奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

椋鳩十「片耳の大鹿」

2017-01-26 10:04:18 | 読書
今年は鳥年なので、それに相応しいお話を、いくつか書いてみようと思います。
そこで、まず私の頭に浮かんだのは、椋鳩十という作家でした。
おそらく、この作家は椋鳥と鳩が好きなので、こんなペンネームにしたのだと思います。
もっとも、あとで調べたら、椋は椋鳥ではなく、椋木を指しているようでした。

なぜ、椋鳩十のお話をするかと言いますと、私の地元の宮崎県都城市から、鹿児島市内に向かう国道10号線沿いの加治木町に、椋鳩十記念館という看板を見掛けるからです。
私は椋鳩十の童話は、子供の頃に読んだことがあったので、こんな身近に椋鳩十の記念館があることに驚いてしまったのです。
椋鳩十は、鹿児島出身の作家なの?
確かに、鹿児島に長い間、暮らしていたみたいですが、出身は長野県で、ある事情から鹿児島に住むことになったようです。
それで、私は「日本児童文学大系」という児童文学の名作を沢山集めた本に収録された椋鳩十の童話を読んでみました。
それらは殆どが動物もので、人間と動物との共生を温かい筆致で描いていて、心に深く染み入るお話ばかりでした。
何でも、椋鳩十は、吉川英治、里見 弴、大宅壮一、川端康成、谷川徹三、千葉亀雄など、当時の文壇の有力者たちがこぞって高く評価していたそうです。
国際アンデルセン賞国内賞、赤い鳥文賞など、数多くの賞も授賞。
また、椋鳩十の作品はいくつも教科書で取り上げられたそうです。「月の輪熊」「大造爺さんと雁」「栗野岳の主」「黒ものがたり」「片耳の大鹿」など。
そうして、椋鳩十は動物ものの童話を、沢山書いたのですが、私の心を強く動かしたエピソードは戦前、「のらくろ」や「冒険ダン吉」で有名な「少年倶楽部」という少年向けの雑誌に数多く作品を発表した動機でした。
当時、子供向けの読み物でさえ、戦争を賛美するものを書く人が多くいたそうですが、椋鳩十は「動物の生態を描きながら、愛情をいのちの問題を扱ってみよう。この不安な時代に生き、戦地に送られる若者の背後には、愛情の火が、命への慈しみが燃えながら、幾重にも取り巻いているということを、閉じ込めた物語と、若い人たちと、その母たちに捧げよう。」という思いから、作品を書いていたそうです。
椋鳩十は処女作以来一貫して、命への慈しみをテーマにした作品を発表してきたそうで、この姿勢に深く感銘せずにはいられませんでした。

そういう訳で、「日本児童文学大系」に収録された彼の童話を読んだのですが、まずはじめに驚いたのは野生の動物の生態が生き生きと描かれている点でした。
次に、動物なんかに馬鹿にされてたまるかと、情け容赦なく、動物を追い詰める人の姿が心に突き刺さるようでした。
もっとも、椋鳩十は動物にも深い愛情を注いでいて、そうした行為を戒める形で書いています。
この本に収録されたものは、どれも素晴らしいのですが、屋久島を舞台にした「片耳の大鹿」は大自然の営みが目に見えるように丁寧に描いていて、動物の持つ本能や、生命の神秘を、とくに考えさせれくれました。


屋久島には、片耳の大鹿と呼ぶ鹿のボスがいて、十二月の半ば、狩人たち三人は彼を追い、山中深く入り込むのです。
しかし、いつしか、片耳の大鹿を見失い、そのうち天候が悪くなり、凄まじい雷鳴とともに、豪雨が滝のように天から降り出し、びしょ濡れになって、歯の根も合わぬほど、寒くなり、ようやく辿り着いた霧ガほらという洞穴に避難するのです。

