浅間神社に着いたのは15時過ぎでした。城跡かどうかを見極めるために図面をとることにしたのですが、最低でも30分はかかると見込んでいたため、急いで探査に取り掛かりました。前月よりも草葉は少なくなっていましたが、それでも下草は少なくなく、地表面の状態は近づかないと分かりませんでした。
まずは、前回の訪問時に土塁のように見えた盛り上がりに登りました。外側は完全な地山と分かりましが、内側が窪んで横堀状に見えたので、なんで窪んでいるのだろう、と不審に思って窪地の底へ降りてみました。
その時点で、境内地のマウンドは上写真のように高く盛り上がって見え、城砦の櫓台のような外観を呈していました。左側に、拝殿横から登る石段が見えます。
窪地は北にやや下がって北側の地山傾斜面に繋がっていました。そこへ回るとマウンド周りの傾斜面が最も急な状態で見え、まさに城砦の切岸のような感じでした。古墳であればこれほどの急傾斜はまず見ませんので、古墳ではない可能性が高くなりました。
それでは城砦の櫓台かというと、その可能性も低くなってきました。外回りの盛り上がりが単なる地山だと判明した時点で、これは違うかもしれない、と考えました。マウンドの上に見える石祠を見上げつつ、これはやっぱり浅間神社特有の「富士塚」かもしれないな、と思い始めました。なぜならば、現地の字名も「富士山」であるからです。
前回の訪問時には、戦国期の城砦かもしれないと思って相当期待もしたのですが、いざ細かく探査してみると、城砦遺跡特有のパーツが全然見えてこないのでした。先ほどの窪地も、「富士塚」を構築した際の土取り跡なのかもしれないな、と思いました。淡い失望感が次第にわきあがってきました。
ところが、反対側の西側に回ると、土塁状の細長い盛り上がりが平坦地の端にくっきりと見えました。あれ?と思って近寄ると、その内側も窪んでいて、今度は長く北西方向へ緩やかに降りていくのでした。
窪地を進んでいくと、眼前に急な竪堀状の切り込みが表れました。傾斜角度は45度を超えており、城砦遺跡であれば竪堀とみても差し支えないような状態でした。なんで神社の境内にこんなものがあるんだ、と驚きつつも切り込みの底を注意深く下へ降りました。二度ほど足を滑らせて落ちかけたので、簡単に上り下り出来るような所でないことだけは理解出来ました。しかし、中世期の山道にはこの程度の急坂も珍しくなかったそうなので、この時点でも竪堀かどうかは確信が持てずにいました。
上写真は、竪堀のように見える切り込みの中を三分の二ほど降りて上の境内地を見上げたところです。
切り込みの下まで降りると、その先にははっきりとした山道の痕跡が見えました。やっぱり山道だったか、切り込みは神社への登り道だったのか、と納得しつつ、山道を下まで辿りました。ウツギ崎の尾根との間の谷間に出ますが、沢が流れているので、向こうへは渡れませんでした。沢の向こうは工場のような施設の敷地になっていて、フェンスが張り巡らされていましたから、沢を渡ったとしてもそこから先へは進めません。
図面も一応描いてみましたが、結論として城砦遺跡の可能性は低いと判断しました。こうなると西隣のウツギ崎砦も本物かどうか分からなくなってくるぞ、と思いました。なぜならば、大洗町教育委員会の埋蔵文化財データや遺跡分布図にはウツギ崎砦の表示は無いからです。
ではなぜ、ウツギ崎砦の存在が城郭ファンの中でも周知されているのかというと、茨城県の遺跡地図に印が記されているからです。それなのに、地元の大洗町教育委員会のほうでは遺跡として認識していないようなので、その点が不審に思われました。昼に文化財担当官の方に会った際に、そのことも確認しておくべきだったな、と気づきました。
かくして、浅間神社でのミニ探査は、城砦遺跡ではないだろうという結論を得て終了しました。正直言ってガッカリしましたが、城郭遺跡研究においては、城跡が存在しないことを確かめるのも重要な作業なので、落胆するには至りませんでした。
続いて、浅間神社の前を通る旧街道筋の探査に移りました。日が傾いてきているので、周囲の景色を撮影しながら道なりに進みました。写真にも、撮影する私の影が長く伸びていました。
そのうちに、犬を連れた地元住民の老人と、その家族らしい主婦に出会いました。老人に「どなたかの家を探しとるのかね」と聞かれたので、事情を説明しました。すると「ああ、浅間神社のあれは富士塚であのへんは富士山って地名だな、城跡なんかじゃないよ」と言われました。
