この映画は、昭和三十七年に作られた小津監督最後の作品です。
小津監督は女性の結婚を題材にした映画を何本も撮っていますが、この最後の作品でも同様に結婚を扱っています。
どうして小津監督は女性の結婚にこだわり続けたのでしょう?
この映画のように妻を亡くした男性が娘を嫁にやるというのは、世間ではありふれた出来事に違いないですよね?
そのありふれた出来事をどう表現して観客を感動させるのか、それが映画監督にとっての醍醐味であり、映画を作る意味なのかも知れません。
でも、私はこの映画の感想に直接ふれないで、この映画の内容に類する思い出や見聞きした事などを、ここに書いてみようと思います。
私はこの映画を観て、女性の愛情の形とか自己犠牲の精神を思わずにはいられませんでした。
自分が嫁ぐと、父親が困ると思って、なかなか嫁に行こうとしない娘を心配して結婚をうながす父親の姿。
嫁に行ったあとの親が気掛かりで、なかなか結婚しない娘さんは、今の時代でもいらっしゃるのではないでしょうか。
私事で恐縮なのですが、私のすぐ下の妹も似たような事をしていた時期があります。
うちの場合は父親でなく母親ですが、私の父親が事故で突然亡くなった時、すぐ下の妹だけ、まだ結婚していなかったのです。
妹は過去に彼氏がいたり、縁談がいくつもあったのですが、どれも断り続けていました。
おそらく妹は年老いた母が心配で、嫁に行こうとしなかったのだと思います。
それは自分を産んで育ててくれた母への感謝の気持ちと、愛情だったのかも知れません。
しかし、妹に恋い焦がれる男性が現れ、猛アタックしたあげく、妹もその男性が好きになって、体の関係にまでなり妊娠してしまったのです。
そして日増しにお腹が大きくなっていき、気づかれるまで母には黙っていたそうです。
妹は結婚しないつもりでいたので、どうしても母に好きな人が出来たことを言い出せなかったに違いありません。
そうして妹は同じ市内に住むその男性と結婚したのですが、その後も事あるごとに母のもとに足しげく通い、今も病院や温泉や買い物に母を連れて行く日々を送っています。
生活だって、決して裕福でなく、母が仕事しろと何度も勧めるにもかかわらず、専業主婦を続けているのです。
私は肉親だから分かるのですが、妹は母が気掛かりで、もしもの時、すぐにでも駆け付けられるように自分を犠牲にしてまで働かないでいるように思えてならないのです。
そして妹のご主人様もその優しい心根を悟って、生活を切り詰めて協力し、何も言わないでいる。
妹は何も言いませんが、私には妹の気持ちがわかるような気がします。
これは私の妹の自己犠牲の例ですが、私はこういうご夫婦も知っています。
私が用事で、あるご家庭を訪問して老夫婦と話していたところ、奥の方で三味線の音色が聞こえてきたのです。
あれは何ですか?と老夫婦に尋ねてみると、娘の夫が弾いているのだと言って、こんなお話をしてくれたのです。
娘さんは看護婦をしていて、娘さんの勤める病院に、ある日男性が担架で運ばれて来たそうです。
男性は事故で、目をやられていて、娘さんは看護につとめるうち、次第に惹かれるようになったのだとか。
その頃はまだ男性の目はいくらか見えていたのですが、遠からず失明するのはわかっていたそうです。
だけど、それを知ってて、娘さんはその男性と結婚し、子供も生まれて、やがて失明したご主人様は何するでもなく、家で三味線を弾く毎日を送るようになったとか。
こんなふうに老夫婦は私に教えてくれたのです。
普通に考えたら、失明するとわかっている男性と結婚はしませんよね?
何が、彼女をつき動かしたのでしょう?
また私はこんな恋人同士を見たこともあります。
私はある手術のため、入院していた事があるのですが、元大工さんで仕事中に屋根から転落して重体になり、一生歩けないと宣告された男性が私と同じ病院に入院していました。
その男性は足のほかは問題ありませんでしたので、私はたまに話しかけたりしていたのです。
でも、男性は歩けなくなった事が悲しくて、辛い思いをしていたのでしょう。
話している途中で、うなだれて黙りこくってしまう事が何度もありました。
ところで、その男性には恋人がいて、毎日、見舞いに来ては、彼氏を勇気づけていて、心から愛しているのがよく伝わっていました。
二人は男性が事故に遭う前から付き合っていたみたいですが、男性が歩けなくなった事で、彼女の男性への愛がさらに強くなったのではないかと、私には思えてなりませんでした。
おそらく、彼女は男性がどうあろうと結婚して一緒になる気持ちでいたに違いありません。
これらの事例は、単に愛だけで片付けられるものではないように思えます。
私は、女性には愛した者に我が身を捧げようという自己犠牲の本能があるような気がしてならないのです。
そして、それは結婚の形態にも言えるような気がするのです。
結婚すると、なぜ女性は夫の家の一員になるのか?
