを色々語って下さいました。どれも興味深い話でしたが、なかでも「首切り山」の呼称は、大きな収穫となりました。大貫台地の北部にも中世戦国期の歴史が展開していた名残であると思われるからです。

 周知のように、大貫台地上において発掘調査などにより所在が確認されている中世戦国期の遺跡は、落神遺跡、飛城遺跡、常福寺遺跡、登城遺跡など数ヵ所に及びます。いずれも遺跡遺物の年代観の上限は15世紀とされていて、ちょうど戦国時代の後半期に含まれます。さらに未調査の遺跡として一杯館(工事で消滅)、龍貝館、後新古屋館、大館館、小館館などがあり、近辺にはさらに遺跡が埋もれている可能性も指摘されます。
 また、中世期に創建された寺院も少なくなく、大部分は廃絶して遺跡すら定かではありませんが、現存する西光院は応永二十四年(1417)の建立になります。夏海の悉地院や成就院、亀山の不動院も15世紀には存在したようです。
 それで近辺には同時期の集落や葬送場なども点在したものと思われますが、それにしても「首切り山」の呼称はあまりにも生々しいものです。合戦や処刑などが実際にあったのかどうかは分かりませんが、古戦場だったのであれば、可能性は無いとは言えません。人骨が実際に出ているのであれば、その近くで何らかの形で人が死んだということが明らかだからです。

 しかし、大洗町域においては、現在のところ、中世戦国期の古戦場があったと伝わる場所は皆無です。南の鉾田地域には籾山合戦や徳宿合戦の伝承地があり、涸沼の西側の茨城町地域では小鶴原合戦の伝承地がありますが、いずれにも水戸エリアの有力国人江戸氏が関与していて、江戸氏と在地勢力とのせめぎあいがあったことがうかがえます。
 そうした地域において大洗エリアに古戦場のことが知られないというのは、在地勢力が江戸氏や後の佐竹氏とは敵対関係になかったという可能性を考えさせます。落神遺跡、飛城遺跡、常福寺遺跡、登城遺跡など数ヵ所の運営主体とされる在地勢力がそうした史的位置にあったのだと仮定することも可能でしょう。
 その在地勢力を、「大洗町史」では千葉氏支流に連なる大貫氏、と簡潔に述べていますが、その実態はあまり明らかになっていません。


 西光院の境内です。古記録によれば、一杯館の城主千葉資胤が舅にあたる宥祖のために建立したといい、千葉資胤は後に姓を大貫に改めたとされています。しかし、現存する千葉氏系図においては資胤の名が見当たらないので、記録そのものが混乱している可能性も考えられます。
 西光院は、大貫台地上に寺域を構えて落神遺跡、飛城遺跡、常福寺遺跡、登城遺跡などとは指呼の間にあるため、これらの遺跡の運営主体であった在地勢力と何らかの関わりがあったと考えられますが、その在地勢力が千葉氏系列であったと記録されるに至る、何らかの歴史的展開があったのでしょうか。


 境内にあるイチョウの大木は、樹齢約400年とされますが、それならば中世戦国期に存在していなかったことになります。戦国期の終焉にあたる関ヶ原合戦の後に生えたことになるでしょう。いまは県の指定天然記念物に指定されていますが、その経てきた歴史は、近世からのものになります。中世戦国期とは、それよりも遠い昔のことなのです。


 浅間神社、西光院で大貫商店会歴史探訪スタンプラリーのハンコを押してきましたので、西光院の東麓に鎮座する諏訪神社へも回りました。


 この神社は、平安時代初期の斉衡三年(856)の創建と伝わりますが、これはこの神社がもとは大洗磯前神社の系列社であった関係で、本社大洗磯前神社の創祀である斉衡三年をそのままうつし伝えているだけと推定されます。古記録等は江戸期の火災で失われたため、確実な資料は残りません。

 それよりも興味深いのは、この神社の秋の例祭の祭事が、かつては一杯館に渡行して山海の珍味のお供えを受けるという形式であったと伝承されていることです。前述のように、一杯館の城主は、西光院の古記録によれば千葉資胤とありますから、千葉資胤がこの神社の最有力氏子であったことになります。
 隣の西光院が一杯館の城主による創建を伝えますので、この神社も同じようにして一杯館の城主によって当地の鎮守として勧請された、というのが真相のように思われます。中世期には神仏混交が一般的であったので、寺院と神社をワンセットで建立するという形式は、在地勢力の支配地では一般的に行われていたからです。
 ただ、当時から諏訪神を祀っていたかどうかは、分かりません。神社をとりまく環境や氏子の交替によって祭神が変わることはよくありますので、この神社の最初の祭神はいまでは分からないとするべきでしょう。大洗磯前神社の系列社であった史実をふまえ、かつてはすぐ前に海岸線があったことを考え得れば、やはり海神か、それに近い神を祀っていたのではないかと推測されます。


 拝殿の手前右側にハンコが置いてありましたので、押しました。残るスポットは「茨城百景」だけとなりましたが、これは明日に立ち寄る予定でした。


 途中でリゾートアウトレットに寄ろうかと思いましたが、先ほどの老人の話が気になっていて、宿に置いてきた二冊の発掘調査報告書の方も早く読みたくなっていました。それで、ひたすら北へ歩きました。


 永町商店街に戻ってきました。夕陽が長く街路に差し込んでいましたが、陰の方が多くなって黄昏に近づきつつありました。 (続く)

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カメさんチーム 38(t)戦車 作ります!! その7

2014年12月11日 | ガルパン模型制作記

 ステップ15では、車体の各パーツを組み合わせて完成状態に近づけますが、ガルパン仕様への制作ではそこまで至らず、まだ様々な追加工作や改造があります。ステップ12と13の、フェンダー上への車外装備品配置もまだやっていないので、この段階で一気にこなしてゆくことにしました。


 プラッツ公式キットガイドの説明では、車外装備品の作り方などが分かりにくいので、ドラゴンキットガイドの方を参考にしました。ガルパン仕様とは違いますが、各パーツの制作手順などがきちんと示されているので、参考になります。


 ここで、ガルパン仕様への追加工作および改造のポイントを、劇中車のシーンにおいて再確認してみましょう。全国大会時のジャーマングレー塗装の車体では細部のディテールが分かりにくいので、親善試合時の金色塗装時の姿を参考にします。
 図中にも文を入れてありますが、順に見てゆくと、右側フェンダーの前方に置くジャッキ台は、キットのパーツでは大きすぎるので、小さ目に作り直します。左側フェンダー上ではノテックライトの位置、消火器のサイズ、スコップやツルハシの位置やサイズなどを変更します。特に消火器とスコップは、キットのパーツでは形状が異なるので、タミヤのⅣ号戦車車外装備品セットのパーツを使います。また、道具箱は、キットのパーツでは大き過ぎるので、これもガルパン仕様サイズに合わせます。


 続いて左側斜め後ろからのアングルでみると、アンテナの基部の位置と形状、フェンダーの側板、フェンダー上の道具箱の前の細長い側板、バックライトの位置などが挙げられます。いずれもドラゴンキットには無い特徴ですので、公式設定資料の図や劇中シーンなどを参考にして作ってゆきます。


 さらに後方右手より見ますと、フェンダー尾部のコの字型形の断面、フェンダー後部に縦につけられたステー、カバーのついた後方ランプなどがガルパン仕様の特徴として看取出来ます。

 以上の諸点をふまえて、出来るだけガルパン仕様に近づけることにしました。


 まずは、左側フェンダー上に配置するスコップ、ツルハシ、道具箱のパーツを切り出しました。スコップは、キットのパーツK6では形状が異なるため、タミヤのⅣ号戦車車外装備品セットのパーツD7を使用しました。
 ツルハシもオーバースケールですが、形状はほぼ同じなので、各部を切り詰めて使用することにしました。道具箱はキットのパーツA26にあたりますが、劇中のサイズの二倍以上もあるので、半分以下に縮める改造が必要になります。


 ノテックライトは、キットのパーツB13およびB14が使えますが、消火器のパーツK12はサイズも形状も異なるので、タミヤのⅣ号戦車車外装備品セットのパーツD30を用い、不足部分をランナーで補いました。


 ノテックライト、消火器、スコップ、ツルハシを、劇中車の位置に合わせて接着しました。スコップは柄を切り詰めたのみならず、先端も削ってやや小さくしました。


 道具箱は、ブラ板で自作するという方法もありますが、ここではキットのパーツA26を活用して改造することにしました。


 中央の切り込みのラインでカットし、短い方をガルパン仕様の道具箱に作り変えてゆきます。


 カットした部分をプラ板でふさぎ、プラペーパーで蓋のラインや留め具を再現し、真鍮線で両側のハンドルも再現しました。これだけの改造で、ガルパン仕様の道具箱に仕上がりました。


