goo blog サービス終了のお知らせ 

奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

マンガ「キューティーハニー」「ドロロンえん魔くん」、そして「けっこう仮面」♪

2017-10-29 10:56:20 | 読書
 まず、なぜ、今回、永井豪さんのええ~と、えっと、そう、エロマンガ(真っ赤)のお

話を書きたくなったのか、その理由から説明したいと思います。(苦笑)
 ことの始まりは前回、「マジンガーZ」の記事を書く時に観たビデオの「マジンガーZ・

メモリアル」が、そもそものきっかけでした。
 それには、原作者の永井豪さんと、その関係者の方との座談会が収録されていて、永井

豪さんの人当たりの良さそうな雰囲気に、アニメの「マジンガーZ」だけじゃなく、漫画

も読んでみたくなったのです。
 それで、前々から気になっていたちょっとエッチな「キューティハニー」「ドロロンえ

ん魔くん」のお話をしたいと思ったのです。
 とくに、「キューティーハニー」は私が子供の頃から読んでいて大好きな漫画の一つで

した。

 それに、子供の頃、私はなんと、「キューティーハニー」の真似をよくしていたのです


 この漫画の主人公、如月ハニーは、「ハニーフラッシュ!」と叫んで、キューティーハ

ニーに変身するのですが、その時、ハニーの着ていたものが一瞬、消えてなくなり、空中

元素固定装置の働きで、戦闘に適したコスチュームが、ハニーの体に張り付いちゃうので

す。
 そこで、私はお風呂に入る時に着ていたものを全部、脱いだあと、ポーズをとりながら

「ハニーフラッシュ!」と叫んで、チャンポンと湯船につかっていたのです。
 だから、自分も、いつかはキューティーハニーみたいなカラダになれると信じていたん

です。 
 ところで、私が、なぜ、この漫画を読んでいたのか説明しますね。
 理由は、手塚治虫先生の「ブラック・ジャック」と同じ、週間少年チャンピオンの連載

されていたからなんです。
 当時、私は「ブラック・ジャック」が大好きで、「少年チャンピオン」を買っていたの

ですが、ついでに「キューティーハニー」も読んでいたんです。
 でも、正直に言うと初め、私は、「キューティーハニー」は避けていたんです。
 というのも、その頃、小学生だった私は、学校でよくスカートめくりをされていて、エ

ッチなことに拒否反応を覚えていたからです。
 しかも、一日に何度も男子にスカートをめくられ、学校に勉強をしに行ってるのか、パ

ンツを見られるために行ってるのか分からないほどだったんです。
 そういう訳で、初めのうちは「キューティーハニー」を避けていたのですが、少年漫画

にしては、女性が主人公なのは珍しかったですし、キューティーハニーの大人の女性の妖

しい魅力と言っていいのでしょうか。どことなく、惹かれるものを感じていたんです。
 それは、その頃、自分の胸がだんだん、ふくらみつつあり、周囲の視線を感じていたこ

とも関係していたように思います。(真っ赤)
 
 それはともかく、キューティーハニーは、実は人間じゃなく、ハニーの父親如月博士が

作ったアンドロイドで、空中元素固定装置の働きで、七変化出来ちゃうのであります。
 この空中元素固定装置は、空気中の元素を瞬時に組合せ、あらゆる物質をつくり出せる

装置で、ダイヤモンドさえも無限に作り出せるのです。
 そのため、もし、この世紀の大発明が、悪に手にわたったら、大変なことになります。
 ところが、これに目をつけたのが犯罪結社パンサークローです。
 パンサークローは、幹部を特殊能力を持つ女性のサイボーグで組織された犯罪組織で、

シスター・ジルが次々に恐ろしい敵を使って、ハニーを襲うのです。
 こう書くと、ヒーローがヒロインになっただけなんじゃない?と思う人もいるかもです

が、ハニーの全裸が結構、出てくるし、しもネタまであるんです。(苦笑)
 そういうのを見るのは、もしかしたら、いけないことなのかも?と思いながらも、当時

の私は熱いものが体の奥からこみ上げてきて、何とも言えない魅力に惹きつけられてしま

っていたのです。(真っ赤)
 私って、変な女の子だったの?
 人とは違うの??
 友達にも、恥ずかしくて「キューティーハニー」が好きだなんて言ったことは一度もあ

りませんでした。
 ところが、私が読んだ中公文庫コミック版のあとがきで、永井豪さんが、こんなことを

書いていたのです。

 つまり、多くの女の子が「キューティーハニー」が好きだったみたいなのです。
 しかも、これより、もっとどぎつい「けっこう仮面」まで!!
 それを実証するかのように、扶桑社文庫版の解説で、直木賞作家の姫野カオルコさんが

こんなことを書いています。
 
 私は、ただの「永井豪のファンです」ではない。私は永井豪によって作られたのだ。永

井豪によってヘンタイにされたのだ。
 時はサイケでミニスカートでモーレツでカバゴン先生なころ、私は初潮を迎える直前だ

った。初潮を迎える直前、それは巫女的感受性と性的感受性が交わってスパークする、た

だ一度の、最高テンションのとき。そのときに、私は永井豪に憑かれ、以降の人生は、永

井豪の漫画に出てくるような女を現実世界に求めてぜいぜいとあえいできたのである。

 あの直木賞作家の姫野カオルコさんも、永井豪さんのエッチな漫画が好きだったなんて

!!
 しかも、作家中島梓さんも、永井豪さんのエッチな漫画が好きだったようで、こんな文

章を残しています。
 
 永井豪のマンガの魅力は「変態の魅力」であり、「SMの魅力」であり、「同性愛の魅力

」であり、「グロテスクの魅力」だ。「スプラッタの魅力」であり、「人間不信の魅力」

であり、「純愛の魅力」であり、「女装の魅力」であり、「強姦の魅力」であり、「破壊

の魅力」であり、「タブー破りの魅力」だ。そこには「あってはいけないのだけれども、

あってはいけないからこそ美味しくてたまらないもの」が全部つまっている。「いけない

子」の美味しさを全部つめこんだ魅力。そんなものに抵抗できる人間がいようはずもない



 しかも、あの漫画の神様、手塚治虫と同じものを永井豪は持ってると書いてるんです!
 参考資料「永井豪けっこうランド」より。
 

 ということは、永井豪を読むのは、決して恥ずかしいことじゃなく、とても知的で高尚

な趣味なのかもしれません・・・

 私は、姫野カオルコさんと中島梓さんの文章に勇気を得て、「けっこう仮面」も読みた

くなってしまいました! 

 でも、その前にお楽しみはとっといて、「ドロロンえん魔くん」から読むことにしまし

た。

 理由は、この漫画は少ししか読んだことはなかったのですが、主人公のえん魔くんが、

ちょっと私好みだったのと、雪子姫が可愛かったからです。
 このマンガは、地獄界の悪党どもが人間界で暴れていることから、閻魔大王に命令され

たえん魔くんが、仲間の雪子姫、カパエルとともに人間界にやって来て、悪党どもを退治

するお話です。
 私ね、カッコイイ男性もいいけど、えん魔くんみたいな茶目っ気のある可愛い男の子に

エッチされたい願望もあるんです。(真っ赤)
 実際、このマンガの雪子姫は必然性があるのかないのか、肌を露出する場面が数多くあ

り、えん魔くんはよだれを垂らさんばかりに喜んじゃうのです。
 ああ、私も雪子姫になりたいな。
 雪子姫になって、えん魔くんにあれされたり、これされたり・・・いやん、これ以上は

恥ずかしくて書けない。(真っ赤)

 このマンガの魅力は、好きな人にはエッチをされたいという女性ならではの願望を満た

してくれるところにあるように思います。

 さあ、それではおまちかね、いよいよ「けっこう仮面」のお話です!

 けっこう仮面とは、長野県の山奥にあるスパルタ学園で、理不尽な理由でお仕置される

女生徒たち、とくに高橋真弓を救うべく登場する正義のヒロインの名です。  
 そのけっこう仮面、必ず、こんな歌とともに登場するのです。 

 ♪カ~オはだ~れかはし~らないけれど 肉体(からだ)はみいんなしっている~~ 

けっこう仮面のねえさんは正義の味方だ イ~イひとだ 疾風(はやて)のようにあらわ

れて タップリみせてさってゆく~~ けっこう仮面はだ~れでしょう けっこう仮面は

だ~れでしょう

 ご存知、「月光仮面」の替え歌ですが、元の歌詞より、こちらの方がずっといいような

?(真っ赤)

 とにかく、この歌詞にあるように、けっこう仮面は素性がわからないように顔は隠して

、あとは全部、見せて戦う正義の味方なのです。
 それで、このマンガのスゴイところは、マンガ界の巨匠と呼ばれるマンガ家さんたちの

キャラクターがパロディになって、けっこう仮面と戦うところにあります!

