町並み散策を終えて帰路につくべく関金に移動しましたが、まだ日は高かったので、一時間ほど延長して関金エリアを適当に回ってみようと思いつきました。
それで、20年前に一度だけ行ったことがある「関金町資料館」に立ち寄ってみました。初めて見る、真新しい石標が路傍に立っていました。
しかし、資料館の建物や屋外展示品があった場所は、更地になっていました。本館は古民家調に造られた雰囲気の良い建物で、内部には当地でかつて盛んであったタタラ製鉄や木地師に関する資料をはじめ、多くの民俗資料があったと記憶していますが、全てが跡形もありませんでした。しばらく、入口付近にて立ちつくし、遠い20年前の景色を想いました。
後日調べたところ、資料館は二年前の平成26年3月31日に閉館し、展示資料の一部は倉吉市役所関金庁舎のロビーにて展示されている、ということでした。いずれ機会をみて関金庁舎を訪ねてみます。
「関金町資料館」跡地のすぐ向かいには、かつての国鉄倉吉線の廃線跡が残されています。こちらは20年前に見た状態のままだろうな、と思いつつ近づきました。
線路へ登る階段も、生い茂る夏草に覆われつつありました。
思った通り、線路上には草が繁り広がっていました。
レールは、今もなお残されていることが、足元を見て分かりました。秋から春にかけての、草の無い時期に行けば、残存レールの全容が見渡せることでしょう。
国鉄倉吉線の廃線跡は、いまも一部に駅のホームやレールが残り、ハイキングコースになっているところもあります。廃線跡トレッキング等、倉吉市の歴史散策イベントも定期的に開催されているそうです。
私は近代産業遺産に関心がありますので、その一種である鉄道廃線跡巡りにも興味があります。機会があれば廃線跡トレッキングイベントにも参加してみたいです。
続いて、堀地区にある山郷神社を訪ねました。元は堀神社と称して当地の鎮守であったものです。山郷はヤマノサトと読みます。
この山郷神社の境内地に接して、安房里見氏の終焉の地があり、一帯は廟所として扱われています。神社の鳥居前を過ぎて少し行くと、辻があって上図の標識があります。上へ登る道の入口に駐車スペースがありますので、そこに車を置いて、道を登りました。
道を登ってゆくと、山郷神社の境内地の横に出ます。道はそこで終わって細くなりますので、車で上がってもそれ以上は進めません。
道を折り返して細い参道に進み、道なりに進んで段々畑の上にゆくと、やがて向こうの木立の下に祠が見えてきました。
安房里見氏の終焉の地です。戦国の乱離を切り抜けて安房国に里見の家名を保ったのもつかの間、徳川将軍家の権力闘争と陰謀の標的にされて領地は没収の憂き目となりました。転封とは名ばかりの倉吉行きとなって、謹慎蟄居同然の身となった、最後の当主里見忠義は、この地の屋敷にて、跡継ぎも無いままに29歳の若さで亡くなりました。従ってきた八人の家来も、三ヶ月後に殉死して後を追いました。
涙無しには語れない、戦国終焉に伴う悲話の一つがここに静寂を引き寄せています。祠の背後にそびえる椎の大樹は樹齢400年を数えるそうですので、里見氏主従がここに蟄居した時期に屋敷の庭木として植えられたものかもしれません。
主従の墓は、倉吉打吹地区の大岳院にありますが、魂はおそらくここに鎮まって居るものと思われます。そう感じずにはいられないほどの厳粛な雰囲気が、祠の建つ空間にのみ、漂っていたからです。
主従が日々眺めていたであろう景色は、いまと余り変わっていないのではないか、と思いました。山並みの上の空の彼方に、彼らは常に、故郷安房国館山城の風景を思い浮かべていたことでしょう。
以上にて「「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5」のレポートを終わります。