 道具箱をフェンダー上にセットし、その横にある細長い側板をプラ板で追加しました。左側につくバックライトも、キットのパーツK10およびK16を改造して形を合わせて接着しました。


 右側フェンダー上にも、ステップ11で組み立てた道具箱をセットして、横にある細長い側板をプラ板で追加しました。ワイヤーカッターはキットのパーツN21を使って、これも柄を少し切り詰めてサイズを合わせました。


 右側フェンダーの前方に置くジャッキ台は、キットのパーツB27では大きすぎます。タミヤのⅣ号戦車車外装備品セットのパーツD29がピッタリな大きさなので、これを利用して改造することにしました。


 右側フェンダー上には、予備履帯も置きますが、これはキットのパーツを3個繋ぎました。フェンダー後部に縦につけるステーは、プラッツ公式キットのパーツB5とB6を持ってきました。
 後方ランプは、キットのパーツK15ではモールドが異なるため、これもタミヤのⅣ号戦車車外装備品セットのパーツD3に換えました。後でカバーをプラ板で再現して接着する予定です。


 右側フェンダー上に、装備品の全てを仮置きしてみました。ジャッキ台、ジャッキ、予備履帯の三点は、塗装後に接着したほうが良さそうに思われたので、この段階では接着しないでおきました。


 フェンダー後部に縦につけるステーも、劇中車と同じようにセットしました。横のステーと組み合わせるので、接合面をカットしたり削ったりして隙間が生じないように心掛けました。


 アンテナ基部を、公式設定資料の図や劇中シーンなどを参考にしてプラ板で作りました。劇中車と同じ左側側面にセットし、キットのパーツB36を載せました。


 ジャッキ台の留め具を、公式設定資料の図や劇中シーンなどを参考にしてプラペーパーで再現しました。


 続いて、フェンダーの尾部断面をコの字形にするべく、内側の斜めにカットされている部分にプラ板を追加しました。大きめにカットしたプラ板をつけておき、接着材が固まってから少しずつカットして形を整えました。


 整形を終えた状態です。こんなところでしょうか。


 左右フェンダーの外側にも、長い側板をプラ板で作って貼り付けました。これでフェンダーの尾部断面をコの字形にすることが出来ました。左右フェンダーの外側側板は、フェンダーの形に合わせて前方で下に少しカーブするので、その部分もフォローしながらプラ板を切り出しました。


 右側フェンダーの外側側板は、こんな感じで貼り付けました。前方部でやや下に曲がる部分も再現しました。


 左側フェンダーの外側側板です。この側板は、劇中シーンをよく観察しないと見落としてしまうほどの目立たない部分ですが、ローアングルから見ると逆に目立ちますので、ガルパン仕様への追加工作の中では意外にも重要です。しかし、ネット上などで見かける先行作品において、このフェンダー外側側板を再現した例は皆無でした。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その3 「鉄板ナポリタンです!!」

2014年12月10日 | 大洗巡礼記

 続いて「丸五水産」に立ち寄りました。奥さんが「今日も隠居さんにお泊り?」と聞いてきたので、そうです、と応じました。おやつに干し芋を買いました。店主さんは大洗町域のあちこちへ配達に回っておられますので、大貫台地あたりも詳しいかもしれないと思って聞いてみましたが、「あの辺はあんまり行かないねえ」と笑っていました。


 店先の缶バッジ展示ボードです。前回は数が不足していた大洗女子学園チームのマークセットの、不足分を寄贈させていただきましたので、8個全部が揃いました。


 11時を過ぎましたので、昼食をとるべく、役場近くの「しゅんさい」に行きました。古民家居酒屋として最近にオープンし、夜は居酒屋、昼は食事処として営業しているお店です。
 このお店については、水戸の友人U氏から「バスタが旨いのでおすすめだ」と教えられたのでした。評判のお店なのか、と聞きましたら、「実は美和が友達と行って気に入っちゃってな、それで僕も連れて行かれたんだが、意外に良い店だったんだ。パスタも酒もうまいし、落ち着くしでさ」と笑っていました。つまりはU氏の奥さんのお気に入りのお店であるわけです。


 そこで、店に入る前に一度電話して聞いてみました。
「わあ、星野さん、「しゅんさい」に行かれるんですか?いいなー、私も行きたい、行きたいですー」
「美和さん、なんでこの店知ってるんですか?」
「先月に、大洗にいる高校時代からの友達と四人で同窓会をやったんですけど、その場所が「しゅんさい」だったんですよ。いいお店だったので、気に入っちゃって、それから毎週行きました。先週も行ってたんですよ」
「おお、常連さんなわけですね。定番メニューは何ですか?」
「ランチですよ、色々あってね、私が好きなのはチキンソテー定食、肉ニラ炒め定食なんです。美味しくてお勧めなんですけど、でも星野さんはガルパンで楽しんでらっしゃるから、鉄板ナポリタンを注文してガルパンのバッジを貰えばいいんですよ」
「バッジ?」
「ええ、ガルパンの缶バッジがおまけにつくんですよ。ガルパンのメニューみたいですね」
「そんなメニューがあるんですか。じゃあ、それでいってみますよ」
 ということで、古民家風の建物に近づいて中に入りました。


 室内は、居酒屋にしては開放的な空間が採られて、古民家の室内建具を活用した民芸調の雰囲気がいい感じを醸し出していました。酒店のような陳列コーナーの作りもなかなか見応えがありました。


 反対側にはカウンター席がありますが、こちらはナイトバーのような雰囲気になっていて、なかなかに良い感じです。昼間に行って落ち着くので、夜に行けばそれこそ「男の隠れ家」的なムードに浸れて心行くまでグラスを傾けて楽しめることでしょう。ですが、酒を飲まない私には、別の世界の話ですね。


 教えられた「ガルパンのメニュー」はすぐに分かりました。カウンター席の上に「アンツィオ風鉄板ナポリ」と「夜限定アンツィオセット」の案内がありました。いずれも鉄板ナポリタンがメインで、昼にいただけるのは前者です。
 お店の方に訊ねたところ、昼のランチでは750円のセットと、ドリンク込みの1000円のセットがあるということでした。喉も渇いていたので、ドリンク込みの1000円セットを注文しました。


 するとドリンクメニューが出てきて、お好きなものをお選び下さい、と言われました。そこでオレンジを選びました。


 裏面には、ランチメニューが列記されてありました。昼は食事処としてこういったものが食べられると分かり、大洗の昼の食事スポットが一つ増えたな、と思いました。水戸の友人の奥さんがお気に入りのチキンソテー定食、肉ニラ炒め定食もありました。


 これが今回いただいた「アンツィオ風鉄板ナポリ&ドリンクセット」です。5分ぐらいで運ばれてきましたのでびっくりしました。ちゃんとガルパン公式缶バッジもつけられていましたが、デザインはアンツィオ高校のモブキャラ二人と判明しました。また新しいのがいつの間にか出ていたんですね・・・。


 で、メインの鉄板ナポリタンは、ボリュームもあって美味しかったです。大洗では他に「ブロンズ」が鉄板ナポリタンを提供していますが、あちらは「お母さんの味」という感じです。こちらのはレストラン風の本格的な味付けで、食べごたえがありました。劇中でベパロニが作っていた鉄板ナポリタンの味は、果たしてどちらに近いのでしょうか。


 昼食後は大洗町役場に行き、教育委員会の文化財担当官を訪ねました。向かいの中央公民館に事務室があると教えられてそちらに行ったら、以前に一度お世話になったことのある方が出て来られました。この方が、大貫台地の中世遺跡群の発掘調査を担当された方なので、ちょうど良かったと感じつつ、例の中世遺跡群のことを色々質問して教えていただきました。道路建設工事の件を尋ねると、「ああ、工事は確か明日から着手するらしいですよ」と言われました。

「明日ですか、明日から工事に入って遺跡は壊されるわけですか?」
「そういうことになりますねえ」
「この秋に発掘をされたそうですが、工事範囲に限ってのトレンチ調査ですか?」
「ええ、そうです。前から遺跡として存在した掘割に一つだけ入れて、堀の遺構を検出したのです」
「実は現地へ明日行こうと考えてるんですけど、トレンチはまだ見られますか?」
「明日だったら、まだそのままあると思いますけど」

