慈照寺境内地の東側の山林は、中尾山の西裾にあたっていまは園路および展望所が設けられ、慈照寺庭園の東辺をまわる形のコースが形成されています。ですが、本来の境内地が中尾山も含めた広大なものであったことは、中世戦国期に中尾山を「慈照寺の大たけ中尾」と呼んで 「義政公遠見やぐら」が築かれていた事からもうかがえます。
その 「義政公遠見やぐら」からも、観音殿つまり銀閣は見えたことでしょう。境内地の他の建物と異なって、この観音殿だけが楼閣造という高層建築として建てられているのは、遠くから見えることをも前提条件にしたからだろうと思います。
現在の慈照寺庭園の東南寄りの山裾に、かつての山道の痕跡が二つほど見えるとされていますが、その一つを「洗月泉」の南側の谷よりに見つけました。上図では分かりにくいかもしれませんが、実際に現地で肉眼で見ますと、中尾山に登る九十九折の山道らしき細長い平坦面の重なりが認められます。
これらが山道の痕跡であるかどうかは、中尾山の城跡から登城道の痕跡をたどって慈照寺方面に降りてゆけばハッキリするでしょうが、相当困難な検証作業になることも確かです。
さて、園路をほぼ一周して観音殿が池の向こうに見えるおなじみのアングルに来ました。教科書や観光ガイド類でよく紹介されるアングルの景色です。これが一般的な慈照寺銀閣のイメージとして定着しているため、足利義政の観音殿への視点および当時の慈照寺庭園の景観というものが見えにくくなっています。
例えば、多くの観光客が見ているこのアングルですが、これが観音殿の正面と思われています。庭園も江戸期の修築ですが、一般的には足利義政時代の庭園がそのまま残っている、と思われています。
しかし、観音殿の上図の景観は、東側面の姿です。決して正面ではありません。今でこそ初層の正面は東側とされていますが、それは当時からの状態ではなく、江戸期の改変によったものであるようです。そして二層は今も昔も南側が正面となっています。
したがって上図の景色は、観音殿を横から見た図であるわけです。庭園の園池も室町期の半分以下の規模になっていますから、この景観は江戸期以降のものとなります。京都に詳しい方々、京都通を自認される方々においてもこのことを知らない方が多いのは残念なことです。
この観音殿は、仏教寺院の御堂建築の一型式ですから、伽藍中軸線に沿っていなくとも南に向きます。つまりは南側が正面になります。内部が公開されていないために分かりにくいのですが、現在は初層二層とも内陣において西寄りの須弥壇に観音菩薩を東向きに安置しています。
なので、初層の東面が障子窓となっているのは、庭園から観音を礼拝するための設えであると理解出来ます。
これに対して、二層目の「潮音閣」の観音像は本来は南向きに安置されていたらしく、南から池ごしに拝むのが本来の正式な形であったようです。上図のように二層目の南面に桟唐戸が付けられており、これを左右に観音開きに放てば、内陣が庭園からも見えたわけです。
したがって、足利義政時代の慈照寺庭園は、南側にももっと広い面積を持っていたことが理解されます。観音殿周辺の発掘調査でも、南側に池が広がって観音殿の西側にも水面が広がっていたことが分かっています。つまり、創建当初の観音殿は、東と南と西の三面を園池に囲まれており、初層内陣の観音像を東から、二層内陣の観音像を南から、それぞれ池越しに拝む形になっていたことが理解出来るわけです。
この当初の庭園イメージがいまの慈照寺庭園を見ているだけではなかなか思いつかないのですが、足利義政が参考にした先祖義満の北山御所の庭園の園池の形式が、そのまま東山山荘の庭園の基本になっていることを考えれば、現在の鹿苑寺舎利殿(金閣)のように三面を池に囲まれた状態であったことも容易にイメージ出来る筈です。
上図のように観音殿北側の二層には花頭窓も障子窓もなく、中央に桟唐戸が付くのみです。初層は東半部が腰壁入りの障子窓、西半部は土壁となって出入りは不可能です。北側が背面にあたることが理解出来ますが、これを逆に考えると南面が本来の正面であるということが分かるでしょう。
なお初層の「心空殿」の住宅風の間取りも、当初からのものではなく改造の痕跡があって、現在のように東を正面とする状態が創建当時からのものであるかは疑問です。建築史学の研究過程において示されている前身建築の姿形を勘案すれば、観音殿は本来は初層も二層も南側が正面であったとするほうが自然でしょう。
このように、東山慈照寺を中世戦国期にさかのぼって当時の視点で俯瞰してゆくことで、おぼろげながらやっと見えてくる事柄が非常に多いのに気付かされます。これらをふまえての新たな視座が、これからの慈照寺拝観に際しては重要になってくることでしょう。 (了)