私は、この作品は初め、篠田正浩監督の映画版で知りました。
理由は川端康成原作というより、私の大好きな八千草薫さんがご出演されていたことが大
きかったように思います。
私が、その映画を観たのは、もう十年以上前のことで、川端康成原作というイメージから
、叙情性のあるストーリーを想像し、八千草薫さんがいかに美しく演じているのか期待して
観てみたのです。
ところが、いざ観てみると、八千草薫さん演じる京都の絵描き、上野音子役より、弟子の
坂見けい子(加賀まりこさん)の方に強烈なインパクトを感じてしまったのです。
というのも、坂見けい子は同性愛者という設定で、かつて、上野音子が愛し、彼女を不幸
な目にあわせた大木年雄が、突然、現れたことから激しい嫉妬心を起こして、復讐を企て、
その息子を死に追いやるという役柄とストーリーだったからです。
それは、私が抱いていた川端康成の作品のイメージと大きく異なっていて、かなり衝撃を
受けてしまいました。
そこで、今回、原作の小説を読んで、川端康成がなぜ、そんな小説を書いたのか、確かめ
てみたくなったのです。
また、この作品は1985年に、シャーロット・ランプリング出演のフランス映画にもな
っていますので、そちらも合わせて観てみることにしました。
まず、この作品は大木年雄が、かつて愛した上野音子が京都で絵描きとして大成したのを
知り、一緒に除夜の鐘を聞こうと誘い、京都行きの特別急行列車「はと」に乗っている場面
から始まります。
大木年雄が、上野音子と付き合っていたのは、二十年前のことで、当時、彼には妻子がい
たにも関わらず、十六歳の上野音子と愛し合い、子供まで産ませた過去があったのです。
もっとも、子供は二ヶ月で亡くなり、音子の母親に、奥さんと別れて、うちの娘と結婚し
てほしいと頼まれたこともあったみたいですが、そうすることもなく、音子との思い出を綴
った「十六七の少女」を書き、それを超える作品を書けないでいたのでした。
そうして、京都行きの列車の中で、音子との思い出に耽っていた大木を、京都駅に迎えに
来ていたのは、意外なことに上野音子の若い弟子、坂見けい子だったのです。
坂見けい子の美しい容姿に心惹かれた大木でしたが、やがて、彼女は同性愛者で、師匠の
音子を愛し、二十年振りに音子に会いに来た大木に激しい嫉妬心を燃やすのが明らかになり
ます。
そればかりか、大木が音子をモデルに書いた「十六七の少女」を読んでいたことから、過
去に二人に何があったのか、ある程度知っていて、凄まじい復讐劇を、音子のためにと言っ
て始めるのです。
その復讐とは、大木の家庭を破壊することで、そのためなら大木とSEXし、産まれた赤ん坊
を奪い、音子にあげるとまで言い出すのです。
そればかりか、けい子は大木の息子の太一郎にまで魔の手をのばし、美しい容姿で、ホテ
ルに誘い、ついに計画をことごとく成功させてしまうのです。
私は、この小説を読んで、音子とけい子の関係に惹かれずにはいられませんでした。
けい子は同性愛者みたいだけど、音子はどうなんでしょう?
実は、音子とけい子はよく一緒にお風呂に入ってるみたいですし、こんな場面も出てくる
んです。
・・・夜、音子はけい子の目ぶたに唇をあてたり、けい子の耳を唇にくわえたりするよう
になった。耳はくすぐったがって、けい子は身をよじらせて声を出した。それが音子を誘っ
た。
音子にも、少なからず、同性愛の素養があるように書いてあるんです。
この場面もそうですが、音子とけい子のやり取りを読んでいると、私も女性同士で、同じ
事をやってみたい衝動を覚え、体の奥から何かが疼いてくるようで仕方ありませんでした。
(真っ赤)
やはり、川端康成は女性同士の同性愛の素晴らしさを書きたかったのかも?
