奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

小説「美しい星」三島由紀夫

2017-05-26 10:52:57 | 読書
現在、三島由紀夫原作の映画「美しい星」が公開中なので、原作小説を読んでみました。
実はこの作品には、空飛ぶ円盤や宇宙人が登場するらしく、元不思議大好き少女だった私は以前から、ずっと気になっていたのです。
それに、「夜のヒットスタジオ」で長らく司会をつとめた芳村真理さんが、最近、テレビ番組「爆報フライデー」や、NHKのラジオ番組で、三島由紀夫に「浜離宮に空飛ぶ円盤が現れるそうだから、一緒に見に行かないか」と誘われたというエピソードをしゃべっていたからです。
その時、芳村真理さんは本当に空飛ぶ円盤が現れるのか、ちょっと疑心暗鬼だったそうですが、天下の三島由紀夫大先生に誘われたとあっては断る訳にはいかないと、二人して浜離宮に行き、空飛ぶ円盤をずっと待ち続けたそうです。
けれど、なかなか来なくて、
そのうち、三島由紀夫は呪文のようなものを、一心に唱え出した。
だけど、遂に空飛ぶ円盤は二人の前に現れなかったとか。

三島由紀夫は本当に空飛ぶ円盤を信じていたのでしょうか?

聞くところによると、日本空飛ぶ円盤研究会なるものにまで入ってたらしいですが。

とにかく、そういう訳で、空飛ぶ円盤や宇宙人が登場する「美しい星」を読んでみたくなったのです。

それで、読み始めてみたら、日本の自然の美しさと、歴史と伝統の素晴らしさにふれていて、三島由紀夫らしいなと、まず思いました。

大杉家の家族はある時、突然、別々の天体から来た宇宙人だという意識に目覚めるのです。
当主、重一郎は火星人、その妻、伊世子は木星人、長男、一雄は水星人、長女、暁子は金星人。
その理由は、当時、世界中を震撼させたキューバ危機に端を発したアメリカとソ連の核戦争勃発一触即発の緊急事態にありました。
重一郎たちはこの地球の危機を救うために、はるか宇宙から派遣されたのです。
そして、核戦争による人類滅亡を阻止すべく、宇宙友朋会を設立して、講演して廻り、平和の大切さを訴え続けるのです。
一方、長女の暁子のもとに金沢に住む男性から、「自分も金星人だ。」という手紙がきて、共に金沢で空飛ぶ円盤を目撃するのです。
そればかりか、暁子いわく、その男性の子を処女懐胎するのです。
ところで、地球に来た宇宙人は大杉家だけではなかったようで、白鳥座から来たという万年助教授の羽黒、床屋の曽根、S銀行に勤務する栗田ら、三人も宇宙人だったのです。
この三人の目的は地球滅亡にあり、大杉重一郎の活動を苦々しく思っていたのでした。
やがて、三人は飯能市の重一郎の邸宅を訪れ、自らの論理に基づいた人類への見識を滔々と述べて、重一郎を論破しようとするのです。
その結果・・・


以上、簡単に粗筋をご紹介しましたが、初めのうちは、ちょっと退屈になったりもしたのですが、暁子の処女懐胎の意外な事実とか、まったく予想だにしない展開が次々に起きて、読み進むに連れ、ぐんぐん引き込まれていきました。

また、この作品は読む者を退屈させないように、ユーモアにも気を配っていて、三島由紀夫のサービス精神を垣間見る思いでした。
とくに、羽黒、曽根、栗田の三人が、黒木という実力者に誘われて、歌舞伎を見る場面で、『大喜利は三島由紀夫の「鰯売恋曳網」という新作だったが、助教授がこんな小説書きの新作物なんか見るに及ばないという意見を出したので、あとの人たちもこれに従った。』という文章には思わず、くすりとさせられてしまいました。
しかし、そうしたサービス精神にも気を配りつつ、三島由紀夫がもっとも言いたかったことと、この小説の白眉は重一郎と助教授の羽黒との論戦の一騎討ちにあるのは間違いないでしょう。

