奈々の これが私の生きる道!

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雪国 川端康成

2010-02-01 14:08:59 | 読書
今を遡る1968年、この「雪国」で、作家川端康成は、日本人で初めてノーベル文学賞を受賞しました。
彼が、受賞した主な理由は、西欧文学にない、美的・感覚的なものを、叙情性に満ちた文章で、日本文芸の伝統の上に結晶させた点にあると言われています。

この作品の冒頭の文章はあまりにも有名なので、みな一度は聞いた事があるに違いありません。


国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落とした。
雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くに叫ぶように、
「駅長さあん、駅長さあん。」
明かりをさげてゆっくり雪を踏んで来た男は、襟巻きで鼻の上まで包み、耳に帽子の毛皮を垂れていた。
もうそんな寒さかと島村は外を眺めると、鐵道の官舎らしいバラックが山裾に寒々と散らばっているだけで、雪の色はそこまで行かぬうちに闇に呑まれていた。
「駅長さん、私です、ご機嫌よろしゅうございます。」
「ああ、葉子さんじゃないか。お帰りかい。また寒くなったよ。」
「弟が今度こちらに勤めさせていただいておりますのですってね。お世話様ですわ。」



まさに目に見えるような情景描写ですね。
いかにも寒々とした雪国の田舎の様子が手に取るようですし、葉子という女性の言葉遣いで、彼女の女性らしさもうかがえます。


この小説の主人公島村は東京から、はるばる雪国に、以前、知り合った芸者の駒子に会いに行くのです。
その雪国に向かう汽車の中で、島村は病人に付き添って、かいがいしく世話をする葉子と乗り合わせるのですが、病人は駒子のいいなずけ、葉子はその愛人らしいのです。

島村は結婚して、幼い子供までいるのですが、昔、お酒の席で、相手した駒子が忘れられず雪国まで会いに来たのです。
最初、島村は駒子を抱くつもりはありませんでした。
駒子とは長く付き合いたい気持ちと同時に、彼女を抱くには清潔過ぎて気が引けたのです。
駒子も、からだの関係にならない友人として付き合った方が、二人の関係が長続きすると自分に言い聞かせます。
ところが、駒子の島村に寄せる愛情は日に日に募るばかりで、好きになってはいけないと、駒子は自分を戒めるのですが、島村が一人宿のお湯に入ろうとするのを追いかけ、一緒に湯舟につかったのをきっかけに、からだの関係になってしまうのです。
それから駒子は足しげく島村の泊まっている旅館に行き、何度も何度も夜をともにするようになるのです。
駒子がどんなに島村を愛したとしても、島村が妻子と別れ、自分と一緒になる事は決してないと分かっていながら、抱かれに行くのです。
そうして駒子は、自分の愛情が徒労になると分かっていながら、島村に会わずにはいられないのです。
たとえ、駒子が東京に売られる時、ただ一人駅まで見送ってくれた、いいなずけの行男の死に目に合えなくなったとしても・・・
行男の為に療養費まで工面するほど尽くしたとしても・・・

その姿は、島村に好かれたいから、そうするのではなく、自分自身の愛情に正直でありたいという切なる思いにも、私には感じ取られます。


この小説は、はかない命でありながら、精一杯、自分の愛情に正直に生きようとする駒子の姿が胸を打ちます。

そして葉子のひたむきに生きる姿も忘れられません。
ラストで二人に天の川が覆いかぶさってくる描写は、二人の純粋なまでの生き方を、美しい天の川に例えたように私には思えました。