前回、書きましたように宮崎県民は雪が大好きなんです。
だから、大金を使ってまで遠く長野県から、わざわざ雪を運んで来て子供に遊ばせたり、雪のように白くて美しい女の子になってほしいと、子供の名前に雪の字を入れる親もいるほどなんです。
だけど、宮崎ではめったに雪が降らなくて、積もったとしても、4~5年に一度ほんの数センチ積もる程度なんです。
それでも私はどうにかして雪だるまを作った事があるのですが、小さくて、土が混じった黒い雪だるましか作れなくて、とても悲しい思いを何度もしたものでした。
そんな私ですから雪国・北海道への憧れは強く、春・夏・秋・冬すべての季節に北海道に行っています。
では、冬に行った時の印象を書いてみますね。
私が行ったのは二月の初旬で、もっとも寒さが厳しい頃でした。
フェリーで苫小牧に到着し、そこから札幌に向かったのですが、見渡す限り銀世界で、息を飲むほど美しく、あらゆるものが雪と氷で埋め尽くされていました。
その景色に私は震えるほどの感動を覚えたのです。
地上の醜い欲望や争いや憎しみ、すべてを真っ白な雪と氷が覆い隠し、美と清らかなものに変えているように思えたからです。
しかも寒さで身も心も引き締まり、余計なものが入り込む隙間を与えず、さながらそれは神様か妖精が魔法を使ったかのようでした。
私は雪と氷による荘厳な雰囲気に打たれ、ほとんど泣きそうになりました…
ところが、四月の中旬、春に行った時の印象は、地上を覆い隠していた雪が溶け出し、見るも無惨な様相を呈していたのです。
私がそう思った理由のひとつは、北海道のあちこちのお祭りで作られた雪像がすぐに撤去されずに溶けるには任せたままだったのも大きかったと思います。
札幌雪祭の雪像は祭が終わるとすぐに撤去されるのですが。
やはり、私は北海道は雪と氷に閉ざされた冬がもっとも素晴らしいと思えてなりませんでした。
それほど、私は雪と北海道の冬が好きなのですが、今年の宮崎は暖冬で、雪がまったく降らなかったのです。
そこで、せめて映画の中だけでも北海道の素晴らしさを堪能出来る作品はないものかと考えていたら、ドストエフスキー原作・黒澤明監督の名作「白痴」を思い出したのです。
この映画は札幌を舞台にして、全編、雪の場面があるんです。
でも、どうしてこの映画は雪が多い北海道の冬に撮影されたのでしょう?
それは黒澤明監督の雪にたいする思いが、私が抱いているイメージとほぼ同じだからだと思います。
この映画の、愛と苦悩、恋と憎悪を描いた人間ドラマをより鮮明に浮き彫りするためには神秘的で美しい雪の中で撮影するのが、もっともふさわしいと黒澤監督は考えたに違いないのです。
だから、雪のために撮影が困難になるのが十分予想出来たにも関わらず、巨額の費用を投じて、わざわざ北海道でロケを敢行したのです。
ところで、この映画はもともと4時間25分あったそうですが、映画会社の意向で、ほかの人の手により、2時間45分に短縮されてしまったそうです。
では、この映画は観るべき価値はないのでしょうか?
いいえ。私はある映画評論家が「編集がとても絶妙になされている。私は編集されてないものは観てないが、この編集版の方が優れていると断言する」と絶賛した文章を読んだ記憶があります。
また、この映画には、原節子さんの演技を観て小津安二郎監督が、黒澤監督に激怒したという逸話も残されているそうです。
小津映画に出演している原節子さんは一点の曇りもないほど女性の究極の美として描いてあるので、そのイメージを壊されたのが事の真相と伝えられています。
でも、私は小津映画には観られないまったく別の役柄の原節子さんを撮った黒澤監督に万雷の拍手を贈りたいです。
原節子さんはこの映画で、憎悪に満ちた表情を浮かべたり、高笑いをする場面があるのですが、私はこの役柄に人間味があって、女性の魅力をすごく感じるのです。
原節子さんは、永遠の処女とも言われたそうですが、那須妙子を見る限り、とてもそうとは思えないほど迫力のある演技をされています♪
それに、ほかのキャラクター設定も、ストーリーもとても素晴らしいです。
それはまるで高尚な昼ドラでも観ているかのよう。
なに~!
世界の文豪ドストエフスキーや黒澤明が昼ドラだと~!!
