奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

私の福岡観光♪

2018-06-03 22:27:29 | Weblog
さて、今回は前回の続きになります。
 車中泊しながら、息子や主人のいる博多に行った私は、実は観光もしたいと思っていま

した。
 ひとつは、九州の歴史や文化に関するものを数多く展示した九州国立博物館です。
 ここは、太宰府天満宮の隣りにあり、出来たばかりの頃、大盛況で、絶対行ってみたか

ったのです。
 もうひとつは、地下鉄に乗ることです。(苦笑)
 でも、地下鉄に一度も乗ったことがないわけではないのです。
 博多はもちろん、名古屋や東京、遠くは北海道の札幌の地下鉄にも乗ったことはあるん

ですが、もう10年以上、乗ってなかったので、博多に行くんだったら、地下鉄と、ずっ

と決めていたのです。
 ただ、地下鉄に乗るのはいいのですが、目的地がなかなか思い浮かびませんでした。
 それで、かなり前に、姪の浜行きの地下鉄に乗った時に、突然、電車が地上に出て、び

っくりしたことがあったので、とりあえず、あの時の感動を味わおうと、姪の浜駅まで行

ってみようと、博多駅行きの電車に乗り込んだのです。
 すると、電車の中吊り広告を見ていたら、レオナルド・ダ・ヴィンチの「アンギアーリ

の戦い」の原画が、福岡市博物館に展示してあると書いてあったので、あの世紀の大天才

の作品を見れると思い、急きょ、そちらに変更したのです。
そこで、その前に腹ごしらえしようと、博多駅に着いた時、あちこち食べ物屋さんを探し

ていたら、阪急百貨店のどんぶり屋さんで、宮崎県が発祥のチキン南蛮丼を見つけたので

す。
 きっと、博多の人にも、チキン南蛮は愛されてるんだわ!
 そう思ったら、嬉しくて、私もチキン南蛮丼が食べたくなっちゃったのです。
 そこで、チキン南蛮とエビ天が一緒になった丼を注文して食べてみたのです。
 エビも、一応好きなんです。(笑)
 これは、お味噌汁にお漬物もついて、560円だったので、ずいぶん、お得なお値段だ

なと思いました。
 お味は、博多で食べるチキン南蛮は格別美味しかったです。
 そのどんぶり屋さんのお隣のお酒コーナーでは、こんなものを見つけちゃいました。
 芋焼酎なんですね。
 
 そのあと、地下鉄に乗り、福岡市博物館に近い、西新駅で降りました。
 地上に出たら、雨がしとしと降っていました。
 ここから、スマホのグーグルマップを頼りに、福岡市博物館に向かいます。
 20分も歩けば、到着するみたいです。
 そこに行くまでに、通った道が、「サザエさん商店街通り」で、こんなものがあちこち

にあって、なんだか、ウキウキしちゃいました。

 また、サザエさんと作者の長谷川町子さんの、こんな銅像までありました。

 実は、「サザエさん」の作者の長谷川町子さんは九州のご出身で、終戦の翌年1946

年に、この辺りにある百道(ももち)海岸付近を妹さんと散歩していた時、「サザエさん

」の家族構成や名前を思いついたらしいです。
 そして、連載されたのが、地元のフクニチ新聞だったため、当初サザエさん一家は福岡

で暮らしてるという設定だったとか。
 その後、「サザエさん」は全国紙の新聞に連載されることになり、それに伴い、舞台を

東京に移して、1974年まで描き続けられました。
 また、1969年からはテレビアニメとして放映がスタートし、日本中のお茶の間で親

しまれ、今も継続中なのはご存知の通りです。
 このテレビアニメの「サザエさん」は世界でもっとも長く放映しているテレビアニメ番

組として、ギネス記録を更新し続けており、作者の長谷川町子さんは、あの漫画の神様手

塚治虫も叶わなかった国民栄誉賞を、漫画家の中で、ただ一人受賞しているとか。
 まさに、「サザエさん」は世界に誇る漫画とアニメの空前絶後の最高傑作と言っていい

のではないでしょうか♪

 おっと、「サザエさん」のことを、あれこれ考えていたら、「レオナルド・ダ・ヴィン

チ」の絵を見に行くことを、すっかり忘れていました。(汗)

 そんな訳で、何とかようやく、福岡市博物館に到着しました。(苦笑)
 すると、博物館に、萩尾望都さんのポスターが。

 なんでも、北九州市にあるマンガミュージアムで、萩尾望都さんの原画展があるらしい

です。
 そういえば、萩尾望都さんは福岡県大牟田市のご出身です。
  

 そうして、萩尾望都さんのポスターを目にしたあと、「アンギアーリの戦い」が展示し

てある二階にあがっていきました。
 いよいよ、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵が見れると、ワクワクしながら入場したら、

もう少し待てば、学芸員の方が解説をしてくれると、受付けの人に言われたので、その学

芸員の方の話を聞きながら鑑賞することにしました。
 その学芸員の方、お話がとっても面白くて、芸術といえば、堅苦しいイメージを抱いち

ゃうものですが、とても丁寧にわかりやすく解説して下さいました。
 まず、「アンギアーリの戦い」は何を描いたものか?

