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奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

テレビアニメ「機動戦士Zガンダム」戦争の意味と闘争本能

2017-11-15 07:58:14 | 映画・テレビ

さて、今回はガンダム・シリーズ2作目のテレビアニメ「機動戦士Zガンダム」について、お話します。
 実は、ガンダムの1作目を観るのはかなりの忍耐を必要としました。
 どうしてでしょう?
 特撮ヒーローものの「ウルトラマン」シリーズなら、よく観ていたけど、「ガンダム」はアニメだから?
 でも、「マジンガーZ」はわりと観ていたのです。
 その理由はまず、戦闘シーンの多さにあるように思いました。
 だって、「ウルトラマン」の場合、3分経ったら、胸のカラータイマーがピイピコ光って、それまでに怪獣との戦いを終わらせなければならないでしょう?
 だから、戦闘シーンは3分間だけ我慢すればいいんです。
 「マジンガーZ」の場合は、原作者の永井豪さんがギャグマンガを描いていただけあり、お笑いの要素が随所に散りばめてあって、それで何とか観ることが出来たような気がします。
 ところが、「機動戦士ガンダム」は戦闘シーンが多いうえに、お笑いの要素も極端に少ないのです。
 たぶん、3人のチビっ子がお笑い担当役だと思いますが、それほど面白いとは思えないのです。(苦笑)
だけど、その戦闘シーンを詳しく描写しているところが、男性の闘争本能を著しく刺激するのかも知れないですね。
 それに、ガンダムはそれまでの勧善懲悪ものと違って、一概にどちらが正しいとは言えず、ちょっと難解なんです。
 だから、ガンダムはストーリーそのものより、キャラクター商品であるガンプラのファンが圧倒的に多いと指摘してる人もいるみたいです。

 それを裏付けるように、ガンプラは日本のプラモデル史上最大のヒット作で、1980年7月の販売開始から2015年3月末時点までの約35年間で累計4億4500万個を出荷し、近年は世界中で販売されるほど、大人気を博しているのだとか。
 確かに、男の子はプラモデルが好きみたいですよね?
 歴史を紐解くと、巨大ロボットの先駆けとなった「鉄人28号」が、昭和35年にテレビドラマ化された時も今井科学から発売されているようです。

 この鉄人は、ぶっとい足に電池が入っていて、ムギ球で両目をランランと光らせながら、体を左右に揺らし、前進することが出来たそうです。
 ただし、リモコンで動かすことはできなかったとか。
 このプラモデルの鉄人を作る時、当時の少年たちは天才科学者の気分になれたと言いますから、よほど人気があったのでしょうね。
 ちなみに、このプラモデルのお値段は380円だったそうです。
 それと、鉄人つながりで言いますと、このガンダムにはニュータイプを研究するムラサメ研究所というところが出てきますし、フォー・ムラサメという女性が登場するのですが、「鉄人28号」に、村雨竜作というギャング団のボスが登場するらしいのです。
これは、ただの偶然ではなく、何か関連があるんじゃないでしょうか?
何しろ、1作目でも、鉄人28号が出てきましたから、十分有り得ると思います。
実は、この村雨という男は、横山光輝作品の常連らしくて、色んな作品に登場してるみたいなのです。
よほど、横山光輝さんは村雨という名前にこだわりを持っていたのではないでしょうか?
そこで考えられるのは江戸時代に書かれた「南総里見八犬伝」の妖刀村雨丸です。
闘争本能を追求し続けた横山光輝作品の原点は妖刀村雨丸にあったと私には思えてなりませんし、だからこそ、「ガンダム」も「鉄人28号」の村雨竜作や妖刀村雨丸に因んだネーミングを採用した気がしてならないのです。

 あと、熱心なガンダム・ファンの人によると、このアニメは思春期の少年に向けて制作されたもので、あらゆる世代の男女が観ても受け入れられるようには作られてないみたいなことも話していました。
 そう言われれば、そうかも知れません。
 今の私みたいに、大人の女性向けに、ガンダムを作るはずがないですものね?

 だけど、興味を引く部分もいくつかあったんです。
 その一つが、シャア・アズナブルです。
 シャアは、主人公、アムロと敵対するジオン軍の幹部なのですが、私は彼にとてもセクシャルなものを感じずにはいられなかったんです。
 とくに、「坊やだからさ」という時のシャルル・アズナヴールの姿には思わず、シビレずにはいられませんでした。(真っ赤)
 それで、続編の「機動戦士ガンダムZ」も観てみる気になったのです。
 このテレビアニメ版は1作目から数えて6年後に制作され、設定もそれだけの時間が経過したことになっていました。
 しかし、この2作目には驚いたことがいくつかありました。
 まず、主人公がアムロ・レイから、カミーユ・ビダンに移り、シャア・アズナブルが味方につき、物分りのいい青年になっていたことです。
 私が、シャア・アズナブルに魅力を感じていたのは心の暗い影の部分だったのですが。
 あと、この2作目はオープニング曲やエンディング曲を女性が歌っているのをはじめ、 登場人物にも女性が大勢いるのも目を引きました。
 しかも、なぜか、女性がモビルスーツに乗り込んで戦っているのです。
 スポーツで戦うのならいざしらず、どんな理由であれ、相手を殺すことを、平気でやる女性って、滅多にいませんし、私はそんな好戦的な女性とお友達になりたいとは思わないですけど。(苦笑)
 だけど、このアニメが制作された1985年といえば、労働者が性別により差別されることなく、能力を遺憾なく発揮出来るよう、男女雇用機会均等法が制定された年ですから、それを受けて、女性も男性と一緒に戦うようにしたのかも知れないですね。

 とは言え、富野由悠季監督は、何を狙って、これらを設定にしたのでしょう?
 そのなかでも、一番、気になるのは主人公のカミーユ・ビダンです。
 カミーユって、まだヒヨッコのくせに、大人を小バカにするところがあって、ついカチンと来ちゃうんです。(苦笑)
 そして、とんでもないことに、すぐ暴力に訴えるんですもん。
 あの私の大好きなシャア・アズナブルやアムロ・レイにさえも、ちょっと頭にきたくらいで、すぐに殴っちゃうんですよ!
 これは、主人公として、どうかと思います。(苦笑)
 まあ、その代わり、カミーユもほかの人によく殴られるんですが。
 ところが、調べてみると、そのヒントはカミーユという名前にあることが分かってきました。
 初め、「カミーユって、女みたいな名前だな」と言われ、ケンカになるシーンがあるのですが、実際にカミーユ・クローデルという女性のモデルがいるらしいのです。

 この人は、まだ女性が社会的に認められていない19世紀のパリで、彫刻家のロダンに師事したそうです。しかし、優れた素質を持ちながらも、世間からはロダンの愛人としか見られず、屈辱感に苛まれながら、終生を精神病院で過ごしたとか。
 なぜ、この女性の名前からヒントを得て、カミーユ・ビダンという主人公を作ったのか、レーザー・ディスク版の「機動戦士Zガンダム」のブックレットのインタビューで、富野由悠季監督はこう話しています。
 「クローデルとロダンの関係というのは、愛人関係でありながら、じつはロダンの半分くらいの作品を彼女が作ってたんじゃないかという。でも、世間的には、クローデルの作品もロダンが作ったと見なされて、失意の中で彼女は精神をやられる。注(最終回で、カミーユ・ビダンが精神をやられるのは、クローデルに影響されてのことだそうです)反対にロダンという人はそのおかげで美術史に残っていったわけ。でも一人の人間として考えると、ロダンが自分ひとりで、成立していったかといえば、決してそうではない。クローデルみたいな人もいたんじゃないか。と同じようにガンダムだけで、「ガンダム」が出来るわけではない。要するに「表現される人と物との関係」を、クローデルとロダンの関係は象徴的に表しているサンプルだったんです。」

 そして、「Z」を作っていた頃に感じたのは、カミーユみたいな少年が多くなって、オジサンにとってそれは好ましい現象に思えなかったと、富野由悠季監督は言っています。
 でも、風俗で変わるものは、長い目で見ると大した問題じゃないとも。
 では、なぜ、風俗かと言うと、ロダンの時代だったら鬱病になって、それが高進して病院に入れられる人も少なからずいただろうけれども、今の時代は価値観や生活様式が多様になったことで、かつて異端視されていたものが、TOKYOという状況の中では風俗として受け入れられているという意味らしいです。

 こうやって、富野由悠季監督の言葉を聞けば、「機動戦士ガンダム」って、なかなか深いですよねえ。
 でも、私はロダンとカミーユ・クローデルで、川端康成所蔵のロダン作と言われる「女の手」も浮かんできたのです。

 それは、川端康成作の短編小説「片腕」の感想を書く時にネットで見つけたのですが、あの手のモデルは、カミーユ・クローデルだったのかも知れませんね?

 それと、「機動戦士ガンダム」シリーズで気になっていたのは、去年、ネットで読んだキャラクターデザインを手掛けた安彦良和氏の言葉です。
 2作目以降の「ガンダム」は、戦いのための戦いになっていて、作り始めた時の構想から、かなりズレてきていると発言していたのです。
 では、最初の構想とは、何だったのでしょうか?
 それは、第1作目と第2作目のナレーションに如実に反映されているように思います。
 
 第1作目のナレーション

 宇宙世紀0079年、地球から、もっとも遠い宇宙都市サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。
 この一ヶ月あまりの戦いで、ジオン公国と連邦軍は
総人口の半分を死に至らしめた。
 人々はみずからの行為に恐怖した。

 第2作目の次回予告のナレーション

 君は刻(とき)の涙を見る


 そして、「機動戦士Zガンダム」では、多くの若者が敵になったり、味方になったりしますが、その姿を通して、戦いとは何なのか考えたくなるように誘導されているように思います。
 例えば、第1作では、アムロ・レイの敵だったシャア・アズナブルがクアトロ大尉と名を変え、味方になっていますし、フォーは記憶をなくしたまま、カミーユと仲良くなりますが、実はティターンズの手先だったり、レコア・ロンドは味方から、敵側にまわるのです。
 その例はほかにも、いくつもあります。
 
 でも、この「機動戦士ガンダム」の戦闘シーンに、闘争本能を刺激される男の子が沢山いるように、人類の歴史は戦争を繰り返してきた歴史でもあるわけです。
 しかし、19世紀までの戦争はまだ戦う者同士で、やっていたから、武士道精神や騎士道精神が生きていたという見方もあるみたいなのです。
 それを大きく変えたのが、20世紀の科学技術の進歩で、それにより、大量殺戮が可能になり、女子供や老人、あるいは病人の別なく、皆殺し出来るようになったのが、それまでの高貴な武士道精神や騎士道精神を失わせたというのです。
この「機動戦士Zガンダム」では、ティターンズが反連邦集会を行っていたサイド1の30バンチコロニーに対して、住民を虐殺するため、毒ガスを使用する場面が出てくるのですが、そこで私はイギリスの元首相ウインストン・チャーチルが、第1次世界大戦を振り返って、1923年に著した「世界の危機」の文章が思い出されたのです。
  