そうお怒りにならないで下さい。
と言うか、昼ドラも馬鹿に出来ないのではないでしょうか?
昔の昼ドラはメロドラマが主流で、薄幸の女性がけなげに生きる姿を描いたものとか、子沢山の家庭の主婦が、夫を支えながら家庭を切り盛りする、言わば夫が見ても安心出来るドラマが多かったと思うのです。
でも、今の若い主婦はそんなきれいごとでは到底満足しきれず、嫁姑の骨肉の争いとか、斬った殺したの血みどろの恋愛劇を食い入るように観ているのです。
でも、そんな妻を持ったご主人様が可哀相な気がしないでも?(笑)
まあ、私がここで言いたいのは、この映画も昼ドラも素晴らしいという事です♪
とは言え、先程、高尚な昼ドラと書いたように、この映画は人間の本質に鋭く迫り、人生の何たるかを問いたださせ、まるで鋭利なナイフで心の奥底に突き刺されるかのごとき錯覚に襲われるのです。
その奥深さはもはや昼ドラの比ではありません。
では、どんなストーリーなのか簡単にご説明しますと、時は昭和二十年、太平洋戦争で、死刑宣告を受けた亀田青年が、間一髪で人違いと判明し、九死に一生を得るも度重なるテンカンで重度の脳障害を起こしてしまいます。
そして誰にでも親切にしようと心に誓い、善意あふれる人物になるのですが、彼の言動が思わぬ波紋を呼び、不協和音の音色を奏でながら、周りの人々を次々に破滅へと導いていくのです。
この映画で、亀田と重要な係わりを持つ人物がおよそ四人います。
一人は、亀田が北海道の遠縁の大野に会いに行く途中、同じ列車に乗り合わせた赤間(三船敏郎)という人物。
彼は資産家の息子で、金銭で何でも手に入れられないものはないと考える人物。
二人目は、赤間が好きになりダイヤの指輪を贈った那須妙子という美女。
彼女は若い時分からある男の情婦となっていたのですが、悪相があるという事から、持参金六十万円で、ほかの男に譲られる身にあったのです。
三人目は香山という青年で、彼が持参金六十万円で、那須妙子と結婚しようとするのですが、大野の娘の綾子にも恋心を抱いていて、優柔不断な人物として描かれています。
そして残る四人目が大野綾子。
彼女は勝ち気で、猜疑心が強く、事ある毎に相手を質問攻めにしてしまいます。
私はこの映画を観た当初、まず善とか悪について考えました。
亀田は脳に障害を負ったがために、誰からも好意を持たれる善良な人物になった。
性善説という考えがありますが、亀田を見ていると、私まで優しい気持ちになり、人間の本質は善なのではないかと思えてきました。
しかし、赤間も最初はそんな亀田の言動に心を許すのですが、付き合うに連れ、彼の中の憎悪が次第に膨らんで殺意まで持つようになるのです。
結局、性善説は妄想に過ぎず、清濁合わせ持つのが、より人間らしいのではないのか?
ところで、私は久我美子さん演じる大野綾子には最初から、ずっといらいらさせられっぱなしでした。
彼女はあまりにも人を疑い過ぎるのです。
確かに優柔不断な香山も悪いかも知れませんが、彼女みたいに何度も何度も疑われたり、念を押されると、誰だって嫌になると思うんです。
しかも、善良な亀田でさえ疑い出すのです。
亀田が、那須妙子を選んだのは、綾子の猜疑心がそうさせたのでは。
私はそう思われてならず腹が立って腹が立ってたまりませんでした。
だけど、綾子がショックで、ベッドに泣きふした姿を見て、私は胸倉を荒々しく捕まれ、平手打ちを食らわされるほどの衝撃を受けたのです。
綾子は自分が本当に愛されているのか知りたかっただけだった。
だから、自分が傷つくのを承知で、何度も何度も問いただしていた。
私は、今まで自分自身が傷つくのを恐れ、うやむやにしたり、知らんぷりしてきた事がどれほどあるだろう…
私は何をそんなに恐れてきたのだろう…
ドストエフスキーは今なお世界中で愛読されていますが、その真価の一端を垣間見た気がしました。
そして、黒澤明監督が、この映画を雪の降る北海道の札幌で撮影したかった理由が、もっとわかるような気がしました。
雪は我々の醜い欲望や憎しみや悲しみを優しく覆い隠し、ロマンチックな気分にさせてくれます。
しかし、雪にはそれだけではない激しく厳しい一面もあるのですね。
