『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

朧月夜と読解力②―「銀の匙」指導のすばらしさ

2017年05月13日 | 学ぶ

「読むこと」のレベルを考える
 前回「『本読み』と『読解力』のかかわり」に触れました。そして「読むことができる(?!)」だけに終わらず、「読むことがおもしろくなる」読解力や、逆に「ひとりでは読み切れないようなむずかしいものにチャレンジする」読解力、つまり学体力の養成も兼ねた宿題や学習法の検討・開発にも「銀の匙」による橋本先生の指導法はとても参考になるのではないか、と提案しました。その考察の前に。

 ぼくが“The Boy in the Striped Pyjamas”(JOHN BOYNE VINTAGE CLASSICS)を読んでいることをお話ししました。まず、DVDで「縞模様のパジャマの少年」(マイク・ハーマン監督)を見て気に入ったので、いつも通り、原作や翻訳やシナリオがあれば、それも読み・・・という「三位一体(?)学習」の一環です。
 “The Boy in the Striped Pyjamas”は、むずかしい単語もほとんどなくやさしい英語で、容易に筋をたどることができました。原作を読みとおした後で翻訳(「縞模様のパジャマの少年」 千葉茂樹訳 岩波書店)を読みましたが、幸いなことに読みちがえているところはほとんどありません(ちなみに、この本の翻訳はすばらしいです)。

 しかし冷静に振り返れば、ぼくの場合、「筋を追えているだけ」で、物語の微妙なニュアンスをとらえたり、天気のようす・ポーランドの街並みや建物・植物のイメージをはっきり捉える余裕があったわけではありません。またアウシュビッツの歴史を熟知していて、敏感に想像力がはたらくわけでもありません。
 それで果たして感動できているか? よく鑑賞できているか? その態勢が整っているか、といえば、とても「心もとない」読み方です。先に「原作」に行き当たって物語を読む機会を得たとすれば、果たして映画を鑑賞後読んだ今ほど「読みとれたか」「心を動かされただろうか」。

 そういう視点から、「教科書の学習対象や学習内容・『本』との出会い」と子どもたちの日本語力の「応対」とを考えてみると、ぼくが英文からイメージを十分働かせられなかったように、経験不足の子どもたちも、とてもじゃないが『おもしろさ』なんか感じとるまでに至らないだろう(もちろんレベルによりますが、そのレベルを問題にしています)。ふだんの学習指導では読みの深さ・理解のレベルの深さはそこまでは考えられていない・・・。しかし、子どもたちが「学ぶおもしろさ」を手にしていくためには、その読解の差や理解のちがいがたいせつな鍵になる。指導する側はもっと強く意識してもよいはずです。高校生の時に「罪と罰」を読んで、「手に汗をかいて、放心状態になった」自分を懐かしく想いながら、そう考えました。

 「学習」が、ただ「概略やストーリーを追う」レベルでとどまり、『覚えるため』で終わり、おもしろさや感動にまで届かない状況。受験はうまくクリアしても、おおむね学習は理解や感激・わかる喜びとは程遠い。「その程度(!)の感覚」のストックが続いてしまっているのではないか。だから学習が「日常生活の『生きる』というレベルとは「異次元(!)」の「勉強」という存在から抜けきれないのでしょう。橋本先生の指導法は、その限界を打破する、大きな可能性を秘めています。実践すれば、ですが。

「銀の匙」指導―自信とオールマイティの読解力
 さて、「銀の匙」による橋本先生の指導が、どうしてすばらしいのか。東大へ多数進学する灘の「下地」を作ったのか? それらを考えてみます。

