今回は、女優の吉永小百合さんについて書きます。
子供の頃、美人と言ったら、私は真っ先に吉永小百合さんを思い浮かべていました。
アイドル歌手でも、綺麗で可愛いなと思える人は何人もいたのですが、吉永小百合さんだ
けは別格の存在で、ただ美しいだけでなく、顔立ちや、喋り方や、立ち居振る舞い、全てに
おいて、気品を感じさせて、雲の上の人にも等しいほどに思っていました。
そして、今でも吉永小百合さん主演の映画が、ほぼ毎年、1本のペースで作られている事に
驚きと畏敬の念を持たざるを得ないでいます。
戦中戦後、やはり、大女優として、名を馳せた原節子さんは、42歳の時、突然、引退して
、映画の中で、若さを永遠に封じ込める事に成功しましたが、吉永小百合さんは今なお、現
役でご活躍されているのです。
私は、もう20年以上前に、吉永小百合さんが、「お客様が、吉永小百合を観たいと言われ
る限り、老醜を晒してでも、映画に出続けます」と仰ったお言葉が、とても印象深く、脳裏
に刻まれています。
そんな吉永小百合さんは、一体、どんな人生を歩んで来られたのでしょうか?
たぶん、いいとこのお嬢様として生まれ、美人で、性格もよくて、みんなに好かれて、子
供の頃から何不自由のない恵まれた生活を送って来られたのでは?
私は、漠然と、そう思っていたのです。
ところが、吉永小百合さんの自伝「夢一途」によりますと、決して、そうではないという
事がわかってきました。
戦争の傷跡がまだ充分癒えていない1952年、私の町内のどの家も貧しかった頃ですが、わ
が家はその中でも相当に苦しかったように記憶しています。門構えはゆったりと裕福そうな
のですが、家の中は火の車。父は役人を辞めて出版事業に乗り出し、失敗しました。
借金取りや、税務署の差し押さえの役人が家の中に入り込み、子供心に私は、「なんて失
礼な人たちなのだろう。よし、私がお父様を助けてあげよう」とハタキを手に持って身構え
た、かすかな記憶もあります。
「さゆり、新聞配達する」と母親に迫り、まだ年がいかないからと、なだめられたことも
ありました。
「夢一途」より
吉永小百合さんの、弱者や虐げられた人々に対する思い遣りの原点はここにあるのでしょ
うか。
ところが、それほど苦しい生活を送っていながら、ご両親の強い願望で、幼い頃から、音
楽や芸能に触れる機会が多くあり、小学生の頃から、少しづつ子役として活動されていたと
か。
吉永小百合さんがお芝居をする楽しさを初めて味わったのは、小学5年生の時の学芸会の
主役で、人間の仕掛けた罠にはまった母ウサギを演じた時だそうです。
その時、子ウサギやキツネ、タヌキ、リス達が、母ウサギを必死に助けようとするのです
が、罠は足に食い込んでいくばかりで、次第に母ウサギは衰弱し、動物たちも途方に暮れて
、泣いていると、月の女神が現れ、動物たちの愛の深さに打たれて、母ウサギを開放してく
れるというお話だったそうです。
それが、学校の講堂を埋め尽くして観に来ていた父兄と生徒
の間にすすり泣きが起こり、ハンカチが広げられるのを見た時、小百合さんは言い知れぬ感動に震え、
それと同時に不思議な快感も覚えたのだとか。
そんな折り、お母様のラジオ局に勤める友人から、「赤胴鈴之助」の子役オーディション
に応募してみたらという話が舞い込み、見事、さゆり役に選ばれ、これが吉永小百合さんの
芸能界デビューになったそうです。
それ以来、お家はそれまで米びつが空っぽという状態はなくなり、おかずが少し増えたの
が、育ち盛りの小百合さんにとって、たまらなく嬉しいことだったようです。
本当に、ご苦労されてたのが、よくわかるエピソードですね。
その頃、小学校の卒業文集には、こんな文章を書かれていたそうです。
「私の将来」
私は将来、映画俳ゆうになりたいと思う。今の映画俳ゆうは、ラジオに出ると、動作が無
いので、とてもへたに聞こえる。でも私は映画でも、ラジオでも、じょうずだと言われるよ
うになって、映画に出るとしたら、太陽族とか不良の映画には出たくない。でもそれはむり
かもしれない。一流の映画俳ゆうになるには、その映画会社に、出なさいといわれた映画に
は出なくてはならないから。
私は、結婚したら俳ゆうをやめて、家の仕事をしっかりとやっていこうと思う。もちろん
、子供を生んで、女の子なら、ふだんはおとなしくても、かっぱつに発言の出来る子、男の
子だったら、元気で勇気があって、いたずらをしない子供がほしい。