だから、大金を使ってまで遠く長野県から、わざわざ雪を運んで来て子供に遊ばせたり、雪のように白くて美しい女の子になってほしいと、子供の名前に雪の字を入れる親もいるほどなんです。
だけど、宮崎ではめったに雪が降らなくて、積もったとしても、4~5年に一度ほんの数センチ積もる程度なんです。
それでも私はどうにかして雪だるまを作った事があるのですが、小さくて、土が混じった黒い雪だるましか作れなくて、とても悲しい思いを何度もしたものでした。
そんな私ですから雪国・北海道への憧れは強く、春・夏・秋・冬すべての季節に北海道に行っています。
では、冬に行った時の印象を書いてみますね。
私が行ったのは二月の初旬で、もっとも寒さが厳しい頃でした。
フェリーで苫小牧に到着し、そこから札幌に向かったのですが、見渡す限り銀世界で、息を飲むほど美しく、あらゆるものが雪と氷で埋め尽くされていました。
その景色に私は震えるほどの感動を覚えたのです。
地上の醜い欲望や争いや憎しみ、すべてを真っ白な雪と氷が覆い隠し、美と清らかなものに変えているように思えたからです。
しかも寒さで身も心も引き締まり、余計なものが入り込む隙間を与えず、さながらそれは神様か妖精が魔法を使ったかのようでした。
私は雪と氷による荘厳な雰囲気に打たれ、ほとんど泣きそうになりました…
ところが、四月の中旬、春に行った時の印象は、地上を覆い隠していた雪が溶け出し、見るも無惨な様相を呈していたのです。
私がそう思った理由のひとつは、北海道のあちこちのお祭りで作られた雪像がすぐに撤去されずに溶けるには任せたままだったのも大きかったと思います。
札幌雪祭の雪像は祭が終わるとすぐに撤去されるのですが。
やはり、私は北海道は雪と氷に閉ざされた冬がもっとも素晴らしいと思えてなりませんでした。
それほど、私は雪と北海道の冬が好きなのですが、今年の宮崎は暖冬で、雪がまったく降らなかったのです。
そこで、せめて映画の中だけでも北海道の素晴らしさを堪能出来る作品はないものかと考えていたら、ドストエフスキー原作・黒澤明監督の名作「白痴」を思い出したのです。
この映画は札幌を舞台にして、全編、雪の場面があるんです。
でも、どうしてこの映画は雪が多い北海道の冬に撮影されたのでしょう?
それは黒澤明監督の雪にたいする思いが、私が抱いているイメージとほぼ同じだからだと思います。
この映画の、愛と苦悩、恋と憎悪を描いた人間ドラマをより鮮明に浮き彫りするためには神秘的で美しい雪の中で撮影するのが、もっともふさわしいと黒澤監督は考えたに違いないのです。
だから、雪のために撮影が困難になるのが十分予想出来たにも関わらず、巨額の費用を投じて、わざわざ北海道でロケを敢行したのです。
ところで、この映画はもともと4時間25分あったそうですが、映画会社の意向で、ほかの人の手により、2時間45分に短縮されてしまったそうです。
では、この映画は観るべき価値はないのでしょうか?
いいえ。私はある映画評論家が「編集がとても絶妙になされている。私は編集されてないものは観てないが、この編集版の方が優れていると断言する」と絶賛した文章を読んだ記憶があります。
また、この映画には、原節子さんの演技を観て小津安二郎監督が、黒澤監督に激怒したという逸話も残されているそうです。
小津映画に出演している原節子さんは一点の曇りもないほど女性の究極の美として描いてあるので、そのイメージを壊されたのが事の真相と伝えられています。
でも、私は小津映画には観られないまったく別の役柄の原節子さんを撮った黒澤監督に万雷の拍手を贈りたいです。
原節子さんはこの映画で、憎悪に満ちた表情を浮かべたり、高笑いをする場面があるのですが、私はこの役柄に人間味があって、女性の魅力をすごく感じるのです。
原節子さんは、永遠の処女とも言われたそうですが、那須妙子を見る限り、とてもそうとは思えないほど迫力のある演技をされています♪
それに、ほかのキャラクター設定も、ストーリーもとても素晴らしいです。
それはまるで高尚な昼ドラでも観ているかのよう。
なに~!
世界の文豪ドストエフスキーや黒澤明が昼ドラだと~!!
