奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

「雪国」川端康成

2017-07-31 15:37:28 | 読書
このところ、暑い日が続いていますが、いかがお過ごしでしょうか?


「雪国」
この小説は、川端康成の作品の中では、「伊豆の踊子」とともに、もっともよく知られています。
そして、川端康成が、この作品で、ノーベル文学賞を取ったのは多くの人の知るところです。
そういう私自身、三回ではありますが、もっとも多く読み返した川端作品でもあります。
この小説の書き出しの文章は日本人なら知らない人は誰一人いないと言ってもいいでしょう。

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。


この一文だけで、汽車が真っ暗なトンネルを抜けて、突然、一面の銀世界が現れた様子が、目に浮かんでくるようです。

ところで、私は「雪国」を、三回、読んだと書きました。
それは、この小説に感動したというより、どうしても解せない部分があって、それを理解するためというのが、主な理由でした。
それは、ひとえに駒子の言動や性格に尽きると言っていいと思います。

芸者の駒子は、都会から来た島村を好きになり、彼の泊まっている宿に足しげく通い、次第に心を許し、打ち解けていくのですが、感情の起伏があまりにも激しい女性として描かれているのです。
私は女性の登場人物にある程度、感情移入して読む癖があって、駒子にもそうしようとしたのですが、私とあまりにもタイプが違いますし、感情の起伏が激し過ぎて、どうしてもついていけず、それが作品そのものの価値まで理解しづらくしていたのです。

でも、最近になって、駒子に感情移入すること自体、間違っていたことに気づいたのです。

そう開き直ったら、少しはこの小説の言わんとしていることが分かったような気がしてきました。

まず、この小説は冒頭の文章にあるように、島村は駒子に一年ぶりに会いに行くのですが、その理由は非日常的な場所や出来事に遭遇したくて、旅に出たのではないかと思います。
だから、川端康成は鳥追祭や、縮れなどの行事や生活文化を丁寧に描写したのではないでしょうか。

つまり、この小説を読むに当たって、一番大切なのは旅情に思いっきりひたることではないでしょうか。

ではなぜ、雪国だったのか?

それは雪の白さと関係あるのではないでしょうか。
雪には色々な見方がありますが、ここでの雪は罪や穢れなど、醜いものを覆い隠すもので、純粋で美しいものの象徴として捉えられているように思うのです。
だとしたら、その雪国にいる人はその雪の美しさに負けないほど、純粋で美しくなければなりませんよね。
それが、駒子その人なのです。

一時間ほどすると、また長い廊下にみだれた足音で、あちこちに突き当たったり倒れたりして来るらしく、「島村さあん、島村さあん。」と、甲高く呼んだ。
「ああ、見えない。島村さあん。」
それはまぎれもなく女の裸の心が自分の男を呼ぶ声であった。

ここの部分を読むと、恥も外聞もなく、心の底から島村を欲している様子が痛々しいほど伝わってくるようです。


そして、駒子の感情の起伏が激しいのは、添い遂げられるはずもない島村に対するやるせない思いからだったのではないでしょうか。




ところで、この小説には駒子とは別に、葉子という美しい女性が出てきます。

駒子には行雄という許嫁があったのですが、病身にあり、その面倒をよく見ているのが、葉子なんです。

この二人はどうした訳かあまり仲がよくありません。
駒子が行雄に冷たいのが、葉子には気に食わないみたいですが、ほかにも理由がありそうです。

川端康成のあとがきによると、駒子は越後湯沢の温泉に実在していた芸者をモデルにしたそうですが、葉子は架空の女性らしいのです。

そこに、私はこの小説の秘密の一端を知る思いがしました。


駒子は確かに純粋で美しいかも知れないけれど、すごいこだわりがあって、しかも何かが欠けている。

そうしたものを、川端康成は、葉子という架空の女性で表現したかったのではないでしょうか?

でも、川端康成は駒子の葉子に対する気持ちをそのままにしておくのを、良しとしなかった。
そこで、映画を観ていた葉子が火事に巻き込まれるという事件を必要としたのかも知れません。

駒子は我が身の危険も顧みず、葉子を必死に助けようとするのですから。

そうして、駒子は生死を分けるほどの大事件をきっかけに、初めて自分に素直になることが出来たのでは。

ところで、私は駒子と葉子の二人の女性で、ちょっと前に読んだ「古都」の千重子と苗子の双子の姉妹を思い出さずにはいられませんでした。

駒子と葉子はあまり仲がよくなかったですが、千重子と苗子はとっても仲がよかったです。
だけど、千重子が苗子と一緒に住もうと言った時、苗子は境遇の違いを理由に、千重子の前を去っていくのです。


「雪国」の駒子と葉子と、「古都」の千重子と苗子は相手に対する気持ちに違いはありますが、決して相容れることの出来ない、はかない宿命のようなものを感じずにはいられないのです。


この小説を読んだ私は二つの映画版も観てみることにしました。
まず、1957年製作の岸恵子主演の「雪国」から。

この映画の豊田四郎監督は文芸ものの名作をいくつも撮っているそうですし、脚本家は後年、日本シナリオ作家協会の理事長を務めた八住利雄氏ですから、並々ならぬ決意で作られたようです。

これを観て、私が最初に驚いたのは島村を演じた池辺良さんでした。
私は島村は、川端康成に似た人を想像していたのですが、池辺良さんの島村は美男子過ぎて、知的なイメージがちょっと感じられませんでした。(苦笑)
対する駒子を演じた岸恵子さんですが、どうしても可愛い子ぶりっ子してるようにしか見えなくて、裸の心で、島村にぶつかっている駒子とは、やはり、ちょっと違うような気がしました。(苦笑)
だけど、岸恵子さんは山口百恵さん主演の映画「古都」では、千重子の養母の役で、女の嫌な面もはっきり演じていましたから、やはり、立派な女優さんだと思います。



葉子は八千草薫さんが演じていらして、この人の演技が一番、原作に合っているように思いました。

美しくて、純粋で、常に真剣に生きているという意味において。
半面、ストーリーはわりと原作に忠実で、雪国の様子もよく描写されていて、とくに言うことはなかったですが、小説で丁寧に書かれたところがあっさり描かれていたので、ナレーションで文章の素晴らしさも取り入れてくれたら、もっと良かったかもと思いました。

もしかしたら、小説とは違う映画の魅力を追求したくて、あえてそうしたのかも知れないのですが。

あと、原作にわりと忠実と思っていたら、火事のあとの続きがあって、ちょっと驚いちゃいました。
唐突に終るという印象を防ぐためだったのでしょうか?