そこで、狩人たちは冷えきった体をあたためるため、濡れた服を脱いで、お互いの体を擦り合わせたりするのですが、そんなことでは一向にぬくもりはしないのです。
もしかしたら、自分たちはこの洞穴の中で凍え死ぬかも知れない。
そうするうち、洞穴の暗さに目がなれて、辺りを見回したら、片耳の大鹿をはじめとした三十頭近い鹿の群れと、十五六頭の猿がいることに気づいたのです。
鹿は互いに体をすりつけて横になり、猿は人間のように膝を立てて固まりあっていました。
彼らは人間がそばにいても逃げる様子も、騒ぐ様子も、気にとめるふうもなく、不思議に静まり返っていました。

狩人たちははじめ驚いていましたが、鹿のやわらかそうな毛並みやあたたかそうな体を見るうち、夢中で、鹿の体に冷えきった体を押しつけたのです。
普段、恐れている人間にそうされても、鹿は別に騒ぎ立てることはなかったそうです。
そうして、狩人たちは鹿たちのおかげで命が助かったのです。

これを読んで、私は地球に生きるということはどういうことなのか考えてみたくなりました。
大昔、地球の覇者は恐竜でした。
厳しい生存競争に打ち勝つために、恐竜は強さを求めようと、次第に巨大化していきました。
しかし、その巨大さゆえ、恐竜は滅びなくてはなりませんでした。
次に、地球の覇者になったのは人間でした。
人間も強くなろうとしましたが、巨大になろうとはしませんでした。
その代わりに、知恵を働かせて、道具を作り、他の動物を圧倒しようとしたのです。

しかし、やがて人間は人間同士で戦うようになり、そればかりか、地球の環境を破壊してしまうものまで作ってしまったのです。

人間にとって、大切なものは果して知恵だったのでしょうか?
だったら、なぜ、自分たち人間を滅亡に追い込むようなことをするのでしょう。

この「片耳の大鹿」に書かれているように、大自然が与えた本能を大切にし、地球の生きとし生ける生命体の一員として、人間はもっと謙虚にならなければいけないのではないでしょうか?


この作品は、そんなことを私に考えさせてくれました。

シンデレラ

2017-01-11 20:04:24 | 映画・テレビ
お姫さまのお話がとまりません!
去年の暮れに、「おやゆび姫」の記事を書いてからというもの、私は寝ても覚めてもお姫さまのことで頭が一杯で、どうにかなっちゃいそうです!
そこで、今回はその第二弾にして史上最高のお姫さま「シンデレラ」のお話しをすることに決めました!
それに、「シンデレラ」は、酉年の今年にふさわしいかもと思ったからです。

その理由はさておいて、シンデレラと言えば、「ガラスのくつ」を思い浮かべる人が多いと思います。



それほど、このお話はとっても有名ですよね?
調べてみると、「シンデレラ」のお話は数千年前から、世界各地にわたって伝わっているようです。
この事実だけでも、どれだけ、「シンデレラ」が普遍的に女性の願望を現したものかとうかがい知れるようです。


私は「シンデレラ」のお話しをするに当たって、まず、ディズニーが1950年に製作したアニメ版を観てみました。

そして、これは本当に素晴らしい作品だなと感動せずにはいられませんでした。
とにかく、シンデレラが美しいのです。
それは、顔やスタイルだけでなく、立ち居振舞いにも現れていて、とても優雅で気品にあふれているのです。
しかも、継母も、その二人の娘達もとても意地悪で、自分勝手な性格ですから、余計シンデレラの美しさが引き立っているのです。
だけど、お話が暗くならないように、随所に笑いが散りばめられてあり、すんなり、お話の世界に入っていける工夫がされてるなと思いました。
ただ、私があれ?と気になったのは、シンデレラが足で、ドアを閉める場面です。
でも、よく考えるとその場面は、シンデレラが、継母やその娘達の朝食を両手と頭に乗せていて、ノブを手で開けることが出来なかったのです。
しかも、あれこれ、沢山、用事があるので、急がなくてはならないという、とても忙しい状態にあったのです。