 左は「銀の匙」授業一回分の目安、橋本先生曰く、長からず短からず、新聞連載小説だった際の一章分です。そしてその下の手書き文字の記入は、橋本先生が子ども(中学一年生から)たちに、語義調べや短文づくりを徹底された一章分、つまり授業一回分の意味調べ・学習語句です。
 約900字の本文に対して「語句調べ」が約50個。絶句する(!)量でしょう。
 いくら古い時代の見慣れない言葉が混じった小説とはいえ、文字通り一字一句「細大漏らさず」のたどり方です。大学の外国語講読でも類似の方法を採りますが、ふだん使っている「国語(日本語)」にたいしての指導方法ですから、その語句理解の行き届き方は、「灘」という、子どもたちの学力レベルも考えれば、ほぼ完ぺきだったといってよいでしょう

 (その語句に桃色の傍線を引いておきました。なお、『橙色の傍線は、ぼくが指導するとすれば追加したい語句』です。ちなみに前篇の執筆が明治43年・新聞連載が1913年から。なお橋本先生の指導は1950年入学者から。)
 そして、もうひとつ子どもたちが手に入れた『かけがえのないもの』、それは、「そのまま読めば『わからないもの』が結構出てくる『古い時代の文章』が理解できた」、あるいは「その理解や解釈の是非について、橋本先生をはじめ生徒全員で考えつくした」という『学習過程』です。

 「よくわからないもの」を調べつくし、考えつくして「了解できた」という子がほとんどだったのではないでしょうか。そこで彼らが手に入れたものは「語句の学習」に止まらず、クラスでこぞって推考・推察を重ね、それぞれが「自分なりの結論」を出していく「思考トレーニング」だったのです。さらに「全員参加型の指導展開のはず」ですから、気を抜かず、集中した(できた)。それによって、いわばオールマイティの読解力・論理力を身につけ、以後の学習の支えになった、ということです。
 

今の受験参考書を見れば、物語文と説明文や論説文に二分され、「それなりの読解法・解説」が「それらしく」施されています。しかし、下記の著書の引用を見ればわかるように、橋本先生は、取り立てて論説文や評論文を個別に読解演習したわけではないでしょう。
 つまり、こうした「小説」の語義や語句を調べ文脈をたどり、心情や行動・人間関係・社会・時代背景に想いをはせ、徹底理解をすすめ、推理・推察・検討を重ねていく学習(指導)は、論理的な文章の読解にも利するよい方法であった。子どもたちの論理的な思考力を養成するのにも十分な効果があったのではないか、自らの指導経験・学習経験からも、ぼくはそう推察します。
 そして何よりも、「読める」「わかる」という『深い理解』を手にできた子どもたちの喜びは、次の学習・難題にチャレンジする大きな自信と力になってくれたでしょう。「学体力」です。

 橋本先生は、こう云います。
 
 持ち上がり制だから、一週間の時間配当を自分の自由裁量で決められます。古文、漢文、文法などの時間とにらみあわせて、だいたい週三時間の割で、現代国語の授業として『銀の匙』だけをやる、というふうにしました。(「〈銀の匙〉の国語授業」橋本武著 岩波書店)
 
 このように橋本先生は、中学三年間「銀の匙」授業で、「説明文や論説文の学習指導をしたわけではありません」。それで東大生が輩出したのです。三年の間に、小説の読解によって「(論理力も含んだ)読解力そのもの」を養成できたのでしょう(他の優秀な先生方の指導の力も、もちろん否定しませんが)。しかし橋本先生のこうした緻密で完璧な読解方法が他科目の学習方法や子どもたちの「学体力」の育成に大きく寄与したことはまちがいありません(橋本先生の指導については引用書籍ほか、ぜひ手にとってみられることをお勧めします)。
 「乱暴」を承知で言えば、少なくとも読解力養成の、特に初期段階においては、「読解指導のジャンル別は体裁上の区別」ともいえるでしょう。

 ぼくは自分で読んだものの中から、試験という、とりわけ子どもたちが熱心に読む機会だからこそ、子どもたちに読んでほしい一節を題材に15年間国語のテスト問題を自作しました。おそらく他ではないだろう問題及び問題文を少し写真で紹介しておきます。
 橋本先生の方法を虚心に振り返れば、指導は見かけではない。指導書ではない。子どもたちの指導方法はいくらでもある、指導者の熱意次第ということでしょう。