 例えば、武内つなよしさんの「赤胴鈴之助」は「悪童鈴の助」、堀江卓さんの「矢車剣

之助」は「血狂魔剣の助」、横山光輝さんの「鉄人28号」は「鉄人似獣八五郎」、川崎の

ぼるさんの「巨人の星」の主人公「星飛雄馬」は「干病魔」、水木しげるさんの「墓場の

鬼太郎」は「墓場下駄郎」。
 テレビ番組では、「七色仮面」が「七エロ仮面」として登場します♪
 そればかりか、なんと、漫画の神様手塚治虫先生の作品までパロディにしちゃってるん

です。
 「鉄腕アトム」は「鉄椀オツム」、「リボンの騎士」は「リボンの志士」として!
 しかも、それらのキャラクターはみんな一回限りの出演なのに、リボンの志士だけ、け

っこう仮面の味方として、何度も登場するのです。

 でも、これだけ、マンガ界の巨匠たちのキャラクターをおちょくっても、誰一人文句を

言ってくる人はいなかったとか。
 つまり、「けっこう仮面」は、マンガ界の巨匠達がこぞって認めた優れたエロマンガだ

ということではないでしょうか。

 ところで、私はマンガを読む時、登場人物の女性になりきるタチがあるのですが、この

「けっこう仮面」の場合、暴力教師にお仕置される高橋真弓がまさにそうでした。
 それはたぶん、私の心の奥の被虐の楽しみを触発してくれるからだと思います。(真っ

赤) 

 それに、そのあと、けっこう仮面がすべてをさらけ出して、私のために戦ってくれるの

です。
 そして、けっこう仮面が、敵をぶちのめしたあと、二人して抱き合って喜ぶ姿にも、快

感を覚えずにはいられませんでした。
 私も、けっこうのお姉様と抱き合ってみたい。(真っ赤)

 ところで、角川文庫の「けっこう仮面」の解説で、なぜ、女性にも、このマンガがウケ

るのか興味深いことが書いてありますので、ご紹介したいと思います。
 
 しろうとヌードの投稿雑誌などで、よく顔を隠した女の裸を見かけることがある。顔の

一部にスミをぬって、わからなくさせたヌードも少なくない。ようするに、誰だかわから

なければ脱いでもいいというわけだ。バレなければ、大股開きもやってしまうという。
 そんな女たちは、たしかにいるのである。
 アダルト・ビデオの女優たちが、整形をする話も聞いたことがある。ルックスのためも

あるが、親にバレないためにといった配慮もあるらしい。
 匿名性が保証されれば、女はよりいっそう見せたがる。こういう心の機微を、「けっこ

う仮面」は、みごとについている。その意味で、作者は冷静に女心を解剖しているとも言

える。
 解説(国際日本文化研究センター助教授・井上章一)

 そう言われれば、そうかもしれません・・・


 永井豪のエロマンガの魅力は、普段、心の奥に隠した女のサガを開放させてくれるとこ

ろに尽きる気がします。

 私もね、永井豪のエロマンガのお話をして、とてもすっきりした気分になっちゃいまし

た♪
 

  
 

 

テレビアニメ「マジンガーZ」ロボット・アニメの魅力♪

2017-10-25 16:40:45 | 映画・テレビ
最近、「ミラーマン」「仮面ライダー」「ウルトラセブン」と、子供のヒーロー番組のお話をしてきましたが、アニメではロボットものが人気があるようです。
 そのなかでも、「機動戦士ガンダム」は1970年代後半に誕生し、現在に至るまで圧倒的な支持を得ているみたいです。
 ところが、このアニメは私が十代の頃に始まったものの、これまで、ちゃんと観たことはただの一回もなかったのです。
 断片的なエピソードや登場人物だけなら少しは知っていますが、殆ど知らないに等しいのです。
 でも、私が親しくさせていただいている人に、「ガンダム」が好きな人がいて、事あるごとに私にも観てほしいみたいなことを言ってくるのです。
 今日も、ちらっとシャルル・アズナヴールのことを囁いていました。(笑)
 そこで、あまりにも熱心に私をかき口説いてるものですから、一つその手に乗って、「ガンダム」を観てみようと思ったのです。
 だけど、いきなり、まったく観たことのないものを観るより、私がこれまで、一番、よく観ていたロボット・アニメ「マジンガーZ」からロボットものの魅力に迫りたくなったのです。
 つまり、ある程度、ロボットやヒーローものの勉強をしてから、ガンダムを観た方がより楽しめるのではと思ったのです。
 実は、調べてみると、ロボットものはそれまでのヒーローものと、一線を画しているらしいのです。
 そこで、子供たちに愛された懐かしのヒーローものから考えてみることにしました。
 まず、テレビのヒーロー番組の元祖といえば、「月光仮面」です。

 はっ!
 私としたことが間違えちゃいました!!
 こっちが本物の月光仮面です!!!
 
 
 ♪どこの誰かは知らないけれど、どこの誰もが知っている 月光仮面のおじさんは・・・
 
 知らない人は、今でもいない超有名な主題歌ですが、驚いたことに月光仮面は超人でもなけばロボットでもなく、ごく普通の人という設定だったとか。
 普通の人と言ったら、「まぼろし探偵」もそうだったようです。

 キャッ!
 私ったら、またやっちゃった!!(真っ赤)

 ここに写ってる女の子は十代の頃の吉永小百合さんです。
 つまり、ヒーローはごく普通の人から始まり、そこから、だんだん、普通の人以外の者を求めるようになったようです。
 そこで超能力者の登場です。
 
 超能力者のヒーローの元祖といったら、七色仮面です♪

 特殊能力といったら、忍者を主人公にしたものもありました。
 「仮面の忍者赤影」です♪

 ここまでは、地球のために活躍する訳ですから、みんな、地球人だったのですが、そこに宇宙という概念を持ち込み、あらたなヒーローになった者が出てきました。
 それが、ウルトラマンです。

 遠いM78星雲からやって来て、わざわざ地球人のために、怪獣と戦ってくれる訳ですから、なんて親切な宇宙人なんだろうって思いますね。
 だけど、広大無辺な宇宙へのロマンを感じさせてくれて、そこがウルトラマン達ウルトラ兄弟の魅力ではないでしょうか。
 ところが、ここまでのヒーローはみな自分の意志で、悪と戦うわけですが、自分の意志を持たない者もヒーローとして登場し、少年たちに大人気となってしまうのです。
 それが、ロボットなのです。

 なかには「鉄腕アトム」みたいに電子頭脳という意志を持ったロボットものも作られ、それなりに人気を得ていたようですが、子供たちは人間が自由に操れる巨大ロボットに次第に惹かれるようになっていったのです。
 どうやら、子供たちにウケるロボットは巨大でなくちゃいけないみたいです。
 だから、もし鉄人28号が、アリとかミジンコみたいに、ちっちゃかったらウケなかったかも知れません。
 それはさておき、人間が操るロボットに、なぜ、子供たちが魅力を感じるのか、その理由が「巨大ロボット読本」という本に、「鉄腕アトム」と「鉄人28号」を例に書いてありますので、ご紹介しますね。

 昔、「少年」という漫画雑誌があり、ダントツの人気を誇っていた。
 理由は「鉄腕アトム」と「鉄人28号」という超人気ロボット漫画2本が同時連載されていたからだ。
 ちっちゃくて自分の意志を持ったよい子のアトムと、でっかくてリモコン次第で悪い奴の言うことだって聞いちゃう恐い鉄人。対極のロボットが人気を二分していたわけだが、われら空想科学研究所のメンバーは、本音を言うと鉄人ファンだった。
 「本音を言うと」と、何やら後ろめたそうに小声で言わなければならないのは、当時、いくらガキだったからといって、道徳的なアトムより、悪の破壊王・鉄人の方が好きだったなんて、やっぱり声を大にして言いにくかったのである。
 それに、何より意志を持ったアトムとは友達になれるかもしれないが、リモコン次第の鉄人はこっちのめちゃくちゃな命令にだって従ってくれる頼もしい僕(しもべ)なのだ。
 この差は大きい。
 男の子というものは、自分を鎧う武器を求める。それがナイフであったり拳銃であったり、自分の肉体を鍛えることだったりする。
 女の子は自分を守ってくれる頼もしい男を求めるが、男の子は物心がついたときから、自分の身は自分で守らなきゃいけないと刷り込まれているのだ。
 しかし誰もが強いわけじゃないし、まして子どもは体が小さい。いきおい、その差を武器に求めるのだ。もちろん、心の中では卑怯だとわかっているが、この防衛本能はどうしようもない。男の哀しい性である。
 鉄人28号は、とにかくでかくて丈夫で強い。マシンガンだって、戦車だってかなわない。その鉄人が小学生の正太郎君のいうがままになるのである。
 あのリモコンさえ手に入れば自分だって強くなれる!世界征服だって夢じゃない!!こんな妄想を抱きながら鉄人をこっそり支持していた少年たちが多かったはずである。
 それが証拠に、鉄人以降、巨大ロボット漫画が雨後のたけのこのごとく生まれ、少年たちの負の願望を満たし続けたのである。
 そんな願望がエスカレートし、より、いうことを聞きやすいように、少年が巨大ロボットに乗り込むスタイルに変えたのが「マジンガーZ」である。リモコン操縦から、運転に進化したといっていい。巨大ロボットは正義のためという旗印の下、破壊を繰り返し、少年たちのカタルシスを満足させたのである。

 なるほど、よいこのアトムに反して、操縦するロボットに人気が集まったのは、こういう訳だったのですね。
 
 そこで史上初めて、ロボットに乗り込み、敵と戦うアイディアをアニメにした「マジンガーZ」に敬意を表して観てみることにしました。
 と言うか、私自身、子供の頃、このアニメはよく観てましたので、その理由を思い出したかったというのもありました。

 この「マジンガーZ」は、まず、アニソン界のアニキこと水木一郎さんが歌う「♪空にそびえるクロガネの城 スーパーロボット マジンガーZ~」っていう主題歌がいいですよね。
 私も名曲だと思います♪
 この主題歌を聴いてから、本編を観たら、だんだん、当時のことが蘇ってきました。
 「マジンガーZ」には兜甲児が乗り込むマジンガーZのほかに、弓さやかという女の子が乗り込む女性型戦闘用ロボット・アフロダイAが登場していたのです。
 「巨大ロボット読本」によりますと、人間サイズの女性型ロボットは数多く存在しているらしいです。
 例えば、アトムの妹ウランちゃん、ペンギン村のアラレちゃん、映画では、私もブログに書いた「メトロポリス」のマリアなど。
 しかし、女性型の巨大ロボットは「マジンガーZ」にしか登場していないのだそうです。
 それで、私は数あるロボット・アニメの中で、「マジンガーZ」だけはよく観てたのですね!
 でも、それだけじゃなかったのです。
 このアニメには、半身は男で、残りの半身は女の奇っ怪な姿をしたあしゅら男爵という悪役が出ていたんです! 
 
