赤碕から倉吉市街に戻りました。行きのルートとは別に国道9号線、山陰道の県道320号線を東上、天神橋を渡って国道179号線に進みました。途中でTさんが「しまむら」倉吉店に立ち寄ろうとしましたが、休業日でした。なんでもTさんはその店でガルパンシャツを買ったのだそうです。何のデザインですか、と訊ねたら「レオポン」と答えてきました。どうやら、各チームのマークがそれぞれデザインされているようです。
それから、Tさんお気に入りのドライブルートである、天神川の西堤上の県道161号線を南下して田内の城山の裾をぐるりと進みました。Tさんは「ここらの景色がいいんですよ」と楽しげに話していましたが、私も20年前に鳥取への行き来でよく走った道なので、懐かしい気分でした。
若い頃は、その道を「リバーサイドドライブ」の気分でBGMに浜田省吾などをかけ、ロンサムボーイのムードに浸りつつ走ったものです。当時の車は三菱エテルナZR-4でしたね・・・。
途中でTさんが倉吉西工業団地内のグッドスマイルカンパニー楽月工場へ寄って下さいました。
ここがグッスマのラッキーファクトリーか、と感動し、思わず「素晴らしい」と呟いて手を叩きました。Tさんは呆れ気味に笑っていましたが、私にとっては聖地の一つです。拍手せずにはいられませんでした。いつも買っているガルパンのフィギュアの大部分はこのメーカーの製品だからです。
ところが、Tさんは「この工場で作ってるのは「桜ミク」と馬だけらしいですよ」と言いました。
「えっ、そうなんですか?・・・確かガルパンのねんどろいどの五十鈴華と冷泉麻子はここで作ってるってテレビの何かの番組でやってたんですが・・」
「あ、そうなんですか・・・」
オンキョーさんの施設内に間借りの形とはいえ、規模の上では中小のメーカーの工場群を遥かに上回ります。これだけの施設で生産するのがミクと馬だけ、というのは不思議な気がしました。オープンしてまだ間もないですから、これから徐々に増やしていくのでしょう。
そうでないと、生産拠点のメインを国内に回帰させる、と発表しているグッドスマイルカンパニーの基本方針とも矛盾します。私の知る限りでは、国内の工場はまだここだけらしいので、サイト情報やパッケージに倉吉のくらすけ君マークがあるか、メイドインジャパンの表記があれば、それらは全てこのラッキーファクトリーで生産されたことになります。
Tさんとは、翌日の昼から倉吉市役所観光交流課との意見交換会に共にのぞむ予定でした。それで予定を確認し合った後、別れて私はこの日の宿である、パープルタウンの隣の「倉吉タウンホテル」に移動しました。周囲に牛骨ラーメンの店や食事処がたくさんあるので素泊まりで充分です。料金も4980円とリーズナブルです。
シャワーを浴びてさっぱりし、朝に三朝町立図書館で借りてきた本を読んで小一時間ほど過ごしました。
この日の夕食も、牛骨ラーメンでいくことにして、北街区の国道179号線沿いにある「大香房」へ行きました。今回初めて行ったお店です。
このお店は、一般的には牛骨ラーメンの店として知られますが、お店ではメインをむしろ「倉吉みそラーメン」に置いて売り込んでおられるようです。味噌系のラーメンは好きなので、ものすごく迷いましたが、まずは倉吉の牛骨ラーメンの味の一つを知っておこう、と思いました。
そして注文したのが、上図の「牛骨らーめん」630円でした。
その味は、お店オリジナルの海鮮風味にいろどられ、なかなかに個性的でした。普通のラーメンでいただいてもイケるんじゃないか、と感じました。
翌朝は7時に起きて、近くの「すき家」で朝食をとり、天神川東岸の大原地区へ行きました。その中心的な祭祀拠点の大原神社へまだ行ったことが無かったので、この機会に訪ねました。
鳥居前に立つ案内板です。古代の大化三年という創祀年はともかく、中世期には既に存在した里の惣鎮守であったようです。南に神宮寺があったというのは、要するに神仏混交の形態であったことを示しています。その神宮寺のルーツは、おそらく古代寺院のひとつ「大原廃寺」に関連すると推定されます。「大原廃寺」は神社と丘をはさんだ反対側の谷間にいまも立派な塔心礎を残しており、昔に三度ほど行ったことがあります。
ですが、個人的に興味をひいたのは、大永四年に尼子経久の侵攻を受けて神宮寺が焼失した、とある記述でした。中世戦国期の寺社は武装しているのが普通でしたから、政治的には「武装勢力」の一種にあたります。尼子氏に敵対したから攻撃を受けたのであり、したがってその所属元は伯耆山名氏または南条氏を軸とする国人連合軍であったと思われます。
すると、かつてはこの辺りに城砦があったはずだ、寺社が城砦を構えるのは全国的にみられた現象でしたから、神社の横にある丘陵上に城があってもおかしくない、と考えました。
現在の境内地は、丘裾の窮屈なスペースに造成段を設けて確保されています。建物も江戸後期以降の新しいもののようで、とても古代から続くような古社の風情ではありませんでした。
たぶん、中世期に存在したという神社も、現在地ではなくて、もっと高い場所、大原の里全体を見渡せるような、一種の神奈備のような場所にあったのでしょう。その位置は、焼失して廃れたという神宮寺の場所がヒントになるのではないか、と考えました。その付近に、城砦もあったかもしれません。
本殿を見学した後、三朝町立図書館から借りてきた本についている古絵図と対比地図とを開いて見比べました。あまり知られていないことですが、大原地区は、伯耆国守護代南条氏の本拠羽衣石城の南東麓続きの低丘陵地域にあたります。
尼子氏が羽衣石城に圧迫をかけるとすれば、北の大手方面は避けるはずですから、東の佐美から山裾をたどるか、南東の大原の谷間から城の南東尾根に連絡して搦め手を突く、のいずれかになります。大原が攻撃されたのであれば、尼子氏はここから羽衣石城を牽制、既に制圧した打吹山城を後詰として、伯耆国を一気に支配下に置こうとしたのかもしれません。
色々考えながら、とりあえず約一時間の余裕があるのを確かめ、焼失して廃れたという神宮寺の場所を探してみることにしました。20年ぶりの「倉吉歴史探検」の再開でした。 (続く)