羽黒はまず、人間の宿命的な病気や欠陥として、事物への関心、人間への関心、神への関心、この三つを挙げています。
このなかで、私が驚き、かつ意外だったのは、神への関心でした。
『神というのはまことに狡猾な発明で、人間の知りえたことの九十パーセントは人間のために残しておき、のこりの十パーセントを神という管理者に委ねて、その外側の膨大な虚無とのつなぎ目を、管理者の手の内でぼかしておいてもらおうという算段から生まれたものだ。』と定義している点です。
三島由紀夫といえば、神様=絶対者は、人間にとって無くてはならない存在だと亡くなる一週間前、古川尚との対談で熱く語っていますが、神様を信仰するうえでのマイナス面も考えていたのですね。
でも、私は『膨大な虚無とのつなぎ目を、管理者の手の内でぼかしておいてもらおう』という文章で、人間が神様を想像した訳が何となく理解出来た気がしてきました。
人間と動物を分けるものは宗教を持っているか否かという言葉がありますが、人間は進化の過程で、理性を手に入れた時から、無目的に生きることに不安を覚え、なぜ生きねばならないのか意味を知りたくなったのではないでしょうか?

しかし、三島由紀夫はただ人間の宿命的な病気や欠陥だけを挙げている訳ではありません。
重一郎の言葉を借りて、人間の五つの美点として、もし人類が滅んだら、墓碑銘にこう記すと書いています。

『地球なる一惑星に住める人間なる一種族ここに眠る。
彼らは嘘をつきっぱなしについた。
彼らは吉凶につけて花を飾った。
彼らはよく小鳥を飼った。
彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
そして彼らはよく笑った。
ねがわくはとこしえなる眠りの安らかならんことを』


三島由紀夫がいかに人間を愛していたかが、この五つの美点で分かるようです。

もし、これだけでは何のことか皆目見当もつかないという方はぜひ御一読下さいませ。

最初は空飛ぶ円盤や宇宙人に興味を引かれて読みましたが、ただの荒唐無稽な小説ではなく、純文学と融和させて、人間を宇宙人の視点から見つめ、深い人間愛に貫かれた見事な作品に仕上がっている点は注目に値するのではと思いました。


映画「最後の誘惑」私の宗教の疑問

2017-05-20 15:46:26 | 映画・テレビ
前々回、宗教を中心に据えた理想的な生き方として、私が感動した「大草原の小さな家」の(思い出)というエピソードを書きましたが、今回はイエス・キリストの人間像に迫った映画「最後の誘惑」について、お話ししたいと思います。
この映画には、何でもキリストが女性を抱くシーンが出てくるらしく、いくつものキリスト教の団体から、猛烈な抗議を受けたという実話があるそうです。
ところが、この映画を作った監督は「タクシードライバー」や「レイジングブル」で、世界的に評価の高い名監督マーチン・スコセッシが撮っているのです。
しかも、今年の始めに同監督は、キリスト教の殉教者を扱った「沈黙」も撮っていて、宗教にかなり思い入れがある人みたいなのです。
調べてみると、マーチン・スコセッシは若かりし頃、キリスト教の神父を志した時期があったらしく、それだけ、宗教に熱心で、素晴らしい才能を持っていたなら、単なる興味本意で、イエス・キリストのそうした場面を描いたとは思えないのです。
それに、私はこの映画を観ることで、人々が宗教に望む何かが見えてくるような気がしたのです。
そこで、始めてこの映画を観た訳ですが、まず、この映画は冒頭の部分で語られているように、聖書の福音書を忠実に描いているのでなく、創作の部分がかなり多いそうです。
だから、聖書にはイエス・キリストのそうした場面はもちろんあるはずもなく、その部分に創作を加えたところに、キリスト教関係者は激怒したみたいです。
では、なぜそんな場面をこの映画は必要としたのか?
それは、この映画の原作者が、イエス・キリストの極めて弱い人間的な部分を、いかにして克服し、神になったかを描きたかったからだそうです。
そうした事を念頭に置いて観てみると、確かにイエス・キリストは、普通に今まで抱いていたような超人的なタイプではなく、神の声が聞こえるのを疎ましく思い、神の子として生きるのを否定したり、マグダラのマリアと、性交する場面が出てきて、かなり衝撃的な内容になっています。
でも、私はこの映画を観ているうち、イエス・キリストが聖母マリアから処女懐胎により誕生したことを、ふと思い出したのです。
あれは、本当だったのでしょうか?
私はもしかしたら、ヨセフとマリアに男女の交わりがあってはキリスト教を説くのに都合が悪いのと、キリスト教に神秘性を持たせるために作られたのではという気がしてきたのです。
ではなぜ、キリスト教を説くのに都合が悪いのか?
それは宗教の多くがキリスト教に限らず、人間的なあらゆる欲望を克服したところに真の幸福があると説いているからです。
ですから、性欲も克服しなければならないものだとして、聖母マリアは処女懐胎したということになったのでは?
それに、牧師は結婚しても構わないけど、神父は独身を通さなくてはいけないという決まりまであるそうですし。
それに、仏教のほか、神道や、道教では、厳しい修行の場所に女人禁制を設けているではありませんか。
ところが、ネットで調べてみると、今の神父は、破戒神父といって、結婚している人もいるみたいです。
理由は、性犯罪を犯す神父が増えてしまったために、神父の結婚を認める動きになったのだとか。
そういえば、仏教も性欲を克服しなければならないものと捉え、お坊さんは結婚してはならなかったそうですが、今では結婚しているお坊さんは多いですよね?