次に観たのが、1965年製作の岩下志麻さん主演の映画版です。

この映画でも、私はまず、島村を演じた木村功さんに注目したのですが、その前の池辺良さんがあまりにも美男子過ぎたので、ニヤニヤして現れた木村功さんには正直、ちょっとがっかりしちゃいました。(苦笑)

でも、木村功さんといえば、
黒澤明監督の「七人の侍」で、魅力ある若武者を演じていますし、亡くなられた時、奥さまが思い出を綴った「功 大好き」が大ベストセラーになりましたので、素敵な人だったのでしょうね。
対する駒子役の岩下志麻さんは匂い立つようなお色気があり、演技も堂々としていて、この頃から大女優の雰囲気を漂わせていたことに驚いてしまいました。
駒子の役も、ぴったりだなと思いました。

葉子の役は加賀まりこさんが演じていらしたのですが、ちょっと私のイメージと違っていたものの真剣に生きている感じはよく出ていたと思いました。


ネットで紹介されていたところによると、川端康成は、シナリオは大事だが原作を追うのではなく自由にやって欲しいと言い、忠実すぎたり、文芸映画ではつまらないというようなことも語っていたそうです。

私は映画の「雪国」を観て、映画の魅力は映像表現に尽きるのかも知れないなと思わされた次第でした。




夏だ!青春だ!!若大将だ~!!!

2017-07-25 16:52:07 | 映画・テレビ

今年も暑い夏がやってきました。
暑いのは苦手だという人もいるかもですが、こういう時こそ、暑い夏をエンジョイすることが大切ではないでしょうか。
そこで、私は加山雄三さんが一世を風靡した映画、若大将シリーズを観てみることにしました。

やっぱり、夏とくれば、若大将に決まってますからね♪

このシリーズは全部で17本作られたそうですが、私はかなり前に「ハワイの若大将」を観て、ブログにも書き、大人気を博したことがありますので、今回はそれ以外の作品を観てみることにしました。
それで、私がまず選んだのが、ひし美ゆり子さんがご出演された「レッツゴー!若大将」「ブラボー!若大将」「俺の空だぜ!若大将」の三本です。
ひし美ゆり子さんは「ウルトラセブン」のアンヌ隊員が有名ですが、若大将シリーズにも三本出てらっしゃるんです!

この三本を、主役の若大将こと加山雄三さんじゃなく、ひし美ゆり子さんに焦点を当てて観たら、意外な発見がありました。

つまり、ひし美ゆり子さんにとって、若大将シリーズとはサクセス・ストーリー以外の何ものでもないような気がしてきたのです。
一番、はじめにご出演された1967年製作の「レッツゴー!若大将」では、菱見地谷子という芸名で、ほんのチョイ役でした。
ところが、1970年製作の「ブラボー!若大将」では、青大将の前に素晴らしいおみ足を投げ出し、マニュキアを塗らせるなど、存在感を大幅にアピールしています!
そして、同じく1970年製作の「俺の空だぜ!若大将」になると、セックスアピール全開で、並みいる男性達をことごとく悩殺しまくっちゃってるんです!

しかも、面白おかしく、それでいてチャーミングに好演されていて、思わず、私もミニスカートをはいて、胸元が大きく開いた衣装で、男性を悩殺したくなるほどでした♪

この若大将シリーズで、私はひし美ゆり子さんのもう一つの魅力を知らされた思いで、とっても感激してしまいました。

だけど、どうして、ひし美さんは、こんな悩ましいキャラクターを演じられたのでしょう?
おそらく、体が、女の武器で、男の幸福の原点だということをご存知だったのは間違いないでしょうね?

しかし、それは女にとって、愛情の次に大切なもので、ひし美さんご自身、よく分かっていたのではないでしょうか。
それは、「ウルトラセブン」で見せた可憐で心優しいアンヌ隊員の演技に感じ取ることが出来ますし、恋愛スキャンダルを起こした事がまったく無く、長い間、幸せな結婚生活を続けて来られた事実を見ても明らかだと思います。


あ!
大好きなひし美ゆり子さんのお話がしたくて、ついつい脱線してしまいました!(苦笑)


それでは本題に入ります♪

この若大将シリーズは、全部で17本製作されたそうですから、当時の若者に絶大な人気があったようです。

まず、この映画の魅力は主役の田沼雄一こと加山雄三さんに負うところが大きいのは誰もが認めるところでしょう。
この田沼雄一というキャラクター作りのため、藤本プロデューサーは加山さんから生い立ちなどを聞き、お婆ちゃん子であったことや、ドカ弁で1日5食だという逸話などを取り入れて、加山さんと等身大の主人公像を作り上げたとのこと。
だから、観ている側はすんなり若大将のキャラクターを受け入れることが出来たのでしょうね。
また、その加山雄三さんの人格形成に多大な影響を及ぼしたものに、幼少の頃から、31歳まで過ごした茅ヶ崎市があったことも見逃せないのではないでしょうか。
加山さんが住んでいたお屋敷は海の近くにあり、二階のベランダから烏帽子岩が見え、夕方になると海に向かって、ギターをかき鳴らしたり、プレスリーのレコードをよく聴いていたそうです。
そして、夏になると、仲間を呼んで、海で泳いだり、バーベキューを食べたり、さながら映画の若大将そのものの青春を送っていたのだとか。


そんな加山雄三さん演じる田沼雄一は、田能久というすき焼き屋の息子で、お父さんと、おばあちゃんと、妹の四人で暮らしています。
お父さんはひょうきん者で、おばあちゃんはフラダンスや、ボクシングをするなど、とっても気が若く、妹はかなりの美人で、この兄にして、この妹あり!という感じなんです♪

この若大将シリーズは始まった頃、雄一は京南大学の学生で、澄ちゃんという彼女がいます。
そして、水泳、アメフト、スキー、乗馬など、何でもござれのスポーツ万能選手で、向かうところ敵なし!