 その答えの通りであることを祈りつつ、御礼を言い、最後に大貫台地の中世遺跡群の発掘調査報告書は図書館で閲覧出来るかどうかを尋ねました。「それだったら、差し上げますよ。いま持ってきますので」と言い、事務室の奥に行って戻ってきて、二冊の分厚い報告書を下さいました。思ってもみなかったプレゼントに、やっぱり大洗はいいところだなあ、と感じてしまいました。
 いただいた発掘調査報告書は、平成12年刊行の「飛城・常福寺遺跡」および平成13年刊行の「登城遺跡」で、いずれも図版を含めて500ページぐらいの大型報告書です。他の自治体であれば、5000円前後で販売しているクラスの刊行物です。
 ただ、重たいのには困りました。ザックに入れることも出来ないので、片手に一冊ずつ持って、上写真の坂道を歩いて曲がり松商店街へと向かいました。


 とりあえず宿の「さかなや隠居」に立ち寄って荷物だけ置かせてもらうことにし、重たい発掘調査報告書二冊も部屋の机の上に置いて、再び外に出ました。この日の午後には、前回行った浅間神社へ行って境内地の図面をスケッチし、城跡かどうかを見極める予定でしたので、スケッチ用の筆記具とB5サイズの厚紙が必要となりました。それで「坂本文具店」へ立ち寄って調達しました。


 続いて「鳥孝」に立ち寄り、稲石さん夫婦に挨拶して少し雑談をし、今回の自作ガルパン缶バッジおよび同人系缶バッジを寄贈させていただきました。奥さんは、最近に私のブログを知ったそうで、時々記事を読んでるよ、と笑っていました。

「星野さんのブログ、私たちのこともぜえーんぶ書いてあるじゃない、びっくりしちゃったよお」
「大洗巡礼のレポートですからねえ、出会った方々、見てきたもの、交わした会話はそのまま書いていますよ」
「本当だねえ、ここで今までに色々話したこと、みーんなそのまま載ってるもんねえ」
 そう言って笑う奥さんに、「どうやって私のブログを知ったんですか?」と尋ねると、「有賀神社で検索してたら、あっこれホシノって書いてあるけど、あの星野さんのブログかな、あれ?、ええっ、って感じで。それで少し読んでみたら、うちのことも書いてあるし、どうみても星野さんのブログだな、って分かったの」と答えてきました。
 そういえば私の大洗ガルパン巡礼は、有賀神社のお磯下り神事を見に来い、と水戸のU氏に勧められたのがきっかけでしたね・・・。


 それから浅間神社へ向かうべく、商店街から髭釜の旧街道の支道を歩きました。


 ココストアに立ち寄っておやつと飲み物を買い、大貫商店街の街路に引き返して「みむら時計店」に立ち寄り、眼鏡のネジが少し緩んでいたのを直していただきました。大貫商店会の歴史探訪スタンプラリーはまだやってますんで、良かったらどうぞ、とスタンプ用紙もいただきました。

 浅間神社へはこれから行く予定であるし、その横の旧街道をちょっと歩いて西光院の裏手まで行こうかと思っていたので、諏訪神社の前も通ることになります。歴史探訪スタンプラリーの四ヵ所のポイントのうちの三ヶ所を回ることになるので、せっかくだから歴史探訪スタンプラリーの方も同時に楽しんでいこう、と決めました。 (続く)

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カメさんチーム 38(t)戦車 作ります!! その6

2014年12月09日 | ガルパン模型制作記

 ステップ9です。後部エンジンフードおよびハッチを組み立てました。ここでもガルパン仕様への追加工作が必要でした。


 後部エンジンフードのB12には排気口パーツB11を接着しましたが、ハッチのB54およびB55はピットマルチを用いての可動状態にしようかと考えましたので、接着はしないでおきました。せっかく内部のエンジン部分を組み立てているのですから、ハッチを開けて中が見られるようにした方が楽しめることでしょう。
 ガルパン仕様への追加工作は、ハッチのパーツにおいて実施しました。


 劇中のワンシーンを御覧下さい。赤円内に示したように、ハッチ部分のリベットパターンがキットの状態とは異なります。後部エンジンフード上のリベットの数も多いです。


 この範囲のリベットは小さいので、キットの中では転用出来るものがありません。そこでジャンクパーツのなかから適当なリベットを切り取って使いました。公式設定資料の図も参考にして、劇中車のリベットパターンに合わせてゆきました。黒っぽく見えるのが、追加したリベットです。

 なお、劇中車では後部エンジンフード上のハッチのラインの一部が省略されていますが、ヒンジは残されているので、ハッチの構造そのものには変化がありません。私の制作においては、ハッチを可動式にしようかと思案していたので、ラインの一部の省略にはこだわらないでおきました。


 ステップ10では、前面装甲板に機銃を組み付け、ステップ11では右側フェンダー上に載せる道具箱を組み立てました。


 前面装甲板への機銃の取り付けは、上図のように、まずジョイント部のF15を前面装甲板B41に取り付けて、リング部B1で固定します。その後にF14を付けて、機銃B52を通して組み付ける、という順番で行ないました。
 ガイドの指示では組み立ての順序が示されていないので、仮組みをしてパーツの組み合わせ方をチェックしてみたところ、前述のような手順で組む必要があると分かったのでした。


 ステップ11で組み立てる道具箱は、ドラゴンのキットでは大型の箱A26との選択制になっていますが、ガルパン劇中車では道具箱を二種類とも装備しています。ステップ11で組み立てる道具箱を右側フェンダー上に置き、それとは別の箱を左側フェンダー上に置きます。この別の箱は、A26を加工して作る予定です。プラッツ公式キットのガイドには、このA26についての指示が抜けているため、注意が必要です。
 さらに、ステップ11でB17からB21までのパーツにて組み立てる道具箱は上図のような形にまとまりますが、これもガルパン仕様とは異なります。


 劇中のワンシーンを見ると、赤円内に示したように、道具箱の上面も存在します。キットの道具箱は上が開放されていますので、修正が必要です。


 そこで、上にプラ板を貼って整形しました。


 ステップ12および13では、左右フェンダー上の装備品などを取り付けますが、ガルパン仕様に合わせてあるのは予備履帯と、ステップ11の道具箱と、ノテックライトだけです。あとはドラゴンのキットのままなので、使用するパーツも取り付け位置も全く異なります。
 そこで、このステップの工程は後送りにし、車体前部の改造を行なった後の追加工作としてまとめて実施することにしました。


 次のステップ14では、操縦室周りの組み立てを進めますが、ここでガルパン仕様への改造のメインとなる、前部の形状変更に取り組みました。


 キットでは、前面装甲板B41はフラットなままに組み立てますが、これは38(t)戦車の後期型の特徴です。ガルパン劇中車は前期型に属するので、B41の右側が一段引っ込んだ形状になっています。
 そこで、B41を二つにカットして、右側を後ろに下げる必要があります。カットラインは、公式設定資料の図や劇中シーンを参考にして、機銃リングのすぐ横に引きました。


 カットした後、さらに2ミリほどカットして、分割した前面装甲板の双方を整形しました。同時に左側のステーの位置も後ろにずれるので、これもいったん切り離しました。


 車体のフェンダー上にあったステーのモールドを、左右とも丁寧にヤスって削り取りました。前面装甲板B41の形状変更にともなって、ステーの位置も後ろに移動するからです。


 まず、前面装甲板の左側部分、機銃がついている方を、キットの指示位置に接着しました。先行作品では前にずらしている例も見かけましたが、38(t)戦車の前期型と後期型の図面を見比べたところ、左側前面装甲板の位置は同じであることが判明したので、上図のような処理に落ち着きました。


 前面装甲板の右側部分は、3ミリ後ろにずらして接着しました。それに合わせて右側の側板もカットし、B43との隙間もプラ板を貼って埋めました。


 中央の段差の隙間もプラ板で繋ぎました。プラ板をあてて適当に整形しながら合わせましたので、雑な仕上がりになりました。後で溶きパテを塗って整形する予定です。


 さらに、屋根部分のC3も改造する必要がありました。


 C3を、改造した前面装甲板の形状に合わせて削り、プラ板を仮付けして隙間対策としました。このC3は、接着するかどうか、迷っていたからです。接着すれば、内部の様子はあまり見えなくなりますが、接着しないと後部エンジンフードB12も接着出来ない状態になります。

 前にウサギさんチームのM3中戦車リーにおいて車体を上部分割式にしてインテリアも見られるようにした方法を、今回のキットでも採用してみようと最初は考えたのです。でも、パーツの組み付け状態が違うので、分割式にするのは難しいことが分かりました。分割式を諦めて接着するにしても、室内の塗装をする必要がありますので、この段階ではC3を接着しないことにしました。