でも、私は性欲を断ち切れないなら、なぜ、神父や、お坊さんをやめないのか、ちょっと疑問なんです。
キリスト教でも仏教でも結婚してはならないという決まりがあったはずなのに、どうして結婚が許されるようになったのでしょうか?

やっぱり、坊主丸儲けって言葉があるくらいだから、一度美味しい思いをしたら、そう簡単にはやめたくないのかしら?


でも、それなら、信者が黙って、見過ごすはずはないかも?

そこで、私なりに、性欲に負けても、神父やお坊さんを続けられる訳を考えてみました。

私が参考にしたのは、元プロ野球監督の野村克也さんの言葉です。
この人、ある時インタビューで、「伸びる選手を見分ける方法は?」と尋ねられた時、監督時代を振り返って、「それはな、いかに女好きかで決まるのさ」と答えていたのです!
つまり、好きな女をモノにしたいという気持ちがあればあるほど、選手は伸びるのだとか。
そういう選手は女のためなら、どんな努力も惜しまないそうです。
私はこのエピソードから、宗教が、清らかな精神を保つために性欲を克服しなければならないものという考えから、パワーの源に解釈を変更したのではないかと考えたのです。

性欲は、人間の三大本能の一つですから、あまりにも屈従を強いられると、屈折したり、凶悪な性犯罪を起こしかねない。
それなら、性欲をコントロールすることのほうが大事なのではと気づき、神父もお坊さんも結婚しても構わないことになったのかも知れないですね。

それでは、次に映画「最後の誘惑」で、イエス・キリストが、マグダラのマリアと性行為をした場面をなぜ創作したのかを考えてみたいと思います。

これは十字架に磔にされた時にイエス・キリストが叫んだ「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになるのですか?」にヒントが隠されているように思います。

この言葉はイエス・キリストの最期の言葉として、あまりにも有名ですが、その真の意味は私もよく分かりませんでした。
でも、ちょっと考えただけでは、神様に失望して、あんな悲痛な言葉を口にしたのではと受け取れなくもないですよね?

だけど、あの言葉はイエス・キリストが発しましたが、イエス・キリスト自身の言葉ではないと解釈されているそうです。
イエス・キリストが十字架に磔にされたのは、地上のすべての人々の罪や穢れを一身に引き受けて、自分の命と引き換えにして、許しを乞うためでした。
そのために、イエス・キリストは地上のすべての人々の代弁者として、あの言葉を発したとされているのです。
そして、イエス・キリストのその行いは確かに神様に聞き入れられたのです。
その証拠が、死んで三日後に復活したという伝説です。
イエス・キリストが復活したということは、キリスト教では重く受け止められているようで、復活は、キリスト教において、最初の最も基本的な宣教の内容を形成しており、キリスト教神学の中心的位置を占めているとか。
だからこそ、昔、日本で、キリスト教が迫害された時、殉教を余儀なくされた人々が死を恐れず、寧ろ喜びに満ちた表情を浮かべながら死を受け入れることが出来たそうです。

つまり、映画「最後の誘惑」でのイエス・キリストとマグダラのマリアの性行為とは地上のすべての人々の極めて人間的な欲望を現したものだったのです。
と同時に、それはイエス・キリスト自身の極めて人間的な願いでもあったのかも知れません。
男性として生まれていながら、女性も知らずに童貞のまま一生を終えて、それで後悔しないのか?
愛する人と廻り合い、か弱い女性を自分の力で守り、幸せな家庭を築いて、子供にも恵まれるというごく普通のありふれた生き方をイエス・キリストも望んだことはあったのでは?