この若大将と好対象をなすのが、田中邦衛さん演じる青大将です。

もうね、この青大将ったら、若大将の魅力を引き立てるのに絶好のキャラクターで、この映画の魅力の三分の一は青大将が貢献してると言っていいかも知れません。(笑)


それで、若大将に様々な事件が持ち上がるのですが、協力してると見せかけて、若大将の足を引っ張るのが青大将なんです。(笑)

そして、ラストは毎回、スポーツの大会で、若大将が大活躍!
見事、優勝を決めたところで、ハッピーエンドを迎えちゃうのです。



こうして、この若大将シリーズは日本が高度経済成長に向かう1961年に製作が開始され、以後、17本も世に送られました。

つまり、日本中が薔薇色の未来を信じ、明るい希望に満ちていた時代に若大将シリーズは作られたのです。
そして、その雰囲気が若大将シリーズにはみなぎっているんです。
だから、若大将シリーズを観ているうちに、いつしか明るい希望が湧き、知らず知らずのうちに元気になって、思わず微笑みたくなる。

それが、若大将シリーズの最大の魅力といっていいかも知れませんね♪

「伊豆の踊子」川端康成

2017-07-19 23:52:14 | 読書
最近、久しぶりに川端康成の小説を読んだら、ほかの作品にも興味がわいてきました。
そこで、どれにしようか考えていたら、「伊豆の踊子」と「雪国」が浮かんできました。
この二つはとても有名ですが、「伊豆の踊子」はまだ読んだことがありませんでした。
そこで、とりあえず「伊豆の踊子」を先に読んでみることにしました。

この作品は、私の子供の頃、山口百恵ちゃん主演で、映画化されていて、どんなストーリーか気になっていました。
でも、百恵ちゃんの映画になるくらいですから、学生と踊り子が、伊豆を旅するうちに出会い、淡い恋心を楽しむみたいなストーリーではないかと、勝手に想像していました。
つまり、若い男女が青春を思いっきり謳歌する作品ではないかというふうに。
ところが、確かに淡い恋心を思わせる部分がいくつもあったのですが、それとは別にもっと深い意味があったことに驚いてしまったのです。


この作品の主人公である学生は、川端康成自身がモデルで、二十歳の頃、実際に伊豆を旅した経験から書かれたそうです。
学生が旅に出たいと思った動機は、自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪えきれなかったのが真相だったようです。

川端康成は二、三歳で父と母を、七歳で祖母を、そして十五歳までに、たった一人の姉と、祖父とをことごとく失い、孤独感から苦しみ悩まされていたらしいです。

そこで、その苦しみから逃れるために旅に出て、踊り子をはじめとする旅芸人の一座に出会う訳ですが、彼らは人々に歌や踊りを見せて喜ばれる半面、その職業を卑しいと見る向きもあったそうです。
だけど、彼らはそうしたことを、あまり苦にするでもなく、歌や踊りを続けていたのです。


そんな旅芸人達の姿を見た学生は境遇は違うけれど、心に通い合うものを見つけるのです。
そして、旅芸人達と歩いている時、踊子が、学生のことを「いい人ね。」と話しているのが聞こえてきます。
「それはそう、いい人らしい。」
「ほんとにいい人ね。いい人はいいね。」
それを聞いた学生は自分自身にもいい人だと素直に感じることが出来たのでした。


でも、だからと言って、この「伊豆の踊子」は学生の悩みだけを深刻に書いている訳ではないのです。
この作品は、学生が踊子とのふれあいや、旅の楽しみを味わうことに主眼が置かれ、それを二十代という瑞々しい感性で書いていますので。
そして、読み終わったあとで、青春の傷みみたいなものが迫ってくる。
そんな気がする作品でした。

ところで、この「伊豆の踊子」は、日本近代文学の研究者小田切進氏によると、川端文学を読み解くうえで、とても重要な作品だと書いています。

「伊豆の踊子」のような清純で無垢な少女の美しさと、それへの異常なまでの深い傾倒は、その後の作品にもしばしば描かれ、川端文学の極致とまで言われるようになった。
また「いい人ね」という踊子の好意に対する素直な感謝の気持ちが、この小説のモチーフになっていることは多くの人が指摘しているとおりだが、これも「雪国」はじめ川端文学にこれ以後たびたび現れるものである。

また、日本文学教育連盟常任委員の渡辺庄司氏によると、この「伊豆の踊子」の文章はそれまでにない革新的な表現方法を試みた点が高く評価されているとか。
川端康成は『文芸時代』の同人の頃から「新感覚派」と呼ばれていて、それまで全盛だった自然主義の日常的リアリズムを打破するため、芸術的な表現方法を常に試みていたそうです。
川端康成はそれを「主客一如主義の表現法」とよんでいました。
つまり、物事を説明的に客観的に述べるのでなく、自分が直観した感覚的な表現を大切にして、文章に深みをもたせようとしたそうです。
例えば、
「トンネルの出口から白塗りの柵に片側を縫われた峠道が稲妻のように流れていた。」
「女の金切り声が時々稲妻のように闇夜に鋭く通った。」
「頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。」

そして、渡辺庄司氏は文学そのものについても、こう書き記しています。
「とにかく、こうして文学は何よりも文章そのものを味わって読むことが大切です。表現そのものに作品の価値があり、その細部にこそ、作家の描こうとした感動やテーマがひそんでいるのです。」


確かに、状況を単に文章で説明するだけでは、文学の限界といっていいかも知れません。

だけど、川端康成は自分の感性を大切にして表現し、文章を芸術の粋にまで高め、文学の無限な可能性を拡げたところが高く評価されているようです。


ところで、これだけの名作足る所以でしょうか。
「伊豆の踊子」は何回も映画化されていて、レンタル屋さんにいくつも置いてあります。
そこで、レンタル出来た四本の映画版「伊豆の踊子」を年代順に観てみました。
まず、昭和八年の田中絹代主演のものから。