 とりあえず、このキット最大の改造が完了しました。ここをクリアすれば後は楽かというと、そうでもないので、ガルパン仕様へ近づけるという一連の試みは、このキットにおいても沢山の課題を抱えていることが改めて実感出来ます。


 続いて、改造した前面装甲板B41まわりのリベットを、公式設定資料の図や劇中シーンを参考にして再現しました。リベットの大部分はジャンクパーツから調達しました。
 その後、B41からいったん切り離した左側ステーを、右側ステーと対称の位置に接着しました。


 同時に、背面パネル上のリベットパターンも、削ったり追加したりして、ガルパン仕様に修正しました。とにかくリベットが大量に必要となるので、ジャンクパーツのリベットやモデルカステンのリベットセットなどを準備しておいた方が良いでしょう。


 機銃の室内側のパーツを取り付けました。プラッツ公式キットのガイドにはこれらの指示がありませんので、ドラゴンキットガイドのステップ14を見て組み立てました。


 この機銃については、劇中でも色々な角度から描かれています。が、角度によって細部が微妙に異なっているのが分かります。上のシーンをまず御覧下さい。小山柚子の側から見た機銃のディテールです。


 これを角谷杏の側から見ると、キットのB28に相当する円筒形部品、おそらく照準器なのでしょうが、その先端の形状が異なっています。機銃本体の下部の形状もなぜか違うのですね。このあたりも、アニメの作画ミスなのでしょうか。


 次に、ドラゴンキットガイドのステップ15にて、プラッツ公式キットガイドには指示が無いパーツを二つ組み立てました。


 一つ目は、車内に設置される無線機です。D53とD67をくっつけ、保護フレームはエッチングパーツMA6を使用しました。


 完成した無線機です。これが車内のシャフトカバーの上に乗っかる形でセットされます。


 劇中でも、車内の無線機の様子がうかがえます。上のシーンでは、干し芋を食べている角谷杏の向こう側に無線機の一部が見えます。角谷の席は通信士の位置なので、無線機を扱う場合もあるかもしれませんが、テレビシリーズを通してそういった描写はありませんでした。


 さらに無線機は、河嶋桃の肘掛けとして使われていました。この位置に無線機があるのは、38(t)戦車の後期型でもG型以降であるそうなので、ガルパンのB/C型という設定との差異がここにも表れているわけです。


 無線機は肘掛け代わりだけでなく、ちゃんと使用されていたことが、上のワンシーンから分かります。河嶋桃が砲塔上にてヘッドホンを着用して通信連絡を行っていますが、そのコードは無線機に繋いであったのでしょう。
 このシーンからは、さらにガルパン仕様でのジャッキの形状と装備状況が分かります。プラッツ公式キットガイドには指示が無いパーツなので、公式設定資料図も参考にしました。


 ドラゴンキットのガイドでは、P11、P12、P13、P17のパーツと留め具のエッチングパーツMA21二個を使うことになっていますが、そのまま組み立てるとチェコスロバキア製のジャッキが出来上がります。ところが前掲のワンシーンに見えるジャッキはドイツ製のタイプです。そのパーツは、ドラゴンキットでは不要パーツとなっている、上図のK2、K11、K14に相当します。これらを使用し、劇中と同じ形のP11をこれにくっつけることで、ガルパン仕様のジャッキが出来上がります。

 なお、プラッツ公式キットではKのランナーが省かれているため、ジャッキはP11、P12、P13、P17のパーツしかありません。なので、ガルパン仕様とは異なるチェコスロバキア製のジャッキしか作れません。プラッツ公式キットで作る場合、ジャッキを劇中に合わせるには、タミヤのⅣ号戦車装備品セットに入っているパーツを使用するのが良いでしょう。


 完成したジャッキです。劇中ではハンドルのパーツK2にあたる部分が省略されているようなので、K2は後で取り外しました。
 また、留め具も劇中では二か所のうち後ろの一つしか見えず、形状も異なるので、エッチングパーツMA21は使わず、プラ板などでそれらしく再現することにしました。タミヤのⅣ号戦車装備品セットにも使えそうなパーツがありますので、そちらを利用するのも良いかもしれません。 (続く)

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カメさんチーム 38(t)戦車 作ります!! その5

2014年12月08日 | ガルパン模型制作記

 ステップ8を終えたところで、工程はインテリアの組み立てへとチェンジします。制作ガイドもドラゴンキットのそれに取り替えて進めました。プラッツ公式キットのガイドのステップ8は、ドラゴンキットのガイドではステップ9に相当しますが、ドラゴンキットのガイドではその前のステップ7および8にてインテリアのパーツを組み立てることになります。
 それで、ドラゴンキットのガイドではステップ7から入りました。


 ドラゴンキットガイドのステップ7にて、椅子とギアボックスと変換器と操縦桿を組み立てました。椅子は二つあり、劇中では左に角谷杏、右に小山柚子が座っています。


 その劇中シーンを御覧下さい。椅子もギアボックスも操縦桿もキットのパーツと同じ形で描写されているようです。組み立てながらガルパンのカメさんチームの雰囲気に浸れるので、楽しくなってきました。
 小山柚子が操っている操縦桿、変わった形をしていますね。キットのパーツでも同じ形状になっており、エッチングパーツとプラパーツの二種から選択出来るようになっています。私の制作においてはプラパーツD58を採用して取り付けました。


 角谷杏と小山柚子の居る空間が狭い様子は、上掲のワンシーンからもうかがえます。角谷杏がギアボックスの上に両足をかけているのですが、こうでもしないと足を伸ばせないのかもしれません。まるで夜行バスの座席の空間みたいです。この戦車は前部機銃が使えるようになっているのか、シーンごとに機銃の角度が異なっています。


 ドラゴンキットガイドのステップ8にて、エンジンを組み立て、ステップ9にてギアボックスや椅子などを車内に取り付けます。私の制作では順序を変えてステップ9のギアボックス取り付けから進め、椅子は塗装後に接着することにしました。
 ガルパン仕様では、前部装甲板右のB3のパーツが不要であるほか、尾灯の形状および位置も異なるので、K9およびK10のパーツは取り付けないでおきました。尾灯パーツは、両方とも後のステップにて小改造のうえ、ガルパン仕様の位置に取り付ける予定です。


 ギアボックスを取り付け、変換器も接着しました。操縦桿のすぐ後ろに小山柚子の位置があります。右側側壁には覗き窓もありますので、小山柚子が前方と右側に視界を確保している状況がよく分かります。これで椅子を取り付けますと、空間的には最低限のスペースしかありません。
 なお、椅子は可動式ではなく、固定式であるようです。その様子は、対プラウダ戦にて被弾横転した際の状況からうかがえますので、角谷杏と小山柚子が椅子の後ろの空間へどうやって移動しているんだろう、と気になってしまいます。劇中では角谷杏が河嶋に「代われ」と命じて自ら砲手席につくシーンがありますしね。


 ギアボックスは、前面上部装甲板のB43を付ける前に組み付けた方が楽なのですが、私の制作では後から組み入れました。ハッチの穴から内部を覗きながら、指定位置に差し込むだけなので、さほどに難しくはありませんでした。


 ガイドの指示では、さらにシャフトカバーや後壁のパーツも取り付けることになりますが、エンジンとの組み付け状態がいまひとつ分からなかったため、ステップ8に戻ってエンジンを組み立てておくことにしました。


 エンジンをほぼ組み立てた状態です。プラガEPA4ストローク直列6気筒水冷ガソリンエンジンの形状をよく再現しています。


 このエンジンだけで、20個以上のパーツから成り立っています。ドラゴンのキットはこういう細かい部分でも沢山のパーツに分けていることが多いので、組み立てに手間がかかったりします。


 今回使用したドラゴンキットはG型なので、エンジンもEPAですが、後のH型になると改良型のEPA-2に換装され、馬力も125から140へと上がっています。


 ガルパンの劇中車B/C型のエンジンは、公式設定資料によればEPAとなっていますので、このG型のエンジンと同じであることになりますが、自動車部のレストアによって相当のパワーアップがなされているらしく、劇中での走りは、戦時中の実車の整地での時速42キロを軽く超えているようです。


 エンジンを組み付けてから、室内後壁のD47、シャフトカバーのD21やD18などを取り付けました。車内空間のほぼ三分の一以上をエンジンが占めている状況が分かります。


 こうして見ると、戦車がどうやって動くのかが、メカに弱い私でもよく理解出来ます。エンジンが回って、シャフトで動力を変換器を介してギアボックスに伝え、操縦桿によって操りながら前輪で駆動して進むわけですね。このように、戦車の内部構造を学ぶことが出来る点が、インテリア付きキットの魅力の一つです。