もちろん、その逆のご夫婦も世の中には沢山いらっしゃいますので一概には言えないのですが、結婚したらすべての夫が妻の家で暮らすというのであれば、円満にいかなくなるご夫婦が増える気がしてならないのです。
妻が夫の家庭に入るのは、女性の自己犠牲の本能を上手に活かした結果なのではないでしょうか?
しかし、女性の自己犠牲の本能は子供は別として、自分を愛してくれる相手を得た時に、初めて発揮されるものだと思います。
ここで映画のお話に戻ります。
路子は父親周平が気掛かりで、結婚せずにいましたが、周平を始めとする周りの勧めで、結婚することにしました。
これは、愛する対象が父親以外の者に移ったからにほかなりません。
あれほど、路子に結婚を勧めていた周平は肩の荷がおり、ハッピーエンドで、この映画は幕を閉じるかと思えば、そうではないのです。
周平は結婚式の帰りに亡き妻によく似たバーのマダムのもとに行き、「お葬式の帰り?」と言われるくらい意気消沈してしまいます。
そこで、マダムは、周平が若かりし頃、海軍で艦長をしていたこともあって、軍艦マーチをかけて元気を取り戻らせようとするのです。
家に帰ってからも、軍艦マーチを口ずさむ周平の姿を観ていると、人生の浮き沈みみたいなものを思わないでもありません。
ですけど…
この映画のタイトル「秋刀魚の味」は人生のほろ苦さを現しているそうです。
秋刀魚もそうですが、わさびや生姜など、経験を積んで、大人にならないとわからない事は世の中に沢山あります。
路子が結婚したばかりで、周平は今は淋しいかも知れませんが、やがて孫が生まれて来ると、孫が可愛くてならなくなり、健やかな成長を願うのではないでしょうか?
人生は喜びや悲しみ、様々な味をかみしめてこそ、楽しみを見出だせるような気がします。
この映画はそういった事などを私に考えさせてくれました。
小津監督は女性の結婚を題材にした映画を何本も撮っていますが、この最後の作品でも同様に結婚を扱っています。
どうして小津監督は女性の結婚にこだわり続けたのでしょう?
この映画のように妻を亡くした男性が娘を嫁にやるというのは、世間ではありふれた出来事に違いないですよね?
そのありふれた出来事をどう表現して観客を感動させるのか、それが映画監督にとっての醍醐味であり、映画を作る意味なのかも知れません。
でも、私はこの映画の感想に直接ふれないで、この映画の内容に類する思い出や見聞きした事などを、ここに書いてみようと思います。
私はこの映画を観て、女性の愛情の形とか自己犠牲の精神を思わずにはいられませんでした。
自分が嫁ぐと、父親が困ると思って、なかなか嫁に行こうとしない娘を心配して結婚をうながす父親の姿。
嫁に行ったあとの親が気掛かりで、なかなか結婚しない娘さんは、今の時代でもいらっしゃるのではないでしょうか。
私事で恐縮なのですが、私のすぐ下の妹も似たような事をしていた時期があります。
うちの場合は父親でなく母親ですが、私の父親が事故で突然亡くなった時、すぐ下の妹だけ、まだ結婚していなかったのです。
妹は過去に彼氏がいたり、縁談がいくつもあったのですが、どれも断り続けていました。
おそらく妹は年老いた母が心配で、嫁に行こうとしなかったのだと思います。
それは自分を産んで育ててくれた母への感謝の気持ちと、愛情だったのかも知れません。
しかし、妹に恋い焦がれる男性が現れ、猛アタックしたあげく、妹もその男性が好きになって、体の関係にまでなり妊娠してしまったのです。
そして日増しにお腹が大きくなっていき、気づかれるまで母には黙っていたそうです。
妹は結婚しないつもりでいたので、どうしても母に好きな人が出来たことを言い出せなかったに違いありません。
そうして妹は同じ市内に住むその男性と結婚したのですが、その後も事あるごとに母のもとに足しげく通い、今も病院や温泉や買い物に母を連れて行く日々を送っています。
生活だって、決して裕福でなく、母が仕事しろと何度も勧めるにもかかわらず、専業主婦を続けているのです。
私は肉親だから分かるのですが、妹は母が気掛かりで、もしもの時、すぐにでも駆け付けられるように自分を犠牲にしてまで働かないでいるように思えてならないのです。
そして妹のご主人様もその優しい心根を悟って、生活を切り詰めて協力し、何も言わないでいる。
妹は何も言いませんが、私には妹の気持ちがわかるような気がします。
これは私の妹の自己犠牲の例ですが、私はこういうご夫婦も知っています。
私が用事で、あるご家庭を訪問して老夫婦と話していたところ、奥の方で三味線の音色が聞こえてきたのです。
あれは何ですか?と老夫婦に尋ねてみると、娘の夫が弾いているのだと言って、こんなお話をしてくれたのです。
娘さんは看護婦をしていて、娘さんの勤める病院に、ある日男性が担架で運ばれて来たそうです。
男性は事故で、目をやられていて、娘さんは看護につとめるうち、次第に惹かれるようになったのだとか。
その頃はまだ男性の目はいくらか見えていたのですが、遠からず失明するのはわかっていたそうです。
だけど、それを知ってて、娘さんはその男性と結婚し、子供も生まれて、やがて失明したご主人様は何するでもなく、家で三味線を弾く毎日を送るようになったとか。
こんなふうに老夫婦は私に教えてくれたのです。
普通に考えたら、失明するとわかっている男性と結婚はしませんよね?