 その「自らの最善の方法を考えること」が、先生の役目であり、存在意義であり、責任であり、それゆえに「やりがい」を手にできるのだと考えています。子どもたちの読解力や学力と「学ぶおもしろさ」という、彼らの人生に大きな実りをもたらす結果という…。
 この項最後に、橋本先生の前記著書からの「エール」を、もう一節書き留めておきます。

 ・・・(銀の匙を)教科書としてどう扱うかを考えるのは大変です。検定教科書ならば、指導要録があって、「このテキストはこういうふうに教えなさい」「時間配分を何時間にしなさい」「こういうところに重点を置いて教えなさい」ということが細かく指示してあります。『銀の匙』を使う時にそんなものがあるわけはなく、自分で指導要録をつくっていかなければなりません。これにはかなりの時間を必要とします。
 最初の『銀の匙』授業も生徒は1950年(昭和25年)入学組です。いよいよこの学年からやろうというとき、その一年前から『銀の匙』研究ノートを作り、どのように指導していったらいいのかを書き留めていきました・・・。(前記「〈銀の匙〉の国語授業」p55より)

 約20年前、ぼくが教育や指導に興味も関係も知識もなく、「雷に打たれたように」、ひとりの「お父さん」から団を始めた時を思い出します。「やりがい」は、こうして生まれます。


 

デーブとビッグ、そしてライムライト
 「デブ」と「ビッグ」ではありません。「デーブ」です。古い映画ですが、今週の花マル2個DVDです。
「デーブ」は、たまたま大統領の影武者に抜擢された無名の市民の活躍を描いた物語です。ファーストレディには、あの「エイリアン」のシガーニー・ウィーバー。ちょっと「ビッグ」で、厳つすぎますが、次第にかわいい女性に変身していくようすが心温まります。

 「ビッグ」は若かりし頃のトム・ハンクス主演。さすがに名優です。いたずらな「ガキ」が遊園地の「不思議な券売所」のカードを買って…という物語です。どちらも大きな賞を獲得した映画ではないようですが、最後まで見ることができた良い作品でした。

 最後はチャップリンの名作「ライムライト」です。チヤプリンは、おそらく「人生の幕引きをこういうふうに」とイメージしたのでしょう。今こういう「プリマドンナ!」がいるかといえば、おそらく見つからないというのが唯一の「不満」ですが、だからこそ「よい映画」なのでしょう。

 以前、北野武さんが大スポで、「大きな映画賞は映画会社の持ち回りだ、云々」のコメントをされていましたが、映画を数見れば見るほど、それが今更のようによくわかります。よい映画が、映画賞とはあまり関係がないことが…。観客動員数が多い映画も、=良い映画とは限りません
 一方で、テレビといえば、よい番組作りに「奔走」するのではなく、番宣や映画の告知を兼ねた人気俳優やタレントの出演依頼に奔走し、飲食店「裏宣伝」の食レポでの協賛費稼ぎに明け暮れているようです。また一部大手芸能会社のタレントを、芸があろうとなかろうと出演者に押し込むというしくみになっているようです。
 こうしてすべてが「金」と裏表の関係・環境の中で、子どもたちは(いや大人の人も)知らぬ間に「傑作と駄作」、「善人と悪人」、「虚と実」、「有と無」の区別もできなくなるように時代は進んでいきます。「経済」と「営業」という「悪魔」に心が浸潤され、年も経らないうちにぼくたちは「痴呆化」されていくという「悪夢」が浮かびます。

 みなさんはいかがでしょうか? 本物や真実を見分けられる眼をもった子どもたちを育てたいですね。それによって、人生の終盤、末期の眼にも「輝く光」が見えるのではないでしょうか。


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