『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

粘土発見から土器づくりへ (1)山と土と学ぶ面白さ

2012年08月11日 | 学ぶ

 


 みなさんは通勤の車中から、あるいは郊外に出て「山」を眺め、「山はどうしてできたのか」と思ったことはありませんか?

 「・・・地殻変動や土地の隆起」と、それなりに答えは出てくるかもしれません。

 しかし「懐かしさ」はあったでしょうか?
「生きている山」でしたか? 「地殻変動や土地の隆起」という『ことば』でできた山ではないでしょうか。 木々が茂り、笹の葉先の水滴の世界に思わず見入ってしまう山、木漏れ日の中で小鳥が囀る山だったでしょうか?「教科書掲載写真の山」・「コラムの山」・「要領よくダイジェストされた山」ではないでしょうか。

 

 もちろん、山に対するこの感覚の想起は、数多の学習対象に対する感覚の代表例に過ぎません。
 距離や時間を置いても、時に振り返ったり、ゆっくり思いをめぐらすという経験さえない。ぼくたちと学習対象とは、それほど儚い、うつろな関係だということがわかります。特に経験の少ない子どもたちにとって、学習対象の多くはさらに身近ではありません。

 山の場合であれば、「登山家やハイキングが趣味!」ほどではなくても、山に入り、山に触れ、山を感じ、その折々の表情に眼を留める経験を積めば、次第に親しみが増します。対象に近しさ・親しみをもってはじめて、学ぶことに面白さが生まれ、不思議さや次の探求心・研究心・大きな目標やテーマが育ってくるとぼくは考えています。山が学びの対象として動き始めます。

 それには、まず対象に注意や眼が向かわなければなりません。子どもたちにおもしろいものがあると伝えなければなりません。その場所に立ち、不思議を感じ、好奇心が起きる状況が育たなければなりません。環覚の育成です。
 地殻変動や山の土のなりたちは中学校からの理科の学習テーマのひとつです。ところが、昔と環境がすっかり変わってしまった今は、自然体験がなく、それまで山をきちんと見たり考えたこともないだろう中高生が大半です。

 学習するべき時期までに、それらを受け入れる態勢がまったく整っていません。環覚が育っていません(まだ自然がそれなりに残っていた昔でさえ、粘土のあり方をイメージできなかった前述の秀才を思い出してください)。
 さらに残念なことに、学習時期も子どもたちの現実にそぐいません。
 中学生・高校生といえば、性やファッションなどに、目一杯好奇心と興味をもち始める時期です。山の中に喜んで入り、土や虫を興味津々愛でるのは、もっともっと小さいころではありませんか? その頃には既に環覚の育成が始まっていなければなりません。

 小学生時代にそういう経験が乏しく、性に目覚めるような中学生時代になって、いきなりトビムシやカニムシが出てきても、好奇心いっぱいで対象に向かえる子がどれだけいるでしょう?
 環覚がともなわず、自然を受け入れることに何の準備もない彼らに、「唐突に」、見たこともない地殻変動や山の土や微生物の説明を始めても、「異性や流行に対する興味をひとまずおくだけの関心」で興味が向かうでしょうか? 。

  落ち葉を分解するバクテリアや虫たちは、ただ気味の悪いものの象徴であり、悲鳴の原因になるしかありません。

「何でこんなもの勉強せんとあかんの」という感想とともに、「勉強」は「始まった段階から既に終わったも同然」になるのではないでしょうか。

 これらも、学習が身近にならず、おもしろくない大きな原因のひとつだと考えられます。「理科離れや勉強嫌いも当たり前ではないか」ということが、こう考えればよく納得できると思います。

 そして、今のままでは、その多くがそのままおもしろくない「勉強」として、いつまでもつづいていくことになりかねません。防ぐためには、もっと早くに、できる限り体験をともなう、学ぶ「きっかけ」が生まれ、環覚が育っていなければなりません。

