気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

松尾山麓を歩く1 松尾大社

2021年03月02日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 2019年10月31日、モケジョのレイコさんと松尾方面の社寺散策に行きました。その前週に私が京都の中世戦国期の史跡巡りを楽しんでいることを話したら「そういうの、いいですね、次は私も連れて行って下さい」と頼まれました。とりあえず、松尾の辺りを次に行こうかと考えている、と応じたら、大喜びで同行を約してくれました。

 レイコさんは、モケジョでありながら歴史や文化にも興味を持ち、信心深いところがあって社寺巡りが趣味だといいます。彼女とは以前にも歴史散策で四条仲源寺、大原三千院、高雄神護寺、当尾浄瑠璃寺などへ行った事があり、今回の同道は数えて七度目でした。

 今回は、松尾山麓の中世戦国期を偲びつつ社寺を訪ねる、というテーマにてまずは松尾大社に行きました。

 

 レイコさんと四条烏丸のバス停で待ち合わせて市バス3系統に乗り、終点の松尾橋で降りて徒歩に移りました。交差点に面した大鳥居をくぐって石畳の参道に進みながら、レイコさんが「松尾大社は中世戦国の歴史と何か関係があるんですか?」と訊ねてきました。

「関係あるどころか、この松尾大社の本殿が中世戦国期の建築なんです。室町期の応永三十年(1423)に建てられたものですが、戦国期の天文十一年(1542)に柱など主な部材はそのままにして改造を受けているんです。公式には、例えば文化財関連の資料とかでは天文十一年の造営、ってなっているんですが、主要部材は応永三十年以来のものを残してますから、厳密には応永三十年の造営、となりますね」
「それじゃあ、天文十一年の造営は正確には大規模な修理だったわけですね」
「そう考えて良いでしょう」

 

 松尾大社の正鳥居です。ここからが本来の境内地にあたります。いわゆる神域結界の門です。

 

 鳥居をくぐると、上図の江戸期寛文七年(1667)の建築である楼門が迎えてくれます。レイコさんが言いました。
「前に来た時も思ったんですけど、この門ってお寺の門みたいな雰囲気がありますよね・・・」
「それは正しいですよ。江戸期までは松尾大社も神仏混交の状態で境内に神宮寺もありましたから、鳥居に続く正門の建物を仏教形式の楼門建築にしたんですね。それが現在も残ってるわけです」
「その神仏混交って、明治の初めに停止になって、ええと、廃仏毀釈でしたっけ、仏教関係のものは仏像も建物も撤去して破却したんですよね。ここの建物はよく残りましたね・・・」
「廃仏毀釈というのは、言われているほど厳しくなかったんですよ。奈良では酷かったらしいけど、京都ではさすがにあまり乱暴な動きは無かったらしい。仏像は撤去し売却したりしてますが、建物はそのまま残してるケースは多いですね」

 

 楼門の脇に立つ案内板です。レイコさんは勉強熱心なので、こういった案内や説明の表示は必ず読んでいます。

 

 そして私より素早く境内を移動してゆきました。私がいつものように各所の撮影に専念しているので、彼女は彼女なりに自在に見て、そして神前へ進んでゆくのでした。

 

 そして拝殿の横を通って廻廊の中門前にあがり、本坪鈴(ほんつぼすず)をガラガラと丁寧に鳴らしていました。レイコさんは、神社に行くとどこでも必ずこの拝礼を欠かしません。

 

 この中門を含めた廻廊は江戸期のは嘉永四年(1851)の改築になります。以前の建物については詳細が分かっていないようですが、規模的にはそんなに変化がなかったようです。

 

 不動の姿勢でしばらくお祈りするレイコさんでした。普段はプラモデルばかり作っているモケジョさんですが、社寺に来るといつもこんな感じなのです。  (続く)

 


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