この映画はサイレントで音声が吹き込まれてなく、活動弁士があとから録音したものが入っていました。
だから、男性も女性も一人の活動弁士の男性が喋っているのが、はじめすごく違和感がありました。
でも、それ以上に驚いたのが、ストーリーが小説とまったく違う点でした。
しかも、タイトルが「恋の花咲く 伊豆の踊子 」なんです。

確かに、学生が踊り子達と伊豆を旅するのは同じですが、それ以外はストーリーも違えば、小説にない登場人物も出てきます。(苦笑)
例えば、鉱山技師の男が出てきて、踊子薫の兄の栄吉に、「お前が二束三文で売った土地から金がザクザク出てきた」と教えるのです。
だけど、その土地を買った富豪は初めから金鉱があると知っていたのに、わざと知らないふりをして、安く買い叩いたのだと吹き込み、栄吉はその富豪と一悶着起こしてしまうのです。
当然、その問題が決着するまで、旅もお預けになってしまいます。
ところが、実は富豪は良心的な人物で、踊子に旅をさせるのを気の毒に思い、踊子の名義で、沢山貯金しており、いずれ渡すつもりであったのです。
そして、やがては息子の嫁にしたいとまで考えていたのです。

こんな小説とまったく違うストーリーを川端康成はどう思っていたのでしょう?

でも、悪くは思ってなかったようで、川端は『「伊豆の踊子」の映画化に際し』という文章で、こう書いています。

似ているはずもないが、田中絹代の踊り子はよかった。ことに半纏をひっかけて肩のいかった後ろ姿がよかった。いかにも楽しげに親身に演じていたことも、私を喜ばせた。若水絹子の兄嫁は、早産後の旅やつれの感じが実によく出ていて、見せ場がなく手持ちぶさたなのも、かえって愁えを添えた。しかし、これは本物の彼女にくらべて、勿体ない美しさであった。


それに、この映画版は映画解説者として有名な淀川長治さん監修の「世界クラシック名画100撰集」に数少ない日本映画の名作として、堂々と入っているのです!


次に観たのは昭和の国民的歌手、美空ひばりさん主演の昭和二十九年制作のものです。

この時、ひばりさんは十七歳だったようです。
この映画は、「砂の器」で有名な野村芳太郎監督が撮っているだけあって、原作にある程度、忠実で、かなり重厚な作品として仕上がっています。
でも、ひばりさん十七歳とは言え、すでに大物の貫禄が十分に伺えて、初々しい踊子のイメージとはちょっと違うような?(苦笑)
だけど、ひばりさんだから、これは許されて然るべきではないでしょうか。
あの人々に勇気を与え、士気を鼓舞する名曲「柔」を歌う美空ひばりさんの踊り子なら、こうでないといけないと私は思います♪


三つめに観たのは昭和三十八年制作の吉永小百合さんが主演したもので、この時、小百合さんは十八歳という若さでした。

この映画版から、「伊豆の踊子」はカラーになり、真っ先に感動したのは伊豆の風景の色彩の美しさでした。
そして、十八歳の吉永小百合さんの純情可憐な美しさに引かれずにはいられませんでした。

とにかく、小百合さんが可愛い♪
踊りも、小さい頃から、日本舞踊を習っていただけあって、四本観た「伊豆の踊子」の中で、吉永小百合さんが一番上手でした。
しかし、その影で気になったのは相手役の学生を演じた高橋英樹さんです。
確か、学生が伊豆を旅した動機は人生に対する悩みからだったはずですが、高橋英樹さん演じる学生は人生に対する悩みなんか、どこ吹く風のような、どう見てもバリバリの体育会系のノリで、あまりにもたくましすぎるのです。(苦笑)

実際、映画でも悩んでいるところはどこにもなかったのですが、これはこれでいいのではと思いました。
何でも、川端康成は、吉永小百合さんが気に入って、撮影にどこまでも付いて回ったというエピソードがあるらしいです。
これは、その時の写真ですが、確かに嬉しそうな表情を浮かべています。


最後は、昭和四十九年制作の山口百恵さんが主演したものです。

私がリアルタイムで知っているのは、この百恵ちゃんバージョンしかないのですが、実は今回、初めて観ました。
この時、百恵ちゃんは十五歳だったみたいですが、すでに大人の雰囲気を漂わせているのが印象的でした。

相手役の学生を演じた三浦友和さんは甘いマスクで、堂々とした演技をしていて、私でも好きになりそうでした。(苦笑)

山口百恵ちゃんの主演映画は川端康成原作のこの「伊豆の踊子」ではじまり、「古都」でラストを迎えましたが、何か不思議な縁のようなものを感じていたのでしょうか?


こうして、小説と映画の「伊豆の踊子」をそれぞれ鑑賞したわけですが、映画版は淡い恋心という青春の頃なら、誰でも経験することに主眼を置き、若い層の幅広い共感を集める目的で作られたように思いました。

だから、厳密に言うと作品のテーマに違いはありますが、どちらもそれぞれに私はいいと思いました。





私が好きなナレーション「ジェットストリーム」「クロスオーバーイレブン」「ウルトラセブン映像大図鑑」

2017-07-13 21:08:07 | 映画・テレビ
あれは今から、半年ほど前のことでした。
ある中古ショップで、四枚組の「ジェットストリーム」のブルーレイ・ディスクを見つけたのは。


それは、私がかつて、真夜中の十二時に聴くのを楽しみにしていた日本航空提供のFMラジオの番組のタイトルだったのです。
私はこの番組のナレーターを務める城達也さんの大ファンでした。

しかし、あのラジオ番組のブルーレイとは一体?

