『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

夢の教科書を求めて 1

2013年02月09日 | 学ぶ

 


学ぶおもしろさを知らない子どもたち
 昨年の二月から毎週土曜日に更新、早いもので一年が過ぎました。その間、いつも悩んでいたことがあります。果たして、僕が考えていること・伝えたいこと・思いが正確に伝わっているか。
 筆力不足(表現力不足)です。日ごろもそうなのですが、子どもたちへの思いが強すぎるあまり、ことば足らずで、誤解されたまま終わってしまっているのではないか。
 たとえば、右の表の提示もそのひとつです。こういう体裁で例示すると、指導力のアピールとしか判断されないのではないか。読む人に、ぼくの真意をほんとうに理解してもらえているだろうか、という懸念です。

 

 学ぶことがほんとうに好きになった、どこに出しても恥ずかしくないような子どもたちを育てたいという夢はありますが、これによって入塾生を多く集めたいという意図はありません。仮に希望者が増えるようなことがあっても、小さな教室一つ、指導者一人では現実問題として対応できません。きちんと目も届きません。今後補助教員を雇うつもりもありませんし、そんなに長くやることはできません(ただ、指導方法や指導方針については、悩んでいる保護者の方々、子どもたちが大好きな意欲ある先生方はいつでも連絡してください)。この表で、ぼくがいちばん伝えたかったことは、自らの人生の反省にも照らし合わせた、子どもたちの学習環境や指導方法に対する問題提起です。
 先週の最後にも触れましたが、受験勉強によるガス欠症候群の解消です。これからも学習を続けていかなければならない子どもたちのために、現状行われているより他に、もっと彼らの生来の可能性を生かせる素晴らしい学習方法・指導方法があるのではないか。
 最近はそれほど問題視もされなくなりましたが、依然として、あまりおもしろくないまま、わからないことをたくさん抱え、それを「頭の隅にしまったまま」の学力不足の小学生。一方、塾通いの子たちは、合格を目標に「学ぶおもしろさ」はひとまず置き、受験用としてやむを得ずエッセンス羅列の暗記中心の学習ばかりを進めている。現状はそういう図式です。
 子どもたちの学習のようす、子どもたちが今置かれている状況を落ち着いてもう一度振り返り、きちんと対策を立てることがもう待ったなしではないのか。そうおもっているからです。
 特別に選抜されたわけでもない子どもたちが受験に「忙殺」されず、ふつうに子どもらしい生活を送ることで、ちゃんと育ってくれたという現実。それをこのリストから読みとっていただき、子どもたちが本来持っている可能性を全開花すべく方法を、子どもたちに関わるみなさんに検討していただければと考えているのです(表の説明と学習のようすについては来週紹介します)。
 

ちなみに、巷では、受験指導がどう行われているか。まだ、中学受験や受験の様子を知らない方のために、少しその様子をお伝えします。

たけし おいらも受験数学はすぐ忘れちゃったね。最近の塾で子どもたちに教えているのは、こういう問題が出たら、何も考えずにこういう公式を使いなさいと、記憶力と反射神経だけで解くやり方なんですよ。これでは発想する力が育たないと思う。

藤原 私の息子の通った塾なんてすごいです。数列の問題の解き方は八種類しかないというので、
それを全部覚えさせて「頭から順に試していけ、それで必ずできる」と教える。本当に反射神経的にやれば簡単にできてしまうんですよ。ところが、大学の先生が自分たちのつくった入試問題を同僚に解かせると、結構、解けないんです(笑)。でも、東大の理に入るような生徒は、それを瞬時に解いてしまう。数列だったら、「八種類のうちのどれかな。あっ、これだ」ってササッと解く。しかし、一番重要なのはそんな解き方を知っていることではなくて、いろいろ問題をひねくったりして考えて、考える喜びや、一生懸命考えた後で発見したときの喜びを得ることでしょう。
(「達人に訊け!」ビートたけし著—藤原正彦 新潮社)

 今から7年くらい前の本ですが、受験業界では現在もこうした方法が先鋭化しています。過去問や試験に出てくる可能性の高い予想問題を要領よくまとめた参考書や受験用問題集を演習し、その正誤を確認し、正答や解法の演習と暗記をつづけるという方法の連続です。また、日ごろ塾から与えられた膨大な課題を、面白さが先立つわけではなく、「受動的」あるいは「事務的」にこなし、小・中・高・大と受験のたびに、ほぼ毎回、上記の引用のような指導が続きます。

 

 子どもたちに学習そのものの面白さを感じさせるような指導、受験の先にあるべき大きな目標に子どもたちが目を向けるような指導方針にシフトされてきているようすはありません。「させられる勉強」ばかりで、「したくなる勉強」が同時に行われているわけではありません。
 子どもたちの意識の中では結局、勉強はすべて暗記中心、そして目的は、いかに問題の正答率を高めるか、それによって合格する可能性を高めるか、という方向に集約されます。
 学習は受験で終わるわけではありません。子どもたちを学習に駆り立てる駆動力は何か。合格目標以外の駆動力を発揮させるように研究を重ねているようすはありません。受験以外に学習そのものがおもしろくなる指導、あるいはおもしろくなる環境を育てる方法が検討されているようすはありません。
 さらに入試前ともなると、受験塾の多くでは相も変わらず「カンヅメ」授業がはじまります。特別クラスに「業界」のエキスパートを結集し、練りあげた「高額」の合格パックを用意し、年末から入試まで学校さえ休ませます。一日じゅう受験知識をガンガン注ぎ込みます。
 学習指導は、有無を言わさずロートでエサを流し込むフォアグラづくりではありません。子どもたちはガチョウではありません。

 

  「学校の先生方は、偏差値の高い学校に何人入れたかということに、血眼になっているが、そ んなことをカウントしたところで何の意味もない。もし、先生方が、偏差値の高い学校に一人で も多くの生徒を合格させることを、自分たちの教育効果であると本気で考えているならば、ま ったく間違っている。本来、教育効果というものは、教えた生徒が、一生のうち自分の天分をど れだけ発揮し、伸ばすことができたかでわかるものだ。要するに、生徒が棺桶に足を突っ込んだ ときはじめて、その人間に関わった教育者たちの教育効果がわかるのである」
(「独創教育が日本を救う」西澤潤一著・PHPブライテスト)

 ぼくたちみんな、親も教師も相変わらず「棺桶判断」のたいせつさは忘れて、偏差値のカウントばかりに気をとられているのです。受験合格だけをターゲットに、勉強にまで簡便さと手軽さ・楽を求める購買意欲。「その購買意欲の掘り起こし」だけが目的の「学習市場」。夢を目標に、学ぶ面白さを手に、目をキラキラ輝かせて、たいせつな人生を歩きはじめる子どもたち、その理想はどこへいってしまったのでしょう。

 

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   立体学習を実践 学習探偵団 http://www.gakutan.com/
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