 つまり、男でもなければ女でもないと同時に、そのどちらでもあるんです。
 その姿の訳は、あしゅら男爵のボス、Dr.ヘルが古代ミケーネ人の夫婦のミイラを組合せてサイボーグ化したからだとか。
 このあしゅら男爵、アニメでは半分しか体が見えていない時は、それぞれ男や女の声だけを発し、両方の姿が見えてる時は、男と女の両方の声を発していて、私はこのどっちつかずのキャラクターが気になって気になってしょうがなかったのです。(苦笑)
 でも、もしかしたら、男性と女性、両方の姿をしていることで、それぞれの醜い部分を現していたのかもしれないなと思いました。

 こうして、子供の頃以来、久しぶりに「マジンガーZ」を観ましたが、絵のセンスが抜群ですし、また、ただ戦うだけじゃなく、ボスボロットに代表されるように、ギャグもふんだんに散りばめてあって、今観ても、わりと楽しめちゃいました。 
  
 そして、ガンダムを観るために、ヒーローものやロボットものを調べてみたら、なんだか、すごく勉強した気になりました。

 これで、ガンダムを観る準備が整いましたが、その前に「けっこう仮面」や「まぼろしパンティ」、そして「マジンガーZ」と永井豪作品が出てきましたので、私が子供の頃、好きだった永井豪のある漫画のお話もしてみたくなっちゃいました。
 だから、その漫画のお話のあとに、ガンダムを観てみようと思います。


 それにしても、あしゅら男爵、気になる・・・


キャッ♪





映画「夏の嵐」ヴィスコンティ

2017-10-20 23:40:41 | 映画・テレビ

こちらはもうすっかり、秋めいて朝晩、肌寒くなっているのですが、この時期、日本列

島に台風が近づいていますね。
 天気予報では、日曜日、こちらにもっとも接近すると伝えています。
 今頃、台風が来るとはちょっと意外でした。
 空の雲も前回の台風が過ぎたあとめっきり積乱雲を見なくなり、秋特有の墨をはいたよ

うな薄い雲しか見なくなっていたので、尚更その感が強いです。
 ちなみに、1951年以降で、もっとも遅かった台風は、1990年(平成2年)の1

1月30日に和歌山県に上陸した台風28号だったとか。
 それで、今回は台風に因んだお話をしてみたいなと思い、ヴィスコンティの「夏の嵐」

を、初めて観てみることにしました。
 この映画、まず、いきなり、歌劇場のオペラの場面から始まり、なんて、ゴージャスな

映画なんだろうと圧倒されてしまいました。
 上演していたのはヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」というオペラだそうです。
 この映画の舞台はイタリアの水の都ヴェニスで、時代は1866年の春、オーストリア

のヴェニス地方占領の最後の数ヶ月で、イタリアはプロシアと同盟を結び、解放の戦いが

切迫している時期という設定です。
 私は、そこに映し出されるルネッサンス期の絵画を彷彿とさせる美しい映像の連続に、

あたかも絵画から人物が抜け出してきたかのような錯覚を覚えずにはいられませんでした


 しかも、この「夏の嵐」は私がそれまで観た男性が主人公のヴィスコンティ作品と違っ

て、リディア・セルピエーリ伯爵夫人という女性が主人公だったので、ほかのどの作品よ

りも引き込まれてしまいました。 
 それに、ロマンスっぽい展開があり、初めはちょっと、ワクワクして期待しながら観て

いたのです。
 ところが、美しい映像とはうらはらに、だんだん、イタリア人であるリディアが夫のあ

る身でありながら、占領軍のオーストリア軍の中尉フランツ・マーラーと怪しい仲になり

、その辺りから、私はヴィスコンティの映像美を楽しみたい気持ちから、どうなるんだろ

うと、ハラハラするようになってしまったのです。
 リディア、なぜ、あなたはフランツと不倫してるの?
 夫に気がとがめたりしないの?
 それとも、何か不満でもあるの?
 もし不満があったとしても、それを口実に不倫していいという理由にはならないんじゃ

ない?
 それに、あなたはフランツに恋してるみたいだけど、フランツは本当にあなたを愛して

くれてるの?

 私は、リディアがフランツに騙されて、もて遊ばされてる気がしてならなかったのです


 というのも、フランツはリディアに「仮病を使って、除隊して。ね?お願い。私、あな

たが死んだら、どうしていいかわからないもの。言うこと聞いて。」と言われた時、医者

に偽の診断書を書いてもらうために多額の費用がいると言ったり、除隊後の生活費が必要

だと言って、法外な現金をリディアに要求し、従兄弟のロベルトから預かった2千フロリ

ンという大金を渡したりするのですから。

 もし、夫やロベルトが、リディアの裏切りを知ったら、とんでもないことになるに違い

ありません。

 リディア、フランツなんか、ほっといて、すぐに別れるの!
 そうでなきゃ、あなたも周りもみんな不幸になっちゃうのよ!

 でも、私の願いもむなしく、リディアはフランツから来た手紙に書いてあったサント・

ステファノ通り149番地の彼の潜伏先に危険を犯して行ってみるのです。
 フランツの顔を見たリディアは涙を流さんばかりに喜び、愛をフランツに求めるのです


 ところが、フランツはそんなリディアに、「なんで、来たんだ」と、そっけない態度を

とり、あとからクララという若い女性が別の部屋から姿を見せるのです。
 そして、フランツはリディアを、最初から愛してなどなく、ただ遊ぶお金がほしいばか

りに騙したんだと嘲笑しながら告白するのです。


 だから、私はフランツを信じちゃいけないって思ってたのに・・・

 でも、落ち着いて考えると、フランツの話にも一理ある気がしてきたのです。
 というのも、フランツが戦争に行って、命を落とすかもしれないと思ったリディアは仮

病を使って、軍隊を除隊させてもらいなさい言った時、フランツは「祖国や仲間の兵隊を

裏切り、僕に卑怯者になれと言うのか?」とはっきり、リディアに問い正していたのです


 だけど、リディアはフランツなくしては生きられないと思い、卑怯者になる道を選ばせ

てしまったのです。
 フランツは、「君がぼくについて考えたことは夢だし、創作だ。本当の僕ではない」と

断ったうえで、「自分は脱走兵で、臆病なんだ」と自嘲しながら打ち明けるのです。
 フランツは確かに、言葉巧みにリディアに近寄り、大金を巻き上げたかもしれませんが

、もとはと言えば、仮病を使って、軍隊を除隊するようフランツに涙ながらに訴え、大金

を渡してしまったリディアにも責任があるのではないでしょうか?
 そして、リディアの言葉通りに、仮病を使って、除隊したフランツは身を隠していた時

、絶えず祖国や仲間を裏切った卑怯者という良心の呵責に苛まれ続けたのかも知れない。
 そうして、フランツはその苦しみから逃れようと酒と女に溺れる日々を送るようになり

、自分に対する絶望から、リディアを侮辱し、嘲笑したのではという疑念が湧いてきたの

です。
 そう考えた私は、愛の使い道を間違えると、こういう悲劇を生むこともあるんだろうな

と、一概にフランツばかりを責めるのはどうかなと思わざるを得ませんでした。
 
 だから、そのあと、リディアが取った行動は、非や責任をフランツにだけ押し付けて、

自分に対しての反省が感じられず、行き過ぎのように思えなくもなかったです。
 でも、リディアは信じていたフランツに裏切られた思いで、精神に破綻をきたしてしま

ったのかもしれないなとも思いました。


 私は「夏の嵐」を観て、まず、初めにオペラの場面に圧倒され、絵画が動いてるような

映像美の連続に感嘆していたのですが、やがて、そこで繰り広げられる人間のエゴや弱さ

や醜さの描写を見て、私はふと日本の小津安二郎監督のエピソードを思い出してしまいま

した。
 小津安二郎監督の場合は自分が醜いと思うものは一切、登場させず、ひたすら美しいも

のだけを追い求めていたと書かれた文章を読んだことがあるからです。
 だけど、ヴィスコンティも小津安二郎もともに偉大な映画監督として、その業績が認め

られ、今も世界中で観る人の感動を呼び続けているのは、あなたもご存知の通りです。

 私は、自分自身の美意識を追い求めながらも、異なる手法で人生の深遠に到達した二人

の偉大な映画監督に、つくづく映画って深いなと思わずにはいられませんでした。


 
 

平成版「ウルトラセブン」その後のアンヌ隊員とフルハシ隊員♪

2017-10-18 23:24:37 | 映画・テレビ

今月10月1日は、「ウルトラセブン」が放送されて、ちょうど50周年だったそうです


 そこで、主役のモロボシ・ダンを演じた森次晃嗣さんやアンヌ隊員役のひし美ゆり子さ

んを始めとした当時の出演者やスタッフさん、そして大勢のファンの方々が集まって、盛

大なイベントがあったようです。
 私も、今年は放送開始50周年ということで、6月に「ウルトラセブン」を観て、ブロ

グに書いたこともありました。
 ですから、今回も何か、書かなくちゃなと思っていまして、前々から気になっていた平

成版の「ウルトラセブン」を観てみることにしました。
 私が観たかった主な理由はモロボシ・ダン役の森次晃嗣さんとアンヌ隊員役のひし美ゆ

り子さんのほかに、フルハシ隊員役の毒蝮三太夫さんがご出演されていると知ったからで

す。
 実は私が「ウルトラセブン」の中で一番好きだったのはモロボシ・ダンで、二番めは毒

蝮三太夫さんが演じたフルハシ隊員だったのです。


 まず、なぜ、モロボシ・ダンが好きだったのかと言うと、美形で、安心感があって、信

頼出来ると思ってたからです。
 それは、今年「ウルトラセブン」を観た時も、やはり、そう感じたんです。
 実際、「ウルトラセブン」を制作すると決まった時、モロボシ・ダン役は、子供たちの