私は値段がかなりリーズナブルなこともあり、迷わず買って観てみることにしました。

すると、ジャンボジェットが滑走路を飛び立つシーンから始まり、大空を飛ぶ辺りから、聞き覚えのあるフランク・プールセル・グランド・オーケストラの「ミスター・ロンリー」に合わせて、城達也さんのナレーションが聞こえてきたのです。


『遠い地平線が消えて、
深々とした夜の闇に心を休める時、
遥か雲海の上を、音もなく流れ去る気流は、
たゆみない  宇宙の営みを告げています。

満点の星をいただく果てしない光の海を、
豊かに流れゆく風に  心を開けば、
煌く星座の物語も聞こえてくる、夜の静寂の、
なんと饒舌なことでしょうか。
光と影の境に消えていったはるかな地平線も
瞼に浮かんでまいります。

これからのひと時。
日本航空が、あなたにお送りする
音楽の定期便。「ジェットストリーム」。
皆様の、夜間飛行のお供を致しますパイロットは、
わたくし、城達也です。』



そして、映像はフランス・イタリア・スイス・オーストリア・ドイツなど、世界各国の観光スポットを巡りながら、ポール・モーリアやレーモン・ルフェーブル、ザンフィル、或いはフランクチャック・フィールド・オーケストラやカーメン・キャバレロといったイージーリスニングが流れ、そのあまりの心地良さに、夢幻の彼方に誘われて行くようでした。


なにより、ナレーターの城達也さんの洗練された都会的センスあふれる声に、うっとりしてしまい、ただ素晴らしいとしか言いようがありませんでした。

このブルーレイの「ジェットストリーム」は高精細で映像も美しく、城達也さんのナレーションと音楽に見事にマッチしていました。

そうして、これを観るうち、当時のことがいろいろ思い出されてきました。


このラジオ番組「ジェットストリーム」が始まるのは、深夜十二時という遅い時間だったのですが、当時、私は城達也さんのオープニングのナレーションを聴くまでは起きていて、その声を聴いたとたん、安心して眠りに就くことが出来たのでした。

だから、エンディングのナレーションも素晴らしかったのですが、いつも途中で寝てしまい、めったに聴くことはありませんでした。
ちなみに、エンディングのナレーションはこういうものでした。


■エンディング・ナレーション
『夜間飛行の、
ジェット機の翼に点滅するランプは、
遠ざかるにつれ、
次第に星のまたたきと
区別がつかなくなります。

お送りしておりますこの音楽が、
美しくあなたの夢に
溶け込んでいきますように。

日本航空がお送りした音楽の定期便、
「ジェットストリーム」
夜間飛行の
お供をいたしましたパイロットは
わたくし、城達也でした。』


もし、城達也さんのナレーションを聴いたことがないという方がいらしたら、YouTubeで、「城達也 ジェットストリーム」と検索してみて下さい。

私が、城達也さんのとりこになった理由がうなずけると思います。

ところで、私が、城達也さんの「ジェットストリーム」のお話をしたくなったのは、今まで好きだったナレーター、或いは声の魅力について、興味が湧いてきたからです。

城達也さんは、どうして魅力的な話し方が出来たのでしょう?

私は、昔、城達也さんが、テレビのお正月番組「隠し芸大会」で、堺正章さんが面白おかしく、ゴルフをする場面で、ナレーションしているのを聴いたことがあるのですが、その時も都会的センスあふれるウィットに富んだ話し方で、聞き惚れてしまったことがありました。

それはまさしく「ジェットストリーム」のナレーションと同じスタイルで話されていたのです。

Wikipediaによると、城達也さんは「ジェットストリーム」の収録に臨む際は、ラジオ番組で姿は映し出されないにも関わらず、「夜間飛行のお供をするパイロット」という舞台設定に入り込むために、必ずスーツを着てスタジオの照明を暗くして臨んでいた(航空会社における定期運送用操縦士の制服はダブルのスーツスタイルである)他、機長としてのイメージを壊されないようにテレビ出演は一切断わるなど、仕事に対して大変真摯なプロ意識を持っていたそうです。

あの洗練された都会的センスあふれるナレーションは、番組の主旨を理解し、その雰囲気に合わせたナレーションをするために、自分を厳しく律していたから出来たことだったようです。



そこで、私は城達也さん以外の好きだったナレーターのお話もしてみたくなりました。

まず、子供の頃、私が見るテレビ番組で、芥川隆行さんのナレーションがよく流れていました。
「キイハンター」「ザ・ガードマン」「Gメン75」「木枯し紋次郎」「水戸黄門」etc。

芥川隆行さんの声は美声という訳ではなかったですが、味わい深くて、とても印象に残っています。

女性でも、好きなナレーターは何人もいました。

とくに、私はNHKのアナウンサーさんが好きで、室町澄子さんや広瀬修子さんのきめの細かい.よく行き届いた女性ならではの優しい声の響きが思い出されます。
また、山根元世さんの語りも、「映像の世紀」のソフトで観て、素晴らしいと思わずにはいられませんでした。

あと、最近、観た映像ソフトでは女優のひし美ゆり子さんのナレーションが素晴らしかったです。

それは、「THEウルトラ伝説・ウルトラセブン映像大図鑑」で、「ウルトラセブン」の魅力をナレーションされていらしたのです。


「異次元世界に作った前線基地から、地球を攻撃しようとしたイカルス星人と戦うウルトラセブン。
そう、ウルトラセブンことモロボシダンは、あたしたち、地球人に戦う勇気と愛することの素晴らしさを教えてくれました。
彼の戦う姿に、あたしたちは何度、勇気づけられたことでしょう。
彼は多くの超能力を駆使して、宇宙からの侵略者に立ち向かっていきました。
そんな彼のウルトラセブンとしての活躍を、あたし、友里アンヌと一緒に振り返ってみましょう。」


その語り口は、一語一語丁寧で、女性ならではの優しさにあふれていて、ひし美さんの愛情深さがひしひしと伝わってくるようで、思わず、涙が込み上げてくるほどでした・・・


私は、以前、「ひし美ゆり子さんに会うことがあったら、ウルトラセブンとアンヌ隊員の記事を書いてよかったと思われるでしょう」と言われたことがあるのですが、もし、実際に会ったら、その優しさに直接ふれた感激で、涙がとまらないかも知れません・・・


それでは、涙を拭きまして、もう一つ好きだったラジオ番組のお話をして、この記事を終わりにしたいと思います。
それは、夜の十一時に、FMラジオからオンエアされたNHKの「クロスオーバーイレブン」です。
これは、その番組をCD化したものです。

この番組の津嘉山正種さんのナレーションも素敵で、時折り、聴いては、うっとりしていました。

オープニングとエンディングのナレーション




【オープニング・ナレーション  1978年11月~1980年3月】

やがて 一日が無限のかなたに消えようとしている
深い夜のしじまに 遠くの記憶を呼び戻し
忘れかけていた歌がよみがえる
今日もまた それぞれの思い出をのせて過ぎてゆくこのひととき