 戦争から、きらめきと魔術的な美がついに奪い取られてしまった。
 アレキサンダーやシーザーやナポレオンが兵士たちと共に危険を分かち合い、馬で戦場を駆けめぐり、帝国の運命を決する。
 それはもう遠い過去になってしまった。
 これからの英雄は安全で静かで、もの憂い事務室にいて、書記官たちに取り囲まれて座るのだ。
 一方、何千という兵士たちが電話一本で機械の力によって殺され、息の根をとめられる。
 これから先に起こる戦争は女性や子供や一般市民全体を殺すことになるだろう。
 やがて、それぞれの国には大規模で限界のない一度発動されたら制御不可能となるような破壊のためのシステムを生み出すことになる。
 人類ははじめて自分たちを絶滅させることが出来る道具を手に入れた。
 これこそが、人類の栄光と苦労のすべてが最後に到達した運命である。
 
 
 「機動戦士Zガンダム」の毒ガスによる大量虐殺も、これを現しているのではないでしょうか?
 そして、戦闘中のカミーユに、こんなセリフがあるのも印象的です。

 「なんで、そんなに簡単に人を殺すんだよ!死んでしまえ!!」と叫んで、敵のモビルスーツに剣を突き刺して殺すのです。

 このセリフは、平和のためには、人を殺していいのかという問いかけをしているように思えます。 
 


 「機動戦士Zガンダム」は女性がモビルスーツに乗って戦うなど、異論を挟みたくなるところもありましたが、戦争の意味や闘争本能を考えるうえでは良質のアニメだと思いました。

テレビアニメ「機動戦士ガンダム」なぜ、若者なのか

2017-11-03 20:41:54 | 映画・テレビ

 テレビアニメ「機動戦士ガンダム」は、ロボットアニメの中で、もっとも有名な作品で

すが、私は、これまで一度も観たことはありませんでした。
 それに、「機動戦士ガンダム」を知らないからと言って、今まで困ったことは一度もあ

りませんでしたし、これからの人生も乗り切れると、固く信じていたのです。
 ところが、このアニメが大好きだという男性との出会いで、私の人生がガラリと変わっ

てしまったのです。
 そこで、今回、意を決して、このアニメを観てみることにしました。
 まず、私が興味を持ったのは、このアニメのどこに若者が惹きつけられたかという点で

した。
 これだけ人気があるからには強烈なオリジナリティと普遍的な何かを兼ね備えているに

違いないと思ったからです。
 その点に注意しながら観ていると、まず、主要な登場人物がみな十代か二十歳そこそこ

の若者だということに気づきました。
 しかも、このアニメでは年齢を重ねたキャラクターほど、頑迷で、融通がきかなく、人

間的な欲望に支配され、とても尊敬に値いするキャラクターは誰一人登場しないのです。
 その姿勢は、かなり徹底していて、ハヤトが瀕死の重症を負った時でさえ、十代の若者

が手当をし、経験豊富な年配者の医師を排除しているのです。 

  あの~、富野由悠季さんてさ、自分や愛する人が瀕死の状態になった時、経験豊富な

名医を否定して、本当に十代の経験の浅い若者に命を任せる気でいるの?

 また、アムロの父親は優秀な科学者だったにも関わらず、年老いた時、サイドシックス

のジャンク屋に身を寄せ、古ぼけた機械をアムロに持たせて、これなら、ジオン軍をやっ

けられると時代錯誤とも取れることを言ったり、母親は母親で、何が何でも戦ってはいけ

ないと、まるで、アムロの死を望んでいるかのようなことを平気で口走るのです。 
 それは、あたかも人は年齢を重ねると、みな愚かな生き物に堕落してしまうと取れなく

もありません。
 一体、人の命や地球の運命の鍵をにぎっているのが、みな若い人達でないとい

けない理由はどこにあるのでしょう?

 そこで、いろいろ調べた結果、原作者の富野由悠季その人の人生と深く関わっているこ

とが何となく分かってきました。
 この人は、手塚治虫先生の虫プロで、「鉄腕アトム」の演出をしたのを皮切りに、様々

な名作アニメに関わり、どこに行っても毛嫌いされ、相当な軋轢を経験し、そのたびに、

闘志を燃え上がらせていたようなのです。
 たとえば、「宇宙戦艦ヤマト」では、プロデューサーの西崎義展に、ストーリーに手を

加えたばかりに激怒され、「ヤマトをつぶしてやる」と復讐を誓い、「未来少年コナン」

では、コンテをすべて宮﨑駿監督に手直しされ、コナンをつぶすのを目標にしたのだとか


 だから、ガンダムで、年配の人ほど、愚かで、融通がきかないタイプのキャラクターが

多いのはそういう背景があったからではないでしょうか。
 しかし、その一方で、私は、このアニメのありように、明治維新を成し遂げた幕末の志

士と重なる部分を感じないでもないのです。
 その志士たちの多くは、二十代の若さで、それまでの先人の築き上げた歴史を否定して

、新たな歴史を構築していったからです。
 そこには、これからの時代は自分たちのものだという強い確信がみなぎっていたに違い

ありません。
 しかし、このアニメの主人公アムロは決して、強い意志を持って、敵と戦っている訳で

はないところが、これまでのヒーローものと大きく違っている点です。
 たとえば、自分だけが食事で優遇されることに、後ろめたさを感じたり、母親の「人に

鉄砲を向けるとは、なんて情けない子供だろう」という言葉に動揺したり、ジオン軍の脱

走兵ドアンとの出会いで、戦いの無意味さを感じたりするのです。
 
 つまり、アムロは極めて人間的で、謙虚な16歳の少年なのです。
 謙虚といえば、巨大ロボットものの元祖「鉄人28号」を登場させているところにも現れ

ているように思います。
 これは、知る人ぞ知る大変、貴重なショットらしいです。

これを拡大したのが、こちらです。


「機動戦士ガンダム」、それはあえて言うなら、「巨人の星」の星飛雄馬に極めて近い

ものがあります。
 実際、アムロの声は、星飛雄馬と同じ古谷敏さんが担当し、ミライは飛雄馬の姉、明子

と同じ白石冬美さんが声優をやっています。
 これは、決して、偶然ではないはずです。
 だから、ガンダムが好きな人は、幕末の志士を小説にした司馬遼太郎さんや、「巨人の

星」が好きに違いないのです。
 
 しかし、富野由悠季さんも安彦良和さんも「ガンダム」以後、それを超えるヒット作を

作ることは出来ませんでした。
 「ガンダム」に続編があるのは、優れた作品なのもありますが、結局、これを超えるも

のが作れなかったので、スポンサーが安定した視聴率の取れる「ガンダム」を要求したの

が大きかったからだそうです。
 それに何と言っても、年を取るほど堕落してしまう人間を「ガンダム」で描いてしまっ

た以上、その年令にふさわしいものが作れないのも無理はないのかもしれませんね。

 そういう意味でも、シャアの有名な「坊やだからさ」は、けだし名言に違いありません




 なんだか、ずいぶん、辛辣なこと、書いちゃって、「ガンダム」ファンには申し訳ない

です。
 でも、第2弾も書く予定ですので、これに懲りずにお読みいただけたら幸いです♪






テレビアニメ「マジンガーZ」ロボット・アニメの魅力♪

2017-10-25 16:40:45 | 映画・テレビ
最近、「ミラーマン」「仮面ライダー」「ウルトラセブン」と、子供のヒーロー番組のお話をしてきましたが、アニメではロボットものが人気があるようです。
 そのなかでも、「機動戦士ガンダム」は1970年代後半に誕生し、現在に至るまで圧倒的な支持を得ているみたいです。
 ところが、このアニメは私が十代の頃に始まったものの、これまで、ちゃんと観たことはただの一回もなかったのです。
 断片的なエピソードや登場人物だけなら少しは知っていますが、殆ど知らないに等しいのです。
 でも、私が親しくさせていただいている人に、「ガンダム」が好きな人がいて、事あるごとに私にも観てほしいみたいなことを言ってくるのです。
 今日も、ちらっとシャルル・アズナヴールのことを囁いていました。(笑)
 そこで、あまりにも熱心に私をかき口説いてるものですから、一つその手に乗って、「ガンダム」を観てみようと思ったのです。
 だけど、いきなり、まったく観たことのないものを観るより、私がこれまで、一番、よく観ていたロボット・アニメ「マジンガーZ」からロボットものの魅力に迫りたくなったのです。
 つまり、ある程度、ロボットやヒーローものの勉強をしてから、ガンダムを観た方がより楽しめるのではと思ったのです。
 実は、調べてみると、ロボットものはそれまでのヒーローものと、一線を画しているらしいのです。
 そこで、子供たちに愛された懐かしのヒーローものから考えてみることにしました。
 まず、テレビのヒーロー番組の元祖といえば、「月光仮面」です。

 はっ!
 私としたことが間違えちゃいました!!
 こっちが本物の月光仮面です!!!
 
 
 ♪どこの誰かは知らないけれど、どこの誰もが知っている 月光仮面のおじさんは・・・
 
 知らない人は、今でもいない超有名な主題歌ですが、驚いたことに月光仮面は超人でもなけばロボットでもなく、ごく普通の人という設定だったとか。
 普通の人と言ったら、「まぼろし探偵」もそうだったようです。

 キャッ!
 私ったら、またやっちゃった!!(真っ赤)

 ここに写ってる女の子は十代の頃の吉永小百合さんです。
 つまり、ヒーローはごく普通の人から始まり、そこから、だんだん、普通の人以外の者を求めるようになったようです。
 そこで超能力者の登場です。
 
 超能力者のヒーローの元祖といったら、七色仮面です♪

 特殊能力といったら、忍者を主人公にしたものもありました。
 「仮面の忍者赤影」です♪

 ここまでは、地球のために活躍する訳ですから、みんな、地球人だったのですが、そこに宇宙という概念を持ち込み、あらたなヒーローになった者が出てきました。
 それが、ウルトラマンです。

 遠いM78星雲からやって来て、わざわざ地球人のために、怪獣と戦ってくれる訳ですから、なんて親切な宇宙人なんだろうって思いますね。
 だけど、広大無辺な宇宙へのロマンを感じさせてくれて、そこがウルトラマン達ウルトラ兄弟の魅力ではないでしょうか。
 ところが、ここまでのヒーローはみな自分の意志で、悪と戦うわけですが、自分の意志を持たない者もヒーローとして登場し、少年たちに大人気となってしまうのです。
 それが、ロボットなのです。

 なかには「鉄腕アトム」みたいに電子頭脳という意志を持ったロボットものも作られ、それなりに人気を得ていたようですが、子供たちは人間が自由に操れる巨大ロボットに次第に惹かれるようになっていったのです。
 どうやら、子供たちにウケるロボットは巨大でなくちゃいけないみたいです。
 だから、もし鉄人28号が、アリとかミジンコみたいに、ちっちゃかったらウケなかったかも知れません。
 それはさておき、人間が操るロボットに、なぜ、子供たちが魅力を感じるのか、その理由が「巨大ロボット読本」という本に、「鉄腕アトム」と「鉄人28号」を例に書いてありますので、ご紹介しますね。