そして、もしかしたら、この作品は谷崎潤一郎の「卍」の世界を、川端康成なりに書いた
ものかも?
そう思いたくなるほど、音子とけい子の関係には素晴らしい同性愛を感じずにはいられな
かったのです。
ところが、読み終わって、しばらく経ったら、あることに気づいたのです。
音子は、二十年前、大木が取った行動に対して、怒りもしなければ、憎みもせずに生きて
きた受け身一方の心優しい女性なんです。
その反面、けい子はかなりの情熱家で、積極的に音子の復讐のためにと、大木一家に関わ
り、着々と計画を実行に移すのです。
つまり、音子とけい子の性格は、まるで正反対なんです。
だから、けい子は音子にとって、もう一人の自分なのではという考えが、頭をよぎったの
です。
私が、そう思った理由の一つに、何人かの芸能人の親子がありました。
昔、清純派の女優として名を馳せ、事実、プライベートでもおしとやかで、心優しいはず
の女性の子供がまったく違うタイプの性格となり、とくに性に対して、積極的な対応を見せ
るのを、いくつも知っているからです。
昨年でしたか、亡くなった清純派の女優さんの娘が、夜遊びがひどくて、借金返済のため
に、AVに出て、世間を賑わせたことがありましたよね?
あれは、清純派のイメージが固定したがために、自分の本心をひたすら押し隠した反動が
、娘に現れたように思えますし、その例は枚挙に暇がないのです。
そして、川端康成は女性に復讐される物語を書くことで、男の傲慢さとか、ずるさを白日
にもとに晒したかったように思えたのです。
と言うのは、この物語は大木年雄という小説家が、過去に過ちを犯した音子が京都で絵描
きとして大成しているのを知り、大晦日に除夜の鐘を一緒に聞きたいと京都に行ったのが、
すべての始まりだからです。
除夜の鐘の意味は、108つの煩悩の数を表し、それを清めるための習わしですよね。
大木が、音子と一緒に大晦日に除夜の鐘を聞きたいと思ったのは、そうすることで、音子
を苦しめた過去の過ちを清算する目的があったと考えられるのです。
その過ちとは、まず、大木が妻子があるのに、当時、まだ十六歳だった音子の熟しきって
いない体を何度となく求め、子供を産ませたことです。
大木は、音子に会いに行く時、音子の心中をおもんばかることなく、今度はどうやって抱
いてやろうかと、SEXのことしか頭になかったようですから。
それに、大木は音子とそういう関係が、奥さんにバレ、一悶着くらいはあったようですが
、離婚もせず、そのあと、娘まで授かっているのですから。
そして、大木は音子と別れた数年後、二人の関係を小説として書き、大ベストセラーとな
って、その印税で、生活費を稼いだり、子供の養育費にあてたりしましたが、音子に対して
は何の謝礼も援助もしていないのです。
しかし、この件に関して言えば、当の音子は、裁判を起こし、賠償請求をしようとしませ
んでした。
おそらく、音子はあの時の大木は本当に、自分を愛していたと信じたい気持ちがあり、そ
の美しい思い出を壊したくなくて、ずっと胸にしまい続けて生きてきたように思うのです。
そして、その音子の大木に対する姿勢に、音子自身の美しさの秘密が隠されているように
、私には思えてなりませんでした。
というのも、もし、音子が大木と別れたあと、ずっと憎み続けたり、怒りを爆発させてい
たら、美しい心を持つことは到底、不可能だったでしょうし、絵描きとして、人々を感動さ
せることも出来なかったに相違ありません。
でも、人は清らかな心だけで生きていくことは不可能な生き物なのかも・・・