「なんで城跡だと思ったんかね」
「西側の尾根にある神社の上に、ウツギ崎砦という城跡があるとされていますので、その向かいにある浅間神社もかつてはそうだったのかな、と推定したわけでして・・・」
「それは有り得ないな、ウツギ崎は知っとるが、あそこも城跡じゃないよ、昔はあそこに家が建ってて人が住んでたんだ」
「城跡の場所に人が住んでいた、ということではないのでしょうか?」
「そこまでは分からんけれども、ワシは生まれてからずっとここに住んでるんだが、あそこが城跡だなんて話は聞いたことが無いな」
「そうですか・・・」
老人は70代ぐらいのようでした。その方が「城跡だなんて話は聞いたことが無いな」と仰られたのですから、ウツギ崎砦というのも余計怪しくなってきた、茨城県の遺跡地図の記載も間違いなのかもしれない、と思いました。しかし、老人の次の言葉には驚かされました。
「城跡は聞いたことはないけどな、でもこのへんは古戦場か処刑場がたくさんあったかもしれん。向こうに森が見えるじゃろ、その左にも丘が見えるじゃろ、あれみんな、昔から「首切り山」って呼ばれとるんだな」
「えっ、首切り山、ですか。字名がそういうのなのですか」
「いや、字名は別にあるんだが。でもこのへんに昔から住んでる者は代々「首切り山」って呼んでる。開墾とか工事とかの度に人骨がゴロゴロ出よった事もあったからな」
すると隣の主婦の方が続けて話し出しました。
「あの向こうに、白い屋根の家が見えますけど、あの家を建てる時に地面を掘ったら人の骨が出てきたんで大騒ぎになったそうなんですよ」
「それは、いつの話でしょうか」
「私が小学校の時やから、昭和30年か31年だったかねえ・・・」
横から老人が「違う、33年の秋じゃ」と強く訂正しました。記憶には自信を持っておられるようでした。古戦場か処刑場がたくさんあったかもしれん、との証言とあわせると、どうやら大貫台地上にはやはり中世期の歴史が相当な密度で展開していたもののようです。そのことを少し話すと、老人は大きく頷いて、そうだろうな、と言いました。
「あんたは知ってるかもしれんが、この道をずっと行けば飛城っていう戦国時代の城跡があるんだ。住宅地になるということで、十年ぐらい前に発掘をやってたんだが、大きな城の遺跡が出たよ。ここいらはその北側にあたるんで、城を巡っての合戦とかはあったかもしれん。あそこの「首切り山」のもうちょっと向こうに行ったら大貫池があるんだが、その真ん中にも城跡があったんだよ」
「一杯館のことでしょうか」
「そう、そうです。ここの道も、一杯館から磯浜へと通じる街道やったということで、道そのものは奈良時代からあったと聞いたことがある」
「その飛城や一杯館の城主や武士についての言い伝えは、このへんにはありませんか」
「言い伝えどころか、このへん一帯は戦前までは雑木林とか荒れ野原だったんで、人家なんて無かったんだよ。戦後に開発して圃場整備して、林を切り開いて家も建ち始めたんだ。ワシが子供の頃は、西光院さんの裏山なんて夜中はおっかなくて行けねえ、行っちゃいけないんだよ、なにしろ「首切り山」だからね、とか言ってみんな近寄らなかったんだ」
「西光院さんの裏山、といいますと、この辺がそうなのですか」
「ああ、そこが西光院さんの墓地の裏手にあたっとります」
そう言って、左手約100メートルに見える深い竹林を指差してくれました。
老人たちの家は、西光院の近くだということで、西光院までの道を案内していただきました。歴史好きな方らしく、山門参道入り口で別れるまでに、大貫地域の昔話や伝承などを色々語って下さいました。どれも興味深い話でしたが、なかでも「首切り山」の呼称は、大きな収穫となりました。大貫台地の北部にも中世戦国期の歴史が展開していた名残であると思われるからです。
周知のように、大貫台地上において発掘調査などにより所在が確認されている中世戦国期の遺跡は、落神遺跡、飛城遺跡、常福寺遺跡、登城遺跡など数ヵ所に及びます。いずれも遺跡遺物の年代観の上限は15世紀とされていて、ちょうど戦国時代の後半期に含まれます。さらに未調査の遺跡として一杯館(工事で消滅)、龍貝館、後新古屋館、大館館、小館館などがあり、近辺にはさらに遺跡が埋もれている可能性も指摘されます。
また、中世期に創建された寺院も少なくなく、大部分は廃絶して遺跡すら定かではありませんが、現存する西光院は応永二十四年(1417)の建立になります。夏海の悉地院や成就院、亀山の不動院も15世紀には存在したようです。