 昔、「少年」という漫画雑誌があり、ダントツの人気を誇っていた。
 理由は「鉄腕アトム」と「鉄人28号」という超人気ロボット漫画2本が同時連載されていたからだ。
 ちっちゃくて自分の意志を持ったよい子のアトムと、でっかくてリモコン次第で悪い奴の言うことだって聞いちゃう恐い鉄人。対極のロボットが人気を二分していたわけだが、われら空想科学研究所のメンバーは、本音を言うと鉄人ファンだった。
 「本音を言うと」と、何やら後ろめたそうに小声で言わなければならないのは、当時、いくらガキだったからといって、道徳的なアトムより、悪の破壊王・鉄人の方が好きだったなんて、やっぱり声を大にして言いにくかったのである。
 それに、何より意志を持ったアトムとは友達になれるかもしれないが、リモコン次第の鉄人はこっちのめちゃくちゃな命令にだって従ってくれる頼もしい僕(しもべ)なのだ。
 この差は大きい。
 男の子というものは、自分を鎧う武器を求める。それがナイフであったり拳銃であったり、自分の肉体を鍛えることだったりする。
 女の子は自分を守ってくれる頼もしい男を求めるが、男の子は物心がついたときから、自分の身は自分で守らなきゃいけないと刷り込まれているのだ。
 しかし誰もが強いわけじゃないし、まして子どもは体が小さい。いきおい、その差を武器に求めるのだ。もちろん、心の中では卑怯だとわかっているが、この防衛本能はどうしようもない。男の哀しい性である。
 鉄人28号は、とにかくでかくて丈夫で強い。マシンガンだって、戦車だってかなわない。その鉄人が小学生の正太郎君のいうがままになるのである。
 あのリモコンさえ手に入れば自分だって強くなれる!世界征服だって夢じゃない!!こんな妄想を抱きながら鉄人をこっそり支持していた少年たちが多かったはずである。
 それが証拠に、鉄人以降、巨大ロボット漫画が雨後のたけのこのごとく生まれ、少年たちの負の願望を満たし続けたのである。
 そんな願望がエスカレートし、より、いうことを聞きやすいように、少年が巨大ロボットに乗り込むスタイルに変えたのが「マジンガーZ」である。リモコン操縦から、運転に進化したといっていい。巨大ロボットは正義のためという旗印の下、破壊を繰り返し、少年たちのカタルシスを満足させたのである。

 なるほど、よいこのアトムに反して、操縦するロボットに人気が集まったのは、こういう訳だったのですね。
 
 そこで史上初めて、ロボットに乗り込み、敵と戦うアイディアをアニメにした「マジンガーZ」に敬意を表して観てみることにしました。
 と言うか、私自身、子供の頃、このアニメはよく観てましたので、その理由を思い出したかったというのもありました。

 この「マジンガーZ」は、まず、アニソン界のアニキこと水木一郎さんが歌う「♪空にそびえるクロガネの城 スーパーロボット マジンガーZ~」っていう主題歌がいいですよね。
 私も名曲だと思います♪
 この主題歌を聴いてから、本編を観たら、だんだん、当時のことが蘇ってきました。
 「マジンガーZ」には兜甲児が乗り込むマジンガーZのほかに、弓さやかという女の子が乗り込む女性型戦闘用ロボット・アフロダイAが登場していたのです。
 「巨大ロボット読本」によりますと、人間サイズの女性型ロボットは数多く存在しているらしいです。
 例えば、アトムの妹ウランちゃん、ペンギン村のアラレちゃん、映画では、私もブログに書いた「メトロポリス」のマリアなど。
 しかし、女性型の巨大ロボットは「マジンガーZ」にしか登場していないのだそうです。
 それで、私は数あるロボット・アニメの中で、「マジンガーZ」だけはよく観てたのですね!
 でも、それだけじゃなかったのです。
 このアニメには、半身は男で、残りの半身は女の奇っ怪な姿をしたあしゅら男爵という悪役が出ていたんです! 
 
 つまり、男でもなければ女でもないと同時に、そのどちらでもあるんです。
 その姿の訳は、あしゅら男爵のボス、Dr.ヘルが古代ミケーネ人の夫婦のミイラを組合せてサイボーグ化したからだとか。
 このあしゅら男爵、アニメでは半分しか体が見えていない時は、それぞれ男や女の声だけを発し、両方の姿が見えてる時は、男と女の両方の声を発していて、私はこのどっちつかずのキャラクターが気になって気になってしょうがなかったのです。(苦笑)
 でも、もしかしたら、男性と女性、両方の姿をしていることで、それぞれの醜い部分を現していたのかもしれないなと思いました。

 こうして、子供の頃以来、久しぶりに「マジンガーZ」を観ましたが、絵のセンスが抜群ですし、また、ただ戦うだけじゃなく、ボスボロットに代表されるように、ギャグもふんだんに散りばめてあって、今観ても、わりと楽しめちゃいました。 
  
 そして、ガンダムを観るために、ヒーローものやロボットものを調べてみたら、なんだか、すごく勉強した気になりました。

 これで、ガンダムを観る準備が整いましたが、その前に「けっこう仮面」や「まぼろしパンティ」、そして「マジンガーZ」と永井豪作品が出てきましたので、私が子供の頃、好きだった永井豪のある漫画のお話もしてみたくなっちゃいました。
 だから、その漫画のお話のあとに、ガンダムを観てみようと思います。


 それにしても、あしゅら男爵、気になる・・・


キャッ♪





映画「夏の嵐」ヴィスコンティ

2017-10-20 23:40:41 | 映画・テレビ

こちらはもうすっかり、秋めいて朝晩、肌寒くなっているのですが、この時期、日本列

島に台風が近づいていますね。
 天気予報では、日曜日、こちらにもっとも接近すると伝えています。
 今頃、台風が来るとはちょっと意外でした。
 空の雲も前回の台風が過ぎたあとめっきり積乱雲を見なくなり、秋特有の墨をはいたよ

うな薄い雲しか見なくなっていたので、尚更その感が強いです。
 ちなみに、1951年以降で、もっとも遅かった台風は、1990年(平成2年)の1

1月30日に和歌山県に上陸した台風28号だったとか。
 それで、今回は台風に因んだお話をしてみたいなと思い、ヴィスコンティの「夏の嵐」

を、初めて観てみることにしました。
 この映画、まず、いきなり、歌劇場のオペラの場面から始まり、なんて、ゴージャスな

映画なんだろうと圧倒されてしまいました。
 上演していたのはヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」というオペラだそうです。
 この映画の舞台はイタリアの水の都ヴェニスで、時代は1866年の春、オーストリア

のヴェニス地方占領の最後の数ヶ月で、イタリアはプロシアと同盟を結び、解放の戦いが

切迫している時期という設定です。
 私は、そこに映し出されるルネッサンス期の絵画を彷彿とさせる美しい映像の連続に、

あたかも絵画から人物が抜け出してきたかのような錯覚を覚えずにはいられませんでした


 しかも、この「夏の嵐」は私がそれまで観た男性が主人公のヴィスコンティ作品と違っ

て、リディア・セルピエーリ伯爵夫人という女性が主人公だったので、ほかのどの作品よ

りも引き込まれてしまいました。 
 それに、ロマンスっぽい展開があり、初めはちょっと、ワクワクして期待しながら観て

いたのです。
 ところが、美しい映像とはうらはらに、だんだん、イタリア人であるリディアが夫のあ

る身でありながら、占領軍のオーストリア軍の中尉フランツ・マーラーと怪しい仲になり

、その辺りから、私はヴィスコンティの映像美を楽しみたい気持ちから、どうなるんだろ

うと、ハラハラするようになってしまったのです。
 リディア、なぜ、あなたはフランツと不倫してるの?
 夫に気がとがめたりしないの?
 それとも、何か不満でもあるの?
 もし不満があったとしても、それを口実に不倫していいという理由にはならないんじゃ

ない?
 それに、あなたはフランツに恋してるみたいだけど、フランツは本当にあなたを愛して

くれてるの?

 私は、リディアがフランツに騙されて、もて遊ばされてる気がしてならなかったのです


 というのも、フランツはリディアに「仮病を使って、除隊して。ね?お願い。私、あな

たが死んだら、どうしていいかわからないもの。言うこと聞いて。」と言われた時、医者

に偽の診断書を書いてもらうために多額の費用がいると言ったり、除隊後の生活費が必要

だと言って、法外な現金をリディアに要求し、従兄弟のロベルトから預かった2千フロリ

ンという大金を渡したりするのですから。

 もし、夫やロベルトが、リディアの裏切りを知ったら、とんでもないことになるに違い

ありません。

 リディア、フランツなんか、ほっといて、すぐに別れるの!
 そうでなきゃ、あなたも周りもみんな不幸になっちゃうのよ!

 でも、私の願いもむなしく、リディアはフランツから来た手紙に書いてあったサント・

ステファノ通り149番地の彼の潜伏先に危険を犯して行ってみるのです。
 フランツの顔を見たリディアは涙を流さんばかりに喜び、愛をフランツに求めるのです


 ところが、フランツはそんなリディアに、「なんで、来たんだ」と、そっけない態度を

とり、あとからクララという若い女性が別の部屋から姿を見せるのです。
 そして、フランツはリディアを、最初から愛してなどなく、ただ遊ぶお金がほしいばか

りに騙したんだと嘲笑しながら告白するのです。


 だから、私はフランツを信じちゃいけないって思ってたのに・・・

 でも、落ち着いて考えると、フランツの話にも一理ある気がしてきたのです。
 というのも、フランツが戦争に行って、命を落とすかもしれないと思ったリディアは仮

病を使って、軍隊を除隊させてもらいなさい言った時、フランツは「祖国や仲間の兵隊を

裏切り、僕に卑怯者になれと言うのか?」とはっきり、リディアに問い正していたのです


 だけど、リディアはフランツなくしては生きられないと思い、卑怯者になる道を選ばせ

てしまったのです。
 フランツは、「君がぼくについて考えたことは夢だし、創作だ。本当の僕ではない」と

断ったうえで、「自分は脱走兵で、臆病なんだ」と自嘲しながら打ち明けるのです。
 フランツは確かに、言葉巧みにリディアに近寄り、大金を巻き上げたかもしれませんが

、もとはと言えば、仮病を使って、軍隊を除隊するようフランツに涙ながらに訴え、大金

を渡してしまったリディアにも責任があるのではないでしょうか?
 そして、リディアの言葉通りに、仮病を使って、除隊したフランツは身を隠していた時

、絶えず祖国や仲間を裏切った卑怯者という良心の呵責に苛まれ続けたのかも知れない。
 そうして、フランツはその苦しみから逃れようと酒と女に溺れる日々を送るようになり

、自分に対する絶望から、リディアを侮辱し、嘲笑したのではという疑念が湧いてきたの

です。
 そう考えた私は、愛の使い道を間違えると、こういう悲劇を生むこともあるんだろうな

と、一概にフランツばかりを責めるのはどうかなと思わざるを得ませんでした。
 
 だから、そのあと、リディアが取った行動は、非や責任をフランツにだけ押し付けて、

自分に対しての反省が感じられず、行き過ぎのように思えなくもなかったです。
 でも、リディアは信じていたフランツに裏切られた思いで、精神に破綻をきたしてしま

ったのかもしれないなとも思いました。


 私は「夏の嵐」を観て、まず、初めにオペラの場面に圧倒され、絵画が動いてるような

映像美の連続に感嘆していたのですが、やがて、そこで繰り広げられる人間のエゴや弱さ

や醜さの描写を見て、私はふと日本の小津安二郎監督のエピソードを思い出してしまいま

した。
 小津安二郎監督の場合は自分が醜いと思うものは一切、登場させず、ひたすら美しいも

のだけを追い求めていたと書かれた文章を読んだことがあるからです。
 だけど、ヴィスコンティも小津安二郎もともに偉大な映画監督として、その業績が認め

られ、今も世界中で観る人の感動を呼び続けているのは、あなたもご存知の通りです。

 私は、自分自身の美意識を追い求めながらも、異なる手法で人生の深遠に到達した二人

の偉大な映画監督に、つくづく映画って深いなと思わずにはいられませんでした。


 
 