ヒーローであることから、第一に目がきれいな人でなければならないというのが、絶対条

件だったらしいです。
 それで、森次晃嗣さんを選考するとき、満場一致で決定し、誰も異論を挟む人はいなか

ったとか。
 今見ても、森次晃嗣さんはきれいな目をしてますよね。
 
世俗の垢に汚されずに、きれいな目を保ち続けている森次晃嗣さんは、本当に素晴らし

い人だなと思います。
 だったら、なぜ、私は二番めに当時、石井伊吉という芸名を使っていた毒蝮三太夫さん

が好きだったのか、ちょっと不思議に思うでしょう?
 それはね、この私自身、不思議だったんです。(苦笑)
 数ヶ月前に「ウルトラセブン」を観た時は、キリヤマ隊長(中山昭二さん)、ヤマオカ

長官(藤田進さん)、タケナカ参謀(佐原健二さん)、ウルトラマンのスーツアクターを

つとめたアマギ隊員らも素敵だなと思ったのですが。
 でも、今考えると、そうした人達はみな美形のタイプですよね?
 だから、美形で言えば、私はモロボシ・ダンが一番好きだったので、同じタイプの人は

子供の私の眼に入らなかったのかも知れません。
 ところが、フルハシ隊員の場合は、とても美形とは言いがたく、私の美意識とまったく

、かけ離れていたので、かえって内面の魅力がストレートに伝わったからじゃないかなっ

て気がしてるんです。(笑)
 そんな訳で、子供の頃はフルハシ隊員の姿を見つけると、モロボシ・ダン同様すごく嬉

しかったんです。
 あの~、くれぐれも勘違いしないで下さいね。
 私、フルハシ隊員のこと、好きだって書いてるんであって、決してけなしてる訳じゃな

いですから。(苦笑)
 そういえば、アンヌ隊員を演じたひし美ゆり子さんも、毒蝮三太夫さんが好きだったみ

たいで、撮影が終わったあと、よく一緒にお酒を飲みに行ってらしたそうです。
 それを知ったほかの出演者で、「俺のほうが断然、いい男のはずなのに、なんで、いつ

もフルハシ隊員なんだ?」って、やっかんだ人もいたとか。
 そのエピソードは、「アンヌからの手紙」にも書いてありますが、毒蝮三太夫さんは女

性が大好きで、雰囲気作りが非常にお上手だった何よりのエピソードのように思われます


 そして、私は毒蝮三太夫さんを大人になってから、やっぱり、素敵な人だったんだなと

、あらためて思ったことがあったんです。  
 もうかなり前になりますが、テレビのワイドショーを観てたら、毒蝮三太夫さんが、ラジオ番組で、お年寄り相手に毒舌で、大人気だと紹介していたんです。
 なんでも、毒蝮三太夫さんの毒舌に、お年寄りは怒るどころか、笑い転げて、元

気になっちゃうんだとか。
 実際、その様子をテレビで映していたのですが、お年寄りはみな大笑い

して、曲がってた腰がシャンとなるくらい、若返ったように見えました。

 その様子を見て、私は毒蝮三太夫さんて、すごいなあと心底思わずにはいられませんで

した。
 毒舌を言って、怒られるどころか、大笑いさせて、元気になり、感謝されちゃうんですもん


 これは、なかなか出来ることではありませんよね。

 そういうことも、私は知ってましたので、なおさら毒蝮三太夫さんが平成に入ってから

演じたフルハシ隊長を見てみたかったのです。
 そこで、「太陽エネルギー作戦」から観たのですが、まず、真っ先に登場したのは、モ

ロボシ・ダンでもなければ、フルハシ隊員でもなく、何と我らがアンヌ隊員だったのです



 これはアンヌ隊員が「ウルトラセブン」にとって、重要なキャラクターだという証しで

もありますし、彼女が出ると、画面がパッと華やかになりますので、「ウルトラセブン」

の開幕を告げるのに、これほど絶好のキャラクターはいないということで、誰よりも早く

登場したのでしょうね♪
 そのアンヌ隊員は、「太陽エネルギー作戦」では、ウルトラ警備隊を退き、一児の母親

になっていました。  
 私はアンヌ隊員が、我が子の名前を呼ぶ場面で、早くも涙ぐんでしまいました。
 だって、その男の子は「ダン」という名前だったんですから。
 きっと、アンヌ隊員は、モロボシ・ダンと別れたあとも、彼のことが忘れられず、生ま

れてきた男の子に「ダン」と名付けたんですよね。(涙)

 だから、私はハンカチじゃ足りないくらい最初っから、ワンワン泣いてしまいました。

 ところで、フルハシ隊長ですが、そう、フルハシ隊員はあれから、ウルトラ警備隊の隊

長になっていたんです!

 でも、涙もろくて、情に厚い性格や風貌に加え、ちょっと荒っぽい台詞を聞いたら、「隊長」よ

り、「親方」とか「大将」と呼びたい気がしないでもなかったです。(苦笑)
 でもですね、フルハシ隊員、「平成ウルトラセブン」で、隊長として出てきたかと思っ

たら、あれは4作目だったかしら?すぐに参謀に昇格したんです!
 昭和の「ウルトラセブン」で佐原健二さんが演じたタケナカ参謀は、この作品では長官

として登場していて、お元気なお姿を拝見出来たのも嬉しかったです。
 そういえば、「太陽エネルギー作戦」には、ほかにも懐かしい人が沢山、出てらっしゃ

いました。
 「ウルトラマン」の出演者のハヤタ隊員役の黒部進さん、フジ・アキコ隊員役の桜井浩

子さん、イデ隊員役の二瓶正也さんなどです。
 でも、肝心のモロボシ・ダンは出てなくて、代わりに森次晃嗣さんはナレーターを務め

ていました。
 モロボシ・ダンが登場したのは第2作めの「地球星人の大地」からで、運動して体を鍛

えてらっしゃるのか、すごくがっしりした体つきで、上半身裸の場面もあって、思わずド

キドキしちゃいました。(真っ赤)
 そういえば、ガッツ星人やエレキング、メトロン星人、キングジョーなど、敵役にも懐

かしい顔ぶれが揃ってましたし、主題歌やBGMも昭和の「ウルトラセブン」のものを、そ

のまま使用していて、平成の「ウルトラセブン」をすんなり観ることが出来ました。

 そういう訳で、平成に制作された「ウルトラセブン」を全部で11本、(そのうちテレ

ビスペシャル2本、ウルトラセブン30周年記念3部作、1999年最終章6部作)を観

たのですが、総括しますと、初めのうちは環境問題がクローズアップされ、自然エネルギ

ーとしての太陽に光を当てる姿勢が鮮明に打ち出された非常にメッセージ性の強いものを

感じました。
 特撮について言えば、制作開始当時の1994年は、バブル崩壊直後の平成不況下にあ

り、昭和の「ウルトラセブン」と比較すると、怪獣と戦う場面が建物も何もない山奥ばか

りで、ちょっと物足りない感じがしないでもありませんでした。
 ところが、1999年最終章6部作の第1作め「ウルトラセブン栄光と伝説」はその当

時最新の特撮技術を駆使し、怪獣が都会で大暴れして、いくら特撮にお金かけたんだろう

?って思うくらい破壊の限りを尽くしていて、それまでの溜飲が一気に下がって、すごく

すっきりすることが出来ました♪
 もしかしたら、この爽快な気持を味あわせるために、それまでの作品で、あえてお金を

かけなかったかもなと思わないでもありませんでした。(笑)
 また、1999年最終章6部作から、主題歌を佐々木功さんが歌うようになり、「ウル

トラセブンのバラード」というエンディング曲も付け加えられ、昭和の「ウルトラセブン

」を彷彿とさせるSF色が強い作品になり、それまでのウルトラセブンにばかり固執するの

でなく、優れた面を踏襲しつつも、新たなウルトラセブンを創造しようという意欲が感じ

られて、私は、このシリーズが一番、面白く感じました。例えば、「空飛ぶ大鉄塊」では

20年前に書かれた物語のロボットが現実に現れますし、「約束の果て」は昔話の浦島太

郎をモチーフにしています。
 でも、それは1994年の「太陽エネルギー作戦」あればこそですから、初めから順に

観たほうが絶対いいです♪
 そして、私が平成の「ウルトラセブン」をいいなと思った理由に、30周年記念3部作

の「失われた記憶」のモロボシ・ダンのセリフがあります。
 
 「私たちの存在を証明するのは積み重ねられた記憶の一つ一つ。
 
 そこには楽しい記憶ばかりでなく、辛い記憶、悲しい記憶もあるかもしれません。

 それでも人はそんな記憶とともに生きていくのでしょう。

 また、新たな記憶を求めて・・・」

 
 それに、佐々木功さんが歌うエンディング曲の歌詞も心に響きます。

 ♪いつの日か 光射して 生きる喜び満ちるまで

 熱い思い 胸に抱き 明日の夢に生きよう


 
 ね?
 私たちは生きている限り、辛いことや悲しいこと、またどんなに苦しいことがあっても

、少しづつでもいいから前に進まなくちゃいけないんです。
 あの頃はよかったなと、くよくよ過去ばかり振り返ってばかりでは、決して幸せが訪れ

るはずはないですから。 
 

 あの、もう少しで、この記事、終わりにしたいのですけど、最後にもう一つだけ書かせ

て下さい!

