奈々の これが私の生きる道!

映画や読書のお話、日々のあれこれを気ままに綴っています

童話「おやゆび姫」

2016-12-27 22:56:49 | Weblog
今回、初めてスマホで、記事を書きます。
そして、これが、今年、最後の記事になります。

前回の記事で、子供の頃、ちょっとお姫さまに憧れていた事があったと書いたのですが、それに対しある方がご自身のブログで、その人なりのお姫さま観を熱く書いてくださった方がいらっしゃいました。
その方はまだ、これからも、自らのお姫さま観を書き続けるようなので、私もお姫さまについて、もっと書いてみたくなっちゃいました。
そこで、どのお姫さまのお話にしようかしら?と考えていたら、あるブロ友さんが、ふっと思い出されてきたのです。
その人は、もぐらさんというハンドルネームを使っていて、その名の通り、もぐらから見た人間界の様子を面白おかしくブログに綴っていらしたのです。
それを読むと、私は何だか本当にもぐらが書いてる気がしていたのです。
それで、「あなたって、何て素敵な人なの。まるで、本物のもぐらみたい!」ってコメントしたんです。
すると、もぐらみたいと言われたのが、どうも心外だったらしく、ぼくは本物のもぐらなんだみたいな返事が返ってきたのです。

そう言われた瞬間、私はこの人スゴいと思って、突然、なぜか自分が童話の「おやゆび姫」になったような気になっちゃったのです。

「おやゆび姫」には、もぐらが出てくるんです。

それで、私はその事を、もぐらさんに打ち明けたんです。
すると、もぐらさんは男性にもかかわらず、意外にも「おやゆび姫」にもぐらが出てくることを知っていたのです。
これにも、びっくり!
もしかしたら、もぐらさんは、「おやゆび姫」に出てきたもぐらさんかも知れない。
でなければ、「おやゆび姫」のお話を知ってるはずがないもの。
ああ、何てステキなことでしょう。
もぐらさんが、「おやゆびひ姫」に出てきたもぐらさんと一緒なら、私は本当におやゆび姫なのかも?
きっと、もぐらさんは私を今の現実から助け出して、童話の世界に連れてってくれるために、私の前に現れたんだわ。
もぐらさん、私、どこまでも、あなたの行くところについていきます!

でも、その時、私は忘れていたのですが、「おやゆび姫」のもぐらは、おやゆび姫に嫌われていたのです。

何でも、もぐらさんによると、童話のもぐらは、なぜか悪者として登場する事が多いのだそうです。
だけど、ブロ友のもぐらさんはユーモアがあって、とてもステキな方なんです。
どうしてでしょう?
これは、きっと、何か深い訳があるに違いないわ。
そこで、私はその時「河童の三平」の記事にコメントしてきたもぐらさんに、こう尋ねてみたのです。
「もぐらさんは、初めからもぐらさんではなかったんでしょう?今の姿になったのは、きっと悪い魔法使いに変えられたからで、本当は白馬に乗った王子さまなんでしょう?」
すると、しばらく間が空いてから、「ぼくの本当の姿を言うと、なぜか消えなくちゃならないんだ・・・」と、ちょっと淋しそうな返事が返ってきたのです。
そんなコメントをもらった私は何だか、とても切なくなり、「きっと、もぐらさんには口に出して言えない、何か大きな訳があるんだわ。」と思えて仕方ありませんでした。

だけど、もぐらさんは、すぐにまたいつもの明るいもぐらさんになったものですから、私は、あれ、何だったんだろう?と思いつつも、すぐに忘れて、冗談めかしたやり取りを続けていたのでした。

その後、もぐらさんは、ある試練が訪れたようで、それを打ち明けたあと、急にブログを書かなくなってしまいました。
もぐらさん、一体、どうしちゃったの?
今も元気なの?
ところが、そうして時折り、もぐらさんのことを思い出していたからか、最近、もぐらさんが再び、私のそばにいるような温かい雰囲気を感じるようになったのです。


そういう訳で、お姫さまのお話は、私が子供の頃に読んだっきり、すっかり忘れていた「おやゆび姫」の童話にすることに決めたのです。

それに、これを読めば、もぐらさんがもぐらである理由が分かるかも知れませんし、童話のもぐらが悪者にされる理由も分かるかもなと思ったからです。

おやゆび姫は、子供をほしがっていたある女性が、魔法使いのおばあさんに頼んで、大麦から生まれたとても可愛らしい女の子でした。
その後、おやゆび姫は大切に育てられたのですが、ある時、ヒキガエルにさらわれてしまいます。
そして、ヒキガエルのお嫁さんにされそうになるのですが、やっとの思いで逃げ出し、いろんな出来事にあったあと、ようやく野ネズミに助けられるのです。
ところが、喜んだのもつかの間、その野ネズミの紹介で、もぐらのお嫁さんにされそうになるのです。
だけど、もぐらはお金持ちで、威張っていて、おまけに夏の間、おやゆび姫を綺麗な歌声でなぐさめてくれていたツバメをとてもバカにしていて、どうしても好きになれなかったのです。
それに、もぐらのお嫁さんになったら、明るいお日さまとお別れしなければならず、暗い穴の中で、一生を過ごさなくてはならなくなるのです。