 これは、1440年に起きたミラノ軍とフェレンツェほか連合軍の戦い、つまり、戦争

を描いたもので、それぞれが兵士を選抜し、馬に乗り、相手方の軍旗を奪い取った方が勝

ちというやり方だったそうです。
 この絵は剣を振り上げている人、馬からふるい落とされて、下敷きになっている人、そ

して、猛々しい馬の動きなど緊張感に溢れています。
 ちなみに、この時、死者が一人出たそうですが、剣で刺されたのではなく、落馬による

ものだったとか。
 そして、この絵は見る者に強烈なインスピレーションを与えたみたいで、ルーベンスや

ラファエロを始め、多くの画家に模倣されたということです。

 しかし、私はこの絵を見て、もしかしたら運動会の騎馬戦と一緒じゃない?」と気づい

たのです。
 
 騎馬戦で、戦争の勝敗を決め、しかも、剣は持っていても、誰も相手を刺し殺そうとは

しなかった。
 それは、ある意味、平和的な戦争の決着方法ですよね?
 しかし、人類は、それだけでは飽き足らずに、やがて殺し合いで、決着をつけるように

なってしまった。
 そう考えたら、人類という存在がとても恐ろしく思え、愕然とせずにはいられませんで

した。
 誰かが、人類の歴史は戦争の歴史であると書いてましたが、その言葉が、ぐさりと私の

心に突き刺さったような錯覚を覚えずにはいられませんでした。

 でも・・・もしかしたら男性が相手の軍旗を奪い取るやり方だったから、「アンギアー

リの戦い」みたいな騎馬戦はなくなっちゃったのかも??
 これが、女性同士の戦いだったら、或いはその後も、ずっと続いていたかもしれない!

 私がそう思ったのはかなり前にテレビでやっていた「女だらけの水泳大会」の騎馬戦を

思い出したからです。



 その名も「ポロリ!スーパー騎馬戦」

 これは、芸能人の美女が、相手の水着に手をかけ、おっぱいポロリさせちゃうという騎

馬戦で、「女だらけの水泳大会」の数ある種目の中で、もっとも人気があり、当のワタシ

でさえ、どんなやり方でポロリさせちゃうのか、ドキドキしながら見ていたのです。
 こういう騎馬戦なら、男性同士で軍旗を奪い取るより、はるかに面白くて長続きしてい

たのではないでしょうか?
 おっぱいポロリさせられちゃう女性も、殺し合いをしないで戦争の決着がつけられるの

であればと喜んで参加すると思います。

 そういう私だって、平和的に戦争が終わるのであれば、おっぱいポロリくらい・・・

 あら?
 いやだわ、私ったら。
 どこでどう間違えて、レオナルド・ダ・ヴィンチから、こんな話になっちゃたのかしら

?(真っ赤)

 この福岡市博物館には「アンギアーリの戦い」以外にも、レオナルド・ダ・ヴィンチの

作品のレプリカがいくつも展示してありました。
 その中には、あの有名な「モナ・リザ」や「最後の晩餐」もあったのですが、ここで驚

いたのは「モナ・リザ」が、レオナルド・ダ・ヴィンチの最高傑作と紹介されている点で

した。
 というのも、私は「最後の晩餐」の方が、最高傑作と思っていたからです。
 理由は、超スーパースターのイエス・キリストが描かれているし、たった一人の「モナ

・リザ」より、何人も人物が描かれているので大変だったと思うからです。
 でも、芸術って、そういうものではなかったのですね。(苦笑)
 学芸員さんの「最後の晩餐」のお話で面白かったのは、ダ・ヴィンチはこの絵を描くの