忙しいと、人は優雅さとか、気品が身につかなくなるのかもしれません。
だって、「忙」という漢字を分解すると、(心を亡くす)になっちゃうでしょう?
精神にも肉体的にも、あらゆる意味で、余裕って、とても大切なのかも?
私はシンデレラが足で、ドアを閉める場面で、そんなことを考えたりしました。
しかし、気になったのはそこだけで、全編にわたって、シンデレラはとても綺麗でした。
初めのうちは、継母とその娘達に意地悪されて、とても可哀想だっただけに、王子さまと結ばれた時は涙が自然にこぼれ落ちて、シンデレラを心から祝福せずにはいられませんでした・・・

そうして「シンデレラ」に感動した私は童話も読んでみたくなりました。
何でも、ディズニーはペローの「灰かぶり姫」からヒントを得たようですから。
このペローの童話は、古くからある民間伝承に創作を加えたもので、カボチャの馬車もペローが作ったものらしいです。
これを読んだら、ディズニーがどれだけイマジネーションをふくらませて、アニメ版を作ったのかが窺われて、アニメ版の素晴らしさを再認識することが出来ました。
ところで、「シンデレラ」はグリム童話にも含まれていますので、それも読んでみることにしました。
しかし、これは背筋が凍るエピソードがいくつもあり、シンデレラの幸せを素直に喜べない気がしてなりませんでした。
それには、継母の娘達がガラスのくつが合うか試す時、足がガラスのくつに入るように、ナイフで足の指や、かかとを切り落とし、血まみれになりながらガラスのくつをはくと書いてあるのですから。
だけど、そうして、無理やりとは言え、ガラスのくつをはいてしまったものですから、王様の家来は「これこそ、王子さまが探し求めていた女性に違いない」と思って、宮殿に連れていこうとするのです。
しかし、二羽の小鳩がやって来て、はしばみの木かげから、こうしゃべるのです。
「クック、クック、クック、血があんなにくつの中に、くつはあんまり小さすぎる。本当の花嫁は家にいる」

そして、ラストで、意地悪な娘達は、シンデレラの幸せにあやかろうと、結婚式で、花婿と花嫁が教会に行った時、そのあとをついてくるのですが、二羽の小鳩に目をつつき出され、失明してしまうのです。

確かに、継母の娘達はシンデレラに意地悪をしましたが、そこまでしなくてもという気がして、シンデレラの幸せを素直に喜べなかったです。(苦笑)

でも、このお話は親が子供にお話していた訳ですから、人様に迷惑をかけるようなことをしてはならないという戒めの意味もあったのかも知れないですね?
だけど、娘達の謀(はかりごと)を暴露したり、目をつつき出して失明させるという重要な役目を鳩にさせた理由が気になります。
もし、シンデレラ自身がナイフで、継母の娘達の目をつき刺し、復讐を遂げたら、どうでしょう?
それも嫌ですよね?
だったら、数多い鳥の中で、なぜ、鳩が選ばれたのでしょう?
鳩は平和の象徴と言われますが、シンデレラの中では、それ以上の意味があるような気がします。
鳩は、旧約聖書の「ノアのはこ舟」で、大洪水が引いて、陸地があることをオリーブの小枝を加えて、ノアに教えたというエピソードにあるように、神様の使いと考えられてきたことが関係あるように思いました。
しかも、キリスト教や、神道など、さまざまな宗教で、鳩は聖なる鳥として扱われているそうです。
だから、「シンデレラ」の中の鳩の行いは、神様の思し召しと同じ意味を持つのだと思います。

そのほか、調べて分かったのは「くつ」は、ヨーロッパでは古くから、女性の性器の象徴だったことです。
十二世紀に建てられたフランスの寺院の壁には片足が裸足の女性の浮き彫りがあるそうです。
それは、性的に堕落した人を現していて、その意味で解釈すれば、王子の策略で片方のくつを脱いだシンデレラは舞踏会の時、王子と性的な関係を持ったということになるとか。

調べれば調べれるほどに興味はつきない「シンデレラ」。

だからこそ、いつの世も世界中で愛されてきたお話なのかも知れませんね?