だから、けい子は音子と生の接触を通し、尚且つ「十六七の少女」を読んだことによって
、音子の心の底にある恨みを敏感に察知し、音子に代わって、復讐を実行に移したように見
えるのです。
それは、ラストで、大木の妻の文子が、初対面の音子に向かって言った「太一郎を殺させ
たのはあなたですね」という言葉にも感じとることが出来ます。
つまり、川端康成は、京都という日本古来の美しい都を舞台に、女性の美の裏側にあるも
のと、男の傲慢さや、ずるさを白日にもとに晒したくて、この美しく、はかなく、そして、
憎悪に満ちた「美しさと哀しみと」を書いたのだと、私には思えてなりませんでした。

篠田正浩監督の映画版に関して言えば、大木役の山村聡さんが、八千草薫さん演じる音子
に対しての想いを、もっと描けていたらなと、残念でなりませんでした。
また、山村聡さんが、加賀まりこ演じる坂見けい子に、常に淡々と喋っているのが物足り
ない気がしました。
武満徹作曲の音楽は、あまりにもおどろおどろしい感じがして、女性の哀しみを表現して
いるようには、とても思えませんでした。
何だか、悪口めいたことばかり書いてしまいましたが、八千草薫さんはとても美しかった
ですし、加賀まりこさんは、川端康成も絶賛したのが頷けるくらい説得力のある名演技だと
思いました。
何でも、加賀まりこさんによると、川端康成に相当好かれたらしく、電話一本で、ニコニ
コしながら会いに来たというエピソードもあるみたいです。

フランス映画版の方は、女性が監督を務め、とてもオシャレでいながら原作にもわりと忠
実に作ってあり、なかなか、いい作品として仕上がっているように思いました。
ただ、レア・ウエノが、プルダンスの脇毛をカミソリで剃る場面は原作になく、この映画
独特の素晴らしさだと思いました。
また、こちらでは、上野音子の名は、レア・ウエノとなっていて、原作に近い感じがしま
すが、坂見けい子の名はプルダンスで、その意味は分別だということです。
分別いう意味の名前を与えたことで、シャーロット・ランプリング演じるレア・ウエノの
危うい美しさを表現したかったように思えたことも付け加えておきます。
理由は川端康成原作というより、私の大好きな八千草薫さんがご出演されていたことが大
きかったように思います。
私が、その映画を観たのは、もう十年以上前のことで、川端康成原作というイメージから
、叙情性のあるストーリーを想像し、八千草薫さんがいかに美しく演じているのか期待して
観てみたのです。
ところが、いざ観てみると、八千草薫さん演じる京都の絵描き、上野音子役より、弟子の
坂見けい子(加賀まりこさん)の方に強烈なインパクトを感じてしまったのです。
というのも、坂見けい子は同性愛者という設定で、かつて、上野音子が愛し、彼女を不幸
な目にあわせた大木年雄が、突然、現れたことから激しい嫉妬心を起こして、復讐を企て、
その息子を死に追いやるという役柄とストーリーだったからです。
それは、私が抱いていた川端康成の作品のイメージと大きく異なっていて、かなり衝撃を
受けてしまいました。
そこで、今回、原作の小説を読んで、川端康成がなぜ、そんな小説を書いたのか、確かめ
てみたくなったのです。
また、この作品は1985年に、シャーロット・ランプリング出演のフランス映画にもな
っていますので、そちらも合わせて観てみることにしました。
まず、この作品は大木年雄が、かつて愛した上野音子が京都で絵描きとして大成したのを
知り、一緒に除夜の鐘を聞こうと誘い、京都行きの特別急行列車「はと」に乗っている場面