に、とても苦労し、描き終えるのに、すごく時間がかかり、絵の依頼者に矢のような催促

をされた時のお話です。
 時間がかかった最大の理由は登場人物の顔で、その中でも反逆者のユダはなかなか描け

ず、ダ・ヴィンチは犯罪の多い街に出掛けて行き、ユダのイメージに合うような人を探し

たりもしたそうです。
 しかし、その間も絵の依頼者にしつこく催促され、うんざりしたダ・ヴィンチはとうと

う、その依頼者の顔を、ユダにしちゃったのだとか。
 世紀の天才ダ・ヴィンチの人間的な一面が垣間見え、ちょっと親しみを感じちゃいまし

た。
 あと、ダ・ヴィンチの自画像を見て、学芸員の方が、髪をウェーブさせているところか

ら、かなりお洒落な人だったんじゃないかと喋っていたのが印象的でした。 
 でも、そう言われれば、「モナ・リザ」の絵が、微笑んでいるのも納得です。
 あの絵は、実際にモデルさんを描いたそうなので、ダ・ヴィンチはお洒落であると同時

に、女心を掴むのが上手だったのかも知れないなと思いました。

 学芸員の方のお話を聞きながら、「アンギアーリの戦い」以外にも様々な作品を鑑賞し

たので、2時間くらいかかりましたが、今ある日常の瑣末事を忘れ、とても優雅で贅沢な

気分を味わうことが出来ました。

   
 「アンギアーリの戦い」を鑑賞したあとは、せっかくなので通常展示のコーナーも見て

回りました。
 ここには福岡の様々な歴史や文化を伝えるものが数多く展示してあり、どれも興味深か

ったのですが、その中で私がとくに気になったものが、二つありました。
 1つめは、志賀島で発見された金印でした。
 これは、学校の教科書に載っていて見覚えがありましたが、一辺が2,3センチしかな

くて、あまりにもちっちゃかったのが、すごく意外でした。

 2つめは、神風で有名な鎌倉時代の蒙古襲来を伝える図や兜や手紙など、いくつもの史

料でした。
  鎌倉時代といえば、今から約750年前で、そんな遠い時代の史料が沢山、残ってい

ることに、蒙古襲来が当時の日本にとって、いかに大変な出来事であったか、まざまざと

知らされた思いでした。
 私は、それまで蒙古襲来はたんに神風が吹いて、蒙古(モンゴル帝国)の船が沈んじゃ

ったから、日本が助かったくらいの知識しかありませんでした。
 だけど、これを機にいろいろ調べてみたのです。
 すると、意外なことが次々と明らかになりました。
 
 蒙古が日本を征服しようと野望を持った直接の原因はマルコ・ポーロの「東方見聞録」

に、ジパング(日本)には金銀財宝が、ザックザクと書いてあるのを読んだからだそうで

す。
 だけど、いきなり、日本を襲うのでなく、はじめは友好関係を結ぼうと持ちかけてるん

です。
 ところが、当時の鎌倉幕府は北条時宗が八代執権に就任したばかりで、南宋の禅僧の進

言や大陸における蒙古の暴虐などの報告から、日本の様子を伺っているだけで、いずれ襲

来するに違いないと厳戒体制を敷くのです。
 やがて、日本からの返事がなかなか来ないことに業を煮やした蒙古の皇帝クビライ・カ

ーンはついに本性を現し、大船団を組み、大陸からもっとも近い九州を襲うのです。
 まず、襲ったのは対馬、次いで壱岐の二つの島です。
 この時、日本の御家人つまり、侍は勇敢に戦ったそうですが、敗北を喫し、多くの島人

が虐殺され、また女性は捕虜として、手の平に穴を開け、これを貫き通して、船壁に並べ

立てて、自国に連れ去り、過酷な労働に使ったそうです。
 また、この時の惨劇は日蓮宗の開祖、日蓮が文書として残しているとか。
 これに味をしめた蒙古はいよいよ博多湾に上陸し、これを迎え撃ったのは主に九州の御

家人でした。
 だから、これは九州の御家人(侍)VS蒙古(モンゴル帝国)と言っても過言ではありま

せん!
 もしかしたら、九州男児という言葉はこの時、生まれたのかも?

 がんばれ、九州のお侍さん!!

 蒙古なんか、蹴散らしちゃえ!!!