平成版「ウルトラセブン」その後のアンヌ隊員とフルハシ隊員♪

2017-10-18 23:24:37 | 映画・テレビ

今月10月1日は、「ウルトラセブン」が放送されて、ちょうど50周年だったそうです


 そこで、主役のモロボシ・ダンを演じた森次晃嗣さんやアンヌ隊員役のひし美ゆり子さ

んを始めとした当時の出演者やスタッフさん、そして大勢のファンの方々が集まって、盛

大なイベントがあったようです。
 私も、今年は放送開始50周年ということで、6月に「ウルトラセブン」を観て、ブロ

グに書いたこともありました。
 ですから、今回も何か、書かなくちゃなと思っていまして、前々から気になっていた平

成版の「ウルトラセブン」を観てみることにしました。
 私が観たかった主な理由はモロボシ・ダン役の森次晃嗣さんとアンヌ隊員役のひし美ゆ

り子さんのほかに、フルハシ隊員役の毒蝮三太夫さんがご出演されていると知ったからで

す。
 実は私が「ウルトラセブン」の中で一番好きだったのはモロボシ・ダンで、二番めは毒

蝮三太夫さんが演じたフルハシ隊員だったのです。


 まず、なぜ、モロボシ・ダンが好きだったのかと言うと、美形で、安心感があって、信

頼出来ると思ってたからです。
 それは、今年「ウルトラセブン」を観た時も、やはり、そう感じたんです。
 実際、「ウルトラセブン」を制作すると決まった時、モロボシ・ダン役は、子供たちの

ヒーローであることから、第一に目がきれいな人でなければならないというのが、絶対条

件だったらしいです。
 それで、森次晃嗣さんを選考するとき、満場一致で決定し、誰も異論を挟む人はいなか

ったとか。
 今見ても、森次晃嗣さんはきれいな目をしてますよね。
 
世俗の垢に汚されずに、きれいな目を保ち続けている森次晃嗣さんは、本当に素晴らし

い人だなと思います。
 だったら、なぜ、私は二番めに当時、石井伊吉という芸名を使っていた毒蝮三太夫さん

が好きだったのか、ちょっと不思議に思うでしょう?
 それはね、この私自身、不思議だったんです。(苦笑)
 数ヶ月前に「ウルトラセブン」を観た時は、キリヤマ隊長(中山昭二さん)、ヤマオカ

長官(藤田進さん)、タケナカ参謀(佐原健二さん)、ウルトラマンのスーツアクターを

つとめたアマギ隊員らも素敵だなと思ったのですが。
 でも、今考えると、そうした人達はみな美形のタイプですよね?
 だから、美形で言えば、私はモロボシ・ダンが一番好きだったので、同じタイプの人は

子供の私の眼に入らなかったのかも知れません。
 ところが、フルハシ隊員の場合は、とても美形とは言いがたく、私の美意識とまったく

、かけ離れていたので、かえって内面の魅力がストレートに伝わったからじゃないかなっ

て気がしてるんです。(笑)
 そんな訳で、子供の頃はフルハシ隊員の姿を見つけると、モロボシ・ダン同様すごく嬉

しかったんです。
 あの~、くれぐれも勘違いしないで下さいね。
 私、フルハシ隊員のこと、好きだって書いてるんであって、決してけなしてる訳じゃな

いですから。(苦笑)
 そういえば、アンヌ隊員を演じたひし美ゆり子さんも、毒蝮三太夫さんが好きだったみ

たいで、撮影が終わったあと、よく一緒にお酒を飲みに行ってらしたそうです。
 それを知ったほかの出演者で、「俺のほうが断然、いい男のはずなのに、なんで、いつ

もフルハシ隊員なんだ?」って、やっかんだ人もいたとか。
 そのエピソードは、「アンヌからの手紙」にも書いてありますが、毒蝮三太夫さんは女

性が大好きで、雰囲気作りが非常にお上手だった何よりのエピソードのように思われます


 そして、私は毒蝮三太夫さんを大人になってから、やっぱり、素敵な人だったんだなと

、あらためて思ったことがあったんです。  
 もうかなり前になりますが、テレビのワイドショーを観てたら、毒蝮三太夫さんが、ラジオ番組で、お年寄り相手に毒舌で、大人気だと紹介していたんです。
 なんでも、毒蝮三太夫さんの毒舌に、お年寄りは怒るどころか、笑い転げて、元

気になっちゃうんだとか。
 実際、その様子をテレビで映していたのですが、お年寄りはみな大笑い

して、曲がってた腰がシャンとなるくらい、若返ったように見えました。

 その様子を見て、私は毒蝮三太夫さんて、すごいなあと心底思わずにはいられませんで

した。
 毒舌を言って、怒られるどころか、大笑いさせて、元気になり、感謝されちゃうんですもん


 これは、なかなか出来ることではありませんよね。

 そういうことも、私は知ってましたので、なおさら毒蝮三太夫さんが平成に入ってから

演じたフルハシ隊長を見てみたかったのです。
 そこで、「太陽エネルギー作戦」から観たのですが、まず、真っ先に登場したのは、モ

ロボシ・ダンでもなければ、フルハシ隊員でもなく、何と我らがアンヌ隊員だったのです



 これはアンヌ隊員が「ウルトラセブン」にとって、重要なキャラクターだという証しで

もありますし、彼女が出ると、画面がパッと華やかになりますので、「ウルトラセブン」

の開幕を告げるのに、これほど絶好のキャラクターはいないということで、誰よりも早く

登場したのでしょうね♪
 そのアンヌ隊員は、「太陽エネルギー作戦」では、ウルトラ警備隊を退き、一児の母親

になっていました。  
 私はアンヌ隊員が、我が子の名前を呼ぶ場面で、早くも涙ぐんでしまいました。
 だって、その男の子は「ダン」という名前だったんですから。
 きっと、アンヌ隊員は、モロボシ・ダンと別れたあとも、彼のことが忘れられず、生ま

れてきた男の子に「ダン」と名付けたんですよね。(涙)

 だから、私はハンカチじゃ足りないくらい最初っから、ワンワン泣いてしまいました。

 ところで、フルハシ隊長ですが、そう、フルハシ隊員はあれから、ウルトラ警備隊の隊

長になっていたんです!

 でも、涙もろくて、情に厚い性格や風貌に加え、ちょっと荒っぽい台詞を聞いたら、「隊長」よ

り、「親方」とか「大将」と呼びたい気がしないでもなかったです。(苦笑)
 でもですね、フルハシ隊員、「平成ウルトラセブン」で、隊長として出てきたかと思っ

たら、あれは4作目だったかしら?すぐに参謀に昇格したんです!
 昭和の「ウルトラセブン」で佐原健二さんが演じたタケナカ参謀は、この作品では長官

として登場していて、お元気なお姿を拝見出来たのも嬉しかったです。
 そういえば、「太陽エネルギー作戦」には、ほかにも懐かしい人が沢山、出てらっしゃ

いました。
 「ウルトラマン」の出演者のハヤタ隊員役の黒部進さん、フジ・アキコ隊員役の桜井浩

子さん、イデ隊員役の二瓶正也さんなどです。
 でも、肝心のモロボシ・ダンは出てなくて、代わりに森次晃嗣さんはナレーターを務め

ていました。
 モロボシ・ダンが登場したのは第2作めの「地球星人の大地」からで、運動して体を鍛

えてらっしゃるのか、すごくがっしりした体つきで、上半身裸の場面もあって、思わずド

キドキしちゃいました。(真っ赤)
 そういえば、ガッツ星人やエレキング、メトロン星人、キングジョーなど、敵役にも懐

かしい顔ぶれが揃ってましたし、主題歌やBGMも昭和の「ウルトラセブン」のものを、そ

のまま使用していて、平成の「ウルトラセブン」をすんなり観ることが出来ました。

 そういう訳で、平成に制作された「ウルトラセブン」を全部で11本、(そのうちテレ

ビスペシャル2本、ウルトラセブン30周年記念3部作、1999年最終章6部作)を観

たのですが、総括しますと、初めのうちは環境問題がクローズアップされ、自然エネルギ

ーとしての太陽に光を当てる姿勢が鮮明に打ち出された非常にメッセージ性の強いものを

感じました。
 特撮について言えば、制作開始当時の1994年は、バブル崩壊直後の平成不況下にあ

り、昭和の「ウルトラセブン」と比較すると、怪獣と戦う場面が建物も何もない山奥ばか

りで、ちょっと物足りない感じがしないでもありませんでした。
 ところが、1999年最終章6部作の第1作め「ウルトラセブン栄光と伝説」はその当

時最新の特撮技術を駆使し、怪獣が都会で大暴れして、いくら特撮にお金かけたんだろう

?って思うくらい破壊の限りを尽くしていて、それまでの溜飲が一気に下がって、すごく

すっきりすることが出来ました♪
 もしかしたら、この爽快な気持を味あわせるために、それまでの作品で、あえてお金を

かけなかったかもなと思わないでもありませんでした。(笑)
 また、1999年最終章6部作から、主題歌を佐々木功さんが歌うようになり、「ウル

トラセブンのバラード」というエンディング曲も付け加えられ、昭和の「ウルトラセブン

」を彷彿とさせるSF色が強い作品になり、それまでのウルトラセブンにばかり固執するの

でなく、優れた面を踏襲しつつも、新たなウルトラセブンを創造しようという意欲が感じ

られて、私は、このシリーズが一番、面白く感じました。例えば、「空飛ぶ大鉄塊」では

20年前に書かれた物語のロボットが現実に現れますし、「約束の果て」は昔話の浦島太

郎をモチーフにしています。
 でも、それは1994年の「太陽エネルギー作戦」あればこそですから、初めから順に

観たほうが絶対いいです♪
 そして、私が平成の「ウルトラセブン」をいいなと思った理由に、30周年記念3部作

の「失われた記憶」のモロボシ・ダンのセリフがあります。
 
 「私たちの存在を証明するのは積み重ねられた記憶の一つ一つ。
 
 そこには楽しい記憶ばかりでなく、辛い記憶、悲しい記憶もあるかもしれません。

 それでも人はそんな記憶とともに生きていくのでしょう。

 また、新たな記憶を求めて・・・」

 
 それに、佐々木功さんが歌うエンディング曲の歌詞も心に響きます。

 ♪いつの日か 光射して 生きる喜び満ちるまで

 熱い思い 胸に抱き 明日の夢に生きよう


 
 ね?
 私たちは生きている限り、辛いことや悲しいこと、またどんなに苦しいことがあっても

、少しづつでもいいから前に進まなくちゃいけないんです。
 あの頃はよかったなと、くよくよ過去ばかり振り返ってばかりでは、決して幸せが訪れ

るはずはないですから。 
 

 あの、もう少しで、この記事、終わりにしたいのですけど、最後にもう一つだけ書かせ

て下さい!

 実は、1999年最終章の1作めの「ウルトラセブン 栄光と伝説」で、フルハシ参謀

は亡くなってしまうんですが、最後の6作めで奇跡が起きちゃうんです!

 まさか、まさかの展開!
 最後の締めくくりに、フルハシ参謀が!!