 続いてステップ10では、室内に砲弾ケースを配置します。砲弾ケースは二種類があるようで、側壁にセットする菱形状のケースF9、後壁にセットする箱状のF10、F11、F12があります。


 とりあえず、二種類の砲弾ケースを指示通りに組み立ててみました。同じ砲弾を収納するケースなのでしょうか。38(t)戦車の主砲である3.7センチKwK38の砲弾は、河嶋桃の装填シーンからも分かるように、女子高校生でも割合楽に扱える大きさです。


 上掲のワンシーンでも、角谷杏の右側に砲弾ケースが二列にセットされているのが見えます。側壁にセットする菱形状のケースF9にあたります。ところが、後壁にセットする箱状のF10、F11、F12のほうはセットされていないらしく、見当たりません。他のシーンでも存在を確認出来ないので、ガルパンの38(t)戦車においては、砲弾ケースは側壁と砲塔内にある分だけで充分だったようです。


 そこで、砲弾ケースはF9だけを塗装後に取り付けることに決め、予備機銃銃身ケースのD50だけを車内右側側壁の指定位置に接着しました。砲弾ケースF9には6発が入っていますが、対プラウダ戦の単騎突撃戦のように連続で撃っていたら、あっという間に数ケースが空になったことでしょう。


 ステップ11、12にて、後部エンジンルーム内の各パーツを組み立てて取り付けました。


 エンジン以外にも、色々な装置があるものですね。メカに弱い私には、それぞれのパーツがどういう部品にあたるのかが分かりませんでした。右の丸っこいのは、エアーエレメントでしょうね。あとエッチングパーツの蓋をつけた箱は、バッテリーのようです。


 全てのパーツを後部エンジンルーム内に取り付けました。


 これで後部エンジンルーム内の組み立ても完了しました。色々な装置が詰まっているという感じがしますが、自動車のエンジンだって似たようなものですね。


 この範囲は、後部エンジンフードのパネルを取り付けると見えなくなる所もあるようです。なので、記録の意味でいろんな角度から撮影しておきました。


 後ろ上方からのアングルです。


 ほぼ真上からのアングルです。


 車体全体をフレームにおさめてみました。38(t)戦車は軽戦車に分類されていますが、車体の大きさはアヒルさんチームの八九式中戦車とあまり変わりませんので、日本陸軍戦車の感覚で捉えたら中戦車ということになるでしょうか。
 でもガルパン大洗女子学園チームの中では小型なので、こうして内部まで作って見ていると、本当に小さく窮屈な戦車だったんだろうなあ、と何度も思ってしまいます。本来は四人乗りですが、カメさんチームは三人でしたから、空間的にはまだ余裕が持てただろうな、と感じました。

 同じインテリア付きキットでは、前にウサギさんチームのM3中戦車リーを作りましたが、そちらはエンジンのパーツが無かったので、後部エンジンルームだけは空白のままでした。内部を全て作って組み立てたのは、今回のキットが初めてでした。 (続く)
コメント (6)
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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その2 「橋を渡れば大洗です!!」

2014年12月07日 | 大洗巡礼記

 県道108号線に出て、三叉路を経て、那珂湊では評判のお店の一つである「こけらや」の前を通りました。まだ9時過ぎなので、お店も開いていませんでしたが、海鮮料理が美味しいとの噂ですので、機会があれば寄ってみたいです。少し進むと、ひたちなか商工会議所の那珂湊支店がありますが、その時計は止まったままでした。


 ひたちなか商工会議所の那珂湊支店の前には、おなじみのガルパンキャラクターの看板がありました。アヒルさんチームの河西忍と佐々木あけびです。


 海門橋にさしかかりました。前月に続いての徒歩渡橋ですが、その目的は、前回は満潮の故に見えなかった旧橋の橋脚の基台を見ることでした。この日の鹿島灘は干潮気味となるので、那珂川の水面も多少下がるということを、前もって確かめておいたからです。


 朝の陽光にきらめく那珂川の水面でした。細長く伸びる河口堤防の向こうには、鹿島灘が果てしなく広がっていました。アクアワールドの外観は、何度見ても海岸要塞のようです。


 漁港の方向を見ました。「おさかな市場」の施設も見えました。


 大洗側の北に位置する「かんぽの宿」の建物です。施設のある丘には、かつて佐竹氏の砦が築かれていたと伝わりますが、宿泊棟が建って地形も変わってしまった今となっては、確かめようがありません。
 ですが、戦国期に佐竹氏が常陸太田より南下して支配領域の拡大をはかる過程で、那珂湊をおさえたのは史実ですし、那珂川とともに涸沼川の水運をも狙って鹿島郡への進出を目指したのも史実です。大洗町域は、その重要な進出ルートの一つにあたり、戦国末期に大洗地域と関わりをもった武士と推定される大貫氏が佐竹氏の「譜代之由(三代以上仕えたという意味)」と記されるので、佐竹氏の拠点が那珂湊から大洗に至る範囲に幾つか配置されていたと考えるのも不自然ではないでしょう。

 その候補地として、大洗町南部の大貫台地上に集中する中世戦国期の遺跡群が挙げられます。だから私も以前から着目していて、一度は訪ねようと考えて今回の機会を持ったわけです。でも、これらの遺跡群については「大洗町史」や発掘調査報告書をはじめとする地元の歴史系刊行物では、あまり深く言及していません。中世戦国史の専門家に恵まれなかったためでしょうか。


 さて、海門橋を渡りながら、目当ての旧橋の橋脚基台を見下ろしました。予想通り、今回は大きな橋脚基台部分が黒っぽく見えました。思ったよりも規模が大きく、水面に露出しているコンクリートの位置表示が小さく見えました。この基台に支えられた橋の上を、かつては水浜線が通っていたのだと実感出来ました。


 海門橋を渡り終えて大洗町に入りました。


 町名表示板です。


 町名表示板のすぐ後ろにあるガルパンキャラクター看板です。ウサギさんチームの澤梓と宇津木優季です。


 祝町の「好梅亭」に立ち寄って煎餅二種類をおやつに買いました。前回の訪問時に予告があったガルパン名刺も出来上がっていて、精算時に貰いました。開店直後の時間帯であったせいか、地元の方が数人買い物に来ておられました。


 近くのバス停「祝町」から巡回バス「海遊号」に乗りました。その時刻は9時39分でした。


 大洗町東町商店街の「明神町」バス停で降りて、街歩きに移りました。


 最初に「ウスヤ精肉店」に立ち寄りました。ガルパン巡礼にもおなじみのお店ですが、街歩きの休憩スポットとしても適した位置にあるので、ついつい寄って長居をしてまう方も少なくないそうです。


 今回はいつもの串カツではなく、牛ハラミ焼き150円を買っていただきました。奥さんが「今日来られたということは、もしかしてあんこう祭に?」と問いかけてきましたので、「いえ、16日までは居りませんです、人混みが苦手ですので、ああいう大きなイベントには行きません」と答えました。
 この日は、何人かのガルパン巡礼を見かけましたが、そのうちの何割かはあんこう祭まで滞在するようでした。


 店内の缶バッジ展示ボードの一つです。私の寄贈した自作ガルパン缶バッジも既に60個以上に達しており、今回もサンダース校チーム4個セットなどを寄贈しましたので、70個に近づきました。 (続く)

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ガルパンの聖地 ・ 大洗を行く12 その1 「再びひたちなか海浜鉄道です!!」

2014年12月06日 | 大洗巡礼記
 2014年10月16日、水戸の友人U氏の奈良行きに同行し、奈良県の戦国期の城跡が見たいという彼の希望で三ヶ所の遺跡を案内した。高取町の貝吹山城跡、天理市の豊田城跡、宇陀市の秋山城跡、であった。いずれもU氏にとっては初の訪問地であったが、畿内屈指の規模を誇る城砦の、保存も良好な遺構の数々に接して終始興奮気味であった。帰りの列車の席に落ち着くや否や、彼が発した感慨はこうであった。
「中世とか戦国とかの歴史ってさ、思ってたより凄いんだなあ・・・」

 U氏は、昔から京都や奈良に憧れ、20代の頃から毎年二、三度ぐらいの割合で定期的に古都巡りを楽しむのが趣味であった。当初は京都に傾倒していたらしいが、2000年4月に京都の芸大で同級生として出会った時には奈良の大ファンになっていた。当時の私は奈良の大学を卒業して以来ずっと、奈良県に住んでいたため、U氏がゼミや集中講義で水戸から京都にのぼってきた時は、宿泊費を節約したいという彼の頼みを受けて、ほとんど自宅に泊めていた。その時期の休みには、もちろん奈良の色々な史跡や社寺や名所などを案内していた。
 その頃のU氏の歴史的関心は主に古代で、飛鳥、白鳳、天平時代あたりがメインであった。私もかつてはそうだったのだが、20代後半ぐらいから中世戦国史に関心が移り、城跡や中世の街道や集落、石造文化財などを訪ねるのが生活の一部になっていた。