そうお怒りにならないで下さい。
と言うか、昼ドラも馬鹿に出来ないのではないでしょうか?
昔の昼ドラはメロドラマが主流で、薄幸の女性がけなげに生きる姿を描いたものとか、子沢山の家庭の主婦が、夫を支えながら家庭を切り盛りする、言わば夫が見ても安心出来るドラマが多かったと思うのです。
でも、今の若い主婦はそんなきれいごとでは到底満足しきれず、嫁姑の骨肉の争いとか、斬った殺したの血みどろの恋愛劇を食い入るように観ているのです。
でも、そんな妻を持ったご主人様が可哀相な気がしないでも?(笑)
まあ、私がここで言いたいのは、この映画も昼ドラも素晴らしいという事です♪
とは言え、先程、高尚な昼ドラと書いたように、この映画は人間の本質に鋭く迫り、人生の何たるかを問いたださせ、まるで鋭利なナイフで心の奥底に突き刺されるかのごとき錯覚に襲われるのです。
その奥深さはもはや昼ドラの比ではありません。
では、どんなストーリーなのか簡単にご説明しますと、時は昭和二十年、太平洋戦争で、死刑宣告を受けた亀田青年が、間一髪で人違いと判明し、九死に一生を得るも度重なるテンカンで重度の脳障害を起こしてしまいます。
そして誰にでも親切にしようと心に誓い、善意あふれる人物になるのですが、彼の言動が思わぬ波紋を呼び、不協和音の音色を奏でながら、周りの人々を次々に破滅へと導いていくのです。
この映画で、亀田と重要な係わりを持つ人物がおよそ四人います。
一人は、亀田が北海道の遠縁の大野に会いに行く途中、同じ列車に乗り合わせた赤間(三船敏郎)という人物。
彼は資産家の息子で、金銭で何でも手に入れられないものはないと考える人物。
二人目は、赤間が好きになりダイヤの指輪を贈った那須妙子という美女。
彼女は若い時分からある男の情婦となっていたのですが、悪相があるという事から、持参金六十万円で、ほかの男に譲られる身にあったのです。
三人目は香山という青年で、彼が持参金六十万円で、那須妙子と結婚しようとするのですが、大野の娘の綾子にも恋心を抱いていて、優柔不断な人物として描かれています。
そして残る四人目が大野綾子。
彼女は勝ち気で、猜疑心が強く、事ある毎に相手を質問攻めにしてしまいます。
私はこの映画を観た当初、まず善とか悪について考えました。
亀田は脳に障害を負ったがために、誰からも好意を持たれる善良な人物になった。
性善説という考えがありますが、亀田を見ていると、私まで優しい気持ちになり、人間の本質は善なのではないかと思えてきました。
しかし、赤間も最初はそんな亀田の言動に心を許すのですが、付き合うに連れ、彼の中の憎悪が次第に膨らんで殺意まで持つようになるのです。
結局、性善説は妄想に過ぎず、清濁合わせ持つのが、より人間らしいのではないのか?
ところで、私は久我美子さん演じる大野綾子には最初から、ずっといらいらさせられっぱなしでした。
彼女はあまりにも人を疑い過ぎるのです。
確かに優柔不断な香山も悪いかも知れませんが、彼女みたいに何度も何度も疑われたり、念を押されると、誰だって嫌になると思うんです。
しかも、善良な亀田でさえ疑い出すのです。
亀田が、那須妙子を選んだのは、綾子の猜疑心がそうさせたのでは。
私はそう思われてならず腹が立って腹が立ってたまりませんでした。
だけど、綾子がショックで、ベッドに泣きふした姿を見て、私は胸倉を荒々しく捕まれ、平手打ちを食らわされるほどの衝撃を受けたのです。
綾子は自分が本当に愛されているのか知りたかっただけだった。
だから、自分が傷つくのを承知で、何度も何度も問いただしていた。
私は、今まで自分自身が傷つくのを恐れ、うやむやにしたり、知らんぷりしてきた事がどれほどあるだろう…
私は何をそんなに恐れてきたのだろう…
ドストエフスキーは今なお世界中で愛読されていますが、その真価の一端を垣間見た気がしました。
そして、黒澤明監督が、この映画を雪の降る北海道の札幌で撮影したかった理由が、もっとわかるような気がしました。
雪は我々の醜い欲望や憎しみや悲しみを優しく覆い隠し、ロマンチックな気分にさせてくれます。
しかし、雪にはそれだけではない激しく厳しい一面もあるのですね。