 私は、その場面にモロボシ・ダンとフルハシ参謀の熱い男同士の友情を見た思いで、子

供の頃、モロボシ・ダンとともに、フルハシ隊員が好きだった私の目に狂いはなかったと

感激でいっぱいになっちゃったのでした♪



 これにて、オシマイ♪♪♪



映画「山猫」ヴィスコンティ

2017-10-14 14:54:32 | 映画・テレビ

前回、今度はヴィスコンティの「ルートヴィヒ」が観たいなと書きましたが、考えをあ

らためまして、同監督の「山猫」にしました。
 理由は二つあります。
 一つは今年5月に誕生した京都市動物園のツシマヤマネコが、今月から一般公開され、

押すな押すなの大盛況だと知ったからです。
 そして、そのツシマヤマネコの人気は京都市動物園だけにとどまらず、今や全国的に山

猫フィーバーに湧いているのは、皆さまご存知の通りです。
  これが、ツシマヤマネコのお写真です。

 山猫って、その名前のワイルドなイメージと違って、思いのほか可愛いでしょう?
ここまで、ツシマヤマネコが人気になったのは絶滅危惧種に認定され、世界で35匹し

か生存が確認されてないからだそうです。
 京都市動物園では、去年も2匹ツシマヤマネコが生まれたそうですが、すぐに死んでし

まい、いわば京都市動物園にとって、ツシマヤマネコの繁殖と成長は悲願でもあった訳で

す。
 ですから、全国的にツシマヤマネコに注目が集まっている今がヴィスコンティの「山猫

」を観るのにふさわしいように思われたのです♪

 2つめは、この映画にフランスの俳優アラン・ドロンが出演していると知ったからです


 アラン・ドロンは、私がちっちゃかった頃、大人の女性の間で、人気ナンバーワンだっ

たのです。
 しかも、一般の女性ばかりか、女性の芸能人にもアラン・ドロンのファンが沢山いたの

です。
 たとえば、歌手の太田裕美さんは「赤いハイヒール」という歌で「♪アラン・ドロンと

ぼくを比べて陽気に笑う君が好きだよ」と歌っていました。
 また、榊原郁恵さんは「アル・パシーノ+アラン・ドロン<あなた」というタイトルの

歌で、当時、女性に大人気だった二大スターより、私の彼氏がもっと素敵だと歌っていま

した。
 だから、世の女性たちは榊原郁恵さんがどんな男性と結婚するのか注目していたんです


 ところが、そのお相手を知って、みなびっくりしちゃったのです。


 榊原郁恵さんの結婚相手で、私は初めて「恋は盲目」という言葉を覚えました。(苦笑


 ところで、最近、この人、テレビ番組のナレーションで、よく声を聞くようになったん

です。
 プロのナレーターの方はこの人のナレーションをどう思ってらっしゃるのでしょうね?
 というのも、私自身はこの人のナレーションは聞きづらく感じるのです。
 もちろん、これはあくまでも私個人の感想ですから、すべての人が私と同じように感じ

るとは思わないのですが。
 確かに、この人のナレーションは安定感のある喋り方なんですけど、なんだか、どうだ、いいだろう?いいだろう?と囁かれてる気がして、もうちょっと抑えて喋って、私に考える余裕を下さいって思っちゃうんです。
 どうしてでしょうか?
 そういえば、不倫相手がご自分のパンティをかぶった写真が流出して話題になったタレ

ントの斉藤由貴さんの朗読を、以前、聞いたことがあるのですが、その時も、聞きづらく

感じたんです。
 その登場人物が置かれた状況などを説明する文章を読んでいる時はそうでもないのです

が、台詞の部分だけ、声の調子が高くなり、映画やドラマなどで、俳優さんが喋っている

ように、その人物になりきって喋っているんです。
 それが、台詞以外の文章を読んでる時と、どうも調子が合わなくて聞きづらく感じてし

まうのです。
 もしかしたら、俳優をしていることが関係あるのでしょうか?
 聞きづらいといえば、NHKの「新・激動の世紀」のナレーションを勤めた男性もそうで

した。
 確かに、声に透明感があり、滑舌がよくて、一見、聞き取りやすいナレーションではあ

ったのですが、どう考えても国際情勢や戦争にまつわる歴史に認識力が足りない人が喋っ

ているようにしか聞こえなかったのです。
 調べてみたら、その人も俳優さんでした。
 前回の「激動の世紀」でナレーションをした山根基世さんが良かっただけに、その差は

歴然としていました。
 俳優さんは体全体を使って演技をするのを仕事にしてますから、声だけのお仕事は難し

いのでしょうか?
 そう思っていたところ、先日、「中井貴一のサラメシ」というテレビ番組を観ていたら

、この声、本当に中井貴一さんなの?って思えるくらい、二枚目俳優としてのイメージを

かなぐり捨てて喋っておられて、これはなかなかお上手だなと心から感心してしまいまし

た。
 だから、俳優さんがナレーションに向かないというのは一概に言えないんだなと感じた

次第でした。
 
 あ、どうしましょう!

 どうして、当時、女性に大人気だったアラン・ドロンから、こんなお話になってしまっ

たのかしら?(苦笑)
 だけど、当の私自身はアラン・ドロンがなぜ、そんなにモテるのか、当時はちっちゃ過

ぎて分からなかったのです。
 まず、どうして日本の男性を差し置いて、外人さんなのかが分かりませんでした。
 それと、子供の頃の私にはアラン・ドロンが顔つきが悪く見えて、恐い感じがしていた

のです。
 ちなみに、私が初めて好きになった外人さんは映画「小さな恋のメロディ」に出演して

いたマーク・レスターというイギリスの俳優さんです。
 
 ね?
 全然、怖い感じはしなくて、可愛く見えるでしょう?
 だから、子供の頃の私には、アラン・ドロンの良さが、さっぱり分からなかったの

です。
 でも、もしかしたら、今ならその良さが分かるかもしれない。
 この2つが、ヴィスコンティの「山猫」を観たくなった理由でした。(笑)

 それでは、前振りはこのくらいにして、本題に入らさせていただきます♪
 この映画の山猫は、サリナ公爵の紋章を意味していて、イタリアの貴族を扱っています

ので、私は貴族そのものに興味を持っちゃいました。
 何しろ、今の日本に貴族という階級はありませんからね。
 貴族は、お金持ちや会社の社長さんとか政治家とも違いますよね?
 貴いという漢字が入ってるくらいですから、裕福な財産のほかに、高貴で気品を持った

聡明な人というイメージが、私にはあります。
 そして、様式を重んじる。
 そんなところでしょうか?
 しかし、この映画の主人公サリナ公爵(バート・ランカスター)を見た当初、私のイメ

ージと違ってたのです。
 神父をダシにして、娼婦館に女を買いに行ったり、それを神父に見咎められて、「告解

なさい」という言葉に、「妻はことの前に十字を切り、神の許しを請う 7人も子を作っ

たのに妻のヘソさえ見ていない」と言う場面があるのです。
 それに、アラン・ドロン演じる甥のタンクレディと、村長カロジェロの娘アンジェリカ

(クラウディア・カルディナーレ)の縁談に躍起になり、教会のオルガン弾きチッチョを

「お前を銃器室に監禁する。」と言ったり、チッチョの胸ぐらをつかむ場面まであるので

すから、性欲旺盛で、デリカシーに欠けて、乱暴で粗野な人というイメージしか湧かなか

ったのです。
 だけど、そのイメージは見ているうちに覆されてきたのです。
 
 そのすべての始まりは1860年、ガリバルティが、イタリア統一と、退廃した貴族社

会からの自由を目指して、動乱を起こした出来事にあったのです。
 つまり、それまでの体制が一変して、サリナ公爵は貴族としての地位や財産に対する不

安が生じ、瀬戸際の時期にあったのです。
  それは、新政府の役人ジュザレに上院議員の推薦を断る時のサリナ公爵のセリフにも

現れています。

 「私は旧体制と結ばれた支配階級の人間だ。私は二つの世界にまたがっている。幻想さ

え抱いていない。我らは力尽き、疲れ果てた。永遠の眠りを求めている。我らの行為は死

への欲求なのだ。肉欲も忘却への願望。快楽に満ちた怠惰な時間は肉欲の静止を味わうた

め。
 つまり、死だ。
 シチリア人は向上を望んでいない。彼らは誇りを捨てるより、貧しさを選びます。

 そして、ジュザレが去る時、サリナ公爵は誰に言うともなく、こう呟くのです。
 「山猫と獅子は退き、ジャッカルと羊の時代が来る。
 そして、山猫も獅子もジャッカルも羊も、自らを地の塩と信じている」と。
 注(地の塩とは、キリストの教えで、腐敗を防ぐ塩のように、社会や人心の純化の模範

を表す)
 
 このセリフで、サリナ公爵が貴族としての誇りを持っていることや、時代の変化に対応

を見せながらも、対応しきれずにあるがままを受け止めようとしている姿勢や、シチリア

人全体に思いを馳せていることがわかります。

 余生幾ばくもない年齢のサリナ公爵は人生の一大転換の必要性を感じつつ、もう若くな

い自分に気づかざるを得ず、没落するのを静かに受け止めようとしているかのようです。
 
 そして、舞踏会が終わり、サリナ公爵にタンクレディがお礼の言葉を述べながら、次の

選挙に立候補すると告げた時、その若く力強い情熱に打たれ、と同時に自分の老いと自分

の時代が終わったことに気づき、一人よろよろ邸を出るのです。
 そうして、古い朽ち果てた石造りの塔を見上げた後、そのはるか彼方の天に向かって、

十字を切り、「我を守りし星よ。その永遠なる領域へ、いつの日に我を迎えるか」とひざ

まずいて祈りを捧げ、どこへともなく姿を消すのです・・・


 初めはサリナ公爵どうかしら?と思わないでもなかったのですが、彼を取り巻く人間と

のふれあいや出来事を通して、次第に人生の重みや、深い哀感が感じられてきました。

 私はサリナ公爵の姿を見ているうちに、だんだん、胸が締め付けられてくるようで、こ

の映画で最終的にもっとも魅力的な人物となりました。
   
 肝心のアラン・ドロンの印象はと言いますと、私はアラン・ドロンに対して、ちょっと

悪そうなイメージを持っていたのですが、拍子抜けするくらい愛嬌があって、ノリが軽く

、イメージがガラリと変わってしまいました。(笑)
 また、相手役のアンジェリカを演じたクラウディア・カルディナーレはマリリン・モン

ローやブリジット・バルドーと並んで、60年代を代表するセクシー女優だったようです

が、この映画ではそんなイメージは露ほども感じられませんでした。
 この女優さんは、初めタンクレディの話に変な目つきをしたり、品のない笑いをすると

ころが気にならないでもなかったのですが、社交界にデビューした辺りから、ぐんと見違

えるようになりました。

 タンクレディとアンジェリカの場面で印象的だったのは、二人が部屋でキスをしている

時、カブリアギ伯爵に別の部屋から声をかけられ、見つからないように、二人別々に部屋

から部屋へ逃げ込み、いくら呼んでも返事のないタンクレディに不安になったアンジェリ

カの姿が、恋する乙女の揺れる恋心を表現しているようで、ちょっと涙ぐんでしまいまし

た。

 だけど、そのあと、タンクレディに向かって、あなたは強烈なマルサラ酒よと言って、

お熱いキスをしたり、沢山、部屋がある訳をタンクレディが「昔の人たちが、少しだけ掟

を破って、秘密の楽しみを味わったところさ」と言った時、「掟を破って?」と聞き直し

て、ゲラゲラ笑い出すのを見た私は、アンジェリカって背徳の楽しみを知っているなと、

ちょっと?いいえ、大いに見直してしまいました。(苦笑) 