 近畿地方は、京都や奈良といった古文化財の宝庫であり、古文書や文献資料の残存度が他地域よりも突出している。一次史料と呼ばれる、同時代の人々の記録類や日記類も多く伝世するが、大部分は中世戦国期のものであるため、たとえば城跡や武士などのことを学ぶにあたっても、確かな資料や根拠に恵まれることが多い。だいたい、古文書というものは古社寺に保存されるものが大部分なので、古社寺の多い京都や奈良には、それだけ歴史を学ぶための題材が豊富にあるということになる。

 だから、奈良県に長く住んで奈良の歴史に大変な興味を持っていた私としては、古代史や近世史も一通りは勉強したけれども、鎌倉期から安土桃山期までの約500年間にも及ぶ長い歴史区分である中世戦国期を避けて通るわけにはゆかず、また奈良県の遺跡や文化財の大半が中世期以降の遺品で占められていたため、自然とそれらに熱中し没頭していったのは自然な成り行きであった。
 そうして、異動によって奈良県を去る2011年までの25年間に、奈良の城跡約450ヶ所、集落120ヶ所、中世文化財2000件余りを見て学び、畿内でもドラマチックであったとされる大和国の中世戦国史の大体の流れと骨格を、ほぼ理解するまでに至った。京都の芸大にて提出したレポートも、多くは大和の中世戦国期の文化財に関する内容であった。

 そういうのをU氏はずっと見てきている筈なのであるが、最近まで奈良県の中世期以降の歴史にはほとんど無関心であったため、U氏と同行する時は私も古代関連に絞って案内してきた経緯があった。それが、今回になって、いきなり中世戦国期の遺跡や文化財を見たい、と言い出したのであった。どういう風の吹き回しか、と怪訝に思ったのは言うまでもない。

「いや、実はな、星野が毎月のように大洗へ行ってさ、いろんな時代の歴史を分け隔てなく綿密に調べて楽しんでるだろ、そういうのをみててさ、歴史ってのは、いろんな時代をちゃんと見て知っておいたほうがももっと面白そうだな、って思ったんだよ」
「ああ、そうか。そうだな。まあ、一つの時期だけをやるよりは幅も広がりもあって楽しいのは間違いない」
「それで星野がいつも言ってるだろ、奈良の歴史で一番面白いのは中世戦国期だ、って」
「うん」
「それは奈良や京都以外の県でも同じなんだろうな、ってだんだん思うようになったんだ。僕らの関東なんかは鎌倉期から実質的な歴史がスタートするし、水戸の辺りだって、古代史は空白に近いが中世以降ならばいくつか文化遺産も残ってる」
「そうや、茨城だけじゃない、日本全国に広がった歴史の、最も古い時期の文化財が伝わってるというのは、だいたい鎌倉期からやで。それ以前の平安期とか天平期とかになると、遺跡しか残ってないからね」
「それはよく分かる。だから星野は夏に常澄の古寺とかを真面目に探訪してたんだよな」
「ああ、六地蔵寺とかね。ああいうふうに中世期の建物が現存してるなんてのは珍しいからね」
「例えばさ、僕は古代の仏像とかの仏教美術に興味があったから、星野とも行って色々奈良の古寺回ってたくさん見てきたわけなんだが、そういう文化財は関東に行くと数がいっぺんに少なくなってしまう。天平時代の遺品なんて小型の金銅仏しか残ってない」
「うん」
「でもさ、鎌倉期から後の史跡とか寺とか、城跡とかだったら、関東にもいっぱい残ってる。茨城だって城跡でいったら遺跡の宝庫であるらしい」
「あるらしい、じゃなくって実際に宝庫なんやで。茨城県は、城跡に関しちゃ関東地方でも割合に研究も資料化も進んでるほうで、「茨城の城郭」という刊行物もまとめられている。県別にみたら、そういう地域はまだまだ少ないんやで」
「ふーん、そうなのか」
「大洗でも、調べてみたら埋蔵文化財の比率は中世期以降のそれが相当高いんで、この前ちょこっと情報とかを教えてもらったけど、まだ行ってない南部エリアに中世の寺院跡や城跡とかがかなりあるらしい。来月(11月)にはそういうのを見に行こうかな、とは思ってるんやけど」
「それはブログでも書いてたな。道路開発とかで破壊されるのが残念だ、とか何とか」
「ああ、年内には確実に破壊消滅するらしい。まったく残念というか、惜しいというか・・・」
「そういう記事を読んでさ、ちょっと調べてみたらさ、日本全国で破壊されて失われてゆく遺跡で多いのが中世戦国期の遺跡だっていうからびっくりしちゃったよ」
「そう、そうや。近畿地方でも次々に遺跡が消えている。文化財行政が古代ばっかり重視して大事にして予算をつぎ込んでる傾向があるから、中世戦国期の遺跡なんて見捨てられてるも同然や」
「その、見捨てられてる時期の歴史が、日本全国どこにでも残って学べる歴史だってのは、なんか皮肉だよな。それにだんだん気がついたからさ、今さらという感はあったけど、奈良の中世戦国史に目を向けてみようかと思ったんだ」
「それで、今日は、朝から城跡を案内してくれ、って言うてきたわけか」
「そうなんだよ」
 そう言いつつ、長話の間にすっかり冷めてしまった缶コーヒーを、旨そうに飲み干すU氏であった。

 そして、こう聞いてくるのであった。
「大洗でこの前は水浜線の廃線ルートも踏破したんだろ?来月に大洗行ったら、中世戦国期の遺跡とかを見て回るのか?」
「その積りやけど・・・、道路建設工事が進むらしいんで、下手すると見に行く前に遺跡が壊されて無くなってしまってる可能性もある」
「急がないといけないようだな」
「そうだけど、ああいう遺跡は山の中とか草薮の中にあることが多いんで、夏場は入るどころか近づくことも難しいんや。城跡なんかは山や丘にあることが多いから。草葉が枯れてなくなる冬場にならないと行くことすら難しいんや。急ぎたくても、冬にならないとどうにもならん」
「それは、今日の貝吹山城や豊田城で本当によく理解出来た。まだあんなに夏草が繁ってたら、見れる所も見えないもんな」
「奈良の城は、まだマシな方なんや。兵庫とか滋賀あたりだとクマとかも居るし、ハチも出るし、危険がいっぱいや。冬場になったらクマもハチも減るから、その時期に城跡へ行くってのが普通やな」
「茨城にはクマはあんまり居ないよ」
「うん、大洗にもクマは居ないし、イノシシもあんまり出ない、って江口又進堂で教えてもらった」
「じゃあ、まだ安全なんだな」
「まあ、そういうことかな・・・」

 応えつつも、本当に安全なのかどうかについては、私にも分からなかったのでした。何しろ、大洗の中世戦国期の遺跡というのは、まだ行ったことの無い場所ばかりで、地元住民すらも寄りつかないような所が殆どだったからです。果たしてそこへたどり着けるのかどうかも確信が持てず、不安だらけでした。奈良県の城跡へ初めて行きだした頃も、そんな感じでしたが。
 それでも、次の大洗行きでは、そういう所を目指す予定を組む必要がありました。開発工事によって破壊消滅の危機に瀕している所もあるからです。


 かくして、11月の大洗行きは、なんとか13、14両日に機会を得て、那珂湊散策も加えたコースを楽しむことにしました。U氏が14日の午後のみ同行可能だというので、中世戦国期の遺跡巡りは14日に計画し、13日はガルパン関連も楽しみつつ、事前の情報収集に務めることとしました。

 そうして早朝に上野を出発し、8時には勝田に着いてひたちなか海浜鉄道に乗り換えました。前回と違って快晴のもとでの乗車でしたから、陽光に包まれて心も浮き立つような、新鮮な感じが味わえました。車輛は、前回と同じキハ3710型でした。


 この列車に乗るのは三度目でしたが、今回は新たに出来た駅を見るという楽しみがありました。10月に運用が開始されたという「高田の鉄橋」駅がそれで、それを記念するヘッドマークが、列車前面に取り付けられていました。よく見ると手作り品のようで、鹿島臨海鉄道のガルパンキャラのヘッドマークとよく似た感じが漂っていました。