から始まります。
大木年雄が、上野音子と付き合っていたのは、二十年前のことで、当時、彼には妻子がい
たにも関わらず、十六歳の上野音子と愛し合い、子供まで産ませた過去があったのです。
もっとも、子供は二ヶ月で亡くなり、音子の母親に、奥さんと別れて、うちの娘と結婚し
てほしいと頼まれたこともあったみたいですが、そうすることもなく、音子との思い出を綴
った「十六七の少女」を書き、それを超える作品を書けないでいたのでした。
そうして、京都行きの列車の中で、音子との思い出に耽っていた大木を、京都駅に迎えに
来ていたのは、意外なことに上野音子の若い弟子、坂見けい子だったのです。
坂見けい子の美しい容姿に心惹かれた大木でしたが、やがて、彼女は同性愛者で、師匠の
音子を愛し、二十年振りに音子に会いに来た大木に激しい嫉妬心を燃やすのが明らかになり
ます。
そればかりか、大木が音子をモデルに書いた「十六七の少女」を読んでいたことから、過
去に二人に何があったのか、ある程度知っていて、凄まじい復讐劇を、音子のためにと言っ
て始めるのです。
その復讐とは、大木の家庭を破壊することで、そのためなら大木とSEXし、産まれた赤ん坊
を奪い、音子にあげるとまで言い出すのです。
そればかりか、けい子は大木の息子の太一郎にまで魔の手をのばし、美しい容姿で、ホテ
ルに誘い、ついに計画をことごとく成功させてしまうのです。
私は、この小説を読んで、音子とけい子の関係に惹かれずにはいられませんでした。
けい子は同性愛者みたいだけど、音子はどうなんでしょう?
実は、音子とけい子はよく一緒にお風呂に入ってるみたいですし、こんな場面も出てくる
んです。
・・・夜、音子はけい子の目ぶたに唇をあてたり、けい子の耳を唇にくわえたりするよう
になった。耳はくすぐったがって、けい子は身をよじらせて声を出した。それが音子を誘っ
た。
音子にも、少なからず、同性愛の素養があるように書いてあるんです。
この場面もそうですが、音子とけい子のやり取りを読んでいると、私も女性同士で、同じ
事をやってみたい衝動を覚え、体の奥から何かが疼いてくるようで仕方ありませんでした。
(真っ赤)
やはり、川端康成は女性同士の同性愛の素晴らしさを書きたかったのかも?
そして、もしかしたら、この作品は谷崎潤一郎の「卍」の世界を、川端康成なりに書いた
ものかも?
そう思いたくなるほど、音子とけい子の関係には素晴らしい同性愛を感じずにはいられな
かったのです。
ところが、読み終わって、しばらく経ったら、あることに気づいたのです。
音子は、二十年前、大木が取った行動に対して、怒りもしなければ、憎みもせずに生きて
きた受け身一方の心優しい女性なんです。
その反面、けい子はかなりの情熱家で、積極的に音子の復讐のためにと、大木一家に関わ
り、着々と計画を実行に移すのです。
つまり、音子とけい子の性格は、まるで正反対なんです。
だから、けい子は音子にとって、もう一人の自分なのではという考えが、頭をよぎったの
です。
私が、そう思った理由の一つに、何人かの芸能人の親子がありました。
昔、清純派の女優として名を馳せ、事実、プライベートでもおしとやかで、心優しいはず
の女性の子供がまったく違うタイプの性格となり、とくに性に対して、積極的な対応を見せ
るのを、いくつも知っているからです。
昨年でしたか、亡くなった清純派の女優さんの娘が、夜遊びがひどくて、借金返済のため
に、AVに出て、世間を賑わせたことがありましたよね?
