『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑲

2015年10月24日 | 学ぶ

 今週の写真は、お世話になっているクリニックの「花壇の人形の再生」と「稲刈り」のようす。そして立体授業『米づくり』テキストの一部です。
「勉強」のすすめ
 タイトルの『勉強』は、もちろん「学習」と言っても同じ意です。

 しかしイメージが問題です。嫌われています。「強いる・勉める」、聞くだけでも辟易します。
 どんな人にも、必ず一つや二つゲームであれ、麻雀であれ『おもしろくてしかたがない』、そういう対象があったはずです。もし、勉強も『おもしろくてしかたがなくなる』、そうなれば、みんな「寝る間も惜しんで」、ということになるでしょう。
 先週、こんなアイデアを提示しました。
 「学ぶこと」は、そんなに忌避されるものなのか? 展開が逆ではないのか? 
 「学ぶこと」は、「ぼくたちが生きていく上での生存の可能性を広げること」であり、「生命の存続」という生物の根本命題からも、本来なら快感に終始するはずだ。嫌悪の対象であるべきはずはない。明らかに学習における現状の指導体制や指導方法が間違っているからだ。
 (なお、念のためですが、ブログのアイデア・文章の無断使用・転用はお断りします。使用の際は出典を明らかにし、その旨連絡をお願いします)・・・。

 小さいころ、難しい問題やできなかった問題、またどうしてもわからなかった疑問を解決できたとき、とてつもなくうれしかった・・・。しかも、できなくて長い間苦労してきた問題ほど、喜びは大きかった・・・。この感覚はほとんどの人が持っているでしょうが、それは当たり前です。それによって、自らが生きていく可能性が、より大きくなった、つまり生きていくためのプラスの方向です。生の存続の方向に沿っているものは快感です
 ところが、どうして嫌われる存在になってしまうのか? その大きな原因はふたつあります。

 まず一つめは、どんなことであろうと、おもしろくなるまでに、『それなりの厳しい努力や我慢の時期』が必要になるからです。小さな努力を日々積み重ねていって、あるいは理解を少しずつ進めていって、「手の内に入れる」。まず、そういう期間が必要です。そういうことができたかどうか。
 「『嫌いだからしない』という時期」を乗り越えたり、克服できるだけの経験や努力を重ねられたか、どうか。『頭を使うこと』は、最初とても大変ですから、「その大変さを乗り越えられた人」は決して多くありません。
 途中で挫折していれば、たとえば、その「乗り越えられた経験」や、その「苦しみの先に待っているすばらしいもの」を子どもたちに伝えることができません。またまた挫折するしかありません。先が見えないからです。先や目標が見えない努力をつづけることはできません。

 一部の天才や稀有な偶然に恵まれれば別ですが、多くの人の場合、最初からおもしろくてしかたがないはずがありません。性格的に『我慢ができない』『飽きっぽい』(これは、ほとんど、ちいさいころからの育て方やしつけの結果だとぼくはおもっています)となると、どんなことであろうと、決しておもしろくなるまで至りません。最初の壁で、すでにアウトです。


 つまり、術や学・スポーツ等どれをとっても、「一定期間我慢すること」ができなければ、ものになるもの、おもしろくて仕方なくなるものは手にできません。ところが多くの人は我慢強くありません。上手(?)になれず、『できない』・『評価もされない』間は、どんなことであろうと、おもしろさが継続することはありません。次のおもしろいステージには進めないからです。

 二つめは、指導や導入する際、よい指導者(先生には限りません。勉強の例では、エジソンのお母さんやファインマンのお父さん等、両親や肉親も)にめぐまれるか否か、です成長のようすをよく見守り、タイミングを計り、的確な指導とアドバイスをつづける・・・そんな先生に恵まれれば、多くの子が「もっと勉強好き」で成長するでしょう
 しかし、勉強に限らず、子どもたちへの、こういう「きめの細かい」指導をつづけてくれる人には、なかなか巡り逢えません。ぼくが、「お父さん・お母さんに頑張って欲しい」と思うのも、そういう理由からです。

 自分の子どもですから、自分が誠心誠意、日々子どもに向かえば、きっと「もっとすばらしい結果」が返ってくると思います。ところが、若いときは、なかなか、そういう長いスパンで「子育て」を考えたり、きめ細かい観察や指導をつづけることはできません
 もう少し長い目で見つめ、根気よく子育てに向かうこと(つまり、お母さんやお父さんが我慢すること)で、こどもたちは、勉強にしろ、何にしろ、我慢を重ね、辛抱しながら、おもしろいことを見つけ、それに向かって邁進し、「勉強!」の確かな実りをつかんでくれるのではないでしょうか?
 
