『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

お父さんとお母さんのための「母親教室」 ⑯

2015年10月03日 | 学ぶ

『パンが応報』
 手作りのおいしいパン屋さんがありました。
 出来立ての「アンフライ」や「漉し餡パン」の美味しさが格別で、何十年も前に、よく通っていた人がいました。朝9時過ぎになると、ホカホカのパンが小さなお店に並びました。

 作り手のおじいちゃんと売り手のおばあちゃん、二人の共同作業。かつては大いに流行っていました。彼は、このおいしさなら、いつか大きなお店になるだろう、と楽しみにしていたといいます。
 しばらく仕事で離れていて、久しぶりに訪れた朝。「漉し餡パン」のプレートには、「ぼくは出来立てじゃないよ」という顔をしたものが、三つ並んでいました。
 「残り物かもしれない」と心配になった彼は、年をとって表情がきつくなっていたおばあちゃんに、「これは、今朝焼いたものですか」とたずねます。一瞬躊躇があって、「・・・ええ、そうですよ」という応え。「もしや」という危惧はあったものの、おばあちゃんの返事を信じて、レジに運びました。

 帰って口にすると、やはり予想通り。昨日の残りです。
 
「心根の荒み」を考えると、パンの味気無さが倍加しました。
 商売だからしょうがないか。でも店が大きくならなかったのは、その辺だな。パンの美味しさに自信をもって、「一番おいしいものを売ろう」という鉄則とプライドを忘れたからだ。彼の感想です。
 二週間後です。気になって、朝もう一度足を運びました。9時過ぎ。
 自転車を止めると、ショーウインドーの向こうで、やはり「漉し餡パン」が三つ残っているプレートがありました。ガラス越しに「出来立て」をいっぱい載せたプレートに取り換えたおばあちゃんが見えました。
 客は他に誰もいません。彼はドアをあけて、ホカホカのプレートから「出来立てのアンパン」を二つ載せてレジに運びます。
 おばあちゃんは見るからに表情を硬くし、「ありがとう」もそこそこに、そそくさと小銭を投げ入れたレジの引き出しを、ガチャンと音を立てて閉めました

 因果応報、いや「パンが応報」です。こうして、おばあちゃんは、たいせつな客をまたひとり無くしました。おばあちゃんにそれがわかったでしょうか?

「すばらしい子育て」は「自分育てから」
 ぼくたちは、「目先のやり取りや得失」にすぐ目を奪われ、なかなか先のことまで見通せません。しかし、年をとってくると、「得と損の二面性」や「良いことと悪いことの裏表の関係」が、よく見えるようになります。表には裏があります。

 「ほとんどすべてのこと(全部だと思うのですが断言はしません。あらゆることを体験はできませんから)」に、二面性や、「幸と不幸が交互にというような前後(後先の)関係」があります。
 たとえば、税金をごまかす人がいて、税収が足りなくなると、税金の徴収が厳しくなります。そこで無駄に税金を使うようなシチュエーションが重なると悲惨です。

 「うまくいった、もうかった」とほくそ笑んでいても、やがて自らのもとに「倍返し」で返ってきます。つまり、自分で自分たちの首を絞めている、わけです。感性や知性のちがいで本人が気づかない場合があるだけで…。
 ぼくは、右でも左でも、真ん中でも、国の味方(?)でもありませんが、「生活保護を受けながら、子どもを保育所に預けてパチンコ三昧という夫婦」や、「偽装離婚や同居結婚(?)で、高額所得者が税金をちょろまかしたり、児童手当をもらっているような事例」を耳にすると、「ちょっと待てよ」と思います。

 そういう保護者の姿を見て育った子どもたちが、「世の中を良くしたい」と思うでしょうか。「社会の役に立ちたい」と、正義感にあふれた、りっぱな青年に育つでしょうか。十数年後の子どもの素晴らしい成長のイメージが、そんな人たちの脳裏にあるとは思えませんが・・・。 
 「すばらしい子育てのスタート」は、まず「自分育てから」です。これは、年を重ねてきたゆえの反省と覚悟です。