クロスオーバー・イレブン




【オープニング・ナレーション  1980年4月~1991年3月】

街も深い眠りに入り
今日もまた 一日が終わろうとしています
昼の明かりも闇に消え
夜の息遣いだけが聞こえてくるようです
それぞれの想いをのせて過ぎていく
このひととき
今日一日のエピローグ

クロスオーバー・イレブン




【オープニング・ナレーション  1991年4月~2001年3月】

今日も一日が通り過ぎていきます
昼のあわただしさの中で忘れていた
人を愛する優しさ
人を信じるぬくもりを
そっとひろげてみます
夜空の星のきらめきとともに
それぞれの想いをのせて過ぎていく
このひととき
今日一日のエピローグ

クロスオーバー・イレブン




【エンディング・ナレーション】

もうすぐ時計の針は
12時を回ろうとしています
今日と明日が出会うとき

クロスオーバー・イレブン




【第2部 オープニング・ナレーション  1988年4月~1993年3月】

時計の針が12時を回り
昨日から今日への
さまざまな出会いと別れのなかで
ひそかに奏でるサウンド・メッセージ

クロスオーバー・イレブン


この津嘉山正種さんのナレーションも、YouTubeで「クロスオーバーイレブン」と検索すれば聴くことが出来ます。


私が思い出深いのは、1980年4月~1991年3月のオープニングのナレーションでした。



今回は城達也さんをはじめとした私の好きなナレーターやナレーションのお話をしましたが、どうだったでしょうか?


それでは、この辺りでお別れさせていただきます。

今夜も私は「ジェットストリーム」のブルーレイで、城達也さんのナレーションを聴きながら、夢の世界に誘われたいと思います。


それでは、あなたもどうぞよい夢を・・・



「古都」川端康成

2017-07-09 16:06:00 | 読書


もし、あなたが旅行に行くとしたら、どこに行ってみたいですか?
私は行きたいところはいろいろあるのですが、その中でも歴史と伝統のロマンあふれる京都に行ってみたいです。
そして、それがこの小説を読む動機になりました。
だけど、正直に告白すると、「古都」は以前、三十ページほど読んで、やめてしまったことがありました。
理由は登場人物の会話が京都弁で書かれていて、九州育ちの私には読みづらくて、大変だったからです。
でも、「古都」は川端康成の作品の中でも有名ですし、今なら、何となく読めそうな気がしてきたのです。
そういう訳で、再びチャレンジしてみたのですが、この小説は京都弁が出てくるだけでなく、京都の名所や年中行事が沢山、書いてあり、京都の観光案内というか、京都を知るうえで、とても役に立つ作品だなと思いました。
だから、川端康成はタイトル通り、古き良き京都の面影を、この小説に封じ込めたかったのかも知れません。

そして、それと同時に山里と町なかという境遇のまったく違う双子の姉妹を通して、日本女性ならではのそれぞれの美しさを引き出したかったのではないでしょうか。
そういうふうに、この小説を読むと、実に構成がしっかりしていることに気づかされます。
まず、冒頭にもみじの古木の幹に、すみれの花がひらいたのを、千重子が見つけます。
すみれは上と下の幹に二株あって、一尺ほど離れています。
その二つのすみれを、年ごろになった千重子は「上のすみれと下のすみれとは、会うことがあるのかしら。おたがいに知っているのかしら。」と思うのです。

それに対し、川端は『すみれ花が「会う」とか「知る」とは、どういうことなのか。』と読者に疑問を投げかけるのです。
ここで、すみれを擬人化し、千重子に、自分の知らないところに、苗子という双子の姉妹がいることを暗示させています。
そのあと、今度は桜が出てきます。
千重子の幼なじみの水木真一が電話で、平安神宮の桜見に誘うのです。
そして、父の太吉郎が、千重子がくれたクレーの画集にヒントを得てデザインした帯の図案の一件のあと、親子三人は、町なかのさくらとしては遅咲きの御室の有明ざくらや、八重の桜を見に行きます。
それから車で植物園に向かい、そこのチューリップ畑で、偶然、出会った大友秀男が、千重子は中宮寺や広隆寺の弥勒よりも、どれだけ美しいかしれないと、太吉郎に褒めるのです。
しかし、太吉郎は「秀男さん、娘はすぐにばばあになりまっせ。そら、早いもんどす。」と返します。
ところが、秀男は動ぜず、「そやかいチューリップの花は生きてるて、わたし言うたんどす」と言い、さらに語気を強め、「ほんの短い花どきだけ、いのちいっぱい咲いてるやおへんか。今、その時どっしゃろ。」と言い放つのです。
そして、秀男は自分に言い聞かせるように、太吉郎に自分の胸のうちをこう明かすのです。
「わたしかて、孫子の代までしめやはる帯を織らしてもろてるとは、思わしまへんね。今では・・・。一年でも、しゃんとしめ心地のええように、織らしてもろてるのどす。」

この秀男の言葉は、この小説における川端康成の女性観を見事に言い現しているように思えます。

つまり、花も女性も美しい時は短いかも知れないけれど、与えられた運命を精一杯生きることに価値があるのだと。

このエピソードのあと、千重子は友人の真砂子に、高雄のもみじを見に行かないかと誘われ、北山杉が見たいと言い出します。

「北山杉のまっすぐに、きれいに立ってるのをながめると、うちは心が、すうっとする。」

そこで、真砂子は千重子そっくりの女性を見つけるのです。
それが、千重子の双子の姉妹、苗子との最初の出会いでした。

千重子と苗子

私は、二人の名前に注目しました。

もしかしたら、千重子の名前の由来は年を重ねて、様々な経験を経て、美しくなった姿を現しているのではないのか?

一方、苗子は生まれたばかりの汚れのない純粋な美しさを現しているのではないのか?

そして、苗子が住み、働いているのを、京都の中心部から遠く離れた北山地方にしたのは都を形作るのに必要な木材を重要視したためではなかったのか?

