2019年11月12日、久しぶりに東山の慈照寺へ行きました。足利八代将軍義政の東山山荘を寺となした、銀閣寺の通称で知られる臨済宗相国寺の境外塔頭寺院です。
午前中は京都府立図書館に用があったので、午後から行く事にして、バス停「みやこめっせ前」から市バス32系統に乗り、「銀閣寺前」で降りました。そこから東へ70メートルほど歩いて、上図の銀閣寺橋に着きました。
いまは慈照寺参詣道の起点となっていますが、かつての東山山荘、慈照寺境内地の西限にあたりました。いまの白川疎水がかつての境界線のように見えますが、中世戦国期の白川の流路とは異なります。上図の銀閣寺橋も大正11年に架けられたものです。
銀閣寺橋から南を見ました。流れる白川疎水の南岸に沿って「哲学の道」がのびています。この道も、ここ十年余り歩いていませんね・・・。
慈照寺門前への参詣道です。コロナ流行以前の状況ですから、マスク姿の人は居ません。外国人観光客もちらほら見かけました。
参詣道の途中、北側にある、浄土院の山門です。慈照寺が創建されるずっと以前、この地にあった浄土寺が、足利義政の東山山荘造営に伴って移転させられた後に残った草堂が前身です。江戸期の享保十七年(1732)に名を浄土院と改めて復興が行われて現在に至ります。
浄土院の門前から北へ続く道は、八神社への参道を兼ねます。八神社はかつて浄土寺の鎮守社でしたが、慈照寺の創建後はその鎮守に転じています。創建年代は不明ですが、平安期には存在していたようですので、当地では最も古い神社であるのかもしれません。
浄土院の境内地に入りました。前身の浄土寺は広大な境内地と数多くの堂塔を誇りましたが、いまは本堂と丹後局堂のみが山門の奥に並びます。丹後局堂は、本堂の隣にあり、平安末期に浄土寺にあった丹後局の山荘および持仏堂の由来を伝えています。
丹後局こと高階栄子(たかしなのえいし)は後白河法皇の寵妃であり、寵妃になる前は後白河法皇の側近であった平業房の妻でした。業房の所領のひとつが浄土寺であった関係で、丹後局は朝廷から去った後はこの寺に住み、「浄土寺二位」と称されたといいます。
そのため、浄土寺はもとから皇室との関係も深く、室町期には足利義政の庶弟である義尋が入寺するなど繁栄しました。しかし、義尋が還俗して足利義視となり、結果として応仁の乱が起こると浄土寺は戦場の一つとなって大半の建物が焼失し壊滅しました。
その後、足利義政がこの浄土寺の地を気に入り、東山山荘を建設する際に浄土寺を相国寺の西に移転せしめましたが、その浄土寺は後に廃絶しています。なので、この浄土院がかつての浄土寺の由緒を伝える唯一の寺となっています。
浄土院から参詣道に戻って、しばらく坂道を登って、慈照寺の山門前に至りました。平成15年に水戸の友人と参拝して以来ですから、16年ぶりの訪問でした。ですが、門前の石畳道も、山門付近の雰囲気もあんまり変わっていないように思いました。左右の木立が育って繁ってきていたのが唯一の変化だったでしょうか。
境内全域の案内図です。広い境内地に幾つかの施設が並び、東の山までが境内地に含まれる関係で、山のほうにも色々な地点の名称が記されています。
ですが、中世戦国期に「慈照寺の大たけ中尾」と呼ばれた慈照寺の裏山、中尾はこの図には含まれていません。中尾の峰に築かれていたという 「義政公遠見やぐら」もいまは痕跡すら定かではありません。中尾には後に城郭が築かれて将軍家の戦乱時の陣場として機能し、いまその遺跡が中尾城跡として知られます。それも慈照寺の旧境内地に含まれていたのですが、城跡も案内図には描かれていません。
なので、中世戦国期の慈照寺の空間世界は、この案内図を一瞥しただけではイメージしにくいです。参拝範囲が舎利殿と東求堂と庭園の散策路のみに限られている現在では、余計に分からないだろうと思います。 (続く)