つまり、おやゆび姫は、いろんな生き物のお嫁さんにされそうになるのですが、もぐらはもっとも嫌な相手として、一番、最後に出てくるのです。
そして、この童話の中で、親しみをもって書かれているのは、ツバメだけなんです。

私は、おやゆび姫が大麦から生まれたのにヒントを得て、この童話で、もぐらが悪者なのは農業と関係しているような気がしてきました。
野ネズミも、もぐらも農作物を食い荒らしたりしますからね。
それに、もぐらがお日さまを苦手なところから、もぐらに陰気なイメージを持っていたのかも知れません。
また、その反面、ツバメがおやゆび姫を助けるいいイメージで書かれているのは、寒い冬が過ぎて、春に来るところから明るい兆しや、希望の象徴にされていたのかもしれないなと思いました。

だから、もぐらは悪者にされる事が多かったのかも知れません。

でも、お百姓さんが大切に育てた農作物を食べてるとは言え、もぐらは悪意があって、それをしてるのでしょうか?
また、ツバメが温かい春とともにやって来るのは本当に人間を喜ばせるためでしょうか?


それは、人間の都合で、そういう風に思っているだけなのかも知れません。


ここまで考えた私は、もぐらさんが、なぜ、もぐらと名乗ることにしたのか、何となく分かる気がしてきました。

自分の都合だけで、物事を判断しちゃ駄目だと言いたかったのかも知れませんし、また幸不幸は自分の心の中にあるとも言いたかったのかも知れません。

ちょっとのことで、大喜びする人があれば、同じことでも、「何だ、これっぽっち」と愚痴を言う人って、結構いますからね。

ということは、いつか、白馬に乗った王子さまが、私を迎えに来て、お姫さまにしてくれたらいいのになと思うのではなく、今が幸せだということに気づいてほしいと思って、もぐらさんは、私の前に現れたのかも?

じゃあ、私は今のままでも、十分、お姫さまの資格があるんだわ!

そうね?
もぐらさんは、そう言いたかったのね?

もぐらさん、ありがとう!

私、何だか生きる勇気がわいてきました!

私は、来年も前向きに明るく生きていこうと思います。

そして、皆さま、今年一年、いろいろとお世話になり、ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いしますね♪

森茉莉「甘い蜜の部屋」

2016-12-21 21:09:23 | 読書
 お久しぶりです。
 年末ということもあり、ずっと忙しい日々を過ごしていまして、ようやくブログ更新の運びとなりました。
 今回、私がなぜ、この本を取り上げるのかと言いますと、私がお慕いしているある方に、今年の初めに、森茉莉をご紹介されたのに始まります。
 その方は、以前、私が三島由紀夫に興味を持っているのを知り、「午後の曳航」を勧めてくださったこともありました。
 それで、今度は森茉莉の「贅沢貧乏」をそれとなく勧められたわけなんです。
 私はそれまで、森茉莉が、森鴎外の娘であることは知っていましたが、著書は恥ずかしながら一冊も読んだことはなかったのです。
 そこで、「贅沢貧乏」を探しに、古本屋さんに行ったわけですが、あいにく、その本はなく代わりに、「甘い蜜の部屋」という500ページ以上はある文庫本を、ようやく一冊だけ見つけたのです。
 しかし、これは、分厚いこともあり、ちょっと気軽に読めるものではないなと思いながらも、手にとり、パラパラとページをめくったあとで、裏表紙の文章に目を向けたら、三島由紀夫の名が書いてあるのに気づいたのです。
 どうやら、三島由紀夫は「甘い蜜の部屋」を、川端康成の「眠れる美女」と並んで、戦後の日本文学が生んだ官能的傑作と評したらしいのです。
 それで、私はその古本屋さんに、三島由紀夫お勧めの本しかなかったのは、きっと、神様が、三島由紀夫に関係するご本に引き合わせてくれたのだと、勝手に解釈して、「贅沢貧乏」の代わりに、「甘い蜜の部屋」を読んでみることにしたわけです。
 ところが、本文だけでも、530ページ以上もあるものですから、出来るだけ早く読もうとしたのですが、意に反して、どうしても続けて読むことが出来ないのです。
 その理由は、第一部の「甘い蜜の部屋」に、ごく普通に育てられた少女なら誰でもが抱く、上流階級のお金持ちの家の美しい娘として生まれ、皆に愛されて育てられたかったという願望が、余すことなく書き尽くされていたからだと思います。
 女の子は、お金持ちの娘とか、お姫さまにある種の強い憧れを持っているものですからね。
 だから、小学生の頃の私は「シンデレラ」や「白雪姫」とか、そうしたお姫さまが出て来るお話を読むたびに、「うちのお父さんやお母さんも、きっと私の本当の親ではないんだわ。私はある国のお姫さまとして生まれてきたけど、悪者の陰謀から逃れるため、赤ちゃんの頃に、よその国のこの家に預けられたに違いないんだわ。だから、いつの日か、四頭立ての馬車が来て、その中から王様の家来が現れ、「お姫さま、ただいま、お迎えにあがりました。よくぞ、美しく成長されましたことよ・・・(涙)。さあ、王様もお妃様も、心からお待ちかねです。いざ、母国の宮殿へ帰りましょう。」と言って、お迎えが来るのを、どれだけ待ち続けたことでしょう・・・(涙)