しかし、それでは宗教にはならないですよね?

一度はごく平凡な人生を望んだイエス・キリストはユダの悲痛な叫びに、目を覚ますのです。

宗教心を篤くするには人生でもっとも大切な命を神に捧げ、復活することが必要なのだと。

そうして、地上のすべての人々の罪や穢れを一身に引き受け、十字架に磔にされて、死後、三日目に復活を遂げたイエス・キリストは信仰の対象となる神の子、救世主として、永遠に人々の胸に生き続けることになったのではないでしょうか。




ドラマ人間模様「夢千代日記」私の旅

2017-05-17 18:45:46 | 映画・テレビ
もう過ぎてしまったけれど、ゴールデンウィークに何をしたいか望みが叶うとしたら、旅に出たいなと思っていました。
急行列車に乗り、知らない土地をあちこち巡ってみたい。

だけど、どうして、私は電車に乗ってみたいと思ったのだろう。

もしかしたら、昔、愛知県に住んでいた頃、よく鉄道を利用して、あちこち遊びに行っていたからかも知れない。
その時の思い出で、いまだに忘れられないのは、西尾駅から、名鉄電車に乗って、豊橋駅まで行き、そこから、国鉄に乗り換えて、富士山を見に行った時でした。

浜松の辺りに来ると、海が電車の窓いっぱいに見えて、視界が開けて、とても気持ちよかった。
そして、そこから見える灯台にも感激したものでした。

富士山も、もちろん感動したけれど、ずっと内陸で育った私には、広々とした海を見るのは格別の感動があったのです。
名古屋に行くときにも、よく電車に乗りましたが、もっとも印象に残っているのは帰りの夜の電車内です。
ガタンゴトン、ガタンゴトン、揺れたり、時折り、鳴る警笛の音や踏み切りのチリンチリンと鳴る音が近づいては、あっという間に通り過ぎる瞬間とか。
そして、車内にいる人々の姿。
会話している人の聞き慣れない方言にも興味深いものがありました。
そうして、ガラスに映る見知らぬ乗客や、自分の姿に、何か不思議なものを見ているような気がして、仕方ありませんでした。

まるで、それは童話の銀河鉄道に乗り、現実を越えて、果てしなく遠いところに向かってるような錯覚を私に起こさせてくれたのです。

この電車は、私をどんな旅へ連れてってくれるのだろう・・・

そういえば、私はもう何年も旅好きの女性のブログを読んでいます。
彼女が旅をするきっかけは、恋に破れたのが始まりでした。

私の旅は、傷心旅行からはじまった・・・

彼女はそのあとも何度も恋をしましたが、なぜか結ばれることはありませんでした。
そういうことが続いたのち、いつしか、彼女は一人で生きようと思うようになりました。
ところが、一年ほど前、ある人の熱心な勧めで、一人の男性と付き合うようになったのです。
彼女は初めのうちは、気が進まなかったみたいですが、自分を愛してくれるならと、男性に次第に心を寄せるようになっていきました。
しかし、ある出来事を境に、彼女の中に疑念が生じ、やがて、二人は喧嘩が絶えなくなってしまいました。

それでも、なお二人はやり直したい気持ちがあったみたいですが、会えば必ず喧嘩になってしまうので、お互い、とうとう別れる決心がついたそうです。

彼女は彼と別れたあと、それまでやめていた一人旅を再び始めることにしたようです。

これからは彼と二人で旅するので淋しくないと、ブログに書いていたこともあったのですが。

彼女はこれから、どこに旅に出るのでしょう?

彼女の旅に終着点はあるのでしょうか?