その千重子と苗子のそれぞれの境遇や運命を花に例え、儚いまでの美しさを描きながら、京都の歴史と伝統と年中行事を絡めて書いたのが、「古都」だったように、私は思うのです。
そして、それが「古都」を名作たらしめることになったのでは?


しかし、この小説に問題点がない訳ではないのです。

この小説は、京都にお住まいの方や、京都をよく知る人にはその良さを心行くまで堪能出来るかも知れませんが、京都から遠く離れ、京都をよく知らない人が読むと、ちょっと理解しづらい面も多々あるのです。

この私にしても、冒頭で告白したように京都弁が読みにくくて、一度挫折したのですが、京都のいくつもの名所や年中行事を文章だけで理解するのは難しかったです。

そこで、私は映画化された「古都」も観てみてみることにしました。
一つは、1963年製作の岩下志麻さんが主演したものです。


この頃、川端康成はまだ健在で、京都での撮影も見に行っていて、意見もどしどし発言したらしいです。
それによると、川端康成は本物に非常にこだわる人で、セットで簡単にすませるのを極力嫌っていたとか。
そうしたことから、岩下志麻版は、川端康成の原作にかなり忠実に作ってあり、京都の名所や年中行事も映っているので、「古都」の魅力を知るうえで、とても価値ある映画だなと思いました。

そして、もう一つ観たのが、1980年製作の山口百恵さん主演版です。


この映画は調べてみたら、山口百恵さんの芸能生活の最後を飾る作品として選ばれたそうです。
しかも、山口百恵さんは川端康成とかなり縁があるらしく、映画主演第一作目も、川端康成原作の「伊豆の踊子」だったとか。

こちらは川端康成が亡くなったあとに作られたので、アレンジしているところがいくつも見られました。
例えば、原作では太吉郎が、秀男の頬を叩くところを、映画では秀男の父が叩いていますし、遠く離れた千重子と苗子が同じ日に刃物で手を切ってしまう場面も原作にはありませんでした。

しかし、私がこの山口百恵主演の作品を観て、もっとも気にしたのは、この映画のあと、山口百恵さんと結婚する三浦友和さんがどんな役で出ているのかという点でした。

原作で、千重子に好意を寄せている竜介か、或いは苗子に求婚の意志を示した秀男か?

そして、百恵ちゃんと友和さんのキスシーンはあるのか?

結婚する直前に撮った映画だから、原作にはないキスシーンくらいあって、当然かも?(真っ赤)

ところが、三浦友和さんは秀男でも竜介でも、どっちでもなく、苗子と一緒に働く清作という青年を演じていたのです!


原作には、清作なんて出てこなかったし。(苦笑)
まさか、この清作が苗子と結婚して、ハッピーエンドで終わっちゃうの?

それじゃ、原作への冒涜じゃ?

でも、二人の結婚という第二の人生の門出を祝福するためなら、それもいいかも?

だけど、さすがにそこまでは原作を改竄してなかったです。

しかし、それが名作に対する当然の姿勢かも知れませんね。

原作に忠実な岩下志麻主演版と、アレンジしてある山口百恵主演版、それぞれ好みはあると思いますが、双方とも原作の雰囲気は壊してないので、私はどっちもいいなと思いました。







テレビドラマ「花子とアン」

2017-07-04 11:02:29 | 映画・テレビ

このドラマはルーシー・M・モンゴメリーの「赤毛のアン」を翻訳した村岡花子の生涯を扱っています。
しかし、忠実に再現しただけではなく、「赤毛のアン」を彷彿とさせるエピソードがいくつも挿入してあり、思わず、クスッと笑わせてくれます。
それと同時に、私の人生を彩ってくれたアイドルが何人も脇役として出ていて、懐かしさに胸がいっぱいになってしまいました。

まず、修和女学校の裁縫教師で寄宿舎の寮母の茂木のり子を演じた浅田美代子さん。

彼女が舌ったらずで歌う「赤い風船」は、子供の頃、大好きで、私もよく真似して、音程をはずしながら歌ったものでした♪

花子の実家の隣に住み、花子の同級生の朝市の母親、木場リン役の松本明子さん。

はい、彼女も元々はアイドルだったんです。
彼女がデビューしたきっかけは「スター誕生」の第44回決戦大会に合格したからで、最初からお笑いタレントみたいなことをして、バラエティ番組に出ていた訳ではなかったのです。
そんな彼女の運命を変えたのが、アイドルが決して口にしてはならない言葉を喋った「四文字事件」だったとか。(真っ赤)
私がその事件を知ったのはつい数年前なんですけど、鶴太郎と鶴光って、本当に悪い男たちだなと思えてなりませんでした。(笑)


ともさかりえさんも出てました。
彼女は修和女学校の英語の教師の役でしたが、非常に生真面目で冷徹なタイプを演じていて、笑顔がキラキラ輝いていたアイドル時代とのギャップがあまりにもすごくて、かなりびっくりしてしまいました。

アイドル的存在の仲間由紀恵さんも、花子の腹心の友、蓮子の役で出ていました。
この人はとても優美で気品あふれる演技をされていて、知的で並々ならぬ才能を持った人だなと思いました。
また、この人が演じた蓮子は実在した歌人の柳原白蓮でもあり、九州の炭鉱王、嘉納伝助とのエピソードが沢山紹介してあったのも嬉しかったです。
私が柳原白蓮を知ったのは、もうずいぶん前で、確か新聞記事に書いてあったからだと記憶しています。
白蓮は、大正時代を代表する大正三美人の一人に数えられていて、伯爵令嬢でもありました。

白蓮と炭鉱王との九州での結婚生活は決して幸福なものではなかったそうですが、九州に住んでいる私としては、大正三美人と称えられ、伯爵令嬢という高貴な身分の人が九州で暮らしたことが嬉しくてたまりませんでした。
また、鹿児島県の曽木の滝には白蓮が、彼の地を訪れた時に詠んだ歌碑があり、それを見つけた時も、すごく嬉しかったのを覚えています。


こうした元アイドルの人達が脇役を務めているのですが、男優さん演じる登場人物も魅力的なキャラクターが沢山出ているのです。
それでは、代表的な登場人物を少しだけ、ご紹介いたします。
花子の兄、吉太郎。

この人は、田舎に埋もれて、農業だけで人生を送るのに見切りをつけて、憲兵になるのですが、意志の強い反面、優しい面もあり、こういう男性もいいかなと思いました♪
のちに、醍醐さんと結婚した時はかなりびっくり!

