月読神社の参拝後に、レイコさんのリクエストで近くの「京都花鳥館」へ行きました。この種の施設には私はあまり縁がなく、女性同伴でなければ行かなかったであろうと思います。そのことを察したかのような、レイコさんの「星野さんもこういう所は一度見ておいてほうがええですよ?」のセリフでした。
「京都花鳥館」はいわゆる美術館の一種で、花と鳥を題材とした作品を中心とする展示を行っています。メインはドイツのマイセン窯の磁器作品と、 花鳥画の第一人者、上村淳之画伯の日本画作品です。公式サイトはこちら。
それから5分ほど南へ歩いて、上図の谷ヶ堂最福寺延朗堂に行きました。かつての松尾山寺の旧跡にあたり、中世には最福寺とも法華山寺と呼ばれた天台の寺院が栄えた地です。
この寺は源氏ゆかりの地でもあり、中興開山の延朗上人は平安後期から鎌倉前期かけての僧で、八幡太郎源義家の子孫と伝わります。平治の乱にて平清盛に追われて陸奥に逃れましたが、鎌倉幕府の成立後に京都に戻り松尾に至ってこの寺の再興に尽力しました。
それで寺は鎌倉幕府の保護を受けて栄えますが、南北朝の動乱期に度々戦場となって多大な被害を受けて荒廃してしまいます。室町幕府の成立後に再建がなされますが、応仁の乱にて陣場および激戦地となって寺は壊滅してしまいます。一時は寺跡に峰城と呼ばれる城塞が築かれて、細川氏被官の茨木長隆が拠ったりしています。戦国期にも織田信長の攻撃を受けて落城全滅、寺の施設も焼失してしまいました。まさに中世戦国期の戦火を度々被った寺の典型例です。
なぜそうなったのかというと、当地が丹波国との連絡路の要地にあたっていて、地形的には要害の条件を備えていたためです。中世戦国期の兵乱の多くは、京内の軍事勢力が丹波国の軍事兵力と連携するか対立するかの構図になっていたため、京洛と丹波の境目に位置する松尾南麓の要衝はどうしても巻き込まれて合戦の場になりやすかったのです。
なので、いまの最福寺には古い建物や仏像が全く残っていません。全ては中世戦国期に失われています。当時の古い遺品といえば、上図の一石五輪塔ぐらいでしょうか。
一石五輪塔とは、一つの石からなる小さい五輪塔です。早い遺品は南北朝期から存在しますが、大部分は室町期からのものが殆どです。主に戦死者の供養塔として作られ、後に庶民層の供養塔として広まっています。中世戦国期の歴史を経た寺院や遺跡にはたいていこの一石五輪塔があります。
以上の事柄を説明しながら、一石五輪塔の見分け方を少し教えましたが、レイコさんは真剣なまなざしで聞き入り、そっと手を合わせていました。
谷ヶ堂最福寺延朗堂から西へ100メートルほど行くと、鈴虫寺こと華厳寺の門前に着きました。
長い登り石段が丘上の境内地まで続きます。この寺は予定外でしたが、念のためレイコさんに「立ち寄りますか?」と聞きました。「今日はいいです、あんまり時間も無いですし。まだ行くお寺があるんですよね?」と応じてきました。確かにあと一ヶ所、かなり先に目指す寺院がありました。
なので、今回はこの境内地境界の竹穂垣を見るだけでしたが、京都市内でもこんな立派で見事な竹穂垣はあまり見た事が無かったので感心してしまいました。最近に造り直されたもののようですが、平安期の遮蔽垣としては一般的な形式です。中世戦国期にも数多く利用され、絵巻物などにも描かれていますが、竹穂垣よりも藁垣のほうが多かったようです。
レイコさんも「これ、立派なもんですね。丁寧に作ってありますね。源氏物語絵巻の世界を見てる感じ」と楽しそうに見てスマホで撮影していました。
気付けば、私たちの他にもこの竹穂垣を見、撮っている観光客が居ました。西の苔寺と合わせて人気観光地の一つに数えられる寺なので、この門前には何人かの観光客が居ました。
鈴虫寺華厳寺の公式サイトはこちら。
鈴虫寺門前より道なりに南へ100メートルほど歩くと、西側に上図の「かぐや姫竹御殿」なる施設がありました。閉館中のようでしたが、どんな施設なのか知らなかったのでレイコさんを振り返りましたが、彼女も詳しい事は知らなかったようで、「個人の博物館みたいですけどね・・・」とだけ言いました。
後で調べてみたところ、この施設は、竹工芸職人の長野清助が自身の別荘を改築して制作した草庵であり、金閣寺舎利殿を模したような建物もあるそうです。時々公開されているようですが、午後だけのようです。 (続く)