 それにしても、なんて豪華絢爛な映画なんでしょう。
 この映画はそれに尽きると言っても過言ではないでしょう。
 完全主義者のヴィスコンティは、スタジオのセットは一切使わず、オールロケを敢行し

て、調度品や宝飾品などの貴金属もすべて本物にこだわり、この映画を作ったと言います


 そればかりか、舞踏会に集まった貴族たちも本物の貴族たちを使って踊らせたとか。

 そして、この映画を見終わった私は、ネオレアリズモの手法から生まれる圧倒的な現実

味あふれる演出で、没落していくサリナ公爵の姿を追い、時代の変化や世代交代を通して

、人生の哀感を感じさせてくれたヴィスコンティ監督に満腔の敬意を持って、挙手したい

気持ちになりました。
 


 

映画「地獄に堕ちた勇者ども」ヴィスコンティ退廃の美学

2017-10-08 14:30:52 | 映画・テレビ

 私が、この映画を観たいと思ったのは、ヘルムート・バーガーに対する興味からでした


 というのも、私が大好きなマンガ家大島弓子さんに「さよならヘルムート」という、ヘ

ルムート・バーガー似の歯医者さんに恋い焦がれる15歳の少女の作品があるからです。


 大島弓子さんは、美形の男性が好みらしく、以前、私がヴィスコンティの「ベニスに死

す」を観た理由も、「F式蘭丸」に書いてあったアンドレセンが見たかったからでした。



 
 このアンドレセンは、大島弓子さんのお眼鏡に叶ったのも納得の美少年で、私もその悪

魔的な美しさに酔いしれたものでした。
 
 何でも、アンドレセンの美形振りは、世界中の女性を虜にし、「ベニスに死す」公

開以降、行く先々で、引っ張りだこになり、彼はそれが嫌で、以後、隠遁生活を送るよう

になったのだとか。
 ところが、ヘルムート・バーガーは、ヴィスコンティにさらに愛されたみたいで、同性

愛者でもあったヴィスコンティの38歳年下の愛人になったと知り、どんな魅力だったの

か見てみたくなったのです。
 そこで選んだのが、タイトルが妙に気に掛かる「地獄に堕ちた勇者ども」だった訳です

。(苦笑)
 それで、私はどの人がヘルムート・バーガーだろうと目を凝らして観たのですが、初め

のうちは、全然、分からなかったのです。
 だって、大島弓子さんの「さよならヘルムート」で描いたヘルムート・バーガーのモデ

ルの歯医者さんは15歳の息子のいる父親でしたから、まさか、ゾフィーの二十代半ばの

息子役のマーティンだったとは思いもよらなかったのです。
 私のイメージと違って、あまりにも若すぎたってこと!(苦笑)
 それに、ヘルムート・バーガー演じるマーティンは、女装して歌を歌う場面があり、驚

いてしまったのです。

 何でも、それは映画「嘆きの天使」で、主題歌「ローラ」を歌うマレーネ・ディートリ

ッヒを真似したものだったとか。
 でも、これが非常に上手くて、初め、私は、あら?この人、男だろうか、女だろうか?と

気になっていたのですが、だんだん、本物の女性に見えてきたので、これがあのヘルムー

ト・バーガーだったと知った時は、めちゃめちゃびっくりしてしまったのです。
 実際、この映画を観たマレーネ・ディートリッヒから、ヘルムート・バーガーによく真

似てると、感謝の手紙が届いたこともあったとか。
一応、美男子としてのヘルムート・バーガーの写真も載せておきますね。(笑)

これは、素敵♪
 それにしても、一体、ヴィスコンティって、どんな趣味をしてるんでしょう?
 それとも、「地獄に堕ちた勇者ども」という映画にとって、ヘルムート・バーガーの女

装は欠かせないものだったのでしょうか?

 この映画は戦前のドイツの巨大な権勢を誇るエッセンベック製鉄会社が舞台で、ナチス

の台頭により、経営方針の転換を余儀なくされ、当主ヨアヒムの亡き後、経営権を巡って

、一族が醜い争いを繰り広げ、次第に凋落していく様を、退廃の美学とともに重厚に描い

た芸術作品で、「ベニスに死す」「ルートヴィヒ」と並び称される「ドイツ三部作」の一

つに数えられているとか。

 では、なぜ、ヴィスコンティはこの映画を撮ったのでしょう?
 私が観たDVD特典のインタビューで、ヴィスコンティはこう述べています。
 
 この作品を撮ろうと思ったのは、ナチス時代のヨーロッパを、今、撮ることが重要だと

考えられたからだ。本作は、当時のことをよく知らない新しい世代に大きな影響を与える

はずだ。最も大切なことは当時の出来事を批判的に受け止め、人々が、ずっと忘れないこ

とだ。

 それを裏付けるように、「ヴィスコンティ集成」という本に、海野弘氏がこんな文章を

寄せています。
 ヘルムート・バーガーというもっとも美しい獣を中心に据えることによって、ヴィスコ

ンティは「地獄に堕ちた勇者ども」に二重の意味を与えた。ヴィスコンティはこの映画に

おいて、現代史に全面的に直面し、そのタブーを描き出そうとした。そのことは1969

年にやっと可能になってきたのであった。注(1969年は「地獄に堕ちた勇者ども」が

制作された年)ヴィスコンティがかつて訪れた30年代初頭のワイマール・ドイツが突然

、よみがえってくる。30年代にはイギリスのインテリの若者、ジョージ・オーウェルや

スティーブン・スペンダーがモスクワでひかれたように、ヴィスコンティもコミュニズム

の洗礼を受けた。スペイン市民戦争とファシズムへのレジスタンスのうちに、彼は悲惨な

時代をくぐり抜けていった。第2次世界大戦後、彼は「赤い貴族」と呼ばれた。しかし、

60年代には大いなる思想的幻滅が訪れる。ソ連軍はプラハに進駐し、ヴィスコンティは

それに抗議する運動に加わった。コミュニズムの一元論は崩れる。しかし、そのことによ

って、ヴィスコンティははじめて現代史をトータルに見る視点を獲得したのであった。自

明的なナチズムのドイツを現代史の悲劇として描き出すことが可能になったのである。


 ヴィスコンティは60年代後半になって、ようやく、広義な意味での歴史的視点を勝ち

得たので、この映画を作ったことが、この文章で、何となく分かったのですが、私がもっ

とも知りたいヘルムート・バーガーが女装している訳にはあまり触れてないです。(苦笑


 それどころか、ヘルムート・バーガー演じるマーティンは単なる女装趣味の男性ではな

く、幼女を殺害したり、イングリッド・チューリン演じる母親のゾフィーと近親相姦した

りと、まさに悪魔的な青年として描かれていて、私はそれらがヴィスコンティの単なる猟

奇的な変態趣味とは思えず、ナチズムを批判的に扱うこととどう関係あるのか理解出来な

かったのです。
 ところが、この謎を、あの三島由紀夫が解いていたのです。
 それは「久々に傑作といえる映画を見た。生涯忘れがたい映画作品の一つになろう」で

始まる文章で、「これはドイツオペラであり、ワーグナー的巨大とワーグナー的官能性が

、圧倒的に表現されている。ワグネリアンは狂喜するに違いない。」と続きます。
 そして、マーチンの変態趣味については、ヴィスコンティはおそらく、政治的変質と、

性的変質のパラレズムを狙ったとし、こう書いています。
 マーチンの性的変質とそのやるせない胸のときめきは、やがては彼が陥ることになる政

治的変質の兆候であり、暗喩である。ドイツ的世界ではすべてが体系化され、一つ一つの

病的観念は、病的な政治行為と照応する。かつて私は、ドイツには、あらゆる種類のパー

バージョン(管理人注、倒錯・変態・背徳etc)の数に対応する数の哲学的体系が存在す

る。と書いたことがある。しかも性と政治とのこのような対応は、もう一つの、もっと怖

ろしい逆説を秘めている。すなわち、この映画だけを見ても、圧倒的な病的政治学の力の

下で、むしろ人間性は性的変質者によって代表されているのであり、幼女姦のマーチンも

、男色の突撃隊も、その性的変質に於いてはじめて真に人間的であるのに反して、どこか

ら見ても変質のカケラもない金髪の人間獣アシェンバッハ(このヘルムート・グリームと

いう俳優はすばらしい)の冷徹な「健全さ」が、もっとも悪魔的な機能を果して、ナチス

の悪と美と「健康」を代表しているのである。真に怖ろしいものはこちらのあるのだ。

 そういえば、私自身はヘルムート・バーガー演じるマーチンより、ナチス親衛隊のアシ

ェンバッハの悪魔的魅力に取り憑かれそうになったのですが、真に怖ろしいのは三島由紀

夫の言うこちらにあるのですよね。
 だけど、分かっていながら、アシェンバッハに魅力を感じてしまう。
 アシェンバッハの魅力は、女性の弱い面を鋭く突いているように思います。 

 そして、三島由紀夫はこの映画「地獄に堕ちた勇者ども」の本質をこう言い当てていま

す。
 マーチンの母子相姦のシーンもさることながら、大団円のフリードリッヒとソフィーの

結婚式と死のワーグナー的場面のカットの積み重ねには、ふたたび冒頭の悠悠たるタッチ

があらわれ、同じ邸が隈なくハーケンクロイツの旗で飾られて、娼婦やならず者の参列者

の中へ、不気味な死化粧の白面のソフィーが、フリードリッヒと手を携えて階段を下りて

くる。親衛隊となったマーチンが母に対する復讐を完成し、完全な精神的凌辱と死を与え

るこの場面のものものしさ、絶妙の運びののろさ、それ自体みじめに戯画化されていなが

ら、戯画化の絶頂で異様な壮麗さに転化してゆく演出は、へんな言い方だが、非常に「よ

い趣味」なのである。すべてが人間性の冒瀆に飾られたこの終局で、ヴィスコンティは、

序景の、直接的暴力によって瞬時に破壊された悲劇の埋め合わせを企むのだ。それがもう

少しで風刺に堕することなく、あくまで正攻法で堂々と押して、しかも感傷や荘重さや英

雄主義を注意深く排除し、いわば「みじめさの気高さ」とでもいうべきものをにじみ出さ

せ、表情一つ動かさぬマーチンの最後のナチス的敬礼をすら、一つの態度を以て造型する

。・・・こういう「良い趣味」は、この映画のスタイルの基本である。参列の娼婦やなら

ずものの描写の抑え方を見よ。そこには野卑すらが一つの静謐に参与している。 
 

 ただ見ただけではその意味がよくわからないところが、いくつもある映画でしたが、こ

うして三島由紀夫の解説を読むと、この映画の素晴らしさに目を開かせてもらった気がし

てきます。

 あと、俳優さんで、私が気になったのはヨアヒムの姪の役のシャーロット・ランプリン

グです。
 
 全然、無駄のないお肉で、しなやかな体をしていて、一幅の絵画みたいに、この映画に

華を与えていたのが印象的でした。
 
 初めは大島弓子さんのマンガから、ヘルムート・バーガーの魅力を知りたくて観た映画

でしたが、こうしてあれこれ調べたら、死と官能の極限で、変態と退廃の美学を描こうと

したヴィスコンティ映画の魅力をもっと知りたくなってしまいました。


 次は「ルートヴィヒ」を観てみようかな。 

映画「メトロポリス」SF映画の原点にして頂点

2017-10-03 23:44:27 | 映画・テレビ

 あれは10年前くらいだったと思います。
 SF映画「メトロポリス」というDVDを、中古ショップで見つけたのは。
 そのSF映画は、1927年にドイツで制作され、人造人間が登場する100年後の世界を