 実は、1999年最終章の1作めの「ウルトラセブン 栄光と伝説」で、フルハシ参謀

は亡くなってしまうんですが、最後の6作めで奇跡が起きちゃうんです!

 まさか、まさかの展開!
 最後の締めくくりに、フルハシ参謀が!!

 私は、その場面にモロボシ・ダンとフルハシ参謀の熱い男同士の友情を見た思いで、子

供の頃、モロボシ・ダンとともに、フルハシ隊員が好きだった私の目に狂いはなかったと

感激でいっぱいになっちゃったのでした♪



 これにて、オシマイ♪♪♪



映画「山猫」ヴィスコンティ

2017-10-14 14:54:32 | 映画・テレビ

前回、今度はヴィスコンティの「ルートヴィヒ」が観たいなと書きましたが、考えをあ

らためまして、同監督の「山猫」にしました。
 理由は二つあります。
 一つは今年5月に誕生した京都市動物園のツシマヤマネコが、今月から一般公開され、

押すな押すなの大盛況だと知ったからです。
 そして、そのツシマヤマネコの人気は京都市動物園だけにとどまらず、今や全国的に山

猫フィーバーに湧いているのは、皆さまご存知の通りです。
  これが、ツシマヤマネコのお写真です。

 山猫って、その名前のワイルドなイメージと違って、思いのほか可愛いでしょう?
ここまで、ツシマヤマネコが人気になったのは絶滅危惧種に認定され、世界で35匹し

か生存が確認されてないからだそうです。
 京都市動物園では、去年も2匹ツシマヤマネコが生まれたそうですが、すぐに死んでし

まい、いわば京都市動物園にとって、ツシマヤマネコの繁殖と成長は悲願でもあった訳で

す。
 ですから、全国的にツシマヤマネコに注目が集まっている今がヴィスコンティの「山猫

」を観るのにふさわしいように思われたのです♪

 2つめは、この映画にフランスの俳優アラン・ドロンが出演していると知ったからです


 アラン・ドロンは、私がちっちゃかった頃、大人の女性の間で、人気ナンバーワンだっ

たのです。
 しかも、一般の女性ばかりか、女性の芸能人にもアラン・ドロンのファンが沢山いたの

です。
 たとえば、歌手の太田裕美さんは「赤いハイヒール」という歌で「♪アラン・ドロンと

ぼくを比べて陽気に笑う君が好きだよ」と歌っていました。
 また、榊原郁恵さんは「アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた」というタイトルの

歌で、当時、女性に大人気だった二大スターより、私の彼氏がもっと素敵だと歌っていま

した。
 だから、世の女性たちは榊原郁恵さんがどんな男性と結婚するのか注目していたんです


 ところが、そのお相手を知って、みなびっくりしちゃったのです。


 榊原郁恵さんの結婚相手で、私は初めて「恋は盲目」という言葉を覚えました。(苦笑


 ところで、最近、この人、テレビ番組のナレーションで、よく声を聞くようになったん

です。
 プロのナレーターの方はこの人のナレーションをどう思ってらっしゃるのでしょうね?
 というのも、私自身はこの人のナレーションは聞きづらく感じるのです。
 もちろん、これはあくまでも私個人の感想ですから、すべての人が私と同じように感じ

るとは思わないのですが。
 確かに、この人のナレーションは安定感のある喋り方なんですけど、なんだか、どうだ、いいだろう?いいだろう?と囁かれてる気がして、もうちょっと抑えて喋って、私に考える余裕を下さいって思っちゃうんです。
 どうしてでしょうか?
 そういえば、不倫相手がご自分のパンティをかぶった写真が流出して話題になったタレ

ントの斉藤由貴さんの朗読を、以前、聞いたことがあるのですが、その時も、聞きづらく

感じたんです。
 その登場人物が置かれた状況などを説明する文章を読んでいる時はそうでもないのです

が、台詞の部分だけ、声の調子が高くなり、映画やドラマなどで、俳優さんが喋っている

ように、その人物になりきって喋っているんです。
 それが、台詞以外の文章を読んでる時と、どうも調子が合わなくて聞きづらく感じてし

まうのです。
 もしかしたら、俳優をしていることが関係あるのでしょうか?
 聞きづらいといえば、NHKの「新・激動の世紀」のナレーションを勤めた男性もそうで

した。
 確かに、声に透明感があり、滑舌がよくて、一見、聞き取りやすいナレーションではあ

ったのですが、どう考えても国際情勢や戦争にまつわる歴史に認識力が足りない人が喋っ

ているようにしか聞こえなかったのです。
 調べてみたら、その人も俳優さんでした。
 前回の「激動の世紀」でナレーションをした山根基世さんが良かっただけに、その差は

歴然としていました。
 俳優さんは体全体を使って演技をするのを仕事にしてますから、声だけのお仕事は難し

いのでしょうか?
 そう思っていたところ、先日、「中井貴一のサラメシ」というテレビ番組を観ていたら

、この声、本当に中井貴一さんなの?って思えるくらい、二枚目俳優としてのイメージを

かなぐり捨てて喋っておられて、これはなかなかお上手だなと心から感心してしまいまし

た。
 だから、俳優さんがナレーションに向かないというのは一概に言えないんだなと感じた

次第でした。
 
 あ、どうしましょう!

 どうして、当時、女性に大人気だったアラン・ドロンから、こんなお話になってしまっ

たのかしら?(苦笑)
 だけど、当の私自身はアラン・ドロンがなぜ、そんなにモテるのか、当時はちっちゃ過

ぎて分からなかったのです。
 まず、どうして日本の男性を差し置いて、外人さんなのかが分かりませんでした。
 それと、子供の頃の私にはアラン・ドロンが顔つきが悪く見えて、恐い感じがしていた

のです。
 ちなみに、私が初めて好きになった外人さんは映画「小さな恋のメロディ」に出演して

いたマーク・レスターというイギリスの俳優さんです。
 
 ね?
 全然、怖い感じはしなくて、可愛く見えるでしょう?
 だから、子供の頃の私には、アラン・ドロンの良さが、さっぱり分からなかったの

です。
 でも、もしかしたら、今ならその良さが分かるかもしれない。
 この2つが、ヴィスコンティの「山猫」を観たくなった理由でした。(笑)

 それでは、前振りはこのくらいにして、本題に入らさせていただきます♪
 この映画の山猫は、サリナ公爵の紋章を意味していて、イタリアの貴族を扱っています

ので、私は貴族そのものに興味を持っちゃいました。
 何しろ、今の日本に貴族という階級はありませんからね。
 貴族は、お金持ちや会社の社長さんとか政治家とも違いますよね?
 貴いという漢字が入ってるくらいですから、裕福な財産のほかに、高貴で気品を持った

聡明な人というイメージが、私にはあります。
 そして、様式を重んじる。
 そんなところでしょうか?
 しかし、この映画の主人公サリナ公爵(バート・ランカスター)を見た当初、私のイメ

ージと違ってたのです。
 神父をダシにして、娼婦館に女を買いに行ったり、それを神父に見咎められて、「告解

なさい」という言葉に、「妻はことの前に十字を切り、神の許しを請う 7人も子を作っ

たのに妻のヘソさえ見ていない」と言う場面があるのです。
 それに、アラン・ドロン演じる甥のタンクレディと、村長カロジェロの娘アンジェリカ

(クラウディア・カルディナーレ)の縁談に躍起になり、教会のオルガン弾きチッチョを

「お前を銃器室に監禁する。」と言ったり、チッチョの胸ぐらをつかむ場面まであるので

すから、性欲旺盛で、デリカシーに欠けて、乱暴で粗野な人というイメージしか湧かなか

ったのです。
 だけど、そのイメージは見ているうちに覆されてきたのです。
 
 そのすべての始まりは1860年、ガリバルティが、イタリア統一と、退廃した貴族社

会からの自由を目指して、動乱を起こした出来事にあったのです。
 つまり、それまでの体制が一変して、サリナ公爵は貴族としての地位や財産に対する不

安が生じ、瀬戸際の時期にあったのです。
  それは、新政府の役人ジュザレに上院議員の推薦を断る時のサリナ公爵のセリフにも

現れています。

 「私は旧体制と結ばれた支配階級の人間だ。私は二つの世界にまたがっている。幻想さ

え抱いていない。我らは力尽き、疲れ果てた。永遠の眠りを求めている。我らの行為は死

への欲求なのだ。肉欲も忘却への願望。快楽に満ちた怠惰な時間は肉欲の静止を味わうた

め。
 つまり、死だ。
 シチリア人は向上を望んでいない。彼らは誇りを捨てるより、貧しさを選びます。

 そして、ジュザレが去る時、サリナ公爵は誰に言うともなく、こう呟くのです。
 「山猫と獅子は退き、ジャッカルと羊の時代が来る。
 そして、山猫も獅子もジャッカルも羊も、自らを地の塩と信じている」と。
 注(地の塩とは、キリストの教えで、腐敗を防ぐ塩のように、社会や人心の純化の模範

を表す)
 