花子の夫の村岡英治は、花子と出会ったばかりの頃、花子を動物のナマケモノに例えていて、初めのうちは一風変わった人という印象を拭えなかったのですが、花子への思いや、仕事への情熱、そして優しさを知るに連れ、だんだん好ましい男性に見えてきました。

そういう意味では、花子の同級生で、母校の教師になった朝市も同じでした。

朝市は優しくていい人には違いないけれど、恋人や結婚相手にするには物足りないかもと、正直思っていました。
ところが、英治が花子と一緒になる決心がつきかねていた時、朝市自身、花子が好きだったにも係わらず、花子を幸せにしてやれるのは英治しかいないと、涙をこらえながら、英治を説得する場面があったのです。

朝市、あなたは何ていい人なの!

あの場面に、私は男としては物足りないかもと思っていた自分が恥ずかしくなり、絶対、朝市には幸せになってほしいと願わずにはいられなかったです。



こうした素晴らしい人達を脇役に据えて、主人公の村岡花子を吉高由里子さんが演じているのですが、ごく自然にお芝居している点がすんなり「花子とアン」の世界に入り込めていいなと思いました。

そして、先程も書いたように、このドラマは「赤毛のアン」を彷彿とさせるエピソードがいくつも挿入してあります。
例えば、尋常小学校時代、教室で、花子が朝市に石板をぶっつける場面とか、はなではなく、花子と呼んでほしいとこだわっているところとか、花子が蓮子にブドウ酒を飲まされて、大失態を演じてしまう場面とか、それらを見てたら、「あ!この場面、あそこに書いてあったエピソードだわ!」と嬉しくてはしゃぎたくなっちゃうのです♪

では、私がこのドラマを通じて、一番共感出来たのはどこかと言いますと、修和女学校時代の数々のエピソードでした。
この時代は、花子と同世代の少女が沢山いて、とても賑やかですし、また、教師も魅力的な女性が何人もいました。
その教師の中には、前述した浅田美代子さん演じる裁縫教師の茂木のり子や、ともさかりえさん演じる英語の教師の富山タキもいましたが、カナダから来たスコット先生も忘れられない人です。

このスコット先生が、花子に英語への興味を引き出してくれるのですが、この人が窓辺で遠く離れた恋人を想って歌う歌は感動的で、思わず泣いちゃうほど素敵でした。

イギリス・スコットランド民謡「The Water Is Wide」。

The Water is wide I cannot get o’er
And neither have I wings to fly.
Give me a boat that will carry two
And both shall row, my love and I.

この海は広すぎて 私には渡れません
大空を舞う羽もありません
どうか ふたりが乗れる小舟をください
ふたりで漕いで行きます …愛する人と私で


また、クラスメートや、女学校の生徒にも魅力的な人が何人もいました。
まず、上級生の白鳥かをる子。
彼女は、お笑いタレントのハリセンボンの近藤春菜さんが演じているのですが、この人が出てくるだけで、お腹がよじれるほど笑えて、困ってしまうほどでした。(笑)

のちに、花子と腹心の友になる蓮子も、修和女学校時代に出会っています。
最初は犬猿の仲みたいに良好な関係ではなかったのですが、花子の優しい心根にだんだん心を許していくところに好感を持てました。

しかし、花子が女学校時代に知り合ったなかでも、私が一番好感が持てたのは高梨臨さん演じる醍醐亜矢子です。

この醍醐さんが都会的なセンスを持った美貌に恵まれた優しい人で、とにかく可愛くて可愛くて、ずっと見ていたいほどでした。


こうした人達が、花子の生涯と関わり、時には笑い、時には感動で涙しながら、「花子とアン」はストーリーが進んでいくのです。

そうして、戦争という時代の波に飲まれそうになりながらも、花子はスコット先生からプレゼントされた「赤毛のアン」の原書「Anne of Green Gables 」を命懸けで守り抜き、翻訳するのです。
それは、ただ原文を忠実に訳しただけではなく、花子の日本人としての感性も翻訳に遺憾なく発揮されているとか。


この「Anne of Green Gables 」からして、そうです。
原文は直訳すると、「緑の切り妻屋根のアン」になるそうですが、「赤毛のアン」にしたのは、アンがもっとも劣等感を持っている髪の毛をプラス思考にするためだったとか。

花子がお世話になった出版社の社長、梶原の「赤毛のアン」出版のパーティーの言葉にも、それは現れています。

「この作家と村岡花子君は写し鏡のように重なりあうのです。ありふれた日常を輝きに変える言葉が散りばめられたこの小説はまさに非凡に通じる洗練された平凡であります。」

また、私は脚本を書いた中園ミホさんや、柳川強さんをはじめとした監督も、とっても素晴らしい人なんだろうなと思わずにはいられませんでした。
こうしたドラマを作れるということは、真摯に人生に向き合って生きてきた人でなければ作れないと思うからです。


それは、花子が修和女学校を卒業した時のブラックバーン校長の言葉にもよく現れているように思います。

このドラマは「赤毛のアン」を夢中で読み耽った少女の頃を懐かしく甦らせてくれます。
だけど、ただあのころを懐かしんでばかりではいけないと、ブラックバーン校長は卒業式で、生徒たちを戒めながらも、こう声援を送っているのです。

「私の愛する生徒たちよ、我とともに老いよ。
最上のものは尚あとにしたい。
今から、何十年後かに、あなた方がこの学校生活を思い出し、あの時代が一番幸せだった、楽しかったと心の底から感じるのなら、私はこの学校の教育が失敗だったと思わなければなりません。
人生は進歩です。
若い時代は準備の時であり、最上なものは過去にあるのでなく、将来にあります。
旅路の最後まで、希望と理想を持ち続け、進んでいくものでありますように。」

私も、これからの人生をこの言葉を肝に命じて生きていきたいと、このドラマを見て、強く思わずにはいられませんでした。