描いたものでした。
 1927年は、日本で言えば、昭和2年という年で、そんな遠い昔に、どんな未来が描か

れているのか、すごく興味を惹かれてしまいました。
 それで、そのDVDを買い、観てみたのですが、何しろ昭和2年に作られたSF映画ですから、

正直、それほど大きな期待はしていませんでした。
 ところが、その映像を観て、びっくりしちゃったんです!
 そこに映し出されたものは、今見ても、未来っぽく見えましたし、圧倒的な迫力に満ちて

いたのです。
 とくに、超高層ビルをはじめとする街の様子は私たちが描く未来都市そのままと言っても

、決して過言ではなかったのです。
 そして、人造人間が誕生する瞬間の映像も、その時代にどうやって撮影したのか、とても

よく出来ていて、素晴らしいとしか言いようがありませんでした。
 それで、私はとてもいいものを観たなという満足感でいっぱいになりました。

 ところが、それからしばらく経って、レンタル屋さんに行ったら、「メトロポリス」のビ

デオを見つけたのです。
 そのレンタル屋さんは、今はもうなくなっちゃったのですが、よそのお店がDVDを主流にし

たあとも、ビデオが沢山置いてあったのです。
 その「メトロポリス」のビデオを手にとってみたら、驚いたことにカラー版と書いてあり

、しかも、BGMにロック音楽を使用しているらしく、またまた興味を惹かれて、観てみる

ことにしたのです。
 すると、それはカラー版と言っても、画面全体が赤くなったり、黄色くなったりして、本

物のカラー版とはちょっと違っていたのです。
 だけど、ロックンロールのポップな音楽と相俟っていて、これはこれでいいように思えま

した。
 しかし、不思議なことに、このカラー版は私が買ったものより長くて、観たことのない映

像や写真がいくつも插入されていたのです。
 同じ映画なのに、どうしてでしょう?
 そこで調べてみたら、この映画は、もともと2時間半ほどあったそうですが、時代をあま

りにも先取りし過ぎていたのか興行収入がパッとしなくて、1時間半の短縮版にしたそうで

す。
 その結果、元の完全版のフィルムが散逸してしまい、そのカラー版はジョルジオ・モロダ

ーが世界に散らばったフィルムや写真をかき集め、あとから継ぎ足したものだったのです。
 しかし、そのカラー版でもまだ見つかっていないフィルムがあり、完全版には程遠いもの

でした。
 私が観たのは完全版ではなかったのです。
 私はこの映画は映像が素晴らしいとは思っていたのですが、どうしても理解しにくいとこ

ろがあり、その理由をサイレントで、説明も少なく、セリフが字幕でちょっとしか写ってい

なかったからだと思っていたのです。
 
 そして、私はこの映画が、SF映画の原点にして、頂点だと、この時、初めて知ったのです



 やっぱり、この映画は、すごい作品だったんだ!

 でも、ちょっと待って。
 SF映画の原点なのは、その古さから分からないでもないですが、頂点は「2001年宇宙

の旅」では?
 映画評論家や映画監督も、「2001年宇宙の旅」の方を評価してる人が多いみたいだし

、どうして、「メトロポリス」が、SF映画の頂点なんでしょう?
 ところが、「メトロポリス」は人類が記憶に残すべき作品として、2001年にユネスコが世界記憶遺産に承認した初めての映画なのです。
 だから、ある意味、「2001年宇宙の旅」を超えちゃっているのです!

 「メトロポリス」が、SF映画の頂点と言われる訳は、SF映画ならではの設定がいくつも取り入れられているこ

とにあるのだとか。
 まず、1つめは未来を描いたこと。
 2つめに、人造人間が登場すること。
 3つめにマッド・サイエンティスト、つまり、気狂い博士が奇想天外な発明をして、世間

を騒がせちゃうことです。
  わかりやすく言うと、マンガの「鉄腕アトム」の天馬博士、「鉄人28号」の敷島博士

というところかしら♪
 そして、頂点だけあって、その後のSF映画に多大な影響を与えたそうです。
 大都会の外観は、「ブレード・ランナー」、人造人間は「スター・ウォーズ」のC3POなど

、その例は枚挙に暇がないとか♪

 だけど、惜しいことに、この映画はサイレントで、セリフや説明が少なく、そのせいで、

意味が理解しにくく、想像したり、わからないままのところが、私にはいくつもあったので

す。
 なんででしょうねえ。
 でも、分かりにくいから名作と言われてるのかも知れないし・・・ 
 ところが、それからしばらく経ったある日、古本屋さんで、「メトロポリス」の文庫本を

見つけちゃったのです!


 それは、「メトロポリス」の監督フリッツ・ラングの奥さんのテア・フォン・ハルボウが

書いた小説でした。
 この小説は映画版と同時進行の形で、新聞に発表され、その後、単行本として出版された

ものでした。
 この原作版を読んだら、きっと理解しにくかったところも分かるかも知れない。
 そう思いはしたのですが、なぜか、その時は買わなかったのです。
 もしかしたら、「メトロポリス」に対する興味を失いつつあったのかもしれません。
 しかし、そんな私に待ったをかけたのは、ブルーレイの完全復元版の存在でした。
 とうとう、「メトロポリス」の全部のフィルムが発見され、ついに神秘のベールがはがさ

れる時がやってきたのです。

 だけど、それを観ても分からなかったらどうしよう?
 そこで、ネット・オークションで、古本屋さんで見かけた原作本を取り寄せることにし、

先日、ようやく原作本と、ブルーレイの完全復元版の両方を鑑賞してみたのです。
 原作本は文章も素晴らしく、完全復元版でも触れてない部分がいくつも書いてあり、「メ

トロポリス」を初めて、心ゆくまで堪能出来たように思いました。
 そして、原作本ではメトロポリスの冷徹な最高権力者ヨー・フレーデルセンが老いた母親

と、亡き妻ヘルのおかげで改心するところがあり、この作品のテーマが分かりやすく書いて

あったのが、なによりに収穫でした。


 ところで、この「メトロポリス」のテーマは、何なのか気になりますか?
 それは「脳と手の媒介者は心でなくてはならない」です。
 実は、この映画を作った当時、監督のフリッツ・ラングは原作者の妻(後に離婚)テア・
フォン・ハルボウの提示したこのテーマに懐疑的だったらしいです。
 だけど、晩年、フリッツ・ラングは若者に「現在のコンピューターに制御された世界を、どう思っているのか、何が欠けているか?」と尋ねた時、「心が欠けている」と答えた若者が何人もいて、テア・フォン・ハルボウの先見性の素晴らしさを、今更ながら思い知らされたとインタビューで語っています。
 

 また、マンガの神様・手塚治虫も「メトロポリス」に感銘を受けた一人で、アニメ「ミクロイドS」の主題歌には、この映画のテーマが巧みに取り入れられています。

 ♪心を忘れた科学には、幸せ求める夢がない・・・(作詞・阿久悠)
 

 真に偉大な人は、偉大なものを知るとは、この事を指すのでしょうね?

 「メトロポリス」、機会があれば、ぜひ、観ていただきたいです。

  

特撮ヒーロー番組「仮面ライダー響鬼」に女心をくすぐられちゃった私♪

2017-09-30 16:42:57 | 映画・テレビ
  私が、この作品を観ようと思ったのは前回の記事で書いた芦名星という女優さんに興味を持ったからです。
 彼女は「片腕」で、美しいだけではなく、謎めいた雰囲気の役柄を、見事に演じきっていたのです。
 そこで、彼女が出演したほかの作品も観たくなり、彼女が悪役を演じた「仮面ライダー響鬼」にしようと決めたのです。
 彼女があれほど素晴らしい雰囲気を持った女優さんになれたのと、過去に悪役をしていたのとは、決して、無縁ではないと私には思えたのです。
 だけど、「仮面ライダー響鬼」で、彼女はどんな悪役を演じていたのでしょう。
 悪役といえば、私はまず、不敵な笑い声が浮かびます。
 だいたい、どんな悪役でも、必ずと言っていいほど、不敵な笑い声をあげますからね。
 
 「ウフフ」
 これだと、悪役としての迫力に欠けちゃうかも?


 「ギャッハッハッハ」
 う~ん、これだと悪役っぽいけど、女性にしては下品な気が?


 だったら、これは?
 「ホーッホッホッホッホッ」
 あ、これ、いい線いってるかも♪

 
 そういったことを念頭に置いて「仮面ライダー響鬼」を観てみることにしました。

 すると、登場するや、早速、仮面ライダー響鬼と戦い始めたのです。

 正義の味方と戦うわけですから、細身で、体のキレが抜群です!
 そうするうち、どんどん仮面ライダー響鬼を追い詰めていきます。
 もしかしたら、彼女、仮面ライダー響鬼をやっつけちゃうんじゃない?
 一瞬、そう思った私でしたが、さすがに仮面ライダー響鬼は強く、彼女はもう一人の仲間とともに倒されてしまいました。
 だけど、不死身なのか、死んだと思ったら、何度も生き返って、仮面ライダー響鬼と戦っていました。 

 ところで、肝心の不敵な笑い声ですが、予想に反して、彼女は笑い声一つあげてなかったのです。
 それどころか、能面みたいに無表情だし、セリフもめちゃめちゃ少なくて、それによって、得体の知れない不気味さを醸し出そうとしているようでした。
 まあ、確かにそういう悪役だっていていいですよね。
 悪役は必ず、不敵な笑い声をあげなければならないという決まりはないですから。
 でも、考えてみたら、不敵な笑い声は一瞬で、悪役だとわかりますが、無表情で、セリフが少ないと、ちょっと悪役だと分かりづらいですから、高等テクニックの部類に入るのかも知れません。
 また、悪役を演じるのはそれだけでも難しいと言いますから、この頃から、芦名星さんは演技に秀でていたのでしょうね。

 また、違った役柄の芦名星さんを見て、とっても得した気分になりました♪
 
 とまあ、芦名星さんのことばかり書きましたが、実は「仮面ライダー響鬼」を観て、ほかにすごく気になるキャラがいたのです。

 それは、主人公の仮面ライダー響鬼に変身するヒビキです。
 そのヒビキの役を、細川茂樹さんが演じているのですが、たんなるかっこいいだけじゃなく、どちらかと言えば三枚目っぽく演じているんです。(笑)

 だって、すぐに風邪引いて、くしゃみはするし、車の運転も苦手だし、女性にペコペコするし、どう見たって、特撮ヒーローっぽくない!
 だけど、決めるところは、ちゃんと決めて、かっこいいんです。
 
 私、こういうタイプに弱いかも?
 女心をくすぐられちゃうわ。
 もう、ず~っと見ていたいくらい♪

 しかも、特撮ヒーロー番組みたいな作りじゃなく、普通のドラマを観てるみたいなんです。 
 
 そう思った時、ふとかなり前に特撮ヒーローものに、夢中になる母親がいると話題になったことを思い出しちゃったんです。
 当時、それを知った私は、仮にも人の親たる大人の女性が非現実的な子供向けの特撮ヒーローに憧れることってあるんだろうか、不思議だったんです。  
 でも、その訳を細川茂樹さん演じる仮面ライダー響鬼に変身するヒビキを見て、納得したんです。
 
 それに、この作品は子供もですが、お母さんもターゲットにしているように思うんです。
 というのは、仮面ライダー響鬼を演じた細川茂樹さんが、当時、33歳で、歴代仮面ライダーの中で、最年長だったことです。
 普通、特撮ヒーローは若い新人俳優が演じることが多いそうですが、33歳という年齢は「仮面ライダー」を観ている子供の母親の年齢に極めて近いのです。
 しかも、細川茂樹さんは、当時、大河ドラマにも出演するほど、演技力も抜群で、そのうえ、爽やかな好青年みたいな雰囲気を持ってますから、男を見る目のあるお母さんをも満足させるに十分だったはずなんです。
 それに、脇役の女性も親近感を持てそうなキャラの人ばかりですし。

 
 
 そのほか、気づいたのは下條アトムさんという名俳優が出演してたり、主題歌を、あの「君は薔薇より美しい」の布施明さんが歌っていることです。
 エンディングテーマの「少年よ」は燃えたぎる男の闘志を感じさせてくれて、すごくいい歌なんです。
  
 これは、はっきり言って、子供にだけ見せるのはもったいないです!
 