 このセリフで、サリナ公爵が貴族としての誇りを持っていることや、時代の変化に対応

を見せながらも、対応しきれずにあるがままを受け止めようとしている姿勢や、シチリア

人全体に思いを馳せていることがわかります。

 余生幾ばくもない年齢のサリナ公爵は人生の一大転換の必要性を感じつつ、もう若くな

い自分に気づかざるを得ず、没落するのを静かに受け止めようとしているかのようです。
 
 そして、舞踏会が終わり、サリナ公爵にタンクレディがお礼の言葉を述べながら、次の

選挙に立候補すると告げた時、その若く力強い情熱に打たれ、と同時に自分の老いと自分

の時代が終わったことに気づき、一人よろよろ邸を出るのです。
 そうして、古い朽ち果てた石造りの塔を見上げた後、そのはるか彼方の天に向かって、

十字を切り、「我を守りし星よ。その永遠なる領域へ、いつの日に我を迎えるか」とひざ

まずいて祈りを捧げ、どこへともなく姿を消すのです・・・


 初めはサリナ公爵どうかしら?と思わないでもなかったのですが、彼を取り巻く人間と

のふれあいや出来事を通して、次第に人生の重みや、深い哀感が感じられてきました。

 私はサリナ公爵の姿を見ているうちに、だんだん、胸が締め付けられてくるようで、こ

の映画で最終的にもっとも魅力的な人物となりました。
   
 肝心のアラン・ドロンの印象はと言いますと、私はアラン・ドロンに対して、ちょっと

悪そうなイメージを持っていたのですが、拍子抜けするくらい愛嬌があって、ノリが軽く

、イメージがガラリと変わってしまいました。(笑)
 また、相手役のアンジェリカを演じたクラウディア・カルディナーレはマリリン・モン

ローやブリジット・バルドーと並んで、60年代を代表するセクシー女優だったようです

が、この映画ではそんなイメージは露ほども感じられませんでした。
 この女優さんは、初めタンクレディの話に変な目つきをしたり、品のない笑いをすると

ころが気にならないでもなかったのですが、社交界にデビューした辺りから、ぐんと見違

えるようになりました。

 タンクレディとアンジェリカの場面で印象的だったのは、二人が部屋でキスをしている

時、カブリアギ伯爵に別の部屋から声をかけられ、見つからないように、二人別々に部屋

から部屋へ逃げ込み、いくら呼んでも返事のないタンクレディに不安になったアンジェリ

カの姿が、恋する乙女の揺れる恋心を表現しているようで、ちょっと涙ぐんでしまいまし

た。

 だけど、そのあと、タンクレディに向かって、あなたは強烈なマルサラ酒よと言って、

お熱いキスをしたり、沢山、部屋がある訳をタンクレディが「昔の人たちが、少しだけ掟

を破って、秘密の楽しみを味わったところさ」と言った時、「掟を破って?」と聞き直し

て、ゲラゲラ笑い出すのを見た私は、アンジェリカって背徳の楽しみを知っているなと、

ちょっと?いいえ、大いに見直してしまいました。(苦笑) 


 それにしても、なんて豪華絢爛な映画なんでしょう。
 この映画はそれに尽きると言っても過言ではないでしょう。
 完全主義者のヴィスコンティは、スタジオのセットは一切使わず、オールロケを敢行し

て、調度品や宝飾品などの貴金属もすべて本物にこだわり、この映画を作ったと言います


 そればかりか、舞踏会に集まった貴族たちも本物の貴族たちを使って踊らせたとか。

 そして、この映画を見終わった私は、ネオレアリズモの手法から生まれる圧倒的な現実

味あふれる演出で、没落していくサリナ公爵の姿を追い、時代の変化や世代交代を通して

、人生の哀感を感じさせてくれたヴィスコンティ監督に満腔の敬意を持って、挙手したい

気持ちになりました。
 


 

映画「地獄に堕ちた勇者ども」ヴィスコンティ退廃の美学

2017-10-08 14:30:52 | 映画・テレビ

 私が、この映画を観たいと思ったのは、ヘルムート・バーガーに対する興味からでした


 というのも、私が大好きなマンガ家大島弓子さんに「さよならヘルムート」という、ヘ

ルムート・バーガー似の歯医者さんに恋い焦がれる15歳の少女の作品があるからです。


 大島弓子さんは、美形の男性が好みらしく、以前、私がヴィスコンティの「ベニスに死

す」を観た理由も、「F式蘭丸」に書いてあったアンドレセンが見たかったからでした。



 
 このアンドレセンは、大島弓子さんのお眼鏡に叶ったのも納得の美少年で、私もその悪

魔的な美しさに酔いしれたものでした。
 
 何でも、アンドレセンの美形振りは、世界中の女性を虜にし、「ベニスに死す」公

開以降、行く先々で、引っ張りだこになり、彼はそれが嫌で、以後、隠遁生活を送るよう

になったのだとか。
 ところが、ヘルムート・バーガーは、ヴィスコンティにさらに愛されたみたいで、同性

愛者でもあったヴィスコンティの38歳年下の愛人になったと知り、どんな魅力だったの

か見てみたくなったのです。
 そこで選んだのが、タイトルが妙に気に掛かる「地獄に堕ちた勇者ども」だった訳です

。(苦笑)
 それで、私はどの人がヘルムート・バーガーだろうと目を凝らして観たのですが、初め

のうちは、全然、分からなかったのです。
 だって、大島弓子さんの「さよならヘルムート」で描いたヘルムート・バーガーのモデ

ルの歯医者さんは15歳の息子のいる父親でしたから、まさか、ゾフィーの二十代半ばの

息子役のマーティンだったとは思いもよらなかったのです。
 私のイメージと違って、あまりにも若すぎたってこと!(苦笑)
 それに、ヘルムート・バーガー演じるマーティンは、女装して歌を歌う場面があり、驚

いてしまったのです。

 何でも、それは映画「嘆きの天使」で、主題歌「ローラ」を歌うマレーネ・ディートリ

ッヒを真似したものだったとか。
 でも、これが非常に上手くて、初め、私は、あら?この人、男だろうか、女だろうか?と

気になっていたのですが、だんだん、本物の女性に見えてきたので、これがあのヘルムー

ト・バーガーだったと知った時は、めちゃめちゃびっくりしてしまったのです。
 実際、この映画を観たマレーネ・ディートリッヒから、ヘルムート・バーガーによく真

似てると、感謝の手紙が届いたこともあったとか。
一応、美男子としてのヘルムート・バーガーの写真も載せておきますね。(笑)

これは、素敵♪
 それにしても、一体、ヴィスコンティって、どんな趣味をしてるんでしょう?
 それとも、「地獄に堕ちた勇者ども」という映画にとって、ヘルムート・バーガーの女

装は欠かせないものだったのでしょうか?

