2018年4月8日より、二度目の「ゆるキャン△」山梨巡礼を実行しました。往復とも夜行バスを利用しての日帰り日程で組みました。
当初は8、9日の一泊二日の案で検討し、行きを夜行バス、帰りを鉄道利用で考えたのですが、職場の上司が異動になり、その影響で私の休日も一日ずれたため、9、10日に変更しました。ところが、10日に鉄道利用での見学を考えていた上諏訪の片倉館が休館日であることを知り、10日まで一泊する必要が無くなりました。それで9日のみを巡礼日とし、帰りも夜行バスに切り替えて、実質的には日帰りの形にまとめました。
4月8日の夜、京都駅八条口バスターミナルのF3乗り場に行き、23時3分発の甲府行き夜行バスに乗りました。ガルパン大洗への巡礼に利用した水戸行きの夜行バスと同じ乗り場でした。
この甲府行きの夜行バスは、近鉄バスと山梨交通とが共同で運行していますが、今回は山梨交通の車輌でした。
夜行バスは、ガルパン大洗への巡礼行で二十数回利用していますので、すっかり慣れっこになっています。振動や音にも悩まされることなく、翌9日の朝まで熟睡状態でした。目覚めて時計を見ると6時32分でした。バスが終点の甲府駅南口に着いたのは、6時45分でした。予定よりも7分早かったです。
この朝の甲府は、一気に冷え込んで3月上旬のような寒さに包まれていました。天気予報で気温低下を知ってあらかじめ準備した手袋やジャケットが役立ちました。花粉の飛散もまだあるようなので、マスクも付けて歩きはじめました。
バスターミナルの西側にある、武田信玄の銅像です。駅前のシンボル的存在と言えましょう。
現存する甲冑や肖像画などを参考にしたのでしょうか、いかにもそれらしい風貌と外見に仕上げられて相当の迫力も備えています。日本の戦国時代を代表する名武将ですが、私自身は不識院大僧都上杉謙信のファンであったので、このお方に関しては、「永遠の宿敵」というイメージがずっと離れませんでした。
ですが、中世戦国期の甲斐の生産力が飛躍的に向上して経済も文化も大きく伸びたのは、武田信玄の治世期においてであり、その蓄積が現在の山梨県甲府市の地盤となっています。まさに郷土の英雄であり、地元民の敬愛を集めるに足る存在です。
さて、銅像を見た後、朝食を駅南の吉野家でとりました。この日の巡礼はレンタカーを利用して実施する計画であり、私自身がタイムズレンタカーの会員であるので、駅の南西にある甲府駅前店に予約をしてありました。利用時間は8時からなので、まだ一時間ほどありました。
そこで、駅の南東にある城跡歴史公園を散歩見学することにしました。駅の南側から東へ3分ほど歩いて、上図の登り口に着きました。
城跡一帯は、舞鶴城公園と呼ばれて遺構の復原および整備が行われて歴史公園になっています。常時開放されていますので、天守台まで登れます。
この城は、豊臣政権期に築城が始まり、のち徳川氏の拠点に帰して、江戸期の初め頃には徳川一門が城主となって「甲府宰相」とも呼ばれ破格の扱いを受けています。幕末までその意義は不変で、直轄の城郭としての体裁は、その立派な造りと洗練された縄張りによく示されています。
天守台です。昨日まで信玄公まつりが開催されていたため、その際の幟や旗などが各所に取り付けられたままでした。
天守台からは、周囲の城域が見渡せます。北東を占める稲荷曲輪の鬼門落としの塁線の角に、近年に復元された二層の稲荷櫓が建っています。絵図、古文書、発掘調査成果などをふまえて寛文四年(1664)の建築当初の姿で再現されています。
今度は西の方角を見ました。塁線上に復原された鉄門(くろがねもん)があり、遠方には山梨県庁、防災新館などが望まれます。山梨県庁のある一角も、もとは舞鶴城の楽屋曲輪でしたから、城郭の規模は今よりもっと広かったことが分かります。
南側の眺めです。上画像のほぼ中央に並び立つ電波塔と東横インビルの真ん中に富士山の頂きが見えるはずですが、この朝は靄がかかっていて全く見えませんでした。
鉄門をくぐって本丸から天守曲輪に降りました。階段が真っ直ぐでなく、左右の石垣の線に沿って少し折れているのが特徴です。
天守曲輪から武徳殿と呼ばれる山梨県警の道場の建物の脇を通り、上図の内松陰門から城外に出ました。現在はこの外を道路が通っていますが、本来は屋形曲輪と呼ばれる区域にあたり、城主の普段の生活空間である御殿がありました。この門は御殿と本丸とをつなぐ唯一の連絡路に位置する門でした。
この時点で城跡公園の六割ほどを回った形でしたが、ゆっくりと見ていたので時刻はすでに7時45分を過ぎようとしていました。そこで散歩見物を切り上げて駅前に戻り、更に西へ進んでタイムズレンタカー甲府駅前店へ急ぎました。 (続く)