何が、彼女をつき動かしたのでしょう?
また私はこんな恋人同士を見たこともあります。
私はある手術のため、入院していた事があるのですが、元大工さんで仕事中に屋根から転落して重体になり、一生歩けないと宣告された男性が私と同じ病院に入院していました。
その男性は足のほかは問題ありませんでしたので、私はたまに話しかけたりしていたのです。
でも、男性は歩けなくなった事が悲しくて、辛い思いをしていたのでしょう。
話している途中で、うなだれて黙りこくってしまう事が何度もありました。
ところで、その男性には恋人がいて、毎日、見舞いに来ては、彼氏を勇気づけていて、心から愛しているのがよく伝わっていました。
二人は男性が事故に遭う前から付き合っていたみたいですが、男性が歩けなくなった事で、彼女の男性への愛がさらに強くなったのではないかと、私には思えてなりませんでした。
おそらく、彼女は男性がどうあろうと結婚して一緒になる気持ちでいたに違いありません。
これらの事例は、単に愛だけで片付けられるものではないように思えます。
私は、女性には愛した者に我が身を捧げようという自己犠牲の本能があるような気がしてならないのです。
そして、それは結婚の形態にも言えるような気がするのです。
結婚すると、なぜ女性は夫の家の一員になるのか?
もちろん、その逆のご夫婦も世の中には沢山いらっしゃいますので一概には言えないのですが、結婚したらすべての夫が妻の家で暮らすというのであれば、円満にいかなくなるご夫婦が増える気がしてならないのです。
妻が夫の家庭に入るのは、女性の自己犠牲の本能を上手に活かした結果なのではないでしょうか?
しかし、女性の自己犠牲の本能は子供は別として、自分を愛してくれる相手を得た時に、初めて発揮されるものだと思います。
ここで映画のお話に戻ります。
路子は父親周平が気掛かりで、結婚せずにいましたが、周平を始めとする周りの勧めで、結婚することにしました。
これは、愛する対象が父親以外の者に移ったからにほかなりません。
あれほど、路子に結婚を勧めていた周平は肩の荷がおり、ハッピーエンドで、この映画は幕を閉じるかと思えば、そうではないのです。
周平は結婚式の帰りに亡き妻によく似たバーのマダムのもとに行き、「お葬式の帰り?」と言われるくらい意気消沈してしまいます。
そこで、マダムは、周平が若かりし頃、海軍で艦長をしていたこともあって、軍艦マーチをかけて元気を取り戻らせようとするのです。
家に帰ってからも、軍艦マーチを口ずさむ周平の姿を観ていると、人生の浮き沈みみたいなものを思わないでもありません。
ですけど…
この映画のタイトル「秋刀魚の味」は人生のほろ苦さを現しているそうです。
秋刀魚もそうですが、わさびや生姜など、経験を積んで、大人にならないとわからない事は世の中に沢山あります。
路子が結婚したばかりで、周平は今は淋しいかも知れませんが、やがて孫が生まれて来ると、孫が可愛くてならなくなり、健やかな成長を願うのではないでしょうか?
人生は喜びや悲しみ、様々な味をかみしめてこそ、楽しみを見出だせるような気がします。
この映画はそういった事などを私に考えさせてくれました。