「2001年宇宙の旅」新たな年に向けて

2017-01-03 12:32:42 | 映画・テレビ
あけましておめでとうございます。
お正月、どう過ごされてるでしょうか?
私は元旦は、朝早くから、DVDの「2001年宇宙の旅」を観て、お正月気分を味わっていました。


え?
どうして、「2001年宇宙の旅」なのかですって?
それはですね、映画の冒頭で、初日の出によく似た場面が出てくるからなの。

ね?
高い山の頂上や海から初日の出を望む人も多いと思いますが、宇宙から眺める初日の出って、結構、乙なものだと思いません?
しかも、映画の冒頭にこの場面を持ってきたのは、「死の世界」(月)から、「生きている世界」(地球)へ、そして「生命の源」(太陽)へというスタンリー・キューブリック&アーサー・C・クラーク流生命の進化課程、そしてまた旅のベクトルを現したものだと云いますから、新たな年に胸をふくらませるという意味で、まさにぴったりだと思います♪

ところで、わが家はお正月をどう過ごしたかと云いますと・・・
次男はバイトで帰ってこなかったのですが、東海地方から帰省した長男と、主人と私とで、元旦は主人の実家で過ごし、昨日は初詣に神武天皇ゆかりの狭野神社に参拝して、今年一年の無事をお願いしてきました。

そして、昨日、長男は再び、東海地方に旅立って行きました。

次男は帰らず、長男はあっという間にいなくなってしまいました。

淋しくないと言えばウソになりますが、新年を迎え、みな希望に燃えてますから、私も去年に引き続き、張り切っていこうと思います。

そこで、元旦に観た「2001年宇宙の旅」のお話をすることに決めたのです。
この映画はSF映画史上に輝く金字塔と呼ばれています。
と同時に、哲学的で、非常に難解とも言われています。
その理由は説明が一切なく、登場人物のセリフも極めて少ないのは、論を待ちません。
それゆえ、この映画の解釈はこれまで様々な憶測を輩出しました。
でも、そういう難しいことは抜きにしても、この映画は映像表現がとっても素晴らしく、また「ツァラストラはかく語りき」や「美しく青きドナウ」などのクラシック音楽の使い方も秀逸で、映画と音楽だけでも心地よく酔いしれてしまいます。
しかし、やはり気になるのは、映画の解釈です。
そこで、私は以前から気になっていたアーサー・C・クラークの小説版を読んでみることにしました。
それを読めば、映画の意味が納得できると聞いたことがあるからです。
それで、DVDの「2001年宇宙の旅」を観たあと、昨日まで小説版を読んでいた訳です。
この小説版は、映画版と必ずしもすべて一致している訳ではありませんが、モノリスが異星人によって四百万年前に作られ、木星に向かって、強力な電波を発信している理由を探りに宇宙船ディスカバリー号で、木星に向かい、その途上、ディスカバリー号の頭脳HAL2000が異常をきたし、四人の乗組員のうち、ただ一人だけ生き残ったボーマン船長が、スターゲイトをくぐり抜け、大宇宙の神秘にふれたのち、スターチャイルドとなって、新たな生命を育むというストーリーの意味は映画版より、詳しく明確に書かれていて、ちょっとすっきりした気分になれました。

でも、それではなぜ、キューブリック監督はそうした説明を極力排したのかという疑問がわいてきます。

実はキューブリック監督は、この映画の解釈に明確な答えはないと語っていたそうです。
みなが、それぞれ、自分なりの解釈を探り当てたら、それが答えだと言いたかったのだとか。

もしかしたら、それは一人一人の個性を尊重すると同時に、自分なりの道を模索し、それに向かって歩めということにほかならないのでは?

そこに、この「2001年宇宙の旅」を不朽の名作たらしめた、もう一つの理由が隠されているのかも知れません。


2017年という新たな年、私は私なりに生きていかなくちゃならないなと思いました。