そんなことを考えていたら、昔、NHKで放送されたドラマ人間模様の「夢千代日記」が、ふと思い出されてきたのです。

このドラマは、主人公、夢千代(吉永小百合)を乗せた電車が、山陰の山あいの線路を走り、餘部(あまるべ)鉄橋を渡る場面から始まります。
夢千代は、戦争中、広島で原爆の放射能を浴びた母親から生まれ、白血病を患い、もう何年も生きられない体なのです。
夢千代はその電車内で、川崎から殺人事件の容疑者を追ってきた山根刑事(林隆三)と乗り合わせ、そこから物語は始まるのです。

夢千代は、芸者の置屋「はる屋」の女将で、金魚(秋吉久美子)、菊奴(樹木希林)、雀(大信田礼子)、千代春(楠トシエ)らの芸者を抱えているのですが、みな夢破れて、この山あいの町にたどり着いたのです。
そして、殺人を犯した市駒も、夢千代のはる屋で芸者をしていたのでした。
このドラマは、殺人事件を起こした市駒の行方を追ってきた山根刑事と、夢千代をめぐる人々の生き様を描きながら、物語が展開していくのです。

このドラマに登場する女性は誰も多くを望んで幸せになりたかった訳ではないのです。

ほんのささやかな幸せでよかった。

だけど、夢千代のように、生まれながらに病におかされ、明日をも知れない命もある。

市駒のように、愛し合っていた人が、何かのはずみで、道を誤り、取り返しのつかないことになってしまうことだってあるのです。

そして、この私自身、あの時、別の選択をすれば、今よりもっと幸せになれたかも知れない。
だけど、あの時はそれが最善の選択に思えたのです。

今さら言ってもどうしようもないけれど、あの時はごめんなさい。


私は、あなたにああ言われた時、どうすればいいか、自分でもわからなかったんです・・・

これから、私はどうすればいいのか・・・

もしかしたら・・・もしかしたら、それはこのドラマが導いてくれてるのかも知れない・・・

夢千代のもとに来た金魚は自殺未遂を起こしたあと、生きる気力を得ようと、幼女を自分の子として育てることにしましたし、時子は貧しい生活に加え、足を患っていながらも、小夢という名で、芸者として道を歩む決心をしましたから。


幸せ はみなひと色だけど、不幸は一つ一つちがった色をしているそうです。


そうした人達を道連れに、夢千代は明日をも知れぬ命を、少しでもより良く生きようと決心するのです。

そんな夢千代の暮らすはる屋に、優しく包み込むように雪が降り、このドラマは幕を閉じるのです・・・

生きるとは、宛のない旅に似てるのかも知れない。


私がずっと読んでいるブログの旅好きの女性も、恋に破れたあと、若かった頃の夢の実現に向けて動き出そうとしています。

みな、心に傷を負いながらも、何とか生きていこうとしているようです。


私はこれから、どこへ行くべきか・・・












































テレビドラマ「大草原の小さな家」

2017-05-04 14:52:11 | 映画・テレビ

前回前々回と、二回に渡って神様のお話をちょっとだけしたら、宗教について、もっと書きたくなってしまいました。
でも、正直いって、私はこれまで、決して宗教に熱心とは言えない人生を送ってきました。
悩みや苦しみに苛まれたとしても、宗教に頼るんじゃなく、もっと合理的に解決する方法があるのではないかと、ずっと考えてきたからです。
しかし、人間と動物を分けるものは、宗教を信じているか否かだとかという説を聞いたことがありますし、キリスト教や仏教やイスラム教が、遥か昔に生まれ、いまだに信者が沢山いることに思いを馳せる時、宗教はとても大切なものかも知れないなと思ったりもします。
しかし、その一方で、とくに新興宗教を信じている人に、洗脳されたという事例が、世間を騒がせることも、多々ありますよね。
そう考えると、一概に宗教は、人を幸福にするものだとは言えないような気がしてきます。
では、私たちは宗教とどう向き合えばいいのでしょう?
理想的な宗教を取り入れた生き方とはどんなものでしょう?
そんなことを、あれこれ考えていたら、「大草原の小さな家」の第2シーズンに収録された「思い出」というエピソードを、ふと思い出したのです。
このドラマは、私の子供の頃に放送されていたのですが、なぜかあまり観た記憶がありませんでした。
しかし、最近、このドラマを観て、その理由が分かった気がしてきたのです。
このドラマは19世紀末のアメリカの開拓時代を舞台に、親子五人のインガルス家の様子を描いているのですが、次女のローラの同級生に、ネリーと、その弟のウィリーという意地悪な姉弟が出てくるのです。
それに、その母親も風変わりな人で、インガルス家のお父さんやお母さんを悪く言ったり、とても意地悪なんです。
だから、そうした意地悪な人たちを見るのが嫌だったから、子供の頃は観なかったんだろうなと思います。(苦笑)
でも、今回、観てみたら、どうして、意地悪な人が出ていたのか理解出来たのです。

