『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

お父さんとお母さんのための「母親教室」 ① 「子人(ことな)」の子育て

2015年06月20日 | 学ぶ

人格や人間性のともなわない学力に意味はあるのか?
 この間紹介しましたが、左は創設以来今年度(2015年)まで団のOB教室を経て、きちんと卒業してくれたOB諸君の進学先です。発揮した学力に限らず、彼らが人間的にもすばらしく成長してくれているようすも、何度か紹介しました。

 「ほんとうの医者になりたい」とアフリカまで行ったK君、救急救命医として北の大地で活躍しているS・K君。
 女の子もいます。高校の時、「いじめ」にあって助けてもらったカウンセラーの先生を見て精神科の医師を志したKさん。「日本一の看護師になりたい」とN県立医大に進学したYさん。その意気やよし、です。
 

そして、最近の諸君。「母をたずねて・・・」で紹介した大阪一心やさしい(と、ぼくは信じています)T・K君。進学中学を訪問したとき、「あのA君を育てた南淵先生・・・(これによって、彼が中学校の時でさえ、学校でいかに評価されていたか、よくわかります)」と紹介された、今年京大へ進んだA君・・・。みんなやさしく、賢く育ってくれました。
 ぼくは、いつも「人格や人間性のともなわない優秀な学力なんて、まったく意味がない。人に迷惑をかけるだけだ」と話します。「人格」や「人間性」のともなわない高い学力など、「他人の迷惑」になりこそすれ、社会的にはほとんど意味をもちません。子どもたちには、まず、それを伝えようと心がけています

 口幅ったくも、こう言っているからと言って、ぼくは堅物でも「星一徹」でもありません。いわゆる「先生」とは、「まったくちがうタイプ」なだけではないでしょうか。
 たとえば。いつもAmazonやインターネットショップの商品を配達してくれるクロネコヤマトの兄ちゃんとの朝の会話です。
 教室の入り口で、真剣な顔で
 「今日は、AV届いた?」
 兄ちゃん 「ははあ、先生、へへッ、今日はまだですわ、ハハッ!」
 ぼく 「そうか、残念。早いとこ頼むで」
 兄ちゃん 「わかりましたァ、ハハ」。大笑いしながら電動自転車をこいでいきました。
 

 こんな感じです。小太りの「子ども好きな、ただのおじ兄ちゃん」です。
 しかし、誰が何と言おうと、「子育て」は、まず「人育て」です。そこは譲れません。「学校探し」や「学校選び」ではありません。目標や理想のない子育てで、豊かな人間性や、優れた人格が期待できるでしょうか? 校訓や指導要領は、その思いや願いを実践してこそ意味があります。ちなみに、団の三訓は「嘘をつくな。狡をするな。楽をするな」です(その意味は以前のブログで展開しています)。

 日ごろのあれこれや雑事で往々にして忘れられがちですが、人を指導する立場にあったり、教える職業にある場合、その目標と理想なくして教育は成立するものですか? みなさん。「実は、大切なこのことを忘れがち」ではないでしょうか? 「方針」や「理想」のない「子育て」は、ただの『子守』に過ぎません。
 子どもが生まれたとき、ぼくたちは「元気で丈夫に大きくなってくれればよい…」と思います。しかし、ほんとうに、「いつまでもそれだけ」でよいでしょうか? 

 「元気で丈夫で、何も考えない、頭の悪い人」が多いほど、「傍迷惑」で「始末に困る」ことはありません。失敗続きでも、いつも「笑い話」ですむのは、「寅さんの映画」ぐらいです。子どもたちには、できれば、人の心がわかる、やさしく頭の良い青年に育ってほしい、というのがみんなの願いなのではないでしょうか? また、「一度も、成人まで責任をもって子育てをした経験がない人」が、よく「踊らされる」、観念的でマスコミ受けや好感度狙いの「美辞麗句」にも反省と注意が必要です。「自由と自主性の尊重」や、一部の人には金科玉条の「ほめて育てる…」という「美辞麗句」について考えてみましょう。  

 まず「自由」です。「自主性」や「自由」の裏には必ず「責任」がともなうこと、「自由の尊重」は同時に「他人の自由も尊重すること」という原則をきちんと伝える努力や行動を欠いては、「子どもを放し飼い」にしているのと同じこと。「ただ『わがままや自分勝手の素』を注入しているだけだ」ということに気づくことが必要でしょう。
 また「ほめて育てる・・・」ですが、時に「厳しくしかる」、「方向をコントロールする」という、きちんとしたフォローがなければ、「うぬぼれが強いだけで、口だけ一人前、中身半人前」、大阪のおっちゃんが言う「生意気なクソガキ」の大量生産が関の山です。そんな傾向はないですか? ほめるだけで育つような子はいません。

 これらの「美辞麗句(!)」を無反省に取り入れるのではなく、それぞれの子どもの性格や成長に応じて、適切にコントロールしていかなければならないのが、「実際の子育て」です
 そこではお父さん・おかあさんの『成長』も厳しく問われることになります。それが子どもをもつ(もった)大人としての最低限の責任だということを忘れることはできません。

子育てと勉強
 そして、もうひとつ避けては通れない「大きな問題?!」がここに立ちはだかります。「勉強」を「勉強というくくり(つまり受験や成績向上の手段)」だけで考えてしまうという「悪しき慣習(?)」です。
 ほとんどの人はあまり考えないようですが、「子育て(人育て)」と「勉強」は切り離して進められるものではありません。少なくともぼくは、団で素晴らしく成長してくれる多くの子どもたちを見ていて、そう結論づけることができます。

 簡単な例を挙げれば、「人の話をきちんと聞ける」、「約束を守る」「少し我慢してしなければならないことを片付けられる」・・・。これらができないと勉強もスムーズに進みません。これらは、いつ、だれが、どこで教えるのか? 
 これらを教えなければならない場面を想像してみてください。借り物の「美辞麗句」で実現しますか? ほめるだけで軌道修正できましたか? 言うことを聞く子ですか? 素直に言うことを聞かせられましたか?
 一個の人格が形作られようとしているとき、「観念的な子育て」で遊んでいるばかりでは意味がありません。すぐ、「言うことを聞かない」かつ「言うことがわからない」やっかいな若者へ「変身」します。 

 毎年育っていく子どもたちを見ていると、日々「待ったなし」です。光陰矢の如し。「子育て流星の如し」です。それを忘れないようにしましょう。
 そして、その際には「子育て」に対する意識・方針や落ち着いての観察・行動の基準や判断するための『哲学』など、あらゆることが関わります。
 「哲学」と、むずかしい言葉を使いましたが、いいかえれば、それは「生きていることを真剣に考える」と言っても同じことです。「その場限り」では済みません。そして同時に、子どもの「将来を見通した思い」がそこには欠かせません。   

 以前にも書きましたが、ぼくたちは何をするときも、自分がもっている1つの脳、その「頭のはたらき」で判断や行動をします。「それらの繰り返しと総合」が「成長すること」です
 成長過程にある子どもたちの「学体力」を養い、「環覚」を育て、人間性の陶冶を願うこと。それらにも、さまざまな環境や場面での子どもたちの行動の観察や反省・指導が必要になってきます。欠かせません。「すべて、『勉強』とも『人生』ともかかわってくる」からです。
 さて、「学体力」と「環覚」は僕の造語でした。次回は、みなさんの参考になることを願って、「子人―ことな」と「大供―おども」(いずれも造語)の「子育て」について、現実にあった場面を紹介しながら考えてみます。
 (写真の田植え・川遊びは今年のようす、成績表は各課程6月度学力コンクールです。)


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