 この本の場合、主人公の、モイラのお父さんは貿易商を営むお金持ちという事になっていて、これも然り、上流階級の家の美しい娘として生まれてきたかったという、夢見る少女にありがちな願望を叶えてくれるという点では同じだと思います。
 しかも、上流階級の生活が事細かに書かれてあり、真に迫ってくるところが特筆すべき点ではないでしょうか。
  それは作者の森茉莉自身が、文豪にして、軍医総監として位人臣を極めた森鴎外を父に持ち、上流階級の娘として、大切に育てられたからなのは間違いないでしょう。

 主人公のモイラは、何不自由なく育てられたがゆえに我儘ではありますが、かなりの美貌の持ち主で、口数が少なく、おっとりした性格に描かれていて、私は西洋の古いお人形さんみたいなイメージを絶えず思い浮かべながら読みました。 

 人間関係で言えば、家庭教師の御包千加という四十五になる小学校の女教師上がりの女と、一度嫁に行った女、柴田富枝との確執や、馬丁のロシア人の血を引くドゥミトゥリィ(常吉)の愛情、そして、貧富の差から、次第に疎遠になる友達の野原野枝実の描写が優れているように思えました。
 
 ところが、このひたすら、お人形さんみたいに美しいモイラが、第二部の「甘い蜜の歓び」では、(それは、第一部のピアノ教師アレキサンドゥルが、モイラの妖しい魅力に惹かれたエピソードに起源を遡れると思いますが)女としての色気を身につけ、性の疼きが芽生え、男の体を欲するようになるのです。
 それは、石沼の別荘で出会ったピータアによってもたらされるのです。
 私は、荒々しく、モイラの体を奪うピータアにも惹かれるものがありましたが、と同時に、それと知ったあの温厚な馬丁のドゥミトゥリィが、それまではモイラの前にひざまずいて、その腰を抱きかかえ、出来れば、騎士の接吻を与えたい。そう思うだけで満足だったものが、モイラを自分の胸に抱き竦め、稚い女を犯す罪の意識に戦きながらも、烈しい接吻で遮二無二蔽いたい願望に、変わったという変化に、非常にときめいてしまいました。(私のすべてをドゥミトゥリィに捧げてもいいような)
 

 そして、最終章の第三部で、モイラは十六歳で、天上守安という男と早くも結婚し、新たな生活をスタートさせるのです。
 しかし、その結婚はモイラを溺愛して育てた父、林作の意向が大きく反映されてのことで、モイラが積極的に天神守安を好きになった訳ではなく、守安がモイラに贈った大きなベッドに始終いることを好んだ、つまり、極めて精巧に出来た自分だけの小宇宙に閉じこもっていたのに、その萌芽を見いだせるように、やがて、二人の関係は軋みが生じ、結婚生活は破局を迎え、最悪の事態を招いてしまうのです。

 しかし、それはモイラの魂の奥にある魔性の部分が突き動かしたことで、守安が不幸に見舞われたあと、モイラは目を輝かせ、意気揚々と、迎えに来たドゥミトゥリィの運転する車で、父、林作の待つ実家に帰るのです・・・ 

 
 この「甘い蜜の部屋」という作品を読んだ私は、自分の中の女の部分が、静電気で、いっせいに毛羽立ってくるような、そんな感触を覚えずにはいられませんでした。


 最後に、三島由紀夫についても一言。
 三島由紀夫は、作者の森茉莉を、「あなたの楽園 あなたの銀の匙」という文章で、森さん、あなたは文学の楽園に住んでをられます。とした上で、楽園について、こう書いています。
 楽園とは、文学においては、言葉の楽園です。言葉が天の王権を保ち、言葉があまねく恵みを垂れ、言葉以外の何ものもそこでは力を持たず、又、言葉以外の何ものによっても代置されない楽園です。と。

 
 私はただ、森茉莉が現出させた言葉の楽園に酔いしれるしかありませんでした・・・