つまり、このドラマは、いろいろある人生の悩みの中でも最重要と思える人間関係に絞って、人との付き合い方を教えてくれていたのです。
また、その解決方法が少女の心に寄り添っていて、無理なく感動出来てしまうところがすごいと思いました。
だから、ネリーとウィリーはローラ達インガルス家の悪口をこれでもか、これでもかと連発していたのですね。
例えば、ローラの目が悪くなり、眼鏡をかけた姿を見たネリーが、「眼鏡はおかしい」と言ってはやし立て、その一例に学校の眼鏡をかけた女先生が、今も独身なのは眼鏡のせいだと決めつけるのです。
それに、動揺したローラは両親に眼鏡をなくしたと嘘をついて、眼鏡をしなくなるのですが、ある日、その女先生のフィアンセが学校にやって来て、ローラはこっそり、二人がキスするところを目撃しちゃうんです。
それで、ローラは普段は真面目で優しい先生のキスシーンを見て、一瞬で元気になっちゃうんです。
眼鏡をしてても、人に好かれるんだってね。
これは、どんな言葉よりも、効果的だなと思いました。
私だって、普段、真面目で優しい学校の先生がキスするところを見たら、メチャメチャ得した気分になり、嬉しいに決まってますからね♪


それでは、「思い出」のお話に入りたいと思います。
このお話はインガルス家と仲のよい女性が、3人の子供を残して亡くなり、よその家に引き取られるまでを扱っています。
この女性が、敬虔なクリスチャンで、医者から、余命宣告を告げられたとき、子供達に「お母さんはもうすぐお前達のもとを離れて、お父さんのところに行くことになったの。天国に行くのよ」と打ち明けるのです。
当然、子供達は泣きますが、女性は「泣くようなことじゃないでしょ?お母さんは天国で生きているのよ。いつかは誰でも、この世から消えるの。神様の選択に逆らうことは出来ないわ。男の子なら、泣かずに母さんの力になって。」と諫めるのです。
自分が死ぬのは神様の思し召しだと信じて、運命を受け入れようとするのです。
だけど、この女性の悩みは子供達の行く末でした。
そこで、子供達の引き取り手を探すべく、まず、教会で訳を話すのですが、子供達の面倒を見るには憐れみや同情ではできないことで、強い愛情がなければならないという固い信念を持っているのです。
しかし、それから、まもなく女性は亡くなり、それ以後、かねてから約束していたチャールズが、子供達の引き取り手を探すのです。
ところが、現れたのは、農作業の手伝いをさせるためにと、男の子だけを欲しがったり、或いは女の子だけが欲しいという老婦人だけなのです。
子供達の幸せを思えば、みな一緒に引き取ってもらうのが一番だと考えるチャールズはどうしても子供達を引き離すのに躊躇してしまうのです。

しかし、チャールズの理想に叶った人は誰も現れず、ついに子供達は感謝祭が終わるのを待って、バラバラに貰われていきそうになるのです。
子供達はチャールズが誠心誠意込めて、自分達のことを考えてくれていたことをよく知っていたので、素直にその通りにしようとします。
そして、一番上の兄が、「最後のお別れだから、兄弟皆で、ちょっと話していいですか?」と断って、三人集まり、妹に「大丈夫だよ。心配しないで。」と勇気づけてあげるのです。
それに、こっくりうなずく妹でしたが、いざ、引き取り手の老婦人が「さあ」と手を差しのべると、一瞬、たじろぐのです。
このあと、どうなったか?
それは、チャールズの親友が、この様を見て、引き取ることに決めるのです。
そして、以前から付き合っていた彼女に「俺は今まで、家族を持つことを恐れていた。だけど、そんな弱虫じゃダメじゃないかと、今、はっきり気づいたんだ。結婚して、この子達を、俺たちの手で育てよう」と力強く言い放つのです。
もちろん、彼女の答えはOKでした。

この世で大切なものは、神様を信じることと、愛情と、常に感謝の気持ちを忘れないことだと、このお話で強く思わずにはいられませんでした。