何気ない日々がもたらすもの
 さて、「パンが応報」のような例は、時々子どもたちに話します。考える機会を用意します。
 お金は大事だけれど、お金のたいせつさの偏重で、日々の大切さや面白さ・豊かさ、そしてその奥にある「人生の意味」について考える機会を往々にして失いがちになります。お金を貯めた、そして、そのお金をもって、おいしいものを食べる、旅行に行く・・・。

 お金がなければおいしいものは食べられないし、旅行にも行けない? 果たしてそうでしょうか?
 「お金がなくても、おいしいものは食べられますよ?」 
 自分で育てて、心を込めて、おいしいものを作ればいいんです。料理の本や自分の舌を鍛えることができます。自分の好みに照らし合わせながら工夫をすれば、すばらしく、おいしいものが作れます。それを伝えるのが教育です

 お金をもって遠くに旅行に行く? お金がなくても、「いくらお金があっても行けないところ」に旅に行けますよ? 想像の国や創造の国・・・これは冗談ではありません。「何気ない日々」、「何もない日々」、「変化のない日々」。お金がなければ、ほんとうに何もないのか? 
 ぼくたちは、日常で、「素晴らしいパノラマ」が頭の中に広がり、「夢の国」・「不思議の国」にトリップできることを知らないだけではないのか? つまり、日々の『何気なさ』は「『何気あり』を知らないから、何もない」のではないか? それを伝えるのが教育です。 

 それらを生み出すものが教養であり、知性であり、理性であり、感性ではないのか? どこへ行こうと、どこにいようと「素晴らしいパノラマ」や「夢の国」「不思議の国」を見させてくれるのは、教養、知性、理性、感性、この四つのはたらきの故ではないでしょうか? それを伝えるのが教育だと考えています
 これらは、お金がなくても、十分整います。考え方と心の余裕があれば。
 
ところが、「素晴らしいパノラマ」「夢の国」「不思議の国」に行きたいがために、逆に、それらを見たり、感じたりする「スキル」をどんどん摩耗させているのが現実ではないのか? やっとお金がたまった時、見たかったものは姿を消してしまっていた…。そんな成長はしてほしくありません。。

不思議の国を旅しはじめた子どもたち
 前回(春)の化石採集。「まだ経験が少ない」子どもたちだったので、化石や地球史的背景など、なじみがありませんでした。つまり、なじみがなければ化石も「ただの石ころ」です。おもしろくなかったのです。一時間もすると飽きて、近くの池で石を投げ、カエルを追いかける子が出始めました。

 しかし、立体授業『化石採集』のスライド映写やアドバイス、自然史博物館での採集物同定作業、授業での関連事項の紹介など、様々な体験を半年重ねると、存在の「意味」が認識できるようになってきます。みずからが学んだり、取りくもうとしている「こと」や「もの」が、「かけがえのない意味」を持ってきます。「おもしろい学習」はこうして始まります。

 学習対象・学習内容が身近になるわけです。ひとつひとつは日常の何気ない小さな積み重ねですが、それがいつのまにか大きな効果を生みだします

 今回、子どもたちは、小さな丸い石や二枚貝・葉っぱの化石から、1500万年前の浅い海に流れ込む川のようすが、ぼんやりイメージできてきたようです。約3時間一生懸命化石を探していました。
 我慢やがんばりも身に付き、「獲物」がたくさんとれたのも当然です。そして茫漠とした「机上の地球の歴史」に終わらず、現実の歴史の一瞬も切り取ることができました。それが子どもたちの心の奥に残っています

 たとえお金がなくても(人生、何があるか、わかりません)、やがて「素晴らしいパノラマ」を見、「夢の国」・「不思議の国」を自由に旅できるように育ってほしい。教養・知性・理性・感性。四つの力を身につけてほしい
いつもそう願いながら、ぼくは子どもたちと付き合っています。


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