 この映画は戦前のドイツの巨大な権勢を誇るエッセンベック製鉄会社が舞台で、ナチス

の台頭により、経営方針の転換を余儀なくされ、当主ヨアヒムの亡き後、経営権を巡って

、一族が醜い争いを繰り広げ、次第に凋落していく様を、退廃の美学とともに重厚に描い

た芸術作品で、「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」と並び称される「ドイツ三部作」の一

つに数えられているとか。

 では、なぜ、ヴィスコンティはこの映画を撮ったのでしょう?
 私が観たDVD特典のインタビューで、ヴィスコンティはこう述べています。
 
 この作品を撮ろうと思ったのは、ナチス時代のヨーロッパを、今、撮ることが重要だと

考えられたからだ。本作は、当時のことをよく知らない新しい世代に大きな影響を与える

はずだ。最も大切なことは当時の出来事を批判的に受け止め、人々が、ずっと忘れないこ

とだ。

 それを裏付けるように、「ヴィスコンティ集成」という本に、海野弘氏がこんな文章を

寄せています。
 ヘルムート・バーガーというもっとも美しい獣を中心に据えることによって、ヴィスコ

ンティは「地獄に堕ちた勇者ども」に二重の意味を与えた。ヴィスコンティはこの映画に

おいて、現代史に全面的に直面し、そのタブーを描き出そうとした。そのことは1969

年にやっと可能になってきたのであった。注(1969年は「地獄に堕ちた勇者ども」が

制作された年)ヴィスコンティがかつて訪れた30年代初頭のワイマール・ドイツが突然

、よみがえってくる。30年代にはイギリスのインテリの若者、ジョージ・オーウェルや

スティーブン・スペンダーがモスクワでひかれたように、ヴィスコンティもコミュニズム

の洗礼を受けた。スペイン市民戦争とファシズムへのレジスタンスのうちに、彼は悲惨な

時代をくぐり抜けていった。第2次世界大戦後、彼は「赤い貴族」と呼ばれた。しかし、

60年代には大いなる思想的幻滅が訪れる。ソ連軍はプラハに進駐し、ヴィスコンティは

それに抗議する運動に加わった。コミュニズムの一元論は崩れる。しかし、そのことによ

って、ヴィスコンティははじめて現代史をトータルに見る視点を獲得したのであった。自

明的なナチズムのドイツを現代史の悲劇として描き出すことが可能になったのである。


 ヴィスコンティは60年代後半になって、ようやく、広義な意味での歴史的視点を勝ち

得たので、この映画を作ったことが、この文章で、何となく分かったのですが、私がもっ

とも知りたいヘルムート・バーガーが女装している訳にはあまり触れてないです。(苦笑


 それどころか、ヘルムート・バーガー演じるマーティンは単なる女装趣味の男性ではな

く、幼女を殺害したり、イングリッド・チューリン演じる母親のゾフィーと近親相姦した

りと、まさに悪魔的な青年として描かれていて、私はそれらがヴィスコンティの単なる猟

奇的な変態趣味とは思えず、ナチズムを批判的に扱うこととどう関係あるのか理解出来な

かったのです。
 ところが、この謎を、あの三島由紀夫が解いていたのです。
 それは「久々に傑作といえる映画を見た。生涯忘れがたい映画作品の一つになろう」で

始まる文章で、「これはドイツオペラであり、ワーグナー的巨大とワーグナー的官能性が

、圧倒的に表現されている。ワグネリアンは狂喜するに違いない。」と続きます。
 そして、マーチンの変態趣味については、ヴィスコンティはおそらく、政治的変質と、

性的変質のパラレズムを狙ったとし、こう書いています。
 マーチンの性的変質とそのやるせない胸のときめきは、やがては彼が陥ることになる政

治的変質の兆候であり、暗喩である。ドイツ的世界ではすべてが体系化され、一つ一つの

病的観念は、病的な政治行為と照応する。かつて私は、ドイツには、あらゆる種類のパー

バージョン(管理人注、倒錯・変態・背徳etc)の数に対応する数の哲学的体系が存在す

る。と書いたことがある。しかも性と政治とのこのような対応は、もう一つの、もっと怖

ろしい逆説を秘めている。すなわち、この映画だけを見ても、圧倒的な病的政治学の力の

下で、むしろ人間性は性的変質者によって代表されているのであり、幼女姦のマーチンも

、男色の突撃隊も、その性的変質に於いてはじめて真に人間的であるのに反して、どこか

ら見ても変質のカケラもない金髪の人間獣アシェンバッハ(このヘルムート・グリームと

いう俳優はすばらしい)の冷徹な「健全さ」が、もっとも悪魔的な機能を果して、ナチス

の悪と美と「健康」を代表しているのである。真に怖ろしいものはこちらのあるのだ。

 そういえば、私自身はヘルムート・バーガー演じるマーチンより、ナチス親衛隊のアシ

ェンバッハの悪魔的魅力に取り憑かれそうになったのですが、真に怖ろしいのは三島由紀

夫の言うこちらにあるのですよね。
 だけど、分かっていながら、アシェンバッハに魅力を感じてしまう。
 アシェンバッハの魅力は、女性の弱い面を鋭く突いているように思います。 

 そして、三島由紀夫はこの映画「地獄に堕ちた勇者ども」の本質をこう言い当てていま

す。
 マーチンの母子相姦のシーンもさることながら、大団円のフリードリッヒとソフィーの

結婚式と死のワーグナー的場面のカットの積み重ねには、ふたたび冒頭の悠悠たるタッチ

があらわれ、同じ邸が隈なくハーケンクロイツの旗で飾られて、娼婦やならず者の参列者

の中へ、不気味な死化粧の白面のソフィーが、フリードリッヒと手を携えて階段を下りて

くる。親衛隊となったマーチンが母に対する復讐を完成し、完全な精神的凌辱と死を与え

るこの場面のものものしさ、絶妙の運びののろさ、それ自体みじめに戯画化されていなが

ら、戯画化の絶頂で異様な壮麗さに転化してゆく演出は、へんな言い方だが、非常に「よ

い趣味」なのである。すべてが人間性の冒瀆に飾られたこの終局で、ヴィスコンティは、

序景の、直接的暴力によって瞬時に破壊された悲劇の埋め合わせを企むのだ。それがもう

少しで風刺に堕することなく、あくまで正攻法で堂々と押して、しかも感傷や荘重さや英

雄主義を注意深く排除し、いわば「みじめさの気高さ」とでもいうべきものをにじみ出さ

せ、表情一つ動かさぬマーチンの最後のナチス的敬礼をすら、一つの態度を以て造型する

。・・・こういう「良い趣味」は、この映画のスタイルの基本である。参列の娼婦やなら

ずものの描写の抑え方を見よ。そこには野卑すらが一つの静謐に参与している。 
 

 ただ見ただけではその意味がよくわからないところが、いくつもある映画でしたが、こ

うして三島由紀夫の解説を読むと、この映画の素晴らしさに目を開かせてもらった気がし

てきます。

 あと、俳優さんで、私が気になったのはヨアヒムの姪の役のシャーロット・ランプリン

グです。
 
 全然、無駄のないお肉で、しなやかな体をしていて、一幅の絵画みたいに、この映画に

華を与えていたのが印象的でした。
 
 初めは大島弓子さんのマンガから、ヘルムート・バーガーの魅力を知りたくて観た映画

でしたが、こうしてあれこれ調べたら、死と官能の極限で、変態と退廃の美学を描こうと

したヴィスコンティ映画の魅力をもっと知りたくなってしまいました。


 次は「ルートヴィヒ」を観てみようかな。 

マンガ版「仮面ライダー」VS「ミクロイドS」

2017-10-06 10:22:10 | 読書
 

私が懇意にさせていただいている方で、今から四年前、「仮面ライダー」と「ミクロイ

ドS」の関係をブログに書かれた事がありました。
 だけど、私は残念ながら、その時、どちらもちゃんと読んだことがなく、うまく返答出

来なかったのです。
 でも、いつの日か、その二つのマンガを読みたいと思っていました。
 しかし、時は残酷というか、そう思ってから、四年も月日が過ぎて、いつの間にか、す

っかり忘れていました。
 ところが、最近、「仮面ライダー響鬼」の記事と「ミクロイドS」の歌詞を書いた時に、急に思い出したのです!
 
 いけな~い!
 私ったら!!
 
 そこで、急きょ、「仮面ライダー」と「ミクロイドS」を読んでみたのです。
 なぜ、あの人はあんな記事を書いたんでしょう?

 すると、「仮面ライダー」で、思わぬ発見をしちゃったのです!

 私にはかれこれ6年もお付き合いしている空飛ぶアカエイさんという方がいるのですが

、「仮面ライダー」にショッカーの手先として、空飛ぶしびれエイが登場してたのです!
 これは、どういうことなの?


 私が仲良くしている空飛ぶアカエイさんのハンドルネームの由来は敬愛する横山光輝作

品のキャラクターからいただいたとお聞きしていたのですが、そのキャラクターは石ノ森

章太郎作品にも登場してるじゃないですか!
 もしかしたら、空飛ぶアカエイさんが横山光輝ファンなのは真っ赤なウソで、本当の正

体は、空飛ぶしびれエイというショッカーの手先で、世界征服を企む目的で私に近づいて

きたのかも?

もしそうだったら、どうしよう?

 わ~ん!
 私ったら、何にも知らずに悪の片棒を担いでたんだわ!!

 空飛ぶアカエイさん、真実を教えて下さい。

 あなたは、本当に横山光輝ファンなの?
 それとも、悪の組織ショッカーの一員、空飛ぶしびれエイなの?


 ヒック、ヒック、ヒック・・・(涙)
   
 まさか、「仮面ライダー」を読んで、こんな思いをするとは・・・
 
 でも、今はそんなことに煩わされてる場合じゃないかも?

 せっかく、「仮面ライダー」と「ミクロイドS」の記事を私のためだけに書いて下さっ

たあの方のためにも、何とか読まなくちゃ。

 そう気を取り直して、この二つのマンガを読み進めてみました。


 その方は、手塚治虫先生の「ミクロイドS」は「仮面ライダー」に対抗するために描か

れたのではと仮説を立てていたのです。
 何でも、石ノ森章太郎作品には悪の組織に肉体改造された主人公が悪の組織を抜け出す

も、善と悪のはざまで、揺れ動きながら、悪と戦うストーリーが多いのだとか。
 その理由は崇高な理想を高く掲げ、強い意志で戦う作品を多く描いた手塚治虫作品への

アンチ・テーゼだったとか。
 ところが、そうした石ノ森章太郎さんの姿勢に異議を唱えるべく、手塚先生は「ミクロ

イドS」で、悪のギドロンから抜け出して、正義のために戦うヤンマ・アゲハ・マメゾウ

を描いて、石ノ森章太郎さんの作風を踏襲しつつ、次第に持論を展開していったそうなの

です。
 それが、本当なのか、自分で読んで確かめたくなったのです。
 と思っていたことを、この四年間、すっかり忘れていたの。(汗) 

 それで、その点に注意して読んでみたのですが、確かに、「仮面ライダー」と「ミクロ

イドS」は似たような設定が多いんです!
 まず、仮面ライダーのモデルが昆虫のバッタなのはとっても有名ですよね。
 一方、「ミクロイドS」のヤンマはトンボ、アゲハはアゲハ蝶、マメゾウはマメゾウム

シと、こちらのモデルも昆虫なんです。
 仮面ライダーこと本郷猛は悪の組織ショッカーの手により、改造人間にされるも、緑川

博士とともに抜け出し、ショッカーが送り込む怪人達と戦います。
 一方、ヤンマたちもギドロンの手により矮小化され、屈従を強いられるも、ギドロンの

世界征服の野望を打ち砕くために人間の元へ行き、ギドロンと戦うのです。

 ショッカーの世界征服の目的は人間を感情のない半ロボットの奴隷に変え、自然を破壊

して、工場や都市を作ることにありました。
 その結果、地球は冷たく乾いた砂漠になってしまう。
 それを阻止するために、仮面ライダーはショッカーと戦うのです。
 仮面ライダーがバッタをモデルにしたのは自然の象徴で、バッタと人間のハーフ即ち自

然と人間が協力して悪に立ち向かう姿を通して、自然と上手に共生することを人間の叡智

と位置づけ、仮面ライダーを真の文明のシンボルにしたのだそうです。
 本郷猛はベルトのプロペラが回って、仮面ライダーに変身しますが、あれは風力という

自然エネルギーを利用することで、環境破壊を企むショッカーと対極にあることを現して

いるのだとか。
 一方、「ミクロイドS」の場合、マナブの父親で、ノーベル賞を取った美土路博士はギ

ドロンが人間を襲う理由をこう述べています。
 「人間の自然破壊に昆虫が、正しく言えば昆虫を操っているある怪物なのですが・・・

人間に復讐をはじめたのです。人間が滅亡するまで、この襲撃は続くかもしれません。」

 ショッカーもギドロンもともに自然破壊が関係した悪なのです。
 
 「仮面ライダー」と「ミクロイドS」、こんなに類似点があるんです!

 これは明らかに、後発の「ミクロイドS」を描いた手塚先生に、「仮面ライダー」に対

して、強烈な何かがあったのは火を見るより明らかですよね?
    