 多くの科学者の子ども時代を振り返ってみれば、学ぶことが、調べることが、追求することが、おもしろくておもしろくてしかたがなくなる時期を見つけることができます。
 子どもたちの「天使のほほえみ(6月ブログ参照)」が「健在」な間に(私見では遅くとも小学生高学年までに)、ファインマンのお父さんのように、自然の中で好奇心を引き出す問いかけや指導をうまく重ねていけば、幅広い好奇心と探求心を備えた、素晴らしい子どもたちが育っていくのではないでしょうか。(岩波現代文庫「困ります、ファインマンさん」・大貫昌子訳等で、そのあたりのようすがよくわかります)。

 

「こうして私はその後の人生を決定づけられ、あらゆる科学に興味をもつようになりまし  た。物理が得意なのは偶々なんです。いってみれば、小さいころにすばらしいものをもらった人  が、もう一度それを見つけたいと探しつづけているかのように、私は科学に魅了されてしまいま した。まるで子どものように、いつもすてきなものを探しつづけています。探しても、必ず見つか るとは限らないだろうな、時々だろうな、ということがわかりながらも」 
("What Do You Care What Other People Think?" R.P. Feynman W.W.Norton & company,Inc.以下引用は同書より・拙訳・傍線も南淵)

 この回想を虚心に味わってみてください。どんな子どもたちにも、学ぶ面白さに出会える大きな可能性があり、そして、それがさらに大きく実る可能性が秘められていることを示唆していると思えませんか?

 この姿勢を育てるのに大きく貢献できるのは、もちろん両親であり、指導に携わる人たち(特に小学生時の)をおいて他にありません。そして、まず応援すべきは子どもたちの環覚を育てる手助けです。環覚を育てることを目標にすれば、子どもたちが足を運ぶ環境に材料が埋もれているわけで、そこで出会う、どんなものでもテーマたり得ます。

 したがって、団の課外学習で、ぼくは一方では、「子どもたちが喜ぶもの(子どもたちの興味をひくもの)」、「できれば小学校の学習内容にうまくリンクできる(する)もの」という条件にあてはまる材料探しもしながら、課外学習をしていることになります。毎回がテーマ探しの道のりでもあるわけです。

 同じ取り組み、同じことのくり返しでは—たとえば土筆ハイクではツクシや草花だけを探しつづけるだけでは—経験を積んでいく子の中には飽きる子も出てきますし、幅広い好奇心を養うことはできません。

 ちなみに、子どもたちと遊ぶ、土筆ハイクの際の余興として、今まで手作りの紙飛行機の飛距離競争やこれも手作りの吹き矢での風船割りなどを組み合わせてきました。あくまでおもしろく遊べるものという観点から始めたものですが、これらの遊びの対象も、やがては大きなテーマのもとで総合された立体授業として結実してくることを期待しています。おもしろく学ぶための「きっかけ作り」は、たくさんあるに越したことはありません。これらが空や空気・風への関心を呼び覚ますきっかけになれば、こんなうれしいことはありません。

 さて、昨年のことです。土筆ハイクの道中、山から流れてくる道端の小川底でブルーグレーの粘土が目に留まりました。十年近く前になりますが携帯用のスコップで粘土を取り出し、OB諸君が大感激をしてくれた想い出を振り返りながら、子どもたちに「来年は粘土で土器を作ろう」と約束していました。
 土器づくりは、田舎で遊んでいれば身近にあるものが、いつのまにか縁遠くなってしまった子どもたちに、「粘土の近しさ」を伝えるチャンスでした。その経験を経て、自らの環境に目を向けるきっかけができれば、環覚が、またひとつ育ったことになります。
 もちろん、粘土に触れて成形し、自らで型押しした経験から生まれた想像力は、縄文や弥生時代の学習にも大きなアドバンテージになってくれるでしょう。
 そしてこの企画を実行するについては、ぼくのなかでもモチベーションが育っていきました。

 

  /////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////
   立体学習を実践 学習探偵団 http://www.gakutan.com/
 //////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。