気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

東山慈照寺4

2021年04月09日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 現在の慈照寺庭園は、前述したように江戸期の修築でほぼ新造になるものですが、園池の水が境内地内の湧水より供給されている点だけは変わらないようです。かつては幾つかの湧水地があったらしく、それらが下の白川に流れ込んでいたのを、東山山荘建設時に地形を整えて水をせき止める形で園池を形成したものと推定されています。

 

 園池に流れる湧水のひとつは、いま「洗月泉」と呼ばれる裏山からの流れ水の滝です。いったん上図の石囲みの池に落として溜め、園池に繋いでいます。

 

 そしてもうひとつの湧水は、いま「お茶の井」と呼ばれます。

 

 「お茶の井」は東側の裏山の裾上に位置し、いまも豊かに水を流しています。俗に足利義政公お茶用の湧水とされていますが、確証はありません。現在、境内地背後の中尾山山中には三、四ヶ所に伏流水があって湧水地点も幾つかあるそうなので、昔はもっとあったものと思われます。足利義政がここを東山山荘の場所に定めたのも、現地の豊富な湧水量に着目したからでしょう。

 室町期に限らず、将軍クラスの山荘には庭園がつきものであり、庭園がメインとなるのが普通でしたから、庭園に欠かせない水が豊富に確保出来る場所があれば、寺院の庭園や武家公家の庭園の候補地としても有力視されます。京都の古社寺の庭園が山裾に多く位置するのも、そうした地形による伏流水や湧水地の存在が前提となったからでしょう。

 

 その近くに、「漱蘚亭」と呼ばれた園亭があったとされています。「漱蘚亭」は足利義政の時代に建てられた庭園建築のひとつで、竹材によって組まれた簡素な亭であったようです。その遺跡が昭和6年に発掘され、いま見られる湧泉および石組等が確認されています。

 

 「漱蘚亭」の横から東の展望所への園路を登りました。足利義政時代に造られた園亭は、「漱蘚亭」の他に「超然亭」 「西指庵」 「漱蘚亭」「弄清亭 」「釣秋亭」と幾つかありましたが、全てが戦乱の中で失われています。殆どは発掘調査も行われずいまだに位置すら確認されていないままです。

 

 展望所からは、俗に「銀閣」と呼ばれる観音殿がよく見えます。慈照寺創建当時の仏堂のひとつ観音堂としての役目をもった建物です。足利義満の北山鹿苑寺の舎利殿(金閣)にならって、足利義政が最も愛した西芳寺庭園の瑠璃殿を踏襲して建てられた堂です。鹿苑寺の舎利殿が昭和25年に放火で失われたいまでは、室町期楼閣庭園建築の唯一の遺構となり、国宝に指定されています。

 

 その観音殿を囲む庭園も、足利義政が最も愛した西芳寺庭園を模して造られました。その動機は、義政が母の日野重子に西芳寺庭園を見せてあげたかったが、当時の西芳寺が女人禁制であったために叶わず、それを模した庭園を自らの山荘内に造る、というものだったそうです。

 したがって、足利義政時代の庭園がどのようであったかは、いまも現存している西芳寺庭園を見ることで大体はイメージ出来ることと思います。周知のように、西芳寺庭園は池泉廻遊式庭園と枯山水式庭園の上下二段から構成されていますから、当時の慈照寺庭園も同じ形式であった筈です。
 その造営にあたっては、作庭家の善阿弥の技術指導のもとで足利義政自らが作庭の指導をしたと伝えられます。ですが、基本的な骨格および作庭表現の原則は西芳寺庭園の模倣に徹するところにあった筈なので、足利義政自らが織り込んだ要素がいかなるものであったかが知りたいところです。

 

 とにかく、いまの慈照寺庭園からは、足利義政時代の庭園のイメージはまったく連想出来ません。上図に見える方丈以下の慈照寺の建築群も江戸期以降または最近の再興ですから、東山山荘当時の常御所以下の建築群はもちろん、慈照寺創建時の施設群もまた、完全なる幻になってしまっています。  (続く)

 


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