 貼られていたのはヘッドマークだけではありませんでした。子供向けアニメ「デュエル・マスターズ」のラッピングデザインも施されていました。
 この10月5日より運行が始まったそうで、トレーディングカードゲームの中でも人気があって、TVアニメも放映されている「デュエル・マスターズ」とのタイアップ企画だということです。ラッピング列車自体も、「熱血デュエマ列車」と称していました。そのせいか、子供連れの客が二組ほど乗ってきていました。


 出発時刻になり、するすると列車が動きだしました。その瞬間を、一番前にてカメラで撮影しました。


 地方ローカル鉄道特有の、のどかな車内空間が朝の日光に包まれて、温かみに満ちていました。平日の朝でしたが乗客は15人ほど乗っていて、けっこう利用されているという感がありました。2011年に既に黒字化を達成していると聞きましたから、この種の鉄道としては運営がうまくいっているようです。


 新駅の「高田の鉄橋」の駅名表示板です。鉄橋の下に位置するので、デザインもそのまんまでした。


 那珂湊駅に着きました。今回の乗車はここまでなので、下車してから記念に一枚撮りました。


 反対側の線路では、既に発車した勝田行きの列車が遠ざかりつつありました。動物のデザインを施してあったので、あれが「アニマルトレイン」と呼ばれてるキハ37100型か、と気づきました。ひたちなか海浜鉄道が保有するなかでは最新型の車輛です。


 那珂湊駅の駅舎です。三度もここに立つとは、思いもしませんでしたね・・・。


 で、今回の乗車記念の片道切符と缶バッジです。缶バッジの方は、夏にもらったのと色が異なっていました。秋バージョンなのでしょう。切符の方は同じデザインで、これで茨城交通のバスも利用出来ますが、今回は徒歩で那珂湊の街を歩いて海門橋も渡る予定でした。


 時間が貴重なので、駅舎を後にして出発しました。


 途中で見かけた稲荷神社の一社です。ここも江戸期には水戸藩の領地でしたから、稲荷神の勧請が奨励されたといい、大洗とあまり変わらないほどの分布を示していると聞きました。ただ、社殿の建物が新しかったり、コンクリリート建築になっているところがかなりありました。
 と言うのも、那珂湊は、戦後の昭和22年に市街地の3分の2を焼失するほどの大火を経験しているからです。その際に古い街並みも多くが失われてしまい、前回の散策で見てきたように、古民家も各所に僅かに残っているだけなのです。


 大火後に街並みが一新された様子は、歩いていてもよく分かりました。江戸期どころか、昭和前期の建物さえもあまり見当たらないのでした。それでも街道筋の雰囲気がしのばれるのは、地割がさほどに変えられていないために、多くの建物が旧規模を踏襲して並んでいるからでしょう。


 天満宮付近は、奇跡的に焼失を逃れた地区であるそうなので、割合に古い民家も並んでいました。鳥居の左手を登れば水戸藩の湊御殿の跡に行けます。


 漁港の方角へしばらく進み、古い建物が並ぶ路地道を経て、海門橋への車道へと移りました。大洗側へ渡ってすぐの祝町で大洗町の巡回バス「海遊号」に乗る予定でしたので、その時刻までに向こうへ行かないといけませんでした。
 時計を見るとあと30分足らずでしたので、あまりのんびりとしているわけにもいきませんでした。 (続く)
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カメさんチーム 38(t)戦車 作ります!! その4

2014年12月05日 | ガルパン模型制作記

 ステップ7です。車体前面の下部装甲部を組み立てますが、ここでもガルパン仕様への改造が必要となります。ガイドの指示では予備履帯をつけて留め具のD60で固定することになっていますが、劇中車のこの位置には予備履帯がつけられていませんので、履帯も留め具も不要です。


 ガルパン仕様への改造の中心は、このB37のパーツです。車体前面の下部装甲部にあたりますが、御覧のようにコの字形のモールドが左右についています。


 ところが、劇中車では、赤円内に示したように、コの字形のモールドがなく平滑面のみとなっています。まずはこの形にしたがうことになります。


 まず、B37のリベットの大部分を丁寧に削り取り、保管しておきました。平滑面に改造してから、再びリベットを配置することになるので、一個たりとも無駄にしないように心掛けました。


 サンドペーパーで慎重にヤスってコの字形のモールドを削り取り、平滑に仕上げました。


 切り取って保管しておいたリベットを、再び並べて復元しました。


 改造したB37に、フックを取り付けますが、キットのパーツB22およびB23は、劇中車のフックと形状が全く違うので使いませんでした。劇中シーンを参考にしながら、ブラ板でそれらしく形どって穴をあけたものを取り付けました。


 ステップ8では、車体前面の装甲板の上下を張り付けました。先に改造した下部装甲部も、この段階で車体に接着します。


 まず、下部装甲部を取り付けました。ブラ板で自作したフックが、ちょっと厚いように思われたので、後でヤスって薄くしておきました。


 続いて車体前面の上部装甲板のB43を取り付けました。手前に並べてあるのは、最前部のステーB46およびB47です。ステップ4で取り付ける旨の指示がありますが、その接着位置となる穴が、御覧のように上部装甲板のの両端に配置されているため、B43を着けてからでないと、正しい接着位置が定まらないのです。


 最前部のステーB46およびB47を、B43の両端の穴に差し込む形で接着しました。続いてガルパン仕様へと近づけるべく、B43とB37の合わせ目を溶きパテなどで埋めて消しました。実際の38(t)戦車には見られる合わせ目が、劇中車には無いからです。しかも、その位置にリベットが並ぶので、それも忠実に再現する必要がありました。上写真の下の方に、準備したリベットの幾つかが見えています。


 合わせ目を消したところに、劇中車の姿にならってリベットを並べました。とにかくリベットが沢山必要になるキットです。


 ギアボックスの点検ハッチにあたるB44を仮にはめ込みました。このハッチは、ピットマルチの使用によって可動状態にしておく予定でしたので、接着はしませんでした。さらに、モールドされているハンドルが小さいので削り取り、真鍮線で劇中車のそれを再現し、テープで仮留めしておきました。 (続く) 

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ガールズ&パンツァー 劇場版は2015年夏へ

2014年12月04日 | ガールズ&パンツァー

 公開が待たれるガルパンの劇場版、大方の予想通り、年内の公開は叶わないことになりました。少なくとも半年以上は延びて、2015年夏に公開予定、というこです。

 情報によれば、劇場版では知波単学園チームの西絹代の他、新たなキャラクターが最低でも二名は登場するだろうということです。でも大洗女子学園のメンバーは、上のポスターに全員が揃っている雰囲気からして、従来通りの顔ぶれでいきそうな気がします。
 予告編では、聖グロリアーナ女学院との再戦を実現した点が明らかにされていますが、そうであればなおさら、大洗女子学園チームに新メンバーと新たな戦車が加わるという可能性は、とても低そうに思えますが・・・。

 まあ、ガルパン戦車キットを作りながら、まったり気長に待つことにしましょう。
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カメさんチーム 38(t)戦車 作ります!! その3

2014年12月03日 | ガルパン模型制作記

 ステップ3では、背面パネル部分や排気管などを組み立てました。ここでもガルパン仕様への改造箇所が三つあります。まず、穴あけ指示が四ヶ所にありますが、劇中車には無いので穴をあける必要はありません。にもかかわらず、プラッツ公式キットのガイドでは穴あけ指示を元のドラゴンキットガイドのままにしているので、注意が必要です。
 この四ヶ所の穴は、ドラゴンキットでは道具箱の取り付け穴となります。ですが、ガルパンの劇中車は道具箱をつけていません。


 大部分のパーツを取り付けたところです。このうち、フックのB24およびB25は先端がねじれて左右に向いています。ガルパン仕様では、このねじれ部分がありませんので、後でカットして整形しておきました。


 続いて排気管の形状も異なります。B50についているパイプ部分の位置は下にありますが、ガルパン仕様では円筒部分側面の中央から出ていますので、カットして形を修正してみました。


 劇中車の排気管は、御覧のような形状になっています。多くの先行作品においては、プラパイプなどで作り替えるケースが多いようですが、ここではカットしたパイプ部分を用いての作り替えに挑戦してみました。


 カットしたパイプ部分をヤスって整形したのち、ちょうど半分にカットしました。


 半分にカットしたパイプを、劇中車の排気管の形状に合わせて接着し直しました。こんな感じかな、と思いますが、D51のカバー内にぴったりおさまるかどうかが分からないので、場合によっては再修正が必要になるかもしれません。
 ガイドの指示では、この排気管を車体に固定するパーツB42とB63がありますが、これらも劇中車には見えないので、取り付けません。ですが、この固定具が無いと排気管をしっかりと車体に取り付けることが出来ないので、どうしたものかと考え込みました。後で排気管を接着する際に改めて考えることにしました。


