『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

朧月夜と読解力③

2017年05月20日 | 学ぶ

「むずかしいこと」を読む
 従来からの学習指導法は、先生が一通り指導し、その解説を基に例題を解き、練習を繰り返すという方法です。相変わらず当然のように、振り返ることもなく踏襲されていて、団の指導のように、「ともかく学習するところ(テキストや本)を、まず自ら読んでみる」という指導法はなかなか理解されませんでした
 「『むずかしい』『教えてくれない』というこどもの『嘆き!』」を鵜呑みにして、意図や狙いをまったく考えようともしないまま、クレーム・退団という事例がよくありました。その過程でこそ、子どもたちはかけがえのない「学体力」を身につけ、将来にわたる学習法を学んでいることにまで、考えが及ばない、気づかないのです。

 学習・勉強や研究・人生!など、どれも最終的には「ひとりで自主的に解決しなければならないもの」だ。そうでなければ、成人への第一試練である大学受験や大学受験以降が対応できず、いっぱしの大人にはなれない、という確信がありました。この確信は何よりも、「社会の荒波」に「翻弄!され」、生き延びる道や生き方を探さねばならなかった人生「海路」の「星の光」と操縦技術が教えてくれたものです。
 とある会社で、営業マンや新入社員を見る(管理する)立場になったとき、その「教えてもらうことが当たり前」「「教えてもらってもなかなかできない」「言われたことしかできない」などの事例をたくさん見ました。頭が悪いわけではない。使ってこなかっただけだ。「何よりも自主的・自発的な行動がとれないよう育ってしまったからだ」という理由が、すぐ見て取れました
 「任せられた」、あるいは「ぶち当たった」仕事や問題に対して、「その解決や手がかりの糸口さえつかめない、掴もうとしない、できない」人が大半でした。「待ち」と「諦観」の蔓延です。

 そのとき気づいたのが、ほとんどが学校時代を通じて「『勉強』を教えてもらう」というスタイルに「(安倍首相曰く、品が悪いのだそうですが)ずぶずぶ(!)に」はまり、抜けきれなくなってしまっている、それ以外の方法があることなんか考えもしない(できない)で育ってしまうのだ、ということでした。
 この感覚は、学生から一般社会に出た経験がなくては、なかなかつかめない場合が多いと思います。「自分でできなくなってしまっている大人」をたくさん見て、その比較から原因を究める機会が少ないからです。

 団を始めた時、その先々を考えて、子どもたちには、まず「むずかしいことに自らあたるという経験を数多く積ませなければならない」と決心しました。それによって自ら道を切り開ける子がたくさん育つはずだと考えたのです。子どもたちに、そういう意識で指導する塾や学校の先生は少ないかもしれません。しかし、子どもたちが「できない」と思うような「むずかしいこと」に直面し、それを解決できた時の喜びと自信は、何よりも人生の大きな『糧』になっていくはずです

ファインマンの応援歌
 以前も、何度か「考えられない子がいる」ことを伝えましたが、小さな子どもたちは、まだ「考える」ということを知りません。たとえば、小学校低学年の場合、何か問いかけをすると、「目立ちたがり」・自己顕示欲の旺盛な子は、よく考えないで、面白半分に思いつく言葉を次から次へと繰り出します。積極的でよいという見方もあるかもしれませんが、ぼくは、そのまま行けば、「考えることを知らない」まま育ってしまう危惧が大いにある、と感じています。

 ぼくのように、一人で「持ちあがる」指導をしていると、その成長の過程から比較判断がよくできます。「一旦頭の中に『問いかけ』を落とし込んで、順を追ってたどってみる」という、「考える基本」が習慣化しないというわけです。
 それでは「落ち着いて根気よく考えられない」、つまり「筋道立てて論理的に考えられる子には育ちにくい」でしょう。そして、そういう「くせ」に注意を払われないままであれば、そのまま大人になり、考えること・勉強は苦手な子に育ってしまわざるを得ません。指導しているぼくたちは、そういうことにも目を配らなくてはなりません。まず自ら「対象」を読んで、頭の中に、しっかり落とし込んで考える、という習慣を定着させる指導のたいせつさです
 社会での観察と経験から、いわば「カン」で始めた方法ですが、年々子どもたちの成長の結果は出るものの、時間もなく方法の根拠の得られないまま十年くらいすぎたとき、ファインマンがヒントをくれました。

 “NO ORDINARY GENIUS”(CHRISTPHER SYKES  NORTON)を読んでいて、ファインマンがむずかしい本を読むときに取った方法です。
 
 むずかしい本に出合った時、ぼくがよく使う手があった。たとえば、百科事典の中の静電気の解説のような、難しいとわかった記事の場合だ。
 どうしたかといえば、最初の二・三段落を読んでわからなくなっても、全部を読んでしまうんだ。ぼうっとしながらも全部読んでしまって次に読み通そうとすると、もう少し先まで読める、それを最後までやり通す(なかには、後で説明する例外もあったが)。それからわかったことをノートに書き留めると、完璧だよ。(前記書 p33・拙訳 下線は南淵)
 

 ファインマンは、天文学の本を妹に送った時、「難しすぎる、どうすればいいの」と聞いた妹にも、同様の方法を薦めています。
 
 ともかく、最初から始めるんだよ。わからなくなるところまで、わかる限り読み続けるんだ。わからなくなったら、また最初から初めて、全部がわかるようになるまで続けるのさ。(前記書
p35・拙訳)