 だけど、当初、日本の御家人は戦えど、戦えど、次々と蒙古に殺されたらしいです・・


 
 その理由として挙げられるのは、侍は名乗りを上げてからでないと戦わず、しかも一騎

打ちが普通だったため、蒙古の大人数で、侍がまだ名乗りを上げている途中であろうがお

構いなしに攻撃してくる戦法には歯が立たず、簡単に討ち取られてしまったのだとか。

 だったら、そんなことしなければよかったのにと思わないでもないですが、でも、私は

当時の日本の御家人は、男として、とても立派だったような気がしてならないのです。

 武士(御家人)にとって名乗りを上げるとは、自分の姓名・身分・家系などの素性、戦

功、戦における自分の主張や正当性を大声で告げることで、武士の作法として、名乗りが

行われている間に攻撃することは良しとされなかったそうです。(ウィキペディア)
 
 なぜ、武士がこういうことを始めたのかと言いますと、自分が何者であるかを明らかに

することで、正々堂々と戦うことを宣言する意味だと思います。
 一騎打ちもそれに当てはまると見ていいでしょう。
 だいたい、まだ刀も抜いていない一人の武士を、大勢で襲うのであれば、誰でも簡単に

勝てますよね?

 つまり、卑怯者!

 蒙古が卑怯なのは日本を征服する目的なのに、当初、友好関係を持ちかけてくるところ

にも如実に現れていますが、老人や子供、病人までも情け容赦なく虐殺し、女性は捕虜と

して捕え、手の平に穴を開けるという極悪非道な行為にも感じることが出来ます。
 というのも、戦争のやり方を大きく変えたのは大量殺戮兵器を発明した20世紀になっ

てからだと言われているからです。
 それ以前の戦争は、兵隊だけで戦い、戦う気のない老人や女子供が戦争に巻き込まれて

死ぬことは非常に少なかったそうですから。
 その理由の一つに、その頃の男性は戦うことにロマンや男らしさを感じていたのが挙げ

られると思います。
 だから、蒙古みたいに、大勢で一人の男性を襲うことはなかったし、ましてや、苦もな

く殺せる女子供や老人など相手にしなかった。
 
 まず初めに、名乗りを上げて、正々堂々と戦うことを宣言し、一対一で勝負しようとし

た当時の侍はとっても男らしいですし、尊敬に値すると思います。

 福岡市博物館にあった沢山の蒙古襲来の史料で、そんなことを思いました。

 
 その日は福岡市博物館に行ったばかりで、次の日、九州国立博物館に行くことにしまし

た。
 でも、その前の夜、ネットで調べたら、隣りにある太宰府天満宮からトンネルを通って

行くのもありだと、誰かが書いていたので、参拝も兼ねて、太宰府天満宮から行ってみま

した。
 太宰府天満宮ではお願いのほか、家族分のお守りを買ったり、おみくじを引いたりしま

した。
 中吉だったかな。
 そのあと、九州国立博物館に通じるトンネルに入ったのですが、斜め上に伸びていて、

エスカレーターになっていたり、動く歩道になっていて、とっても楽チンでした。
 それに、トンネルの壁面を色とりどりな光の帯が次々と過ぎ去って、まるで、タイム・

マシンに乗ってるみたいでした♪
 そして、トンネルを抜けたら、九州国立博物館の巨大な姿が!

 建物だけでも、すごく感動♪

 国立の博物館は、国内に四つしかないらしく、とても貴重なものが、沢山、展示してあ

りました。
 昔のものを、直接見れるのは感動の連続!
 その中で、私がもっとも興味を持ったのは、昔の世界地図でした。
 それらは、16世紀くらいからのものから、いくつも展示してあり、もちろん、正確で

はありませんでしたが、あの時代にどうやって調べたのか不思議でならなかったです。

 そして、その晩は家族みんなで、博多駅の地下で食事しました。
 そこで、私は宮崎の黒霧島という芋焼酎を飲み、ほろ酔い気分で、息子のマンションで

、ぐっすり寝ました。 
  
 そして、次の日を迎えたわけですが、もう帰らなければいけません。
 でも、真っ直ぐ帰るんじゃなく、私には行きたいところがありました。
 それで、早朝6時には主人の見送りを受け、マンションをあとにしました。
 息子たちはまだ夢の途中。(苦笑)
 私が行きたかった場所。
 その一つは、来るときに通った黒木町です。
 黒木町はご存知ない方が多いかもしれませんが、女優の黒木瞳さんが生まれた町で、私

は20年以上前にも一度行ったことがあるんです。
 その時、町という名称とはうらはらに、すごい田舎だなとびっくりした記憶があるんで

す。
 そう、黒木瞳さんと言えば、大都市で生まれたようなイメージを多くの人は持つと思う

のですが、実際はそうではないのです。
 それで、黒木町を、もう一度じっくり見てみたかったのです。
 黒木町には、町を横切る道路が一本通っています。
 そして、車で走って、まず気づくのは道路が川と山の間にあり、川に沿って蛇行してい