 ステップ4、5では、車体左右のフェンダーなどを取り付け、ステップ3で組み立てた背面パネルも取り付けました。ここでもガルパン仕様への改造箇所が二ヶ所あります。フェンダーと覗き窓の蓋です。


 フェンダーのパーツB2およびB4です。縦に滑り止めとみられる凸線が四本並んでモールドされています。


 ところが、劇中車のフェンダーには四本の凸線がなく、ツルツルの平滑面になっています。


 そこで、丁寧にヤスリがけを施して凸線のモールドを削り取り、サンドペーパーで平滑に均して仕上げました。ドラゴンキットのプラスチックは柔らか目なので、削るのも比較的楽でした。


 改造したフェンダーB2およびB4を車体に接着しました。


 左右のフェンダーが水平に正しくついているかをチェックしました。車体パーツEにも僅かな歪みが見られましたので、あらかじめ室内パーツのD47を仮に組み込んでおき、左右フェンダーの水平感を確かめました。ここでしっかりと水平にしておかないと、ステーのパーツなどが正しく取り付けられないからです。


 ステーのパーツB5、B6、B7、B8、B65、B66を順に接着しました。B69は劇中車に無いので不要であり、また最前列ステーのB46およびB47は、位置が前面装甲板B43などにまたがるため、仮組みだけして、後のステップ8にて前面装甲板B43を取り付けてから合いを確認して接着することにしました。


 ステップ5では、車体左右側面の覗き窓の蓋にあたるD27とD65を取り付ける指示がありますが、ガルパン仕様では左右ともD27の形状になっているので、プラッツの公式キットからD27を持ってきて、D65と交換しました。


 ステップ3で組み立てた背面パネルを取り付けました。この段階では排気管はまだ取り付けません。ガルパン公式設定資料の図などを見ますと、取り付け位置が後部エンジンフードパネルの末端にも少し乗っかる形になっている感じです。したがって、後のステップ15にて後部パネルのB11やB12を取り付けた後でないと、排気管を取り付けられないだろうと判断しました。


 ステップ6です。車輪類を車体に取り付けて履帯もはめるという指示になっています。私の制作では履帯をマーダーⅢのキットのベルト式パーツで転用し、車輪類の取り付けも塗装後に行うことにしましたので、軸部のリーフスプリングA9などを接着するにとどめました。


 リーフスプリングA9やクランク軸のA1、A2などを取り付けた状態です。


 一度、起動輪や転輪を仮につけてみました。転輪の大きさが印象的でした。今までに作ったガルパン戦車キットの6輌のどれよりも大きいのです。


 反対側の起動輪や転輪も仮につけてみて、軸部の接着の具合をチェックしました。38(t)戦車はチェコスロバキア製ですが、足回りはドイツ後期戦車のティーガーやパンターなどに似た雰囲気があるなあ、と思いました。民族的にはドイツはゲルマン系、チェコはスラブ系ですが、戦車の設計思想には似通った部分があったのでしょうか。 (続く)

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ガルパンのスナイパーたち

2014年12月02日 | ガールズ&パンツァー
 ガルパンに登場する戦車道各チームには、すぐれた砲手たちがいます。テレビシリーズの全12話およびアンツィオ戦で活躍したスナイパーたちを見てゆきましょう。


 まずは、大洗女子学園あんこうチームの秋山優花里ですね。もともと戦車オタクで、戦車対戦ゲームも慣れているという設定がありましたが、ゲームで当てるのと、実際の戦車砲を扱うのとでは雲泥の差があるはずです。それをまったく感じさせないほどの、初陣の練習試合の活躍ぶりでした。
 吊り橋の上でのピンチにおいて、西住みほに頼まれてⅣ号戦車D型の旋回砲塔を慌てず的確に操り、カバさんチームのⅢ号突撃砲F型、アヒルさんチームの八九式中戦車甲型、カメさんチームの38(t)戦車を、いずれも一射で撃破しています。素晴らしい腕ですね。このまま砲手として活躍してほしかったな、と思ったこともあります。


 続いては、同じあんこうチームの五十鈴華です。砲手を志願して秋山優花里と交代し、全国大会での緒戦で活躍しています。
 聖グロリアーナ女学院との親善試合でマチルダ3輌を撃破、全国大会でのサンダース戦ではフラッグ車のシャーマンを仕留めています。プラウダ戦ではT34の1輌を撃破、さらにKV2を共同撃破しています。黒森峰戦ではラング、マウス、そしてフラッグ車のティーガーⅠを仕留めました。秋山優花里に劣らぬスナイパーぶりでした。


 五十鈴華と対決して敗れた、サンダース校の副隊長のナオミもなかなかの腕前です。登場した時点で「こいつはなかなか出来そうだな」と思わせる物腰と雰囲気を持っていましたが、予想通りにファイアフライにて大洗チームの八九式中戦車甲型、M3中戦車リーの2輌を次々と撃破しました。
 最後は敗れたものの、それでもⅣ号戦車D型に命中させていますから、このナオミも一撃必殺の名スナイパーであることは間違いありません。寡黙だが優秀、狙撃者の風格を最もよく備えるキャラクターではないかと思います。


 大洗女子学園チームにて、五十鈴華に次ぐ撃破数を誇るのが、カバさんチームの左衛門佐こと杉山清美です。親善試合でマチルダ1輌を撃破、プラウダ戦ではT34の1輌を撃破、さらにKV2を共同撃破しています。黒森峰戦ではパンターとラングを1輌ずつ仕留めています。弓道で培った集中力を生かしての活躍でした。
 なお、プラウダ戦でⅢ号突撃砲F型は雪中に隠れて相手のフラッグ車のT34をやっつけましたが、このときは左衛門佐は外に出ているので、おりょうが臨時に砲手を務めたようです。


 プラウダ戦では、カメさんチームの角谷杏も意外な働きを見せました。河嶋桃と交代していきなり初弾でT34の1輌を撃破、その後の単騎突撃戦でさらに2輌を仕留め、1輌の履帯を吹っ飛ばしています。
 ヘッツアーに変わってからも砲手の位置にとどまり、黒森峰戦では後方攪乱に徹してパンターとヤークトパンターの履帯を破壊しています。なぜ最初から砲手をやってくれなかったのか、と思うほどの、目のさめるような活躍でした。


 大洗女子学園チームに数輌を撃破されたプラウダ高校チームですが、その戦果は副隊長のノンナが一人ですべて稼いでいます。まずカメさんチームの38(t)戦車を吹っ飛ばし、追撃戦ではウサギさんチームのM3中戦車リー、カモさんチームのB1bisを次々に撃破しています。
 最後に狙ったフラッグ車のアヒルさんチーム八九式中戦車甲型へは至近弾にとどまりましたが、全速追撃のなかでこの命中率は大したものです。サンダース校のナオミと並ぶ、対戦校スナイパーの双璧です。


 大洗女子学園チームでは、レオポンさんチームのホシノの活躍も看過出来ません。同じホシノだからって贔屓にしているのではなく、実際に黒森峰戦では初陣にもかかわらず、Ⅲ号戦車1輌、パンター1輌、ラング2輌の計4輌を撃破しています。テレビシリーズにおける、一回の試合で挙げた単独撃破数としては、このホシノの4輌が最多なんですね。
 やっぱりホシノですね。なんてったってホシノですよね。ウキーッ !! (アホかお前は)


 最後はやっぱりこの人、アヒルさんチームの佐々木あけびですね。親善試合ではチャーチルに命中させていて腕の良さがうかがえましたが、八九式中戦車甲型の豆鉄砲ではどうにもならず、歯がゆい思いをさせられました。それを、アンツィオ戦OVAでの活躍で見事に吹き飛ばしてくれましたね。
 アンツィオ校のCV33を次々に撃破してゆくシーンを見て、やっぱり彼女の腕は本物だった、と思ったのは私だけではない筈です。その活躍ぶりは、実際の日本陸軍の戦車兵たちへの鎮魂歌でもあるような気がしてなりません。行進間射撃でも好成績をおさめた優秀な人々がいたにもかかわらず、戦車自体の非力さの故に武運に恵まれず散っていった場面が、あまりにも多すぎましたから。
 なので、劇場版では是非とも優れた戦車に搭乗して活躍して貰いたいところですが、予告編を見た限りでは、アヒルさんチームの八九式中戦車甲型、という図は変わらないみたいですね。なんとかならないものでしょうか。
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