 「仮面ライダー」と「ミクロイドS」の類似点に着目したその人は、人間的な弱さを兼

ね備えたキャラクターを創造し続ける石ノ森章太郎作品に待ったをかける意味で「ミクロ

イドS」を手塚先生は描いたのではと推理していました。
 そうすることで、人が何か事を起こすには迷いを極力排し、強い意志が必要だろうと、

手塚先生は言いたかったのではないかと。
 そして、忘れてならないのは、この二つのマンガはどちらもテレビで特撮ドラマやアニ

メになったことです。
 この勝負、どちらが勝ったのでしょう?
 そりゃ、当然「仮面ライダー」に決まってるじゃん!なんてったって、「仮面ライダー

」は今もテレビで、ずっと続いてるけど、「ミクロイドS」なんか、続編も作られず、す

ぐに終わっちゃったじゃん!!

 私も、そうかも?と読むまでは思っていました。
 だけど、マンガ版は、断然、「ミクロイドS」が優れていると断定せざるを得ませんで

した! 
 と云うのは、「仮面ライダー」の場合、ショッカーと戦うシーンがやたら多くて、個々

のキャラクターがしっかり描ききれていないし、自然破壊に警鐘を鳴らすためのドラマ性

が非常に希薄な印象を受けたのです。
 その点、「ミクロイドS」はヤンマやアゲハやジガー、そして、マナブや美土路博士を

始めとするキャラクターがしっかり描き込まれていましたし、ギドロンが昆虫を使い地球

を滅亡へと追い込み、それと戦うストーリーには重厚なドラマ性が感じられたのです。

 「仮面ライダー」の解説で、石ノ森章太郎さんが言っておられることは納得しますが、
「仮面ライダー」はどう見ても手を抜いて描いたようにしか思えないのです。 
 テレビ番組の「仮面ライダー」はともかく、マンガ版はとても傑作とは言えないと思い

ます。
 嘘だと思ったら、この二つのマンガ読み比べてみて下さい。
 両者の差が、歴然とわかりますから。
 もしかしたら、手塚先生は石ノ森章太郎さんがあまりにもなっちゃいないマンガを描い

てしまったので、お手本を示すべく「ミクロイドS」を似たような設定にして描いたのか

なと思わないでもありませんでした。
 

 それはそうと、空飛ぶアカエイさん、あなたが横山光輝ファンなのは真っ赤なウソで、

本当はショッカーの手先だったの? 






  

映画「メトロポリス」SF映画の原点にして頂点

2017-10-03 23:44:27 | 映画・テレビ

 あれは10年前くらいだったと思います。
 SF映画「メトロポリス」というDVDを、中古ショップで見つけたのは。
 そのSF映画は、1927年にドイツで制作され、人造人間が登場する100年後の世界を

描いたものでした。
 1927年は、日本で言えば、昭和2年という年で、そんな遠い昔に、どんな未来が描か

れているのか、すごく興味を惹かれてしまいました。
 それで、そのDVDを買い、観てみたのですが、何しろ昭和2年に作られたSF映画ですから、

正直、それほど大きな期待はしていませんでした。
 ところが、その映像を観て、びっくりしちゃったんです!
 そこに映し出されたものは、今見ても、未来っぽく見えましたし、圧倒的な迫力に満ちて

いたのです。
 とくに、超高層ビルをはじめとする街の様子は私たちが描く未来都市そのままと言っても

、決して過言ではなかったのです。
 そして、人造人間が誕生する瞬間の映像も、その時代にどうやって撮影したのか、とても

よく出来ていて、素晴らしいとしか言いようがありませんでした。
 それで、私はとてもいいものを観たなという満足感でいっぱいになりました。

 ところが、それからしばらく経って、レンタル屋さんに行ったら、「メトロポリス」のビ

デオを見つけたのです。
 そのレンタル屋さんは、今はもうなくなっちゃったのですが、よそのお店がDVDを主流にし

たあとも、ビデオが沢山置いてあったのです。
 その「メトロポリス」のビデオを手にとってみたら、驚いたことにカラー版と書いてあり

、しかも、BGMにロック音楽を使用しているらしく、またまた興味を惹かれて、観てみる

ことにしたのです。
 すると、それはカラー版と言っても、画面全体が赤くなったり、黄色くなったりして、本

物のカラー版とはちょっと違っていたのです。
 だけど、ロックンロールのポップな音楽と相俟っていて、これはこれでいいように思えま

した。
 しかし、不思議なことに、このカラー版は私が買ったものより長くて、観たことのない映

像や写真がいくつも插入されていたのです。
 同じ映画なのに、どうしてでしょう?
 そこで調べてみたら、この映画は、もともと2時間半ほどあったそうですが、時代をあま

りにも先取りし過ぎていたのか興行収入がパッとしなくて、1時間半の短縮版にしたそうで

す。
 その結果、元の完全版のフィルムが散逸してしまい、そのカラー版はジョルジオ・モロダ

ーが世界に散らばったフィルムや写真をかき集め、あとから継ぎ足したものだったのです。
 しかし、そのカラー版でもまだ見つかっていないフィルムがあり、完全版には程遠いもの

でした。
 私が観たのは完全版ではなかったのです。
 私はこの映画は映像が素晴らしいとは思っていたのですが、どうしても理解しにくいとこ

ろがあり、その理由をサイレントで、説明も少なく、セリフが字幕でちょっとしか写ってい

なかったからだと思っていたのです。
 
 そして、私はこの映画が、SF映画の原点にして、頂点だと、この時、初めて知ったのです



 やっぱり、この映画は、すごい作品だったんだ!

 でも、ちょっと待って。
 SF映画の原点なのは、その古さから分からないでもないですが、頂点は「2001年宇宙

の旅」では?
 映画評論家や映画監督も、「2001年宇宙の旅」の方を評価してる人が多いみたいだし

、どうして、「メトロポリス」が、SF映画の頂点なんでしょう?
 ところが、「メトロポリス」は人類が記憶に残すべき作品として、2001年にユネスコが世界記憶遺産に承認した初めての映画なのです。
 だから、ある意味、「2001年宇宙の旅」を超えちゃっているのです!

 「メトロポリス」が、SF映画の頂点と言われる訳は、SF映画ならではの設定がいくつも取り入れられているこ

とにあるのだとか。
 まず、1つめは未来を描いたこと。
 2つめに、人造人間が登場すること。
 3つめにマッド・サイエンティスト、つまり、気狂い博士が奇想天外な発明をして、世間

を騒がせちゃうことです。
  わかりやすく言うと、マンガの「鉄腕アトム」の天馬博士、「鉄人28号」の敷島博士

というところかしら♪
 そして、頂点だけあって、その後のSF映画に多大な影響を与えたそうです。
 大都会の外観は、「ブレード・ランナー」、人造人間は「スター・ウォーズ」のC3POなど

、その例は枚挙に暇がないとか♪

 だけど、惜しいことに、この映画はサイレントで、セリフや説明が少なく、そのせいで、

意味が理解しにくく、想像したり、わからないままのところが、私にはいくつもあったので

す。
 なんででしょうねえ。
 でも、分かりにくいから名作と言われてるのかも知れないし・・・ 
 ところが、それからしばらく経ったある日、古本屋さんで、「メトロポリス」の文庫本を

見つけちゃったのです!


 それは、「メトロポリス」の監督フリッツ・ラングの奥さんのテア・フォン・ハルボウが

書いた小説でした。
 この小説は映画版と同時進行の形で、新聞に発表され、その後、単行本として出版された

ものでした。
 この原作版を読んだら、きっと理解しにくかったところも分かるかも知れない。
 そう思いはしたのですが、なぜか、その時は買わなかったのです。
 もしかしたら、「メトロポリス」に対する興味を失いつつあったのかもしれません。
 しかし、そんな私に待ったをかけたのは、ブルーレイの完全復元版の存在でした。
 とうとう、「メトロポリス」の全部のフィルムが発見され、ついに神秘のベールがはがさ

れる時がやってきたのです。

 だけど、それを観ても分からなかったらどうしよう?
 そこで、ネット・オークションで、古本屋さんで見かけた原作本を取り寄せることにし、

先日、ようやく原作本と、ブルーレイの完全復元版の両方を鑑賞してみたのです。
 原作本は文章も素晴らしく、完全復元版でも触れてない部分がいくつも書いてあり、「メ

トロポリス」を初めて、心ゆくまで堪能出来たように思いました。
 そして、原作本ではメトロポリスの冷徹な最高権力者ヨー・フレーデルセンが老いた母親

と、亡き妻ヘルのおかげで改心するところがあり、この作品のテーマが分かりやすく書いて

あったのが、なによりに収穫でした。


 ところで、この「メトロポリス」のテーマは、何なのか気になりますか?
 それは「脳と手の媒介者は心でなくてはならない」です。
 実は、この映画を作った当時、監督のフリッツ・ラングは原作者の妻(後に離婚)テア・
フォン・ハルボウの提示したこのテーマに懐疑的だったらしいです。
 だけど、晩年、フリッツ・ラングは若者に「現在のコンピューターに制御された世界を、どう思っているのか、何が欠けているか?」と尋ねた時、「心が欠けている」と答えた若者が何人もいて、テア・フォン・ハルボウの先見性の素晴らしさを、今更ながら思い知らされたとインタビューで語っています。
 

 また、マンガの神様・手塚治虫も「メトロポリス」に感銘を受けた一人で、アニメ「ミクロイドS」の主題歌には、この映画のテーマが巧みに取り入れられています。

 ♪心を忘れた科学には、幸せ求める夢がない・・・(作詞・阿久悠)
 

 真に偉大な人は、偉大なものを知るとは、この事を指すのでしょうね?

 「メトロポリス」、機会があれば、ぜひ、観ていただきたいです。