て、前方がよく見通せないということです。
 それに、農家が多く、まるで時間に忘れ去られたような古い建物がいくつも道路の両側

に見えてきます。
 ね?
 これだけでも、黒木瞳さんの都会的なイメージと、全然違うでしょう?
 だけど、それ以上に気になるのは、山に阻まれ、空が少ししか見えないという点です。
 それも車で走ってて、ずっと空が少ししか見えないんです。
 これは考えさせられますねえ。
 黒木瞳さんは子供の頃、少ししか見えない空と、それを阻む山を見つめて、きっとあの

山の向こうには何があるんだろうと想像を膨らませていた気がしてならないんです。

 上田敏が翻訳詩集「海潮音」で訳したカール・ブッセの「山のあなた」みたいに。

 山のあなたの空遠く、

 「幸」住むと人のいふ。

 ああ、われひとと尋めゆきて、

 涙さしぐみ、帰りきぬ。

 山のあなたになお遠く、

 「幸」住むと人のいふ。

 だけど、黒木瞳さんは、その夢を次々と叶えてきたのですね。

 初めに宝塚に入り、それから映画女優として、着実に一歩一歩歩んできた。

 そういえば、同じ、福岡県出身の小柳ルリ子さんも、歌手になる前、はじめは宝塚に入

ったとか。
 だけど、宝塚に入ることを親御さんに大反対され、「どうしても宝塚に入りたかったら

、1番で試験に合格しなさい。それで、1番になれなかったら、きっぱり諦めなさい」と

言われ、猛勉強の末、1番で合格したというエピソードがあるそうです。
 親御さんとしては、諦めさせるつもりで、1番になったらいいと言ったそうですが、本

当に1番になったので、約束通り、宝塚に行かせるしかなかったらしいです。

 話を元に戻します。
 でも、黒木瞳さんは、黒木町で、遠い世界を夢見ていた頃を忘れてない気がします。
 それに、彼女は詩人の谷川俊太郎さんに、詩の才能を認められるほど、感受性に溢れ、

詩集をいくつも出しているからです。
 それは、「真心」という詩に感じることが出来ます。


 あなたのために 心をみがいている
 
 ほんとうの私を知ってもらいたいから

 一点の曇りもないほどに

 私の心をみがいている

 嘘がつまった体を捨てて

 ほんとうの私に戻ったら

 あなたに伝える


 私の真心 
  

 

 黒木町の次に私が行きたかったのは、そこからそれほど遠くない熊本県の黒川温泉です



 黒川温泉は本州ではあまり知られてないかもしれませんが、九州ではかなり前から女性

に人気の温泉スポットなんです。
 ここも、息子のところに行く途中に通って見つけ、機会があれば、一度は入ってみたい

と思っていました。
 この黒川温泉は入湯手形を買うと、いくつもの露天風呂に入れるのですが、私はその日

のうちに家に帰り着きたかったので、スマホで調べて、一番、評価が高かった「山みず木

別邸 深山荘」だけに入ってみました。
 
 行ってみたら、若い女性に人気があるのが分かる気がしました。
 どことなくオシャレで、すぐ近くを流れている小川のせせらぎもいいですし、その先に

ある竹林や青々と茂った樹木など、露天風呂から見える景色がとても癒やされるんです。
  
 私は午前中に入りましたが、夜、月明かりの中、入るのも幻想的でいいかもなと思わず

にはいられませんでした。
 そして、その時には松尾芭蕉のこんな俳句が似合うのかもしれません。


 ほととぎす 大竹藪をもる月夜



 こうして、三泊四日の旅を終え、無事、わが家に到着しました。
 

 二つの博物館と黒木町や黒川温泉のことなどをメインに書いちゃいましたが、久しぶり

に家族みんなと再会して、元気な様子を確認出来たし、それに次男が希望に夢膨らませて

張り切っているのが何より嬉しかったです。

 そして、福岡の女性に頑張り屋さんが多いと知り、私自身、とても励みになりました。
 それにしても、旅の楽しみはその土地でしか食べられないものを味わうことという人が

多いのに、私ときたらチキン南蛮や芋焼酎の黒霧島など、私の地元のものを食べたり飲ん

だりして。(苦笑)
 だけど、私は福岡の人が、私の住んでる宮崎県のものを好きだという事が、とても嬉し

かったのです。
 それに、博多で味わったチキン南蛮や黒霧島は格別、美味しかったんですヨ♪

 だから、こういう旅もありなんじゃないかと、ご理解いただけたら嬉しいです。


 最後に、いつにも増して長い文章を、全部、お読み頂き、誠にありがとうございました

。