 この作品は、特撮ヒーローものというより、素敵な主人公によるコメディタッチなアクションものと言った方が合ってるかも?

 正直言うと、この私が特撮ヒーローに胸キュンすることはないとタカをくくってたんですけど、この「仮面ライダー響鬼」にだけは、めちゃめちゃ女心をくすぐられてしまいました。
 たかが、子供向けの作品とは、あなどれない。 


 あまりの質の高さに、もう、びっくりしちゃいました。(苦笑)


テレビドラマ「妖しき文豪怪談・片腕」川端康成

2017-09-27 00:28:05 | 映画・テレビ
 先日、専門学校を受験する息子のために、主人と一緒に宮崎市内にある宮崎天満宮にお

参りし、合格祈願とお守りを買いに行ってきました。
 そして、そのあと、県庁近くの「宮崎物産館」に行ってきました。
  そこには、意外にも宮崎を舞台にした川端康成の小説「たまゆら」に因んだお菓子の

サブレが置いてありました。


 このお菓子のパッケージには「曲玉がふれ合うかすかな響きをイメージした上品で繊細

なお菓子でございます」と書いてあり、蓋をあけると「たまゆら」の文章の一節とともに

、NHKの朝の連続テレビ小説となり、宮崎の新婚旅行ブームに一層拍車をかけたと紹介し

てあります。

 今では、そんなテレビドラマがあったことを知る人は、この宮崎でも少ないと思うので

すが、それにまつわるお菓子が今もあることに私は驚いてしまいました。
 そのサブレを、私は迷わず買って、家に帰って食べたのですが、口溶けがよく、ほのか

な甘さが口いっぱいに広がり、とても美味しかったです。
 宮崎物産館で、そうした宮崎の名産品を、お世話になっている人や、息子に送ろうと、

いろいろ買った時、まだ朝の10時で、時間はたっぷりありました。
 そこで、海岸通りの道を通って、あちこち寄り道して、都井岬までドライブに行くこと

にしました。
 都井岬は、川端康成が「たまゆら」を書く時、取材で訪れたところでもあります。

 まず、ちょっと小腹が空いたので、岩切峠にある道の駅で、日向夏のソフトクリームを

二人して食べ、お昼は南郷町で、鰹炙り重を食べることにしました。
 ところが、鰹炙り重は、お目当てのお店に行ってみると、あいにく月曜日はお休みで閉

まっていました。
 それで、「道の駅なんごう」でも食べられるかもと思い、急遽、そちらへ向かったので

すが、残念ながら置いてなく、二人とも海の幸が盛り沢山の「シェフのおまかせランチ」

にしました。
 鰹炙り重こそ食べられませんでしたが、これも、結構、美味しかったです。
 ここで、びっくりしたのは「道の駅なんごう」が、今年2017年度の旅好きが選ぶ道

の駅人気ランキングで、全国で1100ある道の駅の中で、堂々、1位に輝いたことです


 評価された理由は日南海岸国定公園のほぼ中央に位置する絶景と、地元名産の完熟マン

ゴーや日向夏の販売、レストランの海鮮メニューが人気を集めたからだとか。
私もここの素晴らしい眺めは何度も感動したものでしたが、まさか、日本一の道の駅絶

景ポイントだったとは思いもしなかったので、とっても嬉しかったです。

 あ、だったら、お写真撮らなかったの?って声が聞こえてきそう。
 ところが、お写真撮るの、すっかり忘れていたんです。
 なにしろ、うちの主人、久しぶりにまとまった休暇が取れたとかで、機嫌が良かったの

か、いつになく、よくお喋りしてくれたのです。
 だから、私も嬉しくて、つい一緒にお喋りに夢中になり、お写真に気づいた時はもう後

の祭りだったんです。(苦笑)

そして、道の駅なんごうをあとにした私たちはサーフィンのメッカ恋ヶ浦海岸を通って

、サーフィンの様子をちょっと見てから、都井岬に着きました。
 
 都井岬は野生馬で有名なところで、何頭もの野生馬を見ることが出来、灯台にもあがっ

てみました。
 私は、川端康成が、小説「たまゆら」を書くために、都井岬にも訪れたと知っていまし

たから、川端康成も野生馬を見たり、灯台にあがったりしたのかなと、ふと思ったりしま

した。

 灯台にあがったあと、売店で近くの海で穫れた飛び魚の天ぷらを食べて、帰途についた

のですが、その間、ずっと主人とお喋りしていました。
 私は、主人が久しぶりによく喋ってくれたので、とてもいいドライブの思い出となりま

した。

 帰ったあと、私はドライブの余韻にもっと浸っていたいなと思いました。
 その時、つい最近、レンタル屋さんで見つけた川端康成原作のテレビドラマ「片腕」を

思い出したのです。
 この作品は先月、原作を読んだのですが、テレビドラマで、どう表現しているのか気に

なっていたのです。
 ちなみに、この作品にも(たまゆら)という言葉が出てきます。


 歯車も歯車のなかのものも、見えたのか見えたようだったのかわからぬ、記憶にはとど

まらぬ、たまゆらの幻だった。


 そういう訳で、NHKで放送された「妖しき文豪怪談」の一編「片腕」を観てみることに

しました。
 すると、原作の雰囲気をかなり忠実に再現していて、映像も音楽もすごくよく出来てい

ると思いました。  
 この作品の監督は落合正幸という人で、タモリさんが案内役をつとめたテレビドラマ「

世にも奇妙な物語」を数多く撮っていて、ホラー作品の第一人者らしいです。
 この人の解説によると、川端康成の良さを知ってほしいがために、あえて原作に忠実に

作ったらしいです。
 私も、今まで何本も川端康成原作の映画を観てきましたが、この「片腕」がもっとも川

端作品に忠実のように思えました。
 そして、俳優さんも適役だなと思いました。
 女から、片腕を借りる男の役は、平田満さんで、初めのうちはどうかなと思わないでも

なかったですが、観ているうちに、だんだん、はまり役のように思えてきました。


 男に片腕を貸す役の芦名星という女優さんは、まず、その美しさに驚いてしまいました


 この女優さん、私はまったく知りませんでした。


 プロフィールを調べると、過去には「仮面ライダー響鬼」で悪役を演じていたこともあ

ったとか。
 私は、それだけで、「仮面ライダー」を見直したくなっちゃいました。(苦笑)
 
 では、一体、どんなお話なのか、原作を参考に説明しますと、男が、ある娘から片腕を

、一晩借りるのですが、その片腕は娘の肩から切り離されても、ちゃんと生きて動いてい

るのです。
 その娘の片腕を、男は大事に持ち帰り、男の過去の女の思い出と、片腕への様々な思い

が絡み合いながら、ストーリーは進んでいくのです。
 
 そうしながら、この作品は女の心の奥にひそむ真実とか、神秘のベールに迫りつつ、男

の本能や弱点を解き明かそうとしたように思います。
 まず、気づくのは娘が男に片腕を貸す時、自分の腕だというしるしにと亡くなった母の

形見の指輪をはめる場面です。
 その時、娘は「いったんこうして指につけると、はずすのは、母と離れてしまうようで

さびしいんです。」と言い、男が代わりに片腕の紅差し指に指輪をはめてあげるのです。
 母の形見の指輪を紅差し指にはめるとは、一人前の女に成長した証しとして、母親から

受け継ぐという意味ではないでしょうか。
 そして、男はその日の朝、泰山木のつぼみを買ってガラスびんに入れておいたのですが

、夜、男が娘の片腕を持って帰ってくると、花がいっぱいに開いていて、しべをテーブル

の上に落ち散らばせていたのです。
 泰山木の花のつぼみは男が娘の腕に抱く、まだ見ぬ憧れの象徴ではなかったのか。
 或いは、女そのものの象徴でもあったのでは?

 その花がいっぱいに開いて、しべが落ち散らばっていたのは、男の女に対する思いが満

たされたと同時に、女としての神秘のベールが剥がされ、その役目を終えたことを意味す

るのでは?

 例えば、男は女の深層に迫ろうとして、娘の爪を見て、こう考えます。
 
 女はこんな指の先きでも、人間であることを超克しようとしているのか。あるいは、女

であることを追究しようとしているのか。
(途中、略)
 脆く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そし

て、なによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹

精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露と

するのかもしれない。

 さらに、男は自分に問いかけます。
 「自分・・・・・?自分てなんだ。自分はどこにあるの?」
 すると、娘の片腕はこう答えるのです。
 「自分は遠くにあるの。遠くの自分をもとめて、人間は歩いてゆくのよ。」

 男「行き着けるの?」

 「自分は遠くにあるのよ。」娘の腕はくりかえした。


 そうして、男は娘の片腕を愛撫したり、口づけしたあと、添い寝させ、娘の腕は五本の

指を歩かせて、男の胸の上にのぼり、抱きすがるような格好になり、娘の腕の脈と男の脈

が響き合うのです。
 
 この場面は本当に、エロチックの一言に尽き、思わず、うっとりしてしまいます。
 ここにおいて、二人は一心同体になったかのように見えました。
 

 しかし、転機は突然、訪れます。

 やがて、男は娘の片腕を自分の腕と付け替えたい衝動にかられるのです。
 そうして、何とか付け替えた男でしたが、初め、娘の片腕の血が通わないのを恐れるの

です。
 しかし、いつの間にか、通うようになり、一旦は安心します。
 だけど、今度は清純な娘の腕に、自分の汚濁の血が入ることに、ある種の罪悪感を感じ

ずにはいられなくなるのです。    
 
 結局、このお話はそれが原因で悲劇的な結末を迎えてしまいます。

 
 清純な娘の片腕を借りるという一方的な欲望に対する罪悪感が、男の根底にあり、その

罪悪感がジワジワ男を締めつけ、やがて、恐怖心に変わってしまう。

  それが、この作品のテーマみたいですが、私は清純なものを汚すことに罪悪感を覚え

るお話を書いた川端康成に、真摯で誠実なものを感じずにはいられませんでした。