 まず読むこと。そして、何度も繰り返していると、次第にわかってくる(きた)というようすがアリアリとわかります。そこで身につくのが「学体力」です。まず、手を初めること。読んで考える。そしてわからなくても「投げ出さずに」「あきらめずに」努力すること。自分で始めることを教える。団の指導する「学体力」の育成そのままです。
 「簡単に手に入るものは、それだけのものだ」ということを、小さいころにしっかり伝えておかないと、教えるときがありません。読んで考える習慣づけのたいせつさ。逆に、「至れり尽くせり」は「がまんもできない『バカな子』をつくってしまう」可能性が大いにあるという、現実に無防備な指導が蔓延しています。
 
ファーブルの場合
  ファーブルは自ら実践した勉強方法を、勉強に悩んでいた弟にアドバイスしています。

 「なにかこまることがあっても、けっして他人の力を借りてはいけない。はたのものから助力を受けたのでは、けっして難問は解けないばかりではなく、困難はまた、ちがったかたちでおまえを苦しめるだけだ。大切なことはじっと耐えしのぶこと。そして自分で考えること。さらに、みずからすすんで学びとろうとすること・・・・・・。これほど役に立つことはない。これが理解への遠くて近い道なのだ」
(「ファーブルの生涯」G・V・ルグロ著 平野威馬雄著訳 筑摩書房p42 下線は南淵)

 「これほど役に立つことはない方法」の開陳です。そしてこれこそ最も子どもたちに習得してほしい態度と能力です。ファーブルの弟への手紙の続きです。

 「・・・私はこれだけは忠告しておく。それは特に科学に関しては観察が第一、絶対にほかのものにたよってはならないことだ。一冊の科学書は、これから解かねばならない“なぞ”なのだ。その解明のキーを他人にもらったら、たちまちに解けるだろうが、なんのプラスにもならない。もしも第二のなぞが出てきたらどうする? いぜんとして最初のなぞにぶつかったときと同様、手も足も出ないだろう。それは第一のなぞが、他人の助言でかんたんに解けてしまったからだ。自分の力で解こうとしなかったから進歩がないのだ」 (「ファーブルの生涯」G・V・ルグロ著 平野威馬雄著訳 筑摩書房p42~43)

 ファーブルはこうして「自ら読んで考えることのたいせつさ」を伝えながら、最後に

 「二、三日だけでいいから、こうした勉強のやり方で努力してみるといい。精力がことごとく一点に集中し、いっさいの障害物がダイナマイトをしかけたように、根本から爆破され、とりのぞかれてしまうのだ。まあ二、三日いまいったような忍耐と不断の努力をつづけて、ためしてみることだ。そうすれば、なに一つとして手に負えないなんてものはなくなる。(1850年6月10日、アジャクシオにて弟へ)                                (「ファーブルの生涯」G・V・ルグロ著 平野威馬雄著訳 筑摩書房p44)

 「なに一つとして手に負えないものがなくなる」というひとことに、生きていくうえでの「学体力」の養成のたいせつさがよくわかります。偉人二人じゃないか、一般の人は関係ない、と考えるかもしれません。しかし、偉人は二人とも最初から偉人だったわけではありません。ぼくたちは、これから「偉人になるかもしれない(偉人になるだろう)」子どもたちを育てて指導していることを忘れることはできません。団のOB諸君に難関大学の自学受験合格者が多いのは、こうした指導の成果だと思います。最後に「銀の匙」の橋本先生の方法です。

橋本先生の方法
 橋本先生は中学生に「銀の匙」授業だけを行っていたわけではありません。一カ月一冊の課題図書を読むことを課していました。

 中学一年生のころは、それこそ夏目漱石の『坊っちゃん』や芥川龍之介の『羅生門』など読みやすいもの。そして、中2、中3と学年が上がっていくにつれてレベルも上げ、『古事記』や上田秋成の『雨月物語』などの古典も出しました。
 生徒にとって、1カ月で『古事記』や『雨月物語』といった古典を読破するというのは確かに大変なことです。
 しかし、私は常にこう考えてきました。
 とにかく読めるだけ読めばよい。わからなくても読みとおしてさえ置けば、次に細かく見ていくときに必ず役に立つ。ぜんぶがわからないということはないだろう。わかるところもあるのだから、まずはそこだけ理解すればいいのだと。(「伝説の灘校教師が教える 一生役立つ学ぶ力」 橋本武著 日本実業出版社より 下線は南淵)
 

 おわかりのように、これをさらに進めたのが、ファインマンの方法です。
 さて、橋本先生は一方で、授業の中で『徒然草』を徹底的に読み込むという指導もされたようですが、わからない(わかりにくい)古典を自ら(ひとりで)読むことで、「考える力」「考えること」が大いに身についたことはまちがいないでしょう。
 以前、「本読みができるからといって、『本が読める』ということにはならない」と考えました。このように「読むこと」、「読解力」をつけるには、「一人で考えながら読む」という習慣が欠かせないことがわかると思います。それが「論理的に考える力をつけること」にもなるわけです。
 ぼくは今、“The Boy in the Striped Pyjamas”(JOHN BOYNE VINTAGE CLASSICS)を読み返していますが、前回より驚くほど理解が深まることがわかります。こうした自らの経験も子どもたちを指導する肝になっています。

 なお、「地球・生命の大進化」(田近英一監修・新星出版社)はコンパクトにビジュアルに地球と生命の進化の概略がわかりやすく紹介されています。立体授業『化石採集』のテキストと指導に重宝したので紹介しておきます。


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