それで近辺には同時期の集落や葬送場なども点在したものと思われますが、それにしても「首切り山」の呼称はあまりにも生々しいものです。合戦や処刑などが実際にあったのかどうかは分かりませんが、古戦場だったのであれば、可能性は無いとは言えません。人骨が実際に出ているのであれば、その近くで何らかの形で人が死んだということが明らかだからです。
しかし、大洗町域においては、現在のところ、中世戦国期の古戦場があったと伝わる場所は皆無です。南の鉾田地域には籾山合戦や徳宿合戦の伝承地があり、涸沼の西側の茨城町地域では小鶴原合戦の伝承地がありますが、いずれにも水戸エリアの有力国人江戸氏が関与していて、江戸氏と在地勢力とのせめぎあいがあったことがうかがえます。
そうした地域において大洗エリアに古戦場のことが知られないというのは、在地勢力が江戸氏や後の佐竹氏とは敵対関係になかったという可能性を考えさせます。落神遺跡、飛城遺跡、常福寺遺跡、登城遺跡など数ヵ所の運営主体とされる在地勢力がそうした史的位置にあったのだと仮定することも可能でしょう。
その在地勢力を、「大洗町史」では千葉氏支流に連なる大貫氏、と簡潔に述べていますが、その実態はあまり明らかになっていません。
西光院の境内です。古記録によれば、一杯館の城主千葉資胤が舅にあたる宥祖のために建立したといい、千葉資胤は後に姓を大貫に改めたとされています。しかし、現存する千葉氏系図においては資胤の名が見当たらないので、記録そのものが混乱している可能性も考えられます。
西光院は、大貫台地上に寺域を構えて落神遺跡、飛城遺跡、常福寺遺跡、登城遺跡などとは指呼の間にあるため、これらの遺跡の運営主体であった在地勢力と何らかの関わりがあったと考えられますが、その在地勢力が千葉氏系列であったと記録されるに至る、何らかの歴史的展開があったのでしょうか。
境内にあるイチョウの大木は、樹齢約400年とされますが、それならば中世戦国期に存在していなかったことになります。戦国期の終焉にあたる関ヶ原合戦の後に生えたことになるでしょう。いまは県の指定天然記念物に指定されていますが、その経てきた歴史は、近世からのものになります。中世戦国期とは、それよりも遠い昔のことなのです。
浅間神社、西光院で大貫商店会歴史探訪スタンプラリーのハンコを押してきましたので、西光院の東麓に鎮座する諏訪神社へも回りました。
この神社は、平安時代初期の斉衡三年(856)の創建と伝わりますが、これはこの神社がもとは大洗磯前神社の系列社であった関係で、本社大洗磯前神社の創祀である斉衡三年をそのままうつし伝えているだけと推定されます。古記録等は江戸期の火災で失われたため、確実な資料は残りません。
それよりも興味深いのは、この神社の秋の例祭の祭事が、かつては一杯館に渡行して山海の珍味のお供えを受けるという形式であったと伝承されていることです。前述のように、一杯館の城主は、西光院の古記録によれば千葉資胤とありますから、千葉資胤がこの神社の最有力氏子であったことになります。
隣の西光院が一杯館の城主による創建を伝えますので、この神社も同じようにして一杯館の城主によって当地の鎮守として勧請された、というのが真相のように思われます。中世期には神仏混交が一般的であったので、寺院と神社をワンセットで建立するという形式は、在地勢力の支配地では一般的に行われていたからです。
ただ、当時から諏訪神を祀っていたかどうかは、分かりません。神社をとりまく環境や氏子の交替によって祭神が変わることはよくありますので、この神社の最初の祭神はいまでは分からないとするべきでしょう。大洗磯前神社の系列社であった史実をふまえ、かつてはすぐ前に海岸線があったことを考え得れば、やはり海神か、それに近い神を祀っていたのではないかと推測されます。
拝殿の手前右側にハンコが置いてありましたので、押しました。残るスポットは「茨城百景」だけとなりましたが、これは明日に立ち寄る予定でした。
途中でリゾートアウトレットに寄ろうかと思いましたが、先ほどの老人の話が気になっていて、宿に置いてきた二冊の発掘調査報告書の方も早く読みたくなっていました。それで、ひたすら北へ歩きました。
永町商店街に戻ってきました。夕陽が長く街路に差し込んでいましたが、陰の方が多くなって黄昏に近づきつつありました。 (続く)