そして、おばあさんになったら、孫の洋服を自分でデザインして作ってあげたり、おかし
を買ってあげたりして、みんなに好かれる、やさしいおばあさんになりたい。
映画デビューは、中学2年の時の「朝を呼ぶ口笛」で、それを皮切りに、以後、日活で、沢
山の映画にご出演するようになったそうです。
しかし、そうなるに連れ、人気が出てきて、熱烈なファンに襲われる事件まで起きたとか
。
1963年の春、大学進学のために勉強しようと、遅い夕ごはんを終え、二階の自分の部
屋に入った時、いきなり、ナイフを首に突きつけられ、今にも殺されそうに。
その時、助けてくれたのが妹さんで、背中を思いっきり押され、妹さん共々、暗い階段を
転げ落ち、ご両親のもとに逃げ込んだそうです。
犯人はピストルも持っていたらしく、知らせを受けて乗り込んでいた警官に発砲し、血だ
らけの警官が運び込まれる事態まで起きたとか。
その犯人の供述によると、吉永小百合さんの熱烈なファンで、一緒に死にたかったそう・
・・
そうした事はあったものの、「潮騒」、「愛と死をみつめて」「愛と死の記録」「あゝひ
めゆりの塔」「戦争と人間」など、名作と名高い映画に次々に出演し、1967年にはお父様が社長をつとめる吉永事務所が設立され、ファンクラブまで結成されたとか
。
しかし、順風満帆に行っているように見えたものの、あまりの忙しさに小百合さんはだんだ
ん疲労を覚えるようになり、ストレスから、声が出なくなってしまったとか。
ところが、そんな吉永小百合さんを励ましてくれた人がいたそうです。
「声が出ないということは、病気なんだ。病気なのだから、ほんとうは治るまで休めば良
いと思う。それが出来ないのだったら、声がほとんど出なくても、とにかく一生懸命、あな
たの出来る限りの努力をしなさい。そうすれば、観る人にも、きっとあなたの気持ちが通じ
ると思う。」
それは、吉永小百合さんが19歳の時に初めて一緒にお仕事した15歳年上の岡田太郎さ
んという人で、励ましてもらった時、9年の歳月が経っていたそうです。
その人と、吉永小百合さんは結婚する訳ですが、ご両親が猛反対された。
その理由は、稼ぎ頭だった吉永小百合さんが結婚すると、収入が途絶えてしまうことと、
お相手が15歳も年上だったから。
でも、吉永小百合さんは、そんなご両親の反対を押し切り、友人宅で、ご両親の出席しな
い中、ひっそりと結婚式を挙げられたそうです。
時に、29歳。
しかし、その後、吉永小百合さんは、ご両親と長い間、絶縁状態が続いていたそうです・
・・
私は、これがすごく意外でした。
吉永小百合さんは、ご両親と親子関係が上手くいっていなかったのですね。
なんでも吉永小百合さんは、お母様に、普通の人間である前に、女優であるように育てら
れて、強い違和感を持っていたそうです。
「いつも笑顔でいないと人気は保てない」と言われ続け、最初はお母様の言うことに素直
に従い、いい子を演じていたそうですが、いつまでも無理を続けていたら、自分が駄目にな
ってしまうと悩み続け、ご両親からの呪縛から逃れるために結婚という方法を選んだとか。
吉永小百合さんにお子さんがいないのは、お母様との関係で苦しんでいたので、子供をど
う育てていいか自信がなく、また女優業を続けるなら、子供はつくれないと諦めたというエ
ピソードもあるそうです。
ご両親と親子関係が上手くいかないことは、子供として、女性として、これほど悲しいこ
とはないのでは?
ご両親が亡くなる直前に和解したとは伝えられていますが、詳細は明らかではないそうで
す。
あと忘れてならないのは、1986年からボランティアで原爆詩の朗読をスタートさせて
、反戦・反核運動をライフワークとして訴え続けている事でしょう。
ちちをかえせ
ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ
わたしにつながるにんげんをかえせ
にんげんの
にんげんのよのあるかぎり
くずれぬ へいわを
へいわをかえせ
「原爆詩集」より
私は、今まで吉永小百合さんのどんなに何気ないセリフの一つ一つにまで、心のこもって
いるのを不思議に思わないでもなかったのですが、調べてみて、不遇だった少女の頃や、複
雑な家族関係で苦しみ、決して恵まれた人生を歩まれて来たことでないのがわかり、考えさ
せられることしきりでした。
吉永小百合さんでさえ、辛い思いを胸に秘めながら、使命感を持ち、前向きに生きている
。
吉永小百合さんに、女性としての生き方を教えられた思いでした。