あれは、清純派のイメージが固定したがために、自分の本心をひたすら押し隠した反動が
、娘に現れたように思えますし、その例は枚挙に暇がないのです。
そして、川端康成は女性に復讐される物語を書くことで、男の傲慢さとか、ずるさを白日
にもとに晒したかったように思えたのです。
と言うのは、この物語は大木年雄という小説家が、過去に過ちを犯した音子が京都で絵描
きとして大成しているのを知り、大晦日に除夜の鐘を一緒に聞きたいと京都に行ったのが、
すべての始まりだからです。
除夜の鐘の意味は、108つの煩悩の数を表し、それを清めるための習わしですよね。
大木が、音子と一緒に大晦日に除夜の鐘を聞きたいと思ったのは、そうすることで、音子
を苦しめた過去の過ちを清算する目的があったと考えられるのです。
その過ちとは、まず、大木が妻子があるのに、当時、まだ十六歳だった音子の熟しきって
いない体を何度となく求め、子供を産ませたことです。
大木は、音子に会いに行く時、音子の心中をおもんばかることなく、今度はどうやって抱
いてやろうかと、SEXのことしか頭になかったようですから。
それに、大木は音子とそういう関係が、奥さんにバレ、一悶着くらいはあったようですが
、離婚もせず、そのあと、娘まで授かっているのですから。
そして、大木は音子と別れた数年後、二人の関係を小説として書き、大ベストセラーとな
って、その印税で、生活費を稼いだり、子供の養育費にあてたりしましたが、音子に対して
は何の謝礼も援助もしていないのです。
しかし、この件に関して言えば、当の音子は、裁判を起こし、賠償請求をしようとしませ
んでした。
おそらく、音子はあの時の大木は本当に、自分を愛していたと信じたい気持ちがあり、そ
の美しい思い出を壊したくなくて、ずっと胸にしまい続けて生きてきたように思うのです。
そして、その音子の大木に対する姿勢に、音子自身の美しさの秘密が隠されているように
、私には思えてなりませんでした。
というのも、もし、音子が大木と別れたあと、ずっと憎み続けたり、怒りを爆発させてい
たら、美しい心を持つことは到底、不可能だったでしょうし、絵描きとして、人々を感動さ
せることも出来なかったに相違ありません。
でも、人は清らかな心だけで生きていくことは不可能な生き物なのかも・・・
だから、けい子は音子と生の接触を通し、尚且つ「十六七の少女」を読んだことによって
、音子の心の底にある恨みを敏感に察知し、音子に代わって、復讐を実行に移したように見
えるのです。
それは、ラストで、大木の妻の文子が、初対面の音子に向かって言った「太一郎を殺させ
たのはあなたですね」という言葉にも感じとることが出来ます。
つまり、川端康成は、京都という日本古来の美しい都を舞台に、女性の美の裏側にあるも
のと、男の傲慢さや、ずるさを白日にもとに晒したくて、この美しく、はかなく、そして、
憎悪に満ちた「美しさと哀しみと」を書いたのだと、私には思えてなりませんでした。

篠田正浩監督の映画版に関して言えば、大木役の山村聡さんが、八千草薫さん演じる音子
に対しての想いを、もっと描けていたらなと、残念でなりませんでした。
また、山村聡さんが、加賀まりこ演じる坂見けい子に、常に淡々と喋っているのが物足り
ない気がしました。
武満徹作曲の音楽は、あまりにもおどろおどろしい感じがして、女性の哀しみを表現して
いるようには、とても思えませんでした。
何だか、悪口めいたことばかり書いてしまいましたが、八千草薫さんはとても美しかった
ですし、加賀まりこさんは、川端康成も絶賛したのが頷けるくらい説得力のある名演技だと
思いました。
何でも、加賀まりこさんによると、川端康成に相当好かれたらしく、電話一本で、ニコニ
コしながら会いに来たというエピソードもあるみたいです。

フランス映画版の方は、女性が監督を務め、とてもオシャレでいながら原作にもわりと忠
実に作ってあり、なかなか、いい作品として仕上がっているように思いました。
ただ、レア・ウエノが、プルダンスの脇毛をカミソリで剃る場面は原作になく、この映画
独特の素晴らしさだと思いました。
また、こちらでは、上野音子の名は、レア・ウエノとなっていて、原作に近い感じがしま
すが、坂見けい子の名はプルダンスで、その意味は分別だということです。
分別いう意味の名前を与えたことで、シャーロット・ランプリング演じるレア・ウエノの
危うい美しさを表現したかったように思えたことも付け加えておきます。