「米づくり」が先か、「単子葉植物」が先か?
 そのきっかけづくりを考えてみます。17日(土)は『稲刈り』でした。
 たとえば、植物の学習では、子どもたちは単子葉植物と双子葉植物の分類や特徴を学習します。葉のようすや根の区別を、コンパクトにまとめたテキストを利用し、その特徴を覚えていきます。つまり、多くの場合、簡単に線描されたイラストや小さな写真を頼りに、文字で表現された特徴を頭に入れなければなりません。

 教室で少し知っている先生がいて、たとえば、「エノコログサ」と「猫じゃらし」が同じものだぐらいは習っても(知識だけ)、実際には『手にとって、よく見た子』はほとんどいない。「道ばたに生えているのを見たことがあるような気がする(ような)」子が少しいる、それだけです。それ以上の広がりはありません。
 
対象そのものはもちろん、存在する環境や、それを中心とするなりたちやしくみも、すべて「不明」のままです。『おもしろさ』や『知りたさ』が駆動しません。「子どもたちのたいせつな学習のはじめ」に、多くの学習対象の指導はそうした調子で行われています。その『不毛さ』に、子どもを指導する人たちはどれだけ気づいているか?

 「そうした学習体験や学習指導が当たり前」のように育った先生やお父さん・お母さんも、それが「おもしろくないこと」だとはわかっていても、それ以外の学習体験や指導経験がない人がほとんどなので、その状況を『打開すること』や『工夫する術』がわからない、その「きっかけ」がつかめない。そうではないでしょうか
 「よく見たことのないもの」「ほとんど知らないもの」の「簡単な特徴」や「名称」・「数式」・・・を延々と列記され、問題演習をくり返すだけで、『勉強』がおもしろくなるでしょうか? そんな経験だけを続けておもしろくなること、一生つづけてゆくことが考えられますか? 多くの子どもたちは、多くの場合、そうした学習だけをつづけているわけです。「途中で嫌になるのは当たり前」、そう思いませんか? その障壁を破りましょう。 
 団の課外学習・立体授業は、ただ田植えをしたり、稲刈りをすることだけが目的ではありません。イネのことを考えてみてください。

 イネは単子葉植物です。田植えで苗を手に取れば、単子葉植物の特徴であるひげ根や平行脈の葉っぱ、その特徴が一目瞭然です。団の立体授業で使う『米づくり』のオリジナルテキストでは「イネの一生」はもちろん、田んぼのようすやそれぞれの季節の動物や植物の特徴、米づくりに関することわざや米づくりで使う道具の数々、その歴史に触れています(備中鍬や千歯扱き・唐箕などは歴史で出てきますね)。
 つまり、こうした経験を通じて、子どもたちの頭の中では「米づくり」の「学習をともなう立体像」が立ち上がってくるのです。ぼくたちの生活、衣・食・住にまつわる『学習対象』が「かけがえのないたいせつなものである」という認識が根付いていきます。子どもたちは「勉強でない学習」に目を開かれていきます。「環覚」養成です。 


 ずいぶん前になりますが、ある有名私立難関中高一貫校の先生方に、『米づくり』のこうした指導の有用性や意味を、「心を込めて」説明しました。曰く、「うちは校庭に田んぼをつくって、農家の人に教えてもらうから、それでいい」。

 その返事から、子どもたちの学習の問題点の解決や、それを打開する「きっかけづくり」などは、「とてもできない」と感じたものです。米づくりで田舎に向かう道沿いや環境、その近くで眼にする道具や季節ごとの植物・動物・・・。それらがすべて子どもたちの『学習環境作り』として大きな意味をもつことが、まったくわかっていません
 また、ぼくの友人が、かつて「よい塾を探している」というお母さんに団を薦めてくれたようですが、曰く『うちの子は田植えはいいから勉強を教えて欲しい』。何をか言わんや、です。ぼくの塾が良い塾かどうかはともかく、こうした先生やお母さんは、もういちど子どもの身になって、子どもの心を思い出して考え直してみてください。子どもたちのおもしろい学習への道程はそこから始まるのですから
 来週は、『子育て』の参考にしてもらえるよう、米づくりの体験がもつ